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(★578㌻) 世間に人の恐るゝ者は、火炎の中と刀剣の影と此の身の死するとなるべし。牛馬猶身を惜しむ、況んや人身をや。癩人猶命を惜しむ、何に況んや壮人をや。 |
世間において人がおそろしいと思うものは、火の中につつまれることと、刀で斬られようとすることと、自分自身が死ぬということでしょう。牛や馬でさえ命を惜しむものです。まして人間はなおさらのことです。みにくい姿形となり、人々からきらわれ、生きていてもしかたがないと思われる癩病人でさえ命を惜しむものです。まして健康な人はなおさらのことです。 |
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| 仏説いて云はく「七宝を以て三千大千世界に布き満つるとも、手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意。雪山童子の身をなげし、楽法梵志が身の皮をはぎし、身命に過ぎたる惜しき者のなければ、是を布施として仏法を習へば必ず仏となる。身命を捨つる人、他の宝を仏法に惜しむべしや。又財宝を仏法におしまん物、まさる身命を捨つべきや。 | 釈尊は法華経の薬王品に「金・銀・瑠璃など七種類の宝石を三千大千世界に敷きつめて供養したとしても、手の小指を切って仏法に供養することにおよばない」という意味のことをのべています。雪山童子は鬼に身を投げ与えて仏法を求めました。楽法梵志は身の皮をはいで経を書き写したといいます。身命にまさるほどの惜しいものはないので、この身を布施として仏法を学べば、必ず仏となるのである。身命を捨てる人が、他の宝を仏法に惜しむようなことがあるのだろうか。また財宝を仏法のために惜しむ者が、財宝にまさる身命を仏法のために捨てることがあるだろうか。 | |
| 世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし。又主君の為に命を捨つる人は、すくなきようなれども其の数多し。男子ははじに命を捨て、女人は男の為に命をすつ。魚は命を惜しむ故に、池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむ。しかれどもゑにばかされて釣をのむ。鳥は木にすむ。木のひきゝ事をおじて木の上枝にすむ。しかれどもゑにばかされて網にかゝる。人も又是くの如し。世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨つる事難し。故に仏になる人もなかるべし。 | 世間の習慣でも、重恩に対しては命を捨てて報いるのである。また主君のために命を捨てる人も少ないようではあるが、その数は多い。男子は恥に命を捨て、女人は男のために命を捨てる。魚は命を惜しむために池にすむが、池が浅いことを嘆いて池の底に穴を掘って住むのである。しかし、釣人の餌にだまされて釣をのんでしまう。鳥は木に住む。木が低いといって木の上枝にすむが、餌にだまされて網にかかってしまうのである。人間もまた同じようなものである。世間の浅いことには身命を失うことはあっても、大事の仏法のために命を捨てる事は難しい。そのため仏に成る人もいないのである。 |
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仏法は摂受・折伏時によるべし。譬へば世間の文武二道の如し。されば昔の大聖は時によりて法を行ず。 (★579㌻) 雪山童子・薩・王子は、身を布施とせば法を教へん、菩薩の行となるべしと責めしかば身をすつ。肉をほしがらざる時、身を捨つべきや。紙なからん世には身の皮を紙とし、筆なからん時は骨を筆とすべし。破戒無戒を毀り、持戒正法を用ひん世には、諸戒を堅く持つべし。 |
仏法を弘通するための摂受と折伏は時によるべきである。たとえば世間の文武の二道のようなものである。それゆえに、昔の聖人は時に応じて教えを行じた。 雪山童子や薩埵王子は「身を布施とすれば法を教えてあげよう。身を捨てることが菩薩の修行である」と言われたので、身命を捨てている。肉を求めるもののない時に身を捨てるべきであろうか。紙のない世には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とすべきである。 戒律を破る人や戒律をたもたない人を非難し、戒律をたもち正しい仏法を用いる時代であるなら、いろいろな戒律をたもたなければなりません。 |
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| 儒教・道教を以て釈教を制止せん日には、道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く、王と論じて命を軽うすべし。釈教の中に小乗・大乗・権経・実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし。 |
儒教や道教によって仏教の流布を止めようとする時代には、道安法師・慧遠法師・法道三蔵等がおこなったように、仏法に反対する王を破折し、命をかけて仏法を守らなければなりません。 あるいは仏教のなかで、小乗・大乗・権経・実経が入り雑り、ちょうど明珠と瓦礫と牛驢の二乳の見分けがつかないような時には、天台大師・伝教大師等のように、大乗と小乗、権経と実経・顕教と密教の勝劣を強く述べるべきである。 |
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| 畜生の心は弱きをおどし強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる。諛臣と申すは是なり。 | 畜生の心は弱い者をおどし強い者を恐れる。今の世の諸宗の学者等は畜生のようである。智者(日蓮大聖人)が弱い立場であることをあなどり、権力の横暴さを恐れている。諛臣(へつらう人)というのはこういう者をいうのである。 | |
| 強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し。これおごれるにはあらず、正法を惜しむ心の強盛なるべし。 | 強い敵をたおして、はじめて力ある士と知ることができる。悪王の正法を滅亡させようとする時、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王のような心を持つ者が必ず仏になることができる。例えば日蓮のようにである。こういうのはおごった気持ちからではなく、正法を滅することを惜しむ心が強いからである。 | |
| おごる者は必ず強敵に値ひておそるゝ心出来するなり。例せば修羅のおごり、帝釈にせめられて、無熱池の蓮の中に小身と成りて隠れしが如し。正法は一字一句なれども時機に叶ひぬれば必ず得道なるべし。千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶ふべからず。 |
おごっている者は。からなず自分より強い敵にあうと、おすれる心がでてくるものです。例えば、修羅はおごりたかぶっていたが、帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小さくなって隠れたようなものである。 正法は一字一句であっても、時と機根に叶うならば必ず成仏することができる。たとえ千経・万論を習学しても時と機根に相違するならば成仏することはできない。 |
| 宝治の合戦すでに二十六年、今年二月十一日十七日又合戦あり。外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を食む」等云云。大果報の人をば他の敵やぶりがたし。親しみより破るべし。薬師経に云はく「自界叛逆難」是なり。仁王経に云はく「聖人去る時七難必ず起こらん」云云。金光明経に云はく「三十三天各瞋恨を生ずるは、其の国王悪を縦にして治せざるに由る」等云云。 | 宝治の合戦からすでに二十六年がたった。今年(文永九年)の二月十一日と十七日にまた合戦(鎌倉幕府での内部でのあらそい)があった。たとえば、外道や悪人は、仏の説いた正しい法を破ることはできない。仏の弟子たちが内から災いを生じさせたときに、かならず仏法を破るのです。それはちょうど獅子の体内にすむ害虫が、獅子をくうといわれているようなものである。大福運の人を、他の敵が破ることはできない。親しくしている人たちが破るのである。薬師経に「自界叛逆難」とあるのがこれである。仁王経には「聖人が国を去る時に七難が必ず起こるであろう」と説かれ、金光明経には「三十三天がそれぞれ瞋りをなすのは、その国王が悪事をほしいままにし、その悪事を改めないことによる」と説かれている。 | |
| 日蓮は聖人にあらざれども、法華経を説の如く受持すれば聖人の如し。又世間の作法兼ねて知るによって、注し置くこと是違ふべからず。現世に云ひをく言の違はざらんをもて後生の疑ひをなすべからず。 | 日蓮は聖人ではないけれども、法華経を仏の説いたとおりに実践しているので聖人のようなものである。また、世間の道理をまえまえから知っていたので、書き置いてあったこと(立正安国論で予言した他国侵逼難と自界叛逆難)がはずれるはずがない。このように現世で言っておいたことがみごと的中しているのであるから、後生の成仏もまちがいないといっていることを疑ってはいけない。 | |
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日蓮は此の関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり、日蓮捨て去る時七難必ず起こるべしと、 (★580㌻) 去年九月十二日御勘気を蒙りし時、大音声を放ちてよばはりし事これなるべし。纔かに六十日乃至百五十日に此の事起こるか。是は華報なるべし。実果の成ぜん時いかゞなげかはしからんずらん。 |
日蓮はこの関東の御一門(鎌倉北条幕府)にとっては棟梁(指導者)であり、日月であり、亀鏡であり、眼目(将来をあやまりなく見定める中心となる人)である。その日蓮を用いず流罪して捨て去ってしまう時には、七種類の難が必ず起こるであろうと、去年の九月十二日に幕府のおとがめをうけたとき、大音声でさけんだのはこのこと(幕府内部のあらそい)をいったのである。これば植物にたとえれば、花が咲いたようなものであって、まだ軽いむくいである。そのあとに実がなるように、もっと大きな難がおこったときには、どんなに嘆かわしいことであろう。 | |
| 世間の愚者の思ひに云はく、日蓮智者ならば何ぞ王難に値ふやなんど申す。日蓮兼ねての存知なり。父母を打つ子あり、阿闍世王なり。仏・阿羅漢を殺し血を出だす者あり、提婆達多是なり。六臣これをほめ、瞿伽利等これを悦ぶ。日蓮当世には此の御一門の父母なり。仏・阿羅漢の如し。然るを流罪して主従共に悦びぬる、あはれに無慚なる者なり。 | 世間の愚者は「日蓮が智者ならどうして権力者の迫害にあうのか」などと言っている。正法を弘めれば迫害にあうことは、日蓮は以前からよく知っていました。かって釈尊の時代にも父母を打つ子があった。阿闍世王がそれである。阿羅漢を殺害し仏身から血を流させた者がいる。提婆達多がそれである。阿闍世王の六臣は王の悪事をほめ、提婆達多の弟子の瞿伽利たちは師匠の悪事を悦んだ。日蓮は現在においては、この北条一門の父母にあたる存在である。また、仏・阿羅漢のようなものである。それなのに、日蓮を佐渡まで流罪し、主従ともに悦んでいるが、まったく不憫でかわいそうな人々である。 | |
| 謗法の法師等が自ら禍の既に顕はるゝを歎きしが、かくなるを一旦は悦ぶなるべし。後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず。 |
謗法の法師等が、日蓮によって自らのあやまちを指摘されてはっきりとしてしまったことを嘆いていたのに、このようになったこと(大聖人が佐渡流罪されたこと)を一旦はよろこぶであろう。しかし、あとになって彼らが地獄へおちてうける嘆きは、いま、日蓮一門が迫害を受けて苦しんでいる嘆きに劣らない、大変なものになるであろう。 |
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| 例せば泰衡がせうとを討ち、九郎判官を討ちて悦びしが如し。既に一門を亡ぼす大鬼の此の国に入るなるべし。法華経に云はく「悪鬼入其身」是なり。 | たとえば藤原泰衡が源頼朝の圧力にたえかねて弟(忠衡)を打ち、さらに九郎判官(源義経)を討って一時は喜んでいたが、そのためについには自分も滅ぼされてしまったようなものである。すでに北条一門を滅ぼす大鬼がこの日本に入っているのであろう。法華経勧持品第十三には「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのがこれである。 |
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いよいよ日蓮が先生・今生・先日の謗法おそろし。かゝりける者の弟子と成りけん、かゝる国に生まれけん、 (★582㌻) いかになるべしとも覚えず。般泥・経に云はく「善男子過去に無量の諸罪・種々の悪業を作らんに、是の諸の罪報或は軽易せられ、或は形状醜陋にして、衣服足らず、飲食麁疎にして、財を求めて利あらず、貧賤の家及び邪見の家に生まれ、或は王難に遭ふ」等云云。又云はく「及び余の種々の人間の苦報現世に軽く受くるは、斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云。 |
ますます日蓮の前世からの、今世での、そしてこのあいだまでの謗法は、まことにおそろしいものである。このようなものの弟子となり、このような謗法の国に生まれたのであるから、あなたがたも、これからどのようになるかもわかりません。般泥洹経には「善男子よ、過去世に多くの罪やさまざまな悪業をつくったためにうける報いは、人から軽んぜられたり、みにくい姿で生まれたり、着るものが不足したり、食べるものが貧しかったり、金銭をもとめても少しも利益がなかったり、貧しく賤しい家に生まれたり、あやまった宗教の家に生まれたり、権力者に迫害される」とある。また、「そのほか、人間として生まれてきてうけるさまざまな苦しみを、現世で軽く受けるのは、仏法を護る功徳の力による」ともあります。 | |
| 此の経文は日蓮が身なくば、殆ど仏の妄語となりぬべし。一には「或は軽易せらる」、二には「或は形状醜陋」、三には「衣服足らず」、四には「飲食麁疎)」、五には「財を求むるに利あらず」、六には「貧賤の家に生まる」、七には「及び邪見の家」、八には「或は王難に遭ふ」等云云。此の八句は只日蓮一人が身に感ぜり。 | この経文は、もし日蓮がいなかったらならば、ほとんど仏がウソをついたことになってしまったであろう。一には人から軽んぜられる、二にはみにくい姿で生まれる、三には着る物が不足する、四には食べるものが貧しい、五には金銭を求めても何の利益も得られない、六には貧しくいやしい家に生まれる、七にはあやまった宗教の家に生まれる、八には権力者の迫害をうける、とあったが、この八つのことがらは、ただ日蓮一人の身にあてはまっている。 | |
| 高山に登る者は必ず下り、我人を軽しめば還って我が身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報いを得。人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値ふ。是は常の因果の定まれる法なり。 | 高い山に登る者はかならずおりるように、人を軽んずれば逆に自分が人から軽んぜられる。姿形の立派な人の悪口をいえばみにくい姿で生まれる。人の着る物や食べる物をうばえばかならず餓鬼となる。戒律をたもった尊い正法の僧をあざけり笑えばまずしく賤しい家に生まれる。正法をたもった家を悪口すれば邪見の家に生まれる。正しく戒律をたもって仏道修行をしている人を笑えば身分の低い家に生まれて権力者の迫害にあう。いまあげたようなことは、仏教一般にいわれている因果の定まった法則である。 | |
| 日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下して嘲哢せし故に、此の八種の大難に値へるなり。此の八種は尽未来際が間一つづつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚まり起こせるなり。譬へば民の郷郡なんどにあるには、いかなる利銭を地頭等にはおほせたれども、いたくせめず、年々にのべゆく。其の所を出づる時に競ひ起こるが如し。「斯れ護法の功徳力に由る故なり」等は是なり。 |
日蓮がうけている苦難は、この因果によるものではない。法華経の行者を過去世に軽んじたために、また法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、崋山に崋山をかさね、玉と玉をつらねたように、それ以上のものがないほどすばらしいお経であるのに、それを上げたり下げたりしてあざ笑ったために、この八種類の大難にあったのである。 この八種類の大難は、本来永遠にわたって一つずつあらわれてくるはずのものだったのを、日蓮が強く法華経の敵を責めることによって、今世で一時に集まりおこしてしまったのである。たとえば、民がその領地の中で住しているうちは、税・利子を地頭等に借金しても地頭は強くは責めず、年々に支払を延期してくれる。しかし、そこを出て、よその土地へ行こうとするときに、さいそくがくるようなものである。 般泥洹経の「種々の苦しみを現世で軽くうけるのは仏法を護る功徳の力による」とあるのは、このことを言っているのである。 |
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法華経には「諸の無智の人有って悪口罵詈等し刀杖瓦石を加ふ。乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向かって、乃至数々擯出せられん」等云云。獄卒が罪人を責めずば地獄を出づる者かたかりなん。当世の王臣なくば、日蓮が過去謗法の重罪消し難し。日蓮は過去の不軽の如く、当世の人々は彼の軽毀の四衆の如し。人は替はれども因は是一なり。父母を殺せる人異なれども、同じ無間地獄におつ。いかなれば、不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき。 |
法華経勘持品には「多くの仏法に無知な人がいて、法華経の行者に悪口をあびせ、刀で斬りつけ杖で打ち、瓦や石を投げつける。(乃至)国王・大臣・婆羅門・居士に向かって(乃至)法華経の行者は、しばしば所を追われるであろう」等と説かれている。獄卒が罪人を責めなければ、罪を消して地獄を出るものはいなくなるであろう。いまの世の日蓮を迫害する権力者やその家来(北条一門)がいなければ、日蓮の過去世の謗法の重い罰は消すことができない。 日蓮は過去の不軽菩薩のようなものであり、日蓮を迫害するいまの人々は、あの不教菩薩を迫害した人びとのようなものである。人はかわっても、その迫害される原因はまったく同じなのである。父母を殺す人はそれぞれ異なるけれども、同じく無間地獄におちます。どうして不軽菩薩と同じ原理で仏道修行を実践している日蓮一人だけが、仏にならないことがあるであろうか。 |
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(★583㌻) 又彼の諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや。但千劫阿鼻地獄にて責められん事こそ不便にはおぼゆれ。是をいかんとすべき。彼の軽毀の衆は始めは謗ぜしかども後には信伏随従せりき。罪多分は滅して少分有りしが、父母千人殺したる程の大苦をうく。当世の諸人は翻す心なし。三譬喩品の如く無数劫をや経んずらん。三五の塵点をやおくらんずらん。 |
また、日蓮を迫害する人びとは跋陀婆羅たちと同じだといわれないことがあるだろうか。ただ彼らが、千劫もの長いあいだ、阿鼻地獄におちて責められることが、かわいそうに思われてならない。これはいったいどうしたらよいであろう。 不軽菩薩を迫害した人びとははじめはそしっていたけれども、後になって不軽菩薩を信じて従った。だから謗法の罪ははとんど消えて少ししか残っていなかったが、それでも父母を千人も殺したほどの大苦を受けたのである。 ところが、いま、日蓮を迫害する人びとは反省する心がありません。きっと、法華経譬喩品に説かれているように、無限地獄の苦しみを無数劫という長いあいだ、うけつづけるであろう。もしくは、三千塵点劫、五百塵点劫という長い時間を無限地獄で送ることになるであろう。 |
| これはさてをきぬ。日蓮を信ずるようなりし者どもが、日蓮がかくなれば疑ひををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし。 | これらの人々のことはさておき、日蓮を信ずるような態度をとっていた人たちが、日蓮がこのようになると、疑いをおこして法華経を捨て、退転するだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分がかしこいと思っている心のゆがんだ人たちが、念仏者よりもさらにながいあいだ、無限地獄に住していることであろうことは、かわいそうという以外にない。 | |
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修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ、外道が云はく、仏は一究竟道、我は九十五究竟道と云ひしが如く、日蓮御房は師匠にてはおはせども余りにこはし。我等はやはらかに法華経を弘むべしと云はんは、蛍火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし、わらふなるべし。南無妙法蓮華経。 文永九年太歳壬申三月二十日 日蓮花押 日蓮弟子檀那等御中 |
増上慢の修羅が「仏の悟りは六根、六境、六識の十八界であるが、自分の悟りはそれより一つ多い十九界であるといい、外道が「仏の悟りは一仏乗のひとつしかないが、自分は九十五種の悟りがある」といったように、「日蓮御房は師匠ではあるが、あまりに折伏が強すぎる。我々は柔らかに法華経を弘めよう」などというのは、螢の火が太陽や月を笑い、小さな蟻塚が華山を見下し、井戸や小川が大河や海をあなどり、かささぎ鸞鳳をあざわらうようなものである。南無妙法蓮華経。 文永九年太歳壬太申歳三月二十日 日 蓮 花 押 日蓮の弟子檀那等の御中へ |
| 佐渡の国は紙候はぬ上、面々に申せば煩ひあり、一人ももるれば恨みありぬべし。此の文を心ざしあらん人々は寄り合ふて御覧じ、料簡候ひて心なぐさませ給へ。世間に、まさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず。当時の軍に死する人々、実不実は置く、幾か悲しかるらん。 | 佐渡の国には紙がない上に、一人一人に便りを書けばたいへんなことになる。また一人でももれる人がいたら、その人は恨みに思うことだろう。この手紙を弾圧にも退転しなかった信心ある人々は、集まって読み、思索して信心の糧にしていきなさい。世間にあっても、大きな嘆きができたときには、それより小さな嘆きは、なんでもなくなってくる。このたび、京都・鎌倉での戦いで死んだ人々は、謀反の実・不実はしばらく置くとして、どれほど悲しいことであろう。 | |
| いざはの入道・さかべの入道いかになりぬらん。かわのべの山城・得行寺殿等の事、いかにと書き付けて給ふべし。外典書の貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかゝれ候はぬに、かまへてかまへて給び候べし。 |
伊沢の入道、酒部の入道はどうなったであろうか。河の辺山城得行寺殿たちのことはどうなったのか、書いて知らせてもらいたい。 外典書の貞観政要やすべての外典の物語、八宗の相伝等がなければ、手紙も書けないので、忘れないで送ってもらいたい。 |
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(★584㌻) 此の文は富木殿のかた、三郎左衛門殿・大蔵たうのつじ十郎入道殿等・さじきの尼御前、一々に見させ給ふべき人々の御中へなり。京・鎌倉に軍に死せる人々を書き付けてたび候へ。外典抄・文句二・玄四本末・勘文・宣旨等、これへの人々もちてわたらせ給へ。 |
この手紙は富木常忍殿、四条金吾殿、大蔵塔の辻の十郎入道殿等、桟敷の尼御前、それぞれに見ていただきたい人びとに書き送るものです。 先だっての京都や鎌倉の合戦で死んだ人々の名を書きつけて送ってほしい。また外典抄、法華文句の二の巻、法華玄義の巻四の本と末、勘文(朝廷や幕府に対する意見書)や宣旨(天皇の命令書)なども、佐渡に来る者に持たせて送ってもらいたい。 |