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(★584㌻) 鵞目員数の如く給び候ひ了んぬ。御志申し遂げ難く候。法門の事は先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ。其の書能く能く御覧有るべし。 粗経文を勘へ見るに日蓮が法華経の行者たる事疑ひ無きか。但し今に天の加護を蒙らざるは、一には諸天善神此の悪国を去る故か。二には善神法味を味はゝざる故に威光勢力無きか。三には大悪鬼三類の心中に入り梵天・帝釈も力及ばざるか等、一々の証文・道理追って之を進ぜしむべし。但生涯本より思ひ切り了んぬ。今に翻返ること無く其の上又違恨無し。諸の悪人は又善知識なり。摂受・折伏の二義は仏説に任す。敢へて私曲に非ず。万事霊山浄土を期す。恐々謹言。 卯月十日 日蓮花押 土木殿 日蓮が臨終一分も疑ひ無し。頭を刎ねらるゝの時は殊に喜悦有るべく候。大賊に値ふて大毒を宝珠に易ふと思ふべきか。 |
銭は数のとおり受け取りました。御志はお伝え申し上げがたい。法門のことは、先ごろ四条三郎左衛門尉殿に書いて持たせた。その書(開目抄)をくれぐれも御覧になりなさい。あらあら経文を考え見るのに、日蓮が法華経の行者にてあることは疑いない。ただし、いまだに諸天の加護を蒙らないのは、一には諸天善神がこの悪国を去ってしまったからであろうか。二には善神が法味を味わわないために威光勢力がないのであろうか。三には大悪鬼が三類の強敵の心中に入って梵天・帝釈も力がおよばないのであろうか等と思われる。その一つ一つの文証や道理は追って書いてさしあげよう。ただ私の生涯は、もとより覚悟のうえである。今になって飜(ひるがえ)ることはしないし、そのうえまた遺恨もない。諸の悪人はまた善知識である。摂受を修すべきか折伏を行ずべきかの二義は、仏説によるのである。けっして自分勝手にゆがめたものではない。万事は霊山浄土を期すことである。恐恐謹言。 四月十日 日蓮花押 土木殿 日蓮の臨終が少しも疑いなく、頭をはねられるときは、とりわけ喜ぶべきである。大盗賊にあって大毒を宝珠と交換するようなものと思うべきである。 |