一昨日御書   文永八年九月一二日  五〇歳

 

第一章 立正安国の予言の的中を挙げる

(★476㌻)
 一昨日見参に罷り入り候の条悦び入り候。
 抑人の世に在る誰か後生を思はざらん。仏の出世は専ら衆生を救はんが為なり。爰に日蓮比丘と成りしより、旁法門を開き、已に諸仏の本意を覚り、早く出離の大要を得たり。其の要は妙法蓮華経是なり。一乗の崇重三国の繁昌、儀眼前に流る、誰か疑網を貽さんや。
 而るに専ら正路に背きて偏に邪途を行ず。然る間聖人国を捨て善神瞋りを成し、七難並び起こりて四海閑かならず。方今世悉く関東に帰し、人皆土風を貴ぶ。就中日蓮生を此の土に得たり。豈吾が国を思はざらんや。仍って立正安国論を造りて故最明寺入道殿の御時、宿屋の入道を以て見参に入れ畢んぬ。而るに近年の間、多日の程、犬戎浪を乱し、夷敵を伺ふ。先年勘へ申す所、近日普合せしむる者なり。彼の太公の殷の国に入りしは西伯の礼に依る。張良の秦朝を量りしは漢王の誠を感ずればなり。是皆時に当たりて賞を得たり。謀を帷張の中に回らし、勝つことを千里の外に決せし者なり。
 
 一昨日、見参したことを喜ばしく思っている。
 そもそもこの世で生きている人で、誰か後世を思わない者があろうか。仏が世に出でられたのは、専ら衆生を救うためであった。ここに日蓮は比丘となってからこのかた、種々の法門を学び、すでに諸仏の本意を覚り、早く出離の大要をえたのである。その要とは妙法蓮華経である。法華一乗の妙法は、三国にわたって崇重され、したがって三国が繁昌したことは眼前に明らかなことであって、誰かこれを疑う者があろうか。
 しかるに人々は専ら法華経の正しい路に背いて、偏に法華経以外の邪な途を行っている。したがって、聖人は国を捨て去り、善神は瞋りをなし、七難が並び起こって、四海は穏やかでない。
 今、世はことごとく関東に帰し、人々は皆、武士の風を貴んでいる。とりわけ日蓮はこの国に生を受けて、どうして我が国のことを思わないでいられようか。そのために立正安国論を述作して、故最明寺入道殿に、宿屋入道を通して見参に入れたのである。
 しかるに近年の間、しばしば西戎蒙古国は牒状を届けて、我が国を窺っている。先年に勘え提出した立正安国論の予言と全く符合したのである。
 かの太公望が殷の国に攻め入ったのは、西伯が礼をもって迎えたからであり、張良が謀をめぐらして秦の国を亡ぼしたのは、漢の高祖の誠意に感じたからである。これらの人は皆、その当時にあって、賞を得ている。謀を帷帳の中に回らし、千里の外に勝利を決した者である。

 

第二章 平左衛門尉に国を安ぜよと諌める

 夫未萌を知る者は六正の聖臣なり。法華を弘むる者は諸仏の使者なり。而るに日蓮忝くも鷲嶺・鶴林の文を開いて、鵞王・烏瑟の志を覚る。剰へ将来を勘へたるに粗普合することを得たり。先哲に及ばずと雖も、定んで後人には希なるべき者なり。法を知り国を思ふの志、尤も賞せらるべきの処、邪法・邪教の輩、讒奏・讒言するの間、久しく大忠を懐いて、而も未だ微望を達せず。剰へ不快の見参に罷り入ること、偏に難治の次第を愁ふる者なり。
(★477㌻)
 伏して惟れば泰山に昇らずんば天の高きを知らず、深谷に入らずんば地の厚きを知らず。仍って御存知の為、立正安国論一巻之を進覧す。勘へ載する所の文、九牛の一毛なり。未だ微志を尽くさざるのみ。
 抑貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし。世を安んじ国を安んずるを忠と為し孝と為す。是偏に身の為に之を述べず、君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐々謹言。
  文永八年九月十二日          日蓮花押
 謹上 平左衛門殿
   さて、未萠を知る者は、六正の聖臣である。法華経を弘める者は、諸仏の使者である。しかるに日蓮は、かたじけなくも法華経・涅槃経の文を聞いて、仏の本意を覚った。そればかりか日本国の将来を勘がえたところ、それがほぼ符合している。これは先哲に及ばないと雖も、後人には希な者である。
 法を知り、日本国を思う志は、もっとも賞されるべきところであるのに、邪法・邪教の輩が讒奏・讒言するので、久しい間、大忠を懐いていても、末だ小さな望みも達することができないでいるのである。そればかりか、一昨日の不快の見参においては、国を救うことはひとえに難治の次第であると、憂えた次第である。
 伏して思えば、泰山に登らなければ、天の高いことが分からない。深い谷に入らなければ、地の厚いことが分からない。よって、我が志を承知してもらうために、立正安国論一巻を進覧する次第である。この書に勘え載せたところの文は、九牛の一毛であり、末だ微志を尽くしていない。
 そもそも貴殿は、当今の天下の棟梁である。その人がどうして国中の良材を損するのか。早く賢明な考えをめぐらして、異敵の蒙古を退治すべきである。世を安んじ、国を安んずるのが忠であり、孝である。
 これは偏に我が一身のために申すのではなく、君のため、仏のため、神のため、一切衆生のために、申し上げるのである。
恐恐謹言。
  文永八年九月十二日          日蓮花押
 謹上 平左衛門殿