観心本尊文段上    富山大石寺二十六世日寛謹んで記す

 

 序

(序)
 夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深密の大法にして本地唯密の正法なり。この本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。その体は一なりと雖も、而も人法宛然なり。応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。
 これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故十方三世の恒妙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。故に宗祖云く「此の書は日蓮が身に当る一期の大事なり」等云云。
 故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり。
 所以に日忠・日辰の博覧も尚当抄の元意を暁る能わず。何け況や日健・日朝・日澄・日講等の僻見の輩をや。この故に宗祖の本懐これが為に覆われ、当抄の奥義末だ曾て彰れざるなり。故に宗門の流々皆本尊に迷い、或は螺髪応身立像の釈迦を以て本尊と為し、或は天冠他受用・色相荘厳の仏を本尊と為す。これ併しながら、当抄の意を暁らざる故なり。唯房州の日我のみ独りその大要を得たり。然りと雖も、その文義に至っては、未だ美を尽さざるの処あり。学者、文に臨み宜しくこれを斟酌すべし。
 維れ時享保第六太歳辛丑猛夏中旬、総州細草の学校及び当山所栖の学徒等四十余輩、異体同心に、予に当抄を講ぜんことを請う。懇志一途にして信心無二なり。余謂らく、四十余輩寧ろ一人に非ずや。或は三四並席の誡を脱れんか。この故に老病堪うべきなしと雖も、遂に固辞する能わず、粗文の起尽を分ち、略義の綱要を示す。またこれを後代の君子に贈り、苦に三仏の顔貌を拝せんことを期するのみ。

一、如来滅後後五百歳始観心本尊抄文。(644頁)

 今所述の題号を釈するにまた三段と為す。初めに通じて文点を詳らかにし、次に別して釈し、三に総じて結す。初めに文点を詳らかにするをまた二と為す。初めに「始」の字の文点を詳らかにし、次に「観心本尊」の文点を詳らかにす。
初めに「始」の字の文点を詳らかにするとは、問う、「始」の字の文点、古来の諸師或は「後五百歳に始めて心を観る本尊抄」と点じ、或は「後五百歳の始め」と点じ、或は「後五百歳に始まりたる心の本尊を観る抄」と点じ、或は「後五百歳に始まる観心本尊抄」と点ず。何れの点を用ゆべきや。
答う、此等の文点、或は機に約し、或は時に約し、或は法に約し、並びに題の意に作る。故に信用するに足らざるか。
今謹んで案じて日く「如来滅後後五百歳」とは、これ上行出世の時を明かす。「始」の字はこれ上行始めて弘むる義を明かす。「観心」はこれ文底所被の機縁の観心を明かす。「本尊」はこれ人即法の本尊を明かす。故に「如来滅後後五百歳」は時に約し、「始」の字は応に約し、「観心」は機に約し、「本尊」は法に約するなり。故に今点じて云く「如来の滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」と云云。故に題意に謂く、如来滅後後五百歳に上行菩薩始めて弘む観心の本尊抄なりと。将にこの義を明かさんとするに且く五門に約す。
 一には題号所依の本文に拠る。謂く、経に云く「我が滅度の後に於て、応に欺の経を受持すべし」と云云。当に知るべし、「如来滅後」等の八字は正に「我が滅度の後に於て」の文に拠り、「始観心本尊」の五字はこれ「応に斯の経を受持すべし」の文に拠るなり。「我が滅度の後に於て」は時に約すること分明なり。「応」の一字はこれ如来の勧奨の故に応に約するなり。受持は即ちこれ機に約し、「斯経」の二字は法に約す。故に知んぬ、当抄の題号は正しくこの文に拠ることを。但応の字・始の字は、一往異なりと雖も、再往はこれ同じく倶に応に約する故なり。
謂く、彼は如来の勧奨に約し、此れは上行の所作に約するが故なり。況や「応に斯の経を受持すべし」の意、正に上行始弘の本尊に在るをや。
 二には四義具足の例証に拠る。謁く、釈尊の観心本尊抄に云く「爾時世尊・告舎利弗・諸仏智慧・甚深無量」等云云。また云く「爾時仏告・諸菩薩及・一切大衆・如来秘密神通之力」等云云。此尊の経文に四義分明なり。謂く「今正に是れ其の時」の時来り、機応相対して法を説きたまうが故なり。今またかくの如し云云。
 三には四義具足の明文に拠る。謂く、蓮祖の法華経に云く「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」と。また云く「仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」等云云。此等の文中に時あり、応あり、法あり、機あり、四義分明なり。題もまた然るべきなり。
 四には「始」の字、応に約するの明文に拠るべし。
謂く、救護本尊の端書に云く「後五百歳の時、上行菩薩世に出現し始めて之を弘宣す」等云云。明文此に在り、誰かこれを疑わんや。
 五には古来の諸師の文点を料簡す。
 問う、蒙抄に古来の諸点を簡んで但一点を取って云く「後五百歳に始めて心の本尊を観ずる抄」と。而してこれを歎じて云く「始の字は正像を簡び未曽有の言に合す」等云云。この義如何。
 答う、彼の点の「始観」の意は正しくこれ機に約す。未曽有の言は即ちこれ法に約す。何ぞ未曽有の言に合すといわんや。況や彼の点の如くんば「始観」の二字は体と成り、「本尊」の二字は用と成らん。豈今の大旨に違うに非ずや。今この「本尊」の二字は体なるが故なり。
 問う、忠抄に云く「後五百歳の二百年に蓮祖出世す。故に後五百歳の始めと云うなり」と云云。この意、正しく仏滅後二千二百二十余年の言に合す。何ぞこれを用いざるや。
 答う、恐らくはこれ文異義同を知らずして煩重の失を招くか。謂く、今「如来滅後後五百歳」というは、即ちこれ諸の本尊の「仏滅後二千二百二十余年」の文なり。何ぞ更に「始め」というべけんや。況んやまた「始めて之を弘宣す」の文に同じからず。何ぞこれを用ゆべけんや。
 問う、常抄に云く「後五百歳に始まりたる心の本尊を観る抄」と云云。既に相伝という、何ぞこれを用いざるや。
 答う、彼の仏はこれ中山の三代日祐の述作なり云云。故に同門流の蒙抄等すら尚これを用いず。況や彼の点の意は已始に約するをや。豈今の大旨に違うに非ずや。これ則ち当文は今始に約する故なり。
 問う、辰抄に云く「万年の始めを指す故に始と云うなり」と云云。この義如何。
 答う、「後五百歳」の四字即ちこれ万年の始めなり。何ぞ更に「始め」というべけんや。末法の初めの釈これを思い合すべし。
 問う、日我抄に云く「後五百歳に始まる観心本尊抄」と云云。この点は法に約して今始に約す。未曽有の言に合い、広宣流布の文に応ず。何ぞこれを用いざるや。
 答う、所弘の法に約する故に「始まる」と点ずるなり。今は能弘の辺に約する故に「始む」と点ずるなり。若し能弘の辺を挙ぐれば、所弘の辺は自ら摂するなり。謂く、始むるが故に始まるなり。若し始めざれば何ぞ始まることを得んや。故に彼の点の意は即ちこの点の含む所と成るなり。況やまた宗祖既に「上行菩薩世に出現し始めて之を弘宣す」という。何ぞ別義を用いんや。また広宣流布の文の前後の大旨に准じ、また能弘の辺を含む。故に顕仏未来記に云く「地涌千界乃至本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」と云云。
 問う、仮い日我の点の如きと雖も、何ぞ能弘の辺を闕かん。既に「本朝沙門日蓮」という故なり。
 答う、若しその義に拠らば転これ潤色なり。謂く、後五百歳に始む観心の本尊抄、誰入かこれを始むるや。本朝沙門日蓮等云云。
 次に「観心本尊」の文点を詳らかにするとは
 問う、観心本尊の文点、古来の諸師或は「心の本尊を観る抄」と点じ、或は「心を観る本尊抄」と点じ、或は無点等なり。何れの点を用ゆべきや。
 答う、此等は並びに題の意に非ず。今謹んで点じて云く「観心之本尊抄」と云云。凡そ諸の法相は多くこれ相対して以てその名を立つ。所謂十双権実、六重本迹等、一々の名目及び大小・権実・迹本等の如きこれなり。況や教相観心の名目の如きは、諸宗通じて同じく一双の立名なり。然るに事の言は理を簡び、果の言は因を簡び、大の言は小を簡び、実の言は権を簡び、本の言は迹を簡ぶ。観心の言、豈教相を簡ばざらんや。故に観心之本尊と点ず。応に教相の本尊を簡び、観心の本尊を顕すべきなり。例せば三大秘法の中に既に本門之本尊と点ずるは、正しく迹門の本尊を簡び、本門の本尊を顕すが如きこれなり。
 問う、教相の本尊・観心の本尊、その体如何。
 答う、今いう所の教相の本尊とは、文上脱益・迹門の理の一念三千、これを教相の本尊と名づくるなり。観心の本尊とは、文底下種・本門の事の一念三千、これを観心の本尊と名づくるなり。今、文上脱益・迹門の理の一念三千の教相の本尊を簡んで、文底下種の本門の事の一念三千の観心の本尊を顕す。故に「観心之本尊抄」という。将にこの義を詳らかにせんとするに、且く三段と為す。第一に当家所立の教相・観心の相を明かし、第二に当家所立の下種の三種の教相を明かし、第三に当抄は正しく脱益・教相の本尊を簡び、下種・観心の本尊を顕すを明かす。
 問う、当家所立の教相・観心の相如何。
 答う、且く五文を引き、時してその相を示さん。
 一には開目抄に云く「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底に秘し沈め給ヘり」と云云。
当に知るべし、「一念三千の法門」とは即ちこれ観心の法門なり。既に文底を以て観心の法門と名づく。故に知んぬ、文上の法門は皆教相に属することを。
 二には十法界抄に四重の興廃を明かす。謂く、爾前・迹門・本門・観心なり。第四の観心とは、永く通途に異り、正しく文底下種の法門を以て観心と名づくるなり。既に文底下種の法門を以て観心と名づく。故に知んぬ、爾前・迹・本は通じて教相に属することを。
 三には血脈抄に四重の浅深を明かす。「爾前は名体無常、迹門は体実名仮、本門は名体倶実、文底は名体不思議・観心直達の南無妙法蓮華経」(取意)等云云。既に文底を以て「観心直達」と名づく。故に知んぬ、爾前・迹・本は通じて教相に属することを。
 四には血脈抄に云く「迹門を理具の一念三千と云う脱益の法華は本迹共に迹なり、本門を事行の一念三千と云う下種の法華は独一の本門なり、是を不思議実理の妙観と申すなり」と。既に文底下種の本門、事の一念三千を以て「不思議実理の妙観」と名づく。故に知んぬ、文上脱益・迹門の理の一念三千を通じて教相に属することを。
 五にはまた血脈抄に云く「一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」と云云。既に文底下種・本門の事の一念三千を以て「直達の正観」と名づく。故に知んぬ、文上脱益・迹門の理の一念三千は仍教相に属することを。今此等の諸文に拠って当家の所立最も明らかなり。
 問う、当家所立の下種三種の教相如何。
 答う、且く一文を引き、略して綱要を示さん。若しこの旨を了せば、即ち蓮祖の本懐に達し、諸抄の元意は皎世目前ならん。常忍抄に云く「法華経と爾前と引き向えて勝劣、浅深を判ずるに当分、跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候」と云云。
 解して云く、一には爾前当分・迹門跨節、これ権実相対の法門なり。二には迹門当分・本門跨節、これ本迹相対の法門なり。三には脱益当分・下種跨節、これ種脱相対の法門なり。これを下種の三種の教相と名づくるなり。故に血脈抄に云く「下種三種の教相」と云云。台家の三種の教相に望むるに、彼の第一第二を以て即ち当家の第一と為す。彼の第三の飾弟遠近を以て即ち当家の第二と為す。更に第三の種脱相対を加えて、当家の三種教相と為すなり。この第三の種脱相対、また本迹と名づくるなり。所謂文の上の脱益を迹と為し、文底下種を本と為す。これを本種脱迹と名づくるなり。故に血脈抄に二十四番の勝劣を明かす中に「彼の本門は我が迹門」というはこれなり。妙楽大師云く「雖脱在現・具騰本種」等云云。この第三の法門は天台未弘の大法にして蓮祖出世の本懐なり。故に「日蓮が法門は第三の法門なり」というなり。種脱一百六箇の本迹、これを思い合すべし。然るに諸門流の輩はこの義を知らず。只天台の第三を取って即ち蓮祖の第三と為す。この三種の教相を弁ぜざるを以ての故に、一切の法門皆成く迷乱す。秘せざるべからず、伝えぎる、ヘからず云云。
 問う、当抄正しく脱益・教相の本尊を簡び、下種・観心の本尊を顕す文理如何。
 答う、且く五文を引いて番くこの義を明かすべし。
 一には血脈抄の中の破教立観の相伝に云く「爾前・本・迹の三教を破して不思議実理の妙法蓮華経の観を立つ」等云云。不思議実理の妙観とは、即ちこれ文底下種の観心なり。今正しく観心の本尊を明かす。豈権迹本の熟脱の教相を破して、文底下種の妙観を立てざらんや。
 二にはまた会教顕観の相伝に云く「会教顕観とは教相の法華を捨てて観心の法華を信ぜよ」となり云云。「教相の法華経」とは、即ちこれ熟脱の法華経なり。「観心の法華経」とは、即ちこれ文底下種の法華経なり。今正しく観心の本尊なり。豈教相の熟脱の法華を捨て、文底下種の観心の法華を顕さざらんや。
 三には下の文に云く「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を属し給わず何に況や其の已外をや」等云云。当に知るべし、「本門」の言は熟益の迹門を簡び、「肝心」の言は脱益の本門を簡び、「南無妙法蓮華経」とは、文底下種の観心の本尊を顕すなり。
 四にはまた云く「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」と云云。また云く「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」と云云。
 五にはまた云く「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字」等云云。此等の文明らかなり。故に知んぬ、今文上脱益の教相の本尊を簡び、文底下種の観心の本尊を顕すことを。
 次に別釈。また四段と為す。初めに「如来滅後」等を釈し、次に「始」の字を釈し、三には「観心」の二字を釈し、四には「本尊」の二字を釈す云云。
 初めに「如来滅後後五百歳」とは、これ薬王品の意に准じて神力品の「我が滅度の後に於て」の文に拠るなり。当抄の大意、能くこれを思うべし。「如来」とは三身即一の応身なり。「滅後」の言は正像末に亘ると雖も、意は末法に在り。「後五百歳」はまた五百年に通ずと雖も、意は二百余年に在り。故に諸文の中に「仏滅後二千二百二十余年」というなり。
 次に「始」というは、正には正像未弘に対し、傍には一閻浮提を簡ぶ。上下の文に准じて能くこれを見るべし。故に本尊問答抄に云く「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず乃至当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候ヘ」と云云。救護本尊の端書に云く「大覚世尊御入滅の後、二千余年を経歴し、爾りと雖も月・漢・日三箇国の間未だ此の大本尊有さず。或は知って之を弘めず、或は之を知らず。我が慈父仏智を以て之を隠し留め、末法の為に之を残す。後五百歳の時、上行菩薩世に出現し始めて之を弘宣す」と云云。故に知んぬ、当抄の題号は「如来滅後後五百歳に上行菩薩始む観心の本尊抄」なることを。
 問う、建長五年の宗旨建立已後、即ちこれを始めたまうや。
 答う、或は謂く、実に所問の如し。或は謂く、これ然るべからず。何となれば佐州已前は身業読誦未だ訖らず。この故に本化の再誕仍未だ分明ならず。
故に三大秘法の名字すら尚これを顕さず。況やこれを始むべけんや。故に宗祖、佐渡已前の法門は仏の爾前経の如し等云云。
 問う、若し爾らば佐州已後、即ちこれを始めたまうや。
 答う、諸の御本尊多く仏滅後二千二百二十余年という。然るに当抄の述作は文永十年癸酉、即ち仏滅後二千二百二十一年に当るなり。故に当抄の述作已役これを始めたまうか。佐州免許は文永十一年二月、正しく仏滅後二千二百二十二年に当る。故に或は免許已後これを始めたまうか。救護本尊は佐州免許の年の十二月なり。然りと雖も、文永八年或は文永元年の御本尊これあり云云。更に検えよ。
 問う、文永・建治の御本尊に御本懐を究尽するや。
 答う、文永・建治の御本尊、多く分身及び善徳仏を挙ぐ。これに相伝あり。或は仍文上を帯するか云云。
 問う、弘安の御本尊応御本懐を究尽するや。
 答う、実に所問の如し。乃ちこれ終窮究竟の極説なり。当に知るべし、智者大師は隋の開皇十四年、御年五十七歳、四月二十六日より止観を始め、一夏にこれを説いて四年後、同十七年、御年六十歳の十一月に御入滅なり。吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄を終り、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕して四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり。
 これに三事の不可思議あり。
 一には天台大姉は五十七歳にして止観を説き、蓮祖大聖は五十八歳にして戒壇の本尊を顕す。また天台は六十歳御入滅、蓮祖は六十一歳御入滅なり。これ則ち像末の教主の序、豈不思議に非ずや。
 二には天台は四月二十六日に止観を始め、蓮祖は四月二十五日に当抄を終る。天台は十一月御入滅なり。蓮祖は十月御入滅なり。蓮祖は後に生れたまうと雖も、下種の教主なり。故に義、前に在り。この故に蓮祖は二十五日応当抄を終り、十月の入滅なり。天台は前に生れたまうと雖も、熟益の教主なり。故に義、後に在り。この故に二十六日に止観を始め、十一月の入滅なり。種熟の序、豈不思議に非ずや。
 三には天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮竟の極説を顕す。寧ろ不思議に非ずや。
 問う、本尊問答抄の啓蒙に云く「諸山代代の本尊に多く仏滅後二千二百三十余年と云う。是れ元祖の本意顕れ畢る時を定規とする故なり」と云云。これ則ち弘安五年御入滅の年、正しく二千二百三十余年に当る故なり。若し爾らば弘安四年已前は宗祖の本懐末だ顕れ畢らざるや。
 答う、今処々の明文に拠るに、正しく弘安元年已後を以て仏滅後二千二百三十余年というなり。故に弘安元年七月の千日尼抄二十五に云く「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」と云云。また弘安元年九月の本尊問答抄に云く「仏滅後二千二百三十余年」(取意)と云云。また第十六四条金吾抄、また第十七大陣破抄、また第二十二初心成仏抄等云云。また蒙抄応云く「京の本国寺弘安元年七月の御本尊に二千二百三十余年」と云云。また上総日弁授与の弘安二年四月の御本尊に「二千二百三十余年」と云云。故に知んぬ、弘安元年已後、御本意即ち顕れ畢ることを。
 問う、弘安元年は正しく仏滅後二千二百二十七年に当る。蓮祖何ぞ三十余年というや。
 答う、恐らくは深意あらんか。宗祖云く「今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し」等云云。然るに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまで、正しく二千二百三十一年に当るなり。謂く、如来七十二歳より八箇年の間に二十八品を説く。故に知んぬ、一年に三品半を説きたまうことを。故に七十六の御歳、正しく寿量品を説くなり。而して七十七の御歳、神力品を説いて本化に付嘱して、四年後の八十歳の御入滅なり。如来の御年八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年なり。これに七十六、七、八、九の四年を加うる則は二千二百三十一年と成るなり。故に寿量説法の年よりこれを数えて弘安元年に至るまで、二千二百三十余年というか。故に本尊問答抄に云く「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年」と云云。この文深くこれを思うべし。若し余文の中は多分に従う。故に仏滅後というなり。若し本尊問答抄に「説きおかせ給いて後」といい、新池抄には「寿量品に説き顕し」という、これを思い合すべし。故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。
 三には「観心」の二字を釈す。また二段と為す。
初めに正しく我等衆生の観心なることを明かし、次には我等衆生の観心の相教を明かす。
 問う、文底下種の本門・事の一念三千の法門を観心と名づくる義は、前来所引の文義に分明なり。然るにこの文底下種の法門は、正しくこれ誰人の観心ならんや。
 答う、これ末法今時の我等衆生の観心なり。且く一文を引き、その相を示さん。所謂下の文に云く「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」等云云。また云く「五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」等のこの中に「服せしむ」、「懸けさしめ」というは即ちこれ観心なり。「末代幼稚」は豈末法今時の我等衆生に非ずや。
 問う、日辰抄に「観心」の二字を以て能化・所化に通ずと。この義如何。
 答う、若し汎くこれを論ぜば、或は然るべきか。
当文の「観心」の二字は則ち爾らず、但所化に約するなり。既に「後五百歳に始む」の字、正しく能化に約する故に、「観心」の二字は所化に約するなり。況や前の三文に分明なるをや。何ぞ能化に通ぜんや。故に諸師多く所化に約するなり。
 問う、日我抄に云く「当流の意は観とは智なり、皆とは信なり、信とは信智の南無妙法蓮華経なり。心とは己心なり、己とは末法出現の地涌なり。地涌の心法、妙法蓮華経なる処が観心なり。末世の衆生を救わんが為に出現あれば本尊なり」等云云。既に「観心」の二字を以て地涌の菩薩の境智の二法に約す。何ぞ我等衆生の観心というや。
 答う、この義、「観心本尊」の四字、恐らくは混乱せるに似たり。凡そ当流の意は、本門の本尊とは即ちこれ本地難思の境智の妙法なり。故に地涌の境智を以て「本尊」の二字を釈すべし。何ぞ「観心」の二字を釈せんや。若し境智を以て観心の二字を釈せば、但これ所化に約すべし。何ぞ地涌に約せんや。況や彼の義の如くんば、三大秘法の中の本門の本尊、今の観心の本尊、その意同じからず。学者見るべし。何ぞこの「観心」の二字を以て即ち彼の「本尊」の二字に同ぜんや云云。若し観心即本尊に約せば入文の相に違うなり。
 問う、「観心」の二字、我等衆生の観心に約すること文理分明なり。正しく我等衆生の観心の相貌は如何。
 答う、末法の我等衆生の観心は、通途の観心の行相応同じからず。謂く、但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、これを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり。故に血脈抄に
云く「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」と云云。また云く「理即、短妄の凡夫の為の観心は余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり」と文。
 問う、凡そ観心とは、正法一千年は最上利根の故に、或は不起の一念を観じ、或は八識元初の一念を観ず。若し像法に至れば、人随って鈍根なり。故に不起の一念・元初の一念は所観の境界に堪えず。故に根塵相対して芥爾の六識に三千の性を具するを観ず、これを観心と名づく。何ぞ但信心口唱を以て即ち観心と名づくべけんや。
 答う、末法今時、理即・但妄の凡夫の観心、豈正像上代の上根上機の観相に同じからんや。縦い像法と雖も、また一概ならず。伝教大師は延暦二十三年に御入唐、大唐の貞元二十四年三月一日、天台国清寺に於て道邃和尚より四箇の大事を御相伝あり。
 所謂一には一心三観、二には一念三千、三は止観の大旨、四には法華の深義なり。その中の一心三観・一念三千の相伝の中に甚深の口伝あり。謂く、法具の一心三観、臨終の一念三千なり。謂く、法具の一心三観とは彼の文二十一に云く「臨終の一心三観とは、此の行の儀式通途の観相に似ず。人終焉に臨み、断末魔の苦しみ速かに来り、転身体に迫る時、心神昏昧是事非事を弁ぜず。若し臨終の時に於ては出離の要行を修せずんば、平安の習学何の詮要かあらん。故に此の位に於て法具の一心三観を修すべし。法具の一心三観とは、即ち妙法蓮華経是なり。故に臨終の時、南無妙法蓮華経と唱うべきなり」と文。
 臨終の一念三千とは、彼の文三十一に云く「一念三千に三重あり。一には常用の一念三千、二には別時の一念三千、三には臨終の一念三千。乃至臨終の一念三千の観とは、妙法蓮華経是なり。妙即一念、法即三千、是の故に一念三千と名異義同なり。臨終の時、専心に応に南無妙法蓮華経と唱うべし」と文。また第四法華深義下五十六に云く「一家の諸義、妙の一名を離れて更に別体の一心三観、一念三千あるべからず。妙名を唱うる、即ち一心三観、一念三千なり。何ぞ妙名に観心無しと云うべけんや」と云云。
 像法・迹門の時、尚是くの如し、況や末法・本門の時をや。天台大師は、心に思惟せざれども法界に遍照すと釈し、伝教大師は、本門実証の時は無思無念にして三観を修すと釈するこれなり。故に但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし。これ末法の観心なり。
 問う、若し爾らば唱法華題目抄に云く「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」等云云。この文如何。
 答う、これ宗祖の御本意に非ず。故に四信抄に云く「問う汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや」等云云。持妙法華問答抄に云く「利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云つて無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり是れ還つて愚癡邪見の至りなり、一切衆生・皆成仏道の教なれば上根・上機は観念・観法も然るべし下根下機は唯信心肝要なり」と云云。また十章抄に云く「真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり・日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、名は必ず体にいたる徳あり」等云云。唱法華題目抄は一往天台附順の釈なり。佐渡已前、文応元年の御抄なり。
 問う、但信心口唱に即ち観行成就するや。
 答う、但本尊を信じて妙法を唱うる則は、所信所唱の本尊の仏力・法力に由り、速かに観行成就するなり。故に当体義抄に云く「但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居・所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず」等云云。「但法華経を信じ」とは、即ちこれ信力なり。「南無妙法蓮華経と唱う」とは、即ちこれ行力なり。「法華の当体」とは即ちこれ法力なり。「自在神力」とは即ちこれ仏力なり。故に知んぬ、信力・行力を励む則は仏力・法力に由り、即ち観行成就することを。また云く「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」と云云。「本門寿量文底の教主」とは即ち人の本尊、仏力なり。「金言」とは、これこの要の法華経・意の法華経・下種の法華経、即ち法の本尊、法力なり。信力・行力は見るべし。
 伝教大師の深秘の口伝に云く「臨終の時南無妙法蓮華経と唱うれば、妙法三力の功に由り速かに菩提を成ず。妙法三力とは、一には法力、二には仏力、三には信力なり」と云云。「南無妙法蓮華経と唱うる」は豈行力に非ずや。釈相殊なりと雖も、その意はこれ同じきなり。血脈抄に云く「住不思議顕観とは、今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為す。信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり」(取意)と云云。故に知んぬ、但文底下種の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる則んば、仏力・法力に由り即ち観行成就することを。若し不信の者は力の及ぶ所に非ざるなり。
 持妙法華問答抄に、一譬を挙げ已って合譬の文に云く「『唯我一人のみ能く救護を為す』の仏の御力を疑い、以信得入の法華経の教への縄をあやぶみて、決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。『疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし』と説かれたり」(取意)と云云。
 問う、蒙抄に云く「己心の諸尊を事相に造作し、之に対して之を礼する故に、観心本尊と云うなり」と。この義如何。
 答う、この義は浮浅なり。また甚だ過ぎたるに似たり。
 問う、忠抄に云く「観心の二字即ち事行の一念三千なり。経に云く『聞仏寿命長遠乃至能生一念信解』と云云。本因本果の長寿を聞くは即ち己心の一念三千なり。此れを以て所観の境と為し、一念信解を能観の智と為し、能所倶に事なり。故に観心の二字即ち事の一念三千なり」と。この義如何。
 答う、彼の師の所観の境は即ち脱益の一念三千なり。故に文底に望めば仍理の一念三千に属するなり。
 四に「本尊」の二字を釈す。また二段と為す。初めに本尊の体徳を示し、次に本尊の名義を釈す。凡そ本尊とは我等衆生の受持の法体、所信所唱の曼荼羅これなり。然るに諸門徒、一致・勝劣所立殊なりと雖も、並びに在世の本門八品の儀式を以て本尊と為す等云云。然るに当抄の大意は則ち爾らず。謂く、在世の本門八品の儀式は唯これ在世脱益の本尊にして、末法下種の本尊に非ず。故に当抄の中に具にこれを簡別して、但文底深秘の大法、本地難思、境智冥合、本有無作の事の一念三千の妙法五字を取り、以て末法幼稚の本尊と為す。これ則ち当抄所詮の元意なり。
 またこの事の一念三千を論ずるに就いて、諸門流の義、異論蘭菊たり。若し当流の意は、迹門は諸法実相に約して一念三千を明かす。故に理の一念三千と名づく。本門は因果国に約して一念三千を明かす。故に事の一念三千と名づく。またこの本門、事の一念三千を以て仍脱益迹門に属して理の一念三千と名づく。唯文底深秘の久遠元初の自受用身即一念三千を以て、事の一念三千の本尊と名づくるなり。
 問う、久遠元初の自受用の身相如何。
 答う、日本国中の諸門流の輩、但劣応・勝応、報身・法身、応仏昇進の自受用身を知って、未だ久遠元初の自受用身を知らず。故に流々殊なりと雖も、同じく本尊に迷うなり。夫れ久遠元初の自受用身とは、本地難思の境智冥合・本有無作の真仏・名字凡夫の当体・本因妙の教主なり。
 宗祖云く「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」と云云。久遠の故に「五百塵点」といい、元初の故に「当初」というなり。「知」の一字は本地難思の智妙なり。「我が身」等は本地難思の境妙なり。この境智冥合して南無妙法蓮華経と唱うる故に、「即座に悟を開き」、久遠元初の自受用身と顕るるなり。大師の所謂「無始色心、妙境妙智」はこれなり。
 当に知るべし、この自受用身の色法の境妙も一念三千の南無妙法蓮華経なり。謂く、釈尊の五大即ちこれ十法界の五大なり。十法界の五大即ちこれ釈尊の五大なり。十法界殊なりと雑も、五大種はこれ一なり。豈十界互具・百界千如・一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや。宗祖云く「五行とは地水火風空なり乃至是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり」等云云。
 またこの自受用身の心法の智妙も一念三千の南無妙法蓮華経なり。故に宗祖云く「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕滅無し」等云云。「因果倶時・不思議の一法」とは、即ちこれ自受用身の一念の心法なり。故に「一法」という。因果倶時の故に「蓮華」と名づく。不思議の一法の故に「妙法」と名づくるなり。この妙法蓮華の一念の心法に「十界三千の諸法」を具足す。豈自受用の妙心妙智は、一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや。
 またこの無始色心、妙境妙智、境智冥合すれば則ち因果の二義あり。故に大師云く「境智冥合すれば則ち因果あり。照境未だ窮らざるを因と名づけ、源を尽すを果と名づく」等云云。当に知るべし、「照境未窮」は種家の本因妙なり。「尽源為果」は即ちこれ種家の本果妙なり。この本因本果は刹那の始終、一念の因果にして、真の十界互具・百界千如・事の一念三千の南無妙法蓮華経なり。此くの如く本地難思の境智冥合・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得するを、久遠元初の自受用身と名づくるなり。この時法を尋ぬれば人の外に別の法なし。人の全体即ち法なり。この時、人を尋ぬれば法の外に別の人なし。法の全体即ち人なり。既に境智冥合し人法体一なり。故に事の一念三千と名づくるなり。故に宗祖は「自受用身即一念三千」と。伝教云く外・権実、迹本の諸宗、皆主師親を以て用いて本尊と為す。故に宗祖云く「一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」と。故にその家々に主師親を根本と為しこれを尊敬す。故に本尊というなり。故に本尊の名は内外・権実・迹本の諸宗に通ずと雖も、而してその体に於て天地雲泥なり。所謂儒家には三皇・五帝を用いて本尊と為す。倶舎・成実・律宗並びに禅宗は三蔵劣応身の小釈迦を本尊と為す。法相・三論の二宗は通教の勝応身の大釈迦仏を本尊と為す。浄土宗は阿弥陀仏、華厳宗は台上の盧舎那報身、真言宗は大日如来を用いて本尊と為す。若し天台大師は止観の四種三昧の中には弥陀を以て本尊と為し、別時の一念三千の時は南岳所伝の十一面観音を以て本尊と為し、正しく法華三昧の中には但法華経一部を以て本尊と為す。若し伝教大師は迹門戒壇の本尊は四教開会の迹門の教主釈尊なり。根本中堂の本尊は薬師如来なり。但し多くの相伝あり云云。
 若し日本国中の諸門流は、或は螺髪応身立像の釈迦、戎は天冠他受用報身、或は応仏自受用報身を用いて本尊と為す。此くの如く宗々流々の本尊はその体殊なりと雖も、その名義に於ては格別なるべからず。只これ根本と為してこれを尊敬す。故に本尊と名づくるなり。当流また爾なり。文底深秘の大法・本地難思の境智冥合・久遠元初の自受用報身・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を根本と為してこれを尊敬す。故に本尊と名づくるなり。これ則ち十方三世の諸仏の御本尊、末法下種の主師親なるが故なり。
 本尊問答抄に云く「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし乃至上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり乃至普賢経」等云云。此等の文意、主師親を根本と為してこれを尊敬する故に本尊と名づくる意なり。これに人法あり。謂く。人即久遠元初の自受用報身、法即事の一念三千の大曼荼羅なり。人に即してこれ法、事の一念三千の大曼荼羅を主師親と為す。法に即してこれ人、久遠元初の自受用身蓮祖聖人を主師親と為す。人法の名殊なれども、その体恒に一なり。これ即ち末法我等が下種の主師親の三徳なり。然るに日本国中の諸宗諸流、我が主師親を知らず。仍在世熟脱の三徳に執し、他人の主師親を以て我が主師親と為し、還って我が主師親を下す。豈不孝の者に非ずや。哀むべし、悲しむべし云云。
 問う、蒙抄に日如抄を引いて云く「今此の本尊は即ち是れ本有の尊像なり。故に本尊と云う」と云云。忠抄の意に云く「本門事具の三千の尊形なり。故に本尊と云う」と。目我抄に云く「本とは本地なり。尊とは迹仏の思慮に及ばず、無始色心、妙境妙智の尊体なり。故に本尊と云うなり」と云云。此等の釈義如何。
 答う、正義は前の如し。傍に此等の意を含むべきなり云云。
 第三に総結とは、当抄の題号に応に多意を含むべし。今略して之を示す。
 一には三大秘法を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、即ちこれ正像未弘の義なり。「観心」の二字は正しくこれ本門の題目なり。その故は三大秘法の中の本門の題目とは、但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉るを本門の題目と名づくるなり。今の観心もまた爾なり。能信能唱を観心と名づく。故に即ち本門の題目に当るなり。「本尊」の二字は正しくこれ本門の本尊なり。所住の処は本門の戒壇なり。故に「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは、またこれ「正像未弘の三大秘法抄」なり。
 二には事の一念三千を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、末法弘通の始めなり。「観心本尊」とは、即ち所弘の一念三千なり。謂く「観心」の二字は即ちこれ我等衆生の能信能唱の故に九界なり。「本尊」の二字は一念三千即自受用身の仏界なり。我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり。故に九界即仏界なり。故に「観心本尊」の四字は即ち十界互具・百界千如の事の一念三千なり。故に「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは、またこれ「末法弘通の事の一念三千抄」なり。
 三には本因の四妙を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、即ちこれ末法下種の始めなり。「観心本尊」とは、即ちこれ本因妙なり。この本因妙にまた四妙を具す。謂く、境智行位なり。当に知るべし、「本尊」即ちこれ境妙なり。「観心」即ちこれ我等が信心口唱なり。中に於て「信心」これ智妙なり、「口唱」即ち行妙なり。これを信じこれを唱うる我等は即ちこれ理即但妄の位妙なり。この四妙を合して種家の本因妙と名づくるなり。故に「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは、またこれ「末法下種の本因妙抄」なり。
 四には事行の題目を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、即ちこれ末法事行の始めなり。「観心本尊」とは、即ち事行の題目なり。謂く「観心」即ちこれ能修の九界、「本尊」即ちこれ所修の仏界、十界十如既にこれ分明なり。豈法の字に非ずや。九界・仏界感応道交し、能修・所修境智冥合し、甚深の境界は言語道断、心行所滅なり。豈妙の字に非ずや。当に知るべし、信心はこれ唱題の始めの故に本因妙なり。唱題はこれ信心の終りの故に本果妙なり。これ則ち刹那始終一念の因果なり。豈蓮華に非ずや。この妙法蓮華は本有常住なり。豈経の字に非ずや。故に「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは、またこれ「末法事行の題目抄」なり。
 五には決定作仏の義を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、即ちこれ末法下種の教主・本地自行の真仏・最極無上の仏力なり。「本尊」即ちこれ久遠元初の自証の本法・尊無過上の法力なり。「観心」というは、我等衆生、本尊を信じ奉って南無妙法蓮華経と唱うる義なり。豈信力・行力に非ずや。信力・行力・仏力・法力、既にこれ具足す。決定成仏の義を顕すに非ずや。若し爾らば「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは「於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑抄」なり。
 夫れ鳳凰は樹を択んで栖み、賢人は主を択んで仕う。況や仏法を学ぶ者、寧ぞ本尊を簡択して、これを信行せざるべけんや。若し正境に非ずんば、仮令信力・行力を励むと雖も、仏種を成ぜず。故に当抄に於て熟脱教相の本尊を簡別して、下種観心の本尊を顕す。これ則ち三世の諸仏の御師、八万法蔵の肝心、正中の正境、妙中の妙境なり。故に「一念信解の功徳・五十展転の功徳と」云云。「行浅功深、以て経力を顕す。妙法経力、即身成仏す」等云云。故に本尊に於ては最極無上の尊体、尊無過上の力用なり。故に行者応に須く信力・行力の観心を励むべし。智慧第一の舎利弗すら尚信を以て得道す。何に況や末作の愚人をや。像法の智者大師すら尚毎日一万遍なり。何に況や末法の我等をや。一たび人身を失えば万劫にも得がたし。
 一生空しく過ごして永劫侮ゆることなかれ云云。

一、本朝沙門日蓮撰文。(644頁)

 日文字の事、別に口伝あり云云。釈尊の氏は或は日種と号し、御名もまた憲日大聖尊と号す。大聖尊とは即ち大望人なり。「唯我独尊・唯我一人」これを思い合すべし。本化の菩薩をば日月光明の如きと説き、本門の妙法を日天子に譬う。出世の国を日本と号し、国の御主をば日神と名づけ、戒壇の霊場をば大日蓮華山と名づく。皆これ自然の道理なり。蓮字には淤泥不染の徳、種子不失の徳、因果同時の徳、その外十八巧満等の種々の深義これあり。また本化の菩藩をば「如蓮華在水」等云云。また所弘の法は妙法蓮華経なり。此に尽すべきに非ず、この故にこれを略す-。
 当に知るべし、日蓮大聖人とは、またこれ慧日大聖尊なり。故に宗祖云く「日蓮は閻浮第一の智人なり」と。また云く「日蓮当世には日本第一の大人なり」と。また云く「一閻浮提第一の聖人なり」と。また云く「南無日蓮大聖人ととなえんとすとも、南無計りにてやあらん」等云云。また日文字は主師親の三徳を顕すなり。章安の会疏第二に云く「日の字に三義あり。一には高く円明なるは主徳に譬え、万物を生長するは親徳に譬え、照了して闇を除くは師徳に譬う」等云云。諸抄に云く「日蓮は日本国の一切衆生の主師親なり」等云云。
 また日文字は唯我独尊の義を顕すなり。韻会に云く「通論に云く、天に二の日無し。故に文に於て○一を日と為す」等云云。経に云く「世に二仏無く国に二主無し。一仏の境界に二尊号無し」等云云。顕仏末来記に云く「月氏、漢土等に法華経の行者ありや。答う、四天下の中に全く二の日無く、四海の内豈両主有らんや」(取意)等云云。「久遠元始の天上天下、唯我独尊は日蓮是なり」等云云。若し爾らば日文字の顕す所、吾が日蓮大聖人とは慧日大聖尊なり、主師親の三徳なり、久遠元初の唯我独尊なり。豈文底下種の教主、末法今時の本尊に非ずや。然るに日本国中の諸門流、この義を知らず。或は僧宝と為し、或は大菩薩と号して本尊に迷うなり。当に知るべし、久遠に在っては自受用報身と号し、霊山に在っては上行菩薩と号し、末法に在っては日蓮聖人と号す。名字不同なりと雖も、一体の御利益なり。故に血脈抄に云く「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」等云云。開山上人の御弟子三位日順云く「久遠元初の自受用身とは蓮祖聖人の御事なりと取り定め申すべきなり」等云云。然るに諸門流の学者、但上行の再誕なることのみを知って、末だ久遠元初の自受用身なることを知らず。却って当流の正義を破し、自ら妙楽の呵責に当るなり。
 籤八四十一に「学者、法を非り人を毀るは、良に体同名異を知らざるに由る。天主の千名を識らずして、憍尸は是れ帝釈ならずと謂う。故に弘教者、旨を茲に失う。恐らくは弘法利池の功も非法毀人の失を補わざらん」等云云。
 問う、蓮祖はこれ上行菩薩の再誕なり。何ぞ久遠元初の自受用身といわんや。
 反詰して云く、天台大姉は薬王の再誕、伝教大師は天台の後身なり。山門の口伝に何ぞ並びに教主釈尊といわんや云云。

 第一段一念三千の出処を示す

 (第一段一念三千の出処を示す)
一、摩訶止観第五等文。(二三八㌻)当抄入文、大に三段と為す。
第一に一念三千の出処を示す。第二に「問うて日く出処」の下は正しく観心本尊を明かす。第三に「一念三千を識らざる者には」の下は総結。
第一に一念三千の出処を示す文を、分ちて二と為す。初めに正しく示し、次に「問うて日く百界」の下は一念三千は情・非情に亘るを明かす。初めの正しく示すにまた三と為す。初めに止観第五正観章の文を出し、次に「問うて云く玄義」の下は玄文並びに止観の前の四に一念三千を明かさざるを示し、三に「夫れ智者」の下は結歎。初めの止観第五正観章の文を出すに、先ず開結を会し、後に異本を示す。
一、世間と如是と一なり開合の異なり文。(二三八)この文は先ず開釈・結成の二文を会するなり。文の意は止観第五に一念三千を明かす文にまた二筋あり。謂く、初め開釈の中の意は百界は能具、世間は所具、世間は能具、如是は所具なり。故に百界・三百世間・三千如是と成るなり。次に結成の中の意は百界は能具、如是は所具、如是は能具、世間は所具なり。故に百界・千如・三千世間と成るなり。然るに開釈の中に如是に約して法数を成ずる時も、唯これ三千なり。結成の中に世間に約して法数を成ずる時も、唯これ三千なり。故に「世間と如是と一なり」というなり。但し開釈の中には世間を合して三百と為し、如是を開して三千と為す。若し結成の中には如是を合して千如と為し、世間を開して三千と為す。但しこれ開合の異のみにして三千は別ならず。故に「開合の異なり」というなり。
問う、大師は一念三千を明かすに、正しく今経の十如の文に依る。故に応に如是に約して数量を結すべし。何ぞ結成の中に至って世間に約してこれを結するや。
答う、迹門には末だ国土世間を明かさず。故に一念三千その義を尽すに非ざるなり。正しく本門に至って十界久遠の上に国土世間既に顕る。故に大師は迹門を以て面と為し、本門を以て裹と為して、一念三千その義を尽すなり。故に開釈の中には迹門の文に依って数量を成じ、結成の中には本門の意に依って法数を成ずるなり。
問う、止追加の義に云く「開釈・結成倶に十如に約す。而して結成の中に十如を世間と名づくることは、本三世間各十如を具す。故に其の本に従って世間と名づくるなり。是れ則ち一念三千は正しく法華の十如に依る。何ぞ余文に拠って数量を成ぜんや」と云云。この義如何。
答えて云く、十章抄に云く「止観に十章あり。前の六重は妙解迹門の意、第七の正観は本門の意なり。一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」(取意)等云云。また四吾釈迦仏供養抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり」等云云。日遠、何んぞこの文を引いて和会せざるや。
問う、妙境要義に云く「開釈は法華に依る、故に十如に約す。結成は涅槃大論に依る、故に世間に約す」等云云。この義如何。
答う、この義は大旨を失するなり。
問う、朝抄の一義に云く「正釈は迹門の意。結成は本門の随縁事円の義なり」と云云。今謂く、本迹は然るべし。随縁事円は今に在っては便ならざるか。
問う、日我抄に云く「十如は開なり、三世間は合なり。又合すれば十如、開すれば三世間なり。又十如を離れて三世間無く、三世間を離れて十如之無し。故に一と云うなり」と云云。
問う、日忠抄に云く「玄文は如に約して法数を成じ、止観は界に約して三千を成ず。然れども其れは但同意なり。開する時は三千種の世間なり、合する時は一箇の如是に収まるなり」と云云。
今謂く、日我抄・日忠抄、各分明ならざるか。その外これを略す云云。
一、夫れ一心に十法界を具す等文。(二三八㌻)今この所引に附文・元意あり。若し附文の辺は唯これ一念三千の出処を示すなり。故に下の文に「出処既に之を聞く」等というなり。今附文に約して且く科目を立つ。故に一念三千の出処を示すというなり。若し元意に准ぜば、応に観心本尊の依文というべきなり。謂く、この文を開して即ち観心本尊の義を成ずる故なり。若しこの辺に就いて以てその文を分てば、この文を二と為す。初めは釈、次に「乃至」の下は結。初めの釈、また二と為す。初めに本尊、次に「此の三千」の下は観心。初めの本尊の文に「夫れ一心」というは、即ちこれ久遠元初の自受用身の一念の心法なり。故に「一心」という。即ちこれ中央の南無妙法蓮華経なり。「十法界を具す」等とは、即ちこれ左右の十界互具・百界千如・三千世間なり。故にこの本尊の為体は即ちこれ久遠元初の自受用身・蓮祖大聖人の心具の十界三千の相貌なり。故に宗祖云く「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし乃至日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ乃至仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経」なりと云云。
次に観心の文に「此の三千・一念の心に在り」等というは、この一念三千の本尊は全く余処の外に在ること無し。但我等衆生の信心の中に在すが故に「此の三千・一念の心に在り」というなり。若し信心なくんば一念三千の本尊を具せず。故に「若し心無くんば而已」というなり。妙楽云く「取着の一念には三千を具せず」はこれなり。若し文上の熟脱に取着して文底下種の信心なくんば、何ぞこの本尊を具足すべけんや。譬えば水なき池には月の移らざるが如し。若し刹那も信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。故に「介爾も心有れば即ち三千を具す」というなり。譬えば水ある池には月便ち移るが如し。宗祖の所謂「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」とはこれなり。学者応に知るべし、若し理に拠って論ずれば法界に非ざるなし。今、事に就いて論ずれば信不信に依り、具不具則ち異るなり。当体義抄の大旨、これを思い合すべし。
 次に「乃至」の下は結、文にまた二あり。初めに本尊を結す。謂く、自受用身の一念の心法即ちこれ一念三千の本尊なり。故に「不可思議境」と称するなり。不可思議境とは即ちこれ妙境の異名なり。妙境とは即ち妙法蓮華経の本尊という事なり。
 次に観心を結すとは、文に「意此に在り」というは、若し一念の信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。大師の深意正しく此に在り。故に「意此に在り」というなり。
 問う、この義、前代末聞の消釈なり。誰かこれを信ずべけんや。
 答う、不相伝の輩は聞き得て驚くべし。御相伝の家には仰いでこの旨を信ずるのみ。血脈抄の中の開教顕観の口伝に云く「観行理観の一念三千を開して名字事行の一念三千を顕す、大師の深意・釈尊の慈悲・上行所伝の秘曲・是なり」と云云。
 問う、日我抄に云く「此の釈の『一心』とは中央の題目なり。『十法界』とは列座の十界の聖衆なり。『此の三千・一念の心に在り』とは、一念信解とは即ち是れ本門立行の首の日蓮の一念なり。『若し心無くんば』とは非情の草木、『芥爾も心あらば』とは有情界なり」と云云。この義如何。
 答う、彼の抄は観心の二字を以て地涌の境智に約す。故に「此の三千・一念の心に在り」の文を以て蓮師の一念に約するなり。故に「有心無心」の消釈、甚だ以て穏やかならざるなり。
 一、或本に云く一界に三種の世間を具す文。(二三八㌻)
問う、両本の意如何。
 答う、倶にこれ一界は能具、十如は所具、十如は能具、三世間は所具なり。若し観本の意は一界所具の十如の一一に各三世間を具す。故に三十種世間というなり。若し異本の意は且く十如の中の一如是に約す。故に三種世間という。一を以て九に例する故に、現本の意と往いて差わざるなり。
 問う、両本倶に何ぞ十如を挙げざるや。
 答う、若し前後の界、間を挙ぐれば、中間の十如は自ら彰るる故なり。解釈の巧妙なること、学者見るべし。
一、問うて日く玄義等文。(二三八㌻)
 この下は次に玄文並びに止観の前の四に一念三千を明かさざることを示す、また二女り、初めに三千の名目を明かさざることを示し、次に「疑つて日く」の下はその名目を明かさざるの相を示す。初めの文にまた二あり。初めに玄文、次に止観。初めの玄文にまた二あり。初めに並べて示し、次に引証。引証の文に「並に未だ一念三千と云わず」等というは、今に在っては正しく玄文を指して「並に」というなり。余は悉く文の如し。
一、疑つて日く玄義等文。(同㌻)
 この下は次にその名目を明かさざるの相を示す、また二と為す。初めに玄文並びに百界千如に限るを示し、次に「問うて日く止観」の下は止観の前の六章は方便に属するを示す。
 問うて日く、初めの文の闕答の意如何。
 答う、疑問即ち答なり。既に百界千如に限る文を引く故なり。
 問う、次の文に止観の前の四巻というに何ぞ止観の前の六章等というや。
 答う、文はこれ巻を指すと雖も、意は前の六章を問う。十章抄に云く「大意より方便までの六重は先四巻に限る」と云云。況やまた唯巻を問えるをや。何ぞ第四の問に異らんや。況やまた答の文に「是の故に前の六をば皆解に属す」といえるをや。意に謂く、前の六章は既にこれ方便なり。何ぞ正観の一念三千を明かさんと云云。
一、夫れ智者の弘法三十年文。(二三九㌻)
 この下は三に結歎、また二と為す。初めに正しく本師を歎じ、次に因んで末学を破するなり。初めの文意は、夫れ智者大師は仏滅後千四百八十七年、梁の武年の大同四年の誕生、十八歳出家、二十三歳南岳に値い、三十歳金陵に至り、翌年瓦官寺に居して玄義を講ず。而る後、五十七歳、玉泉寺に於て止観を講ず。その後、六十歳の御入滅なり。故に玄義開講より御入滅に至るまで、正しくこれ三十年なり。故に「智者の弘法三十年」というなり。
 文に云く「二十九年の間は玄文等の諸義を説いて」とは、啓蒙に云く「入滅の年を除き二十九年の間を玄・文等の弘法に属するか。或は五十七歳の説法を第三十年と為し、其の前を玄・文等の弘法に属するか」と云云。
 覚案じて云く、三十一歳玄義開講より五十七歳止観を説きたまう春に至るまで、正に是れ二十七年なり。故に「二十九年」とは恐らく謬れり。応に「二十七年」に作るべし。字形相似の故に伝写これを謬るか。今例文を考うるに、撰時抄の下に云く「玄奘三蔵は六生を経て月氏に入りて十九年」と云云。蒙抄十一に云く「月氏に入りて十九年とは、恐らくは謬り、御直書は十七年なり。語式の如し」等云云。既に十七年を以て謬って十九年に作る。今また然るべきか。若し御真筆に縦い二十九年とありと雖も、仍これ示同凡夫の故に不慮の書き謬りならんか。例せば妙楽、証真に告ぐるが如し。また下の文の「諸論師の事章」の如きなり云云。また御書四十三、第二二十六、これを見合すべし。またまた当に知るべし、宗祖の弘法もまた三十年なり。三十二歳より六十一歳に至る故なり。而してまた宗旨建立已後第二十七年に当って己心中の一大事、本門戒壇の本尊を顕したまえり。学者宜しくこれを思い合すべし。
一、天竺の大論尚其の類に非ず文。(二三九㌻)何ぞ但竜樹の大論に勝るるのみならん、方に天竺一切の大論師に勝るるなり。故に「天竺の論師未だ迷べざる」の文に同じき義、最も然るべきなり。

 第二段 一念三千は情・非情に亘るを明かす

(第二段 一念三千は情・非情に亘るを明かす)

一、問うて日く百界千如と一念三千と差別如何文。(二三九㌻)
 これ前の大旨を受けて、この問を起すなり。この下は次に一念三千は情、非情に亘るを明かす、また二と為す。初めに通じて界如・三千の不同を明かし、次に「不審して」の下は別して非情の十如を明かす、また二と為す。初めは問、次は答にまた三あり。初めに難信難解を明かし、次に「爾りと雖も」の下は道理を立て、三に「疑つて云く」の下は文証
を引く、初めの難信難解を明かすにまた二あり。初めに標、次に「天台」の下は釈、また二あり。初めに列名、次に「其の教」の下は釈、また二あり。初めに教門の難信難解、次に正しく観門の難信難解を明かす。初めの本門の難信難解にまた三あり。初めに標、次に「一」の下は釈、三に「此れは教門」の下は結。
 一、爾りと雖も木画の二像に於て乃至天台一家より出でたれども文。(二三九㌻)
 応に如くの如く点ずべきなり。この下は内外共に許すの事を引いて以て道理を立つるなり。謂く、木画の像に於ては内外共に本尊と為す。その義に於ては天台一家より出でたりと雖も、若し草木の上に色心の因果を直かずんば本尊と恃み奉るも益なし。既に内外共に本尊と恃み奉る、故に知んぬ、色心の因果を具することを云云。此に則ち道理明らかなり。
 一、疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法等文。(同㌻)
 この下は三に三文を引いて証するなり。文に云く「国土世間亦十種の法を具す」とは、草木各相異るは如是相なり。草木各改まらざるは如是性なり。草木の主質は如是体なり。草木の寒熱に堪ゆるは如是力なり。草木の林に繁り庭に昌うるは如是作なり。草木の花を芽ぐむは如是因なり。草木の苔を潤すは如是縁なり。草木の花を開くは如是果なり。草木の菓を結ぶは如是報なり。
 一、各一仏性・各一因果あり縁了を具足す文。(同㌻)
これ即ち性得の三因仏性なり。「各一仏性」とは正因仏性なり。この正因仏性即ちこれ一念三千なり。故に「各一因果」というなり。謂く、因果とは即ちこれ十如是の因果の二法なり。「実相は必ず諸法諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土、故に因果の二法即ちこれ一念三千なり。故に三千即中の辺を以て正因仏性と名づくるなり。この三千即中の正因仏性の体に於て三千即空、三千即仮の用を具足するなり。三千即仮は即ちこれ仏因仏性、三千即空は即ちこれ了因仏性なり。故に「縁了を具足す」というなり。弘五中十四に云く「三千即空性は了因なり。三千即仮性は縁因なり。三千即中性は正因なり」と云云。
 問う、今この下の答の大旨は如何。
 答う、凡そ草木成仏とは、一往熟脱に通ずと雖 も、実はこれ文底下種の法門なり。その故は宗祖云く「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」と。一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文底に秘沈し給えるが故なり。末師の料簡は且く之を聞く云云。
 今謹んで諸御抄の意を案ずるに、草木成仏に略して二意あり。一には不改本位の成仏、二には木画二像の成仏なり。
 初めの不改本位の成仏とは、謂く、草木の全体、本有無作の一念三千即自受用身の覚体なり。外十三十四に草木成仏の口伝に云く「『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給ヘる寿量品の釈尊なり」と云云。また二十三二十一に云く「又之を案ずるに草木の根本、本覚の如来・本有常住の妙体なり」と云云。総勘文抄に云く「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す」等云云。応に知るべし、この中に草木の体はこれ本覚の法身なり。その時節を差えざる智慧は本覚の報身なり。有情を養育するは本覚の応身なり。故に不改本位の成仏というなり。
 二に木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。二十八十三四条金吾抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり乃至第三の国土世間と申すは草木世間なり乃至五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」と云云。文の中に「此の法門」とは、一念三千の法門なり。また三十一巻二十骨目抄に云く「三十一相の木画の像に法華経を印すれば木画二像の全体全身の仏なり、草木成仏といへるは是れなり」と云云。若しこの意を得ば、答の大旨自ら知るべし。またまた当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。

 第三段 略して観心を釈す

(第三段 略して観心を釈す)
一、問うて日く出処既に之を聞く観心の意如何文。(二四○㌻)
 問の意は、一念三千の出処既にこれを聞く、一念三千の観心の意如何となり。故にこの問は初めの一段より起るなり、何ぞ細科とせんや。この故にこの下は大段の第二、観心の本尊を明かす、また二と為す。初めに観心を明かし、次に「夫れ始め」の下は本尊を明かす。初めの観心を明かすに、また二と為す。初めは略釈、次に「問うて云く法華経」の下は広釈。初めの略釈にまた二あり。初めに問、次に答、また三と為す。初めに法、次に譬、三に「設い」の下は譬を合するなり。
 文にいう「我が己心を観じて十法界を見る」とは。
 問う、これ台家の観心と為んや。当家の観心と為んや。
 答う、忠抄、蒙抄等並びに云く「附文の辺は台家の観心、元意の辺は当家の観心なり」と云云。若し五上七十四等云云。若し元意の辺は「我が己心を観ず」とは、即ち本尊を信ずる義なり。「十法界を見る」とは、即ち妙法を唱うる義なり。謂く、但本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全くこれ我が己心の十法界なるが故なり。
 問う、総勘文抄に云く「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり乃至『一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得』乃至此れを観心と云う」と云云。この文意如何。
 答う、仏心も妙法五字の本尊なり。己心もまた妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと雖も、妙法五字の本尊は異らず、故に「一」というなり。而して「観」というは、初心の行者その義を知らざれども但本尊を信じて妙法を唱うれば、自然に「己心と仏心と一なり」と観ずるに当るなり。故に「観心」というなり。故に往いて当文に同じきなり。
 文に云く「譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば」等文。
 問う、何ぞ自面というや。答う、これに二意あり。
一には面には六根を具足す。故に謂く、眼耳鼻舌並びに身あり。また色等に縁する時は、意根また面に居する故なり。二には面には十界の相を現ず。故に謂く、或は嗔り、或は貪り、或は癡、或は諂曲、或は平らか、或は喜び、或は無常、或は慈愛等、並びにこれ面に現ずるが故なり。啓蒙に疏の第三を引く、末だ全く同じからざるなり。
 文に云く「明鏡に向うの時始めて自具の六根を見る」と文。当に知るべし、向背は信・不信の異名なり。いう所の明鏡とは、若し附文の辺は文の如く法華止観を指すなり。伝教云く「一乗独円、動と静と無碍、鏡像円融三諦」等云云。道宣律宗、智者大師の所釈を讃して云く「行人の心鏡、巨夜の明燈」と云云。是等は法華止観を明鏡に譬うる文なり。若し元意の辺は正しく本尊を以て明鏡に譬うるなり。御義下二十二に云く「南無妙法蓮華経と唱え奉る者の希有の地とは末法弘通の明鏡たる本尊なり」等云云。
また上二十七に云く「惣じて鏡像の譬とは自浮自影の鏡の事なり此の鏡とは一心の鏡なり惣じて鏡に付て重重の相伝之有り所詮鏡の能徳とは万像を浮ぶるを本とせり妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物之無し、又云く鏡に於て五鏡之れ有り妙の鏡には法界の不思議を浮べ・法の鏡には法界の体を浮べ・蓮の鏡には法界の果を浮べ・華の鏡には法界の因を浮べ・経の鏡には万法の言語を浮べたり乃至我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり乃至自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり」と。修禅寺決三十に云く「玄師の伝に自影自浮の大鏡之あり。一念三千の観を成ず。自影自浮とは、釈迦如来大蘇法華道場に於て智者大師の為に大鏡を授け一念三千を伝う。其の事鏡とは、日光に向うの時、十界の形像を現ず。一鏡に十
界を現ずる故に一念三千の深義なり」等云云。故に知んぬ、自影自浮の鏡とは、事の一念三千の南無妙法蓮華経の本尊なることを。

 第四段 広く観心を釈す

 (第四段 広く観心を釈す)

一、問うて日く法華経は何れの文等文。(二四○㌻)
 この下は次に広釈、また三あり。初めに引文、二に「問うて日く自他面」の下は難信難解、三に「問うて日く経文」の下は正釈。初めの引文の中に総別
あり云云。
 文に云く「寿量品に云く、是くの如く我成仏乃至仏界所具の九界なり」等文。既に「今猶未尽」という。故に知んぬ、因位の万行、果海に流入することを。故に仏界所具の九界というなり。証真文第六の記に云く「若し『酬因感果』とは菓成華落の如し。若し『積功累徳』と云うは衆流の海に入るが如し。経に云く『我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽』とは即ち是れ流入の義なり」と云云。
 問う、経文には但「菩薩道」という、何ぞ九界等というや。
 答う、菩薩はこれ九界の所収なり。故に一を挙げて諸に例するなり。
一、経に云く、提婆達多乃至地獄界所具の仏界なり文。(二四○㌻)
 問う、下の十文並びに「所具の十界」という。当文のみ何ぞ「所具の仏界」というや。 答う、文義互顕なり。謂く、若し文に約せば皆応に当文の如く「所具の仏界」というべし。若し義に約せば、皆応に下の文の如く「所具の十界」というべし。尚仏界を具す、余も皆また然るが故なり。故に知んぬ、互現なることを。
一、一を藍婆と名け乃畜是れ蛾鬼界所具の十界なり文。(同㌻)
 十羅刹の父は即ち般闍伽鬼なり。日我抄に雄宝蔵経を引くが如し。十羅刹の母は即ちこれ鬼子母神なり。録外二十五巻の如し。
一、地涌千界乃至真浄大法等文。(同㌻)
玄七三十三に云く「口に真浄大法を唱う。真は是れ常なり。略して二徳を挙ぐ。我等知るべし、而るに鈍者は文を読みて猶自ら覚らず」と文。故に知んぬ、「口唱真浄大法」とは即句これ口唱南無妙法蓮華経なることを。これ即ち浄楽我常、即ちこれ南無妙法蓮華経なる故なり。御義上四十四に云く「南無とは楽波羅蜜・妙法とは我波羅蜜・蓮華とは浄波羅蜜・経とは常波羅蜜なり」と已上。
 問う、南無の二字を以て楽波羅蜜に配する意如何。
 答う、南無とは帰命の義なり。帰命とは註釈に云く「帰とは帰奉、命とは出入の息なり。夫れ有心の衆生は命を以て宝と為す。一切の宝の中に命宝第一なり。今八万第一の命宝を以て、実相の仏に帰る故に帰命と云う」と文。凡そ一切有心の衆生は命宝を惜しむを以ての故に、諸の苦を生ず。既に命宝を以て妙法蓮華経の仏に帰奉し訖んぬ、更に楽のこれに過ぐるなし。故に南無を以て楽波羅蜜に配するなり。
 また妙法は法界の全体なり。故に法界に自在なれば我波羅蜜に配す。蓮華は清浄の養なり。経は常の義なり。常途の如く知るべし。然れば則ち、地涌千界口に南無妙法蓮華経と唱う。地涌は即ちこれ菩薩界、口唱妙法は即ち仏界なり。尚仏界を具す、余界もまた然り。故に「菩薩界所具の十界」というなり。
一、或説己身或説他身乃至仏界所具の十界なり文。(二四○㌻)
 問う、己身・他身は法応の二身、即ちこれ所具の仏界なり。余界また然るが故に、所具の十界その義分明なり。未だ能具の仏界を見ず、如何。
 答う、二個の「説」の字即ちこれ能説・能具の仏界なり云云。
一、問うて日く自他面の六根等文。(同㌻)
この下は二に難信難解、また二と為す。初めに
 問、次に答。初めの問の意は、世間の鏡に向えば則ち自他面の六根共にこれを見る。経文の鏡に向うと雖も、彼此の千界に於ては親りこれを見ず。如何ぞこれを信ぜんと。この疑を挙ぐる所以は法体の甚深を称歎せんが為なり。答の文にまた三あり。初めに引文、次に在世を挙げて滅後を況し、三に「汝之を信ぜば」の下は結歎なり。

 第五段 心具の十界を明かす

  (第五段 心具の十界を明かす)
一、問うて日く経文並に天台等文。(二四一㌻)
 この下は三に正しく釈す、また二と為す。初めに且く現見を以て心具の十界を明かし、次に「問うて日く教主」の下は正しく受持に約して観心を明かすなり。初めの且く現見を以て心具の十界を示す文、また三と為す。初めに六道を示し、次に「問うて日く六道に於て」の下は三聖を示し、三に「問うて日く十界互具」の下は仏界を明かす。初めの六道を示すに、また二と為す。初めに問、次に答、また二あり。初めに正しく明かし、次に四聖冥伏を示す。
一、問うて日く六道に於て等文。(二四一㌻)
 この下は次に三聖を示す、また二あり。初めに問、次に答、また二あり。初めに正しく明かし、次に「但仏界」の下は仏界に例す。また三あり。初めに勧誡、次に引文、三に「末代」の下は道理なり云云。
一、問うて日く十界互具等文。(同㌻)
 この下は三に仏界を明かす、また二あり。初めに問、次に答。初めの問にまた二あり。初めに文を信じ義を疑い、次に「今時」の下は伏して救助を求む。次の答にまた二あり。初めに誡許、次に「十界互具之を立つ」の下は正しく答う。初めの誡許にまた二あり。初めに誡、次に「然りと雖も」の下は許、また四あり。初めに略して余縁得道の例を示し、二に「其れ機」の下は機を判じ、三に「其の上」の下は宿因開発の助縁を明かし、四に因みに執権謗実の失を破す。
 文にいう「過去の下種結縁無き者の権小に執着する者」とは、応に是くの如く点ずべきなり。謂く、過去の下種結縁無しと雖も、若し権小に執着せざれば、今日始めて下種結縁して正法の行者と成る故なり。
 文にいう「十界互具之を立つるは石中の火・木中の花」等とは、この下は、正しく答う、また三あり。
初めに信じ難きを信ずるの現証を引き、次に「尭舜等の聖人の如き」の下は現事を引いて証し、三に「此等の現証を以て」の下は結勧。初めの文、また二と為す。初めに通じて十界互具を挙げ、次に「人界」の下は別して人界所具の仏界を示す。次の文にまた三あり。初めに尭・舜、次に不軽、三に悉達。

 第六段 受持に約して観心を明かす

  (第六段 受持に約して観心を明かす)
一、問うて日く教主釈尊は此れより堅固に之を秘す等文。(二四二㌻)
 問う、何ぞこれより堅固にこれを秘するや。
 答う、古義に多意を含む。謂く、一には天台自解仏乗の一念三千は余師未弘の深秘なるが故に。二には天台の一念三千に寄せて当家の深意を尋ぬるが故なり。三には本門の難信難解に寄せて観門の深旨を問うが故に。四には迹化未弘の寿量の文を引いて事の一念三千を判ずるが故に。五には末法の凡夫の信心の一念に釈尊の因行果得を満足する深義を顕す故に「堅因に之を秘す」というなり云云。
 今謂く、この下は正しく本尊の妙能に由って受持即観心を成ずるの義を明かす。これ則ち文底深秘の奥旨、久遠名字の直達の正観なり。故に「堅固に之を秘す」というなり。
 「問うて日く教主」の下は、次に正しく受持に約して観心を明かす、また二あり。初めに問、次に答。
初めの問、また二と為す。初めに教主に約し、次に「此れを以て之を思うに」の下は教論に約す。初めの教主に約するにまた二あり。初めに総じて教主を歎じ、次に「又迹門爾前の意を以て」の下は、別して権迹本に約して因果を歎ず。初めの総じて教主を歎ずるにまた二あり。初めに正しく歎じ、次に「是くの如き」の下は結。
 初めの文に「三惑已断の仏」というは、これ親徳なり。「又十方」の下は主徳なり。「八万法蔵を演説して」の下は師徳なり。
 問う、師・主は分明なり。三惑已断を何ぞ親徳と為んや。
 答う、自行若し満つれば必ず化他あり。化他は即ちこれ慈悲なり。慈悲は即ち親徳なるが故なり。
一、行の時は梵天左に在り帝釈右に侍べり文。(二四二㌻)
 これ止観第五の文を挙ぐるなり。止五百十七に云く「如来行の時は帝釈右に在り、梵天左に在り。金剛前に導き、四部後に従う」等云云。
 今謹んで案じて日く、この止観の文の梵帝の左右は恐らくはこれ反転せり。応に「帝釈左に在り、梵天右に在り」というべし。これ行の時に約する故なり。将にこの義を明かさんとするに、且く両段と為す。初めに行坐の列次を明かし、二に聴法の列次を明かさん。初めに行坐の列次を明かすに、初めに文証を引き、次に道理を明かさん。
 初めに文証を引くとは、西域六十一に云く「尼拘律樹林に卒堵婆あり。釈迦如来正覚を成じ已って国に還り、父王に見えて為に法を説く処なり。乃至浄飯王、諸の群臣と四十里外に駕を停め迎え奉る。是の時、如来とと倶なり。八金剛周衛し、四天王前に導く。帝釈と欲界天と左に侍り、梵天と色界天と右に侍り、諸僧其の後に列在す」略抄等云云。
 書註十八二十一に云く「仏利天に昇り、母の為に法を説く。経に云く、仏摩耶に語るに生死の法は会あれば必ず離あり。我今応に閻浮提に下還すべし」と。義足経の下巻に云く「是の時、天子有り。三階を化作す。金・銀・瑠璃なり。仏は須弥の頂より下りて瑠璃階に至り住したまう。梵天王及び諸有の色天は悉く仏の右面に従い金階に随って下り、天王釈及び諸有の欲天は仏の左面より銀階に随って下る」等云云。
 林十九七に云く「菩薩処胎経に云く、其の時、八大国王各五百張の白氈を持ち、尽く金棺を裹む。爾の時に大梵天王、諸の梵衆を将い右面に在って立つ。釈提桓因、諸の利諸天を将い左面に在って立つ」と云云。
 西域二二十に云く「伽藍の側に卒堵波あり。高さ数百尺、是れ釈迦仏、昔国王と為って菩薩行を修する処なり。遠からずして二の石の卒堵波あり。各高さ百尺、右の側は梵王の立つ所、左は乃ち天帝の立つ所なり」と云云。また第五六に云く「戒日天王、仲春の月、初一日より珍味を以て諸の沙門に饌え、二十一日に至る。王、行宮より一の金像の高さ三尺に余るを出し、載するに大象を以てし、張るに宝●を以てす。戒日王は帝釈の服を為し、宝蓋を執って以て左に侍り、拘摩羅王は梵天の儀を作し、白払を執り、而して右に侍り、各五百の象軍鐘を被って周衝す」等云云。
 今、上来の諸文を以てこれを考うるに、若し行坐の時は右梵・左帝宛も日月の如し。
 次に道理を明かすとは、凡そ月氏の風俗は右尊左卑なり。その故は君・父・師は皆東面なるが故なり。故に甫註四四十に云く「天竺国は君・父・師皆東面なり。則ち左は北、右は南。北は是れ陰方、南は是れ陽方」等云云。これ陰陽を以て尊卑を表するなり。君・父・姉東面の故に常儀已に定めて右尊左卑なり。故にまた余方に向って坐する時も、またこれ右尊左卑なり。大論第四十、文句第一、第二に云く「舎利先は右面の弟子、目連は仏の左面の弟子」等云云。如来行したまう時も、またまた然るべし。謂く、仏、東に向って行したまう時は大衆もまた東に向い、仏の左右に従って行くなり。余方も准例せよ。若し爾らば行坐の列次は右尊左卑なること分明なり。
 今既に「行の時」という。豈右梵・左帝に非ずや。前の諸文の如き並びにこの意なり。故に知んぬ、伝写謬ならんことを左梵・右帝に作るか。或は漢土の風俗に准じて後人輒くこれを改むるか。私志五九十一に云く「右面と言うは其の長勝を彰す。然るに疏本同じからず。或は左面と云う。後人輒く改易せるなり。然る所以は此の方左を尚ぶを以ての故なり。仏教は右を尚びて先と為す」等云云。若し名硫の中には身子・文殊を左面と為す。また身延山抄中に左梵・右帝に作る。これに准じて知るべし。
 次に聴法の列次を明かすとは、凡そ聴法の列次は行坐の時に異なり。謂く、仏、東に向って説法したまう時は大衆は西に向って聴聞し、仏、西に向って説法したまう時は大衆は東に向って聴聞するなり。諸経の中に「退坐一面」というはこれなり。伝教大師、無量義経の註釈に云く「退坐一面と言うは正しく仏面に向って坐して法雨を待つ」等云云。既に正しく仏面に向うという。豈仏、西に向って法を説きたまえば、大衆東に向ってこれを聴聞する義に非ずや。正しく今経の宝塔已後の儀式の如くんば、仏は西に向って説法し、大衆は東に向って聴聞するなり。
故に報恩抄上終に云く「教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を、あつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う」等云云。当に知るべし、宝塔既にこれ西向きなり。故に北はこれ右尊にして上座なり。南はこれ左卑にして下座なり。
阿仏房抄三十一に云く「故阿仏房の聖霊は乃至霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」等云云。
豈宝塔品已後、仏は西に向い、大衆は東に向うに非ずや。仏は西に向うと雖も、仍右尊左卑なり。大衆東に向うもまたこれ右尊左卑なり云云。当に知るべし、上行・無辺行は火大・風大、に虚空の類なり。.浄行・安立行は水大・地大、豈大地の類に非ずや。
一、又迹門爾前の意を以て之を論ずれば等文。(二四二㌻)
 この下は次に別して権迹本に約して因果を歎ず、また二と為す。初めに権迹の因果、次に「本門を以て」の下は本門の因果に約するなり。初めの権迹の因果また二と為す。初めに権迹の因行、次に「果位を以て」の下は権迹の果。初めの権迹の因行、また三と為す。初めに標、次に「尋ね求れば」の下は釈、三に「是くの如き因位」の下は結。「尋ね求れば」の下の釈、また四と為す。初めに図の人を示し、次に「或は三祇」の下は劫数、三に「供養」の下は供仏、四に果を挙げて因を歎ず。「或は三祇」の下の劫数、また二と為す。初めに爾前の四教、次に今経の迹門なり。辰抄の分科恐らくはこれ穏やかならず云云。
一、果位を以て之を論ずれば等文。(二四三㌻)この下は次に権迹の果に約す、文また二と為す。
初めに標、次に「所謂」の下は釈、また五あり。初めに華厳、次に阿含、三に方等・般若、四に迹門、五に涅槃経なり。
一、宝塔品の四土色身等文。(同㌻)
玄文第七の本国土の下、三変土田を以て同居の浄及び方便・実報、寂光に約するが故なり。
一、本門を以て之れを談ぜば等文。(同㌻)
 この下は二に本門に約す、また三と為す。初めに略して因果を示し、次に「其れより已来」の下は化用広大を明かし、三に「其の外」の下は通じて結す。
一、其れより已来等文。(同㌻)
 この下は化用広大を明かす、また二あり。初めに身度生を説き、次に「本門の所化を以て」の下は所化の勝多を以て能化の功深を顕す、文また二と為す。初めに多少、次に勝劣なり。当に知るべし、本化の菩薩は虚空に充満し、而も尊高なる故なり。
一、其の外十方世界等文。(同㌻)
 この下は三に通じて結す、また二と為す。初めに通じて九界を挙げ、次に「此等」の下は正しく結するなり。
 問う、何ぞこの下に於て通じて九界を挙げ、これを結するや。
答う、寿量品の形声の六句の意に准ずるに、十界は皆これ釈尊一仏の所変の故なり。
一、此れを以て之を思うに簡前の諸経は実事なり等文。(同㌻)
 この下は第二に経論に約す、また二と為す。初めに執権謗実、次に「夫れ一念」の下は難を結す。初めの執権謗実、また二と為す。初めに執権、次に「爾前の経経と」の下は謗実。初めの執権もまた二と為す。初めに標、次に所執の三経二論を引く。
一、爾前の経経と法華経と之を校量するに等文。(二四三㌻)この下は次に謗実、また二と為す。初めに不信、次に「其の上」の下は毀謗。初めの不信をまた二と為す。初めに法、次に人。次に「其の上」の下の毀謗もまた二と為す。初めは法、次には人。初めの法もまた二と為す。初めに無文、次に「随つて」の下は無義。次に「天親」の下は人、また二と為す。初めに論師・人師の無文・無義を挙げ、次に「但天台」の下は毀謗、また二あり。初めに正しく毀謗、次に「故に清涼国師」の下は引証。
一、答えて日く此の難最も甚し等文。(二四四㌻)この下は答、また二と為す。初めに経論の難を会し、次に「但し会し難き所は」の下は教主の難を会す。初めの経論の難を会するに、また三と為す。初めに三経二論を会し、次に「諸論師」の下は論師・人師の無文・無義の難を会し、三に「但し断諸法中悪の経文を会す可き」の下は今経の無文・無義の難を会す。
 初めの三経二論を会する文、に今昔相違の四義を挙ぐる中に、「証明と舌相」とは多宝の証明、弥陀経の舌相なり。次に論師・人師の無文・無義を会する中にまた二あり。初めは論師、次は人師なり。三の「但し断諸法中悪の経文を会す可き」の下の、今経の無文・無義を会するにまた二と為す。初めに無義を会し、次に無文を会するなり。「彼は法華経に爾前を載せたる経文なり。往いて之を見るに、経文分明に十界互具之を説く」。応に是くの如く点ずべし。その義自ら明らかなり。
一、但し会し難き所は上の教主釈尊等の大難なり等文。(同㌻)
 この下は次に教主の難を会す、また三と為す。初めに難信難解、次に「但し初の大難を遮せば」の下は先ず所受の本尊の徳用を明かし、三に「問うて日く上の大難」の下は正しく受持即観心を明かす。初めの難信難解をまた二と為す。初めに経釈を引き、次に「夫れ仏在世より」の下は覚知の人少なきを以て難信難解を顕すなり。
 初めの文に云く「『已今当説最為難信難解』と次下の六難九易是なり」とは、法師品に於て三説を挙げ已って、これは易信易解、法華経は独り難信難解なり等云云。その一箇の難信難解を開して六難と立て、三説の易信易解を開して九易と立つ。故に「已今当説乃至六難九易是なり」というなり。
一、夫れ仏在世より滅後に至つて等文。(二四五㌻)この下は次に覚知の人少なきを以て難信難解を顕す、また三あり。初めに正しく明かし、次に「問うて日く竜樹」の下は内鑒外適の人を明かし、三に「天台」の下は後々の人を示す。初めの正しく明かすの文意は、竪に一千八百年、横に三箇国の間に正法覚知の人唯これ三人なり。若し難信難解の正法に非ずんば、何ぞ此くの如く覚知の人甚だ少なかるべけんやと云云。
一、但し初の大難を遮せば等文。(同㌻)この下は二に先ず所受の本尊の徳用を示す、また二と為す。初めに経を引いて種子能生の功能を明かし、次に「夫れ以れば・釈迦」の下は非を以て是を顕す。初めの文また二と為す。初めに開経の文を結し、本地難思・境智の冥合を顕し、次に結経の文を借りて久遠元初の三徳能生を顕す。初めの文に開譬・合譬云云。
問う、今正しく観心を明かすの下なり。故に応に直ちに観心の相を明かすべし。何ぞ先に本尊の徳用を示すや。
答う、凡そ当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方に本尊の徳用に由って即ち観心の義を成ず。故に若し本尊の徳用を明かさざれば、その観心の相最も彰し難きに在り。故に先ず本尊の徳用を示して、而る後に観心の相を明かすなり。
一、諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず文。(同㌻)これ所難の眼目なり。正しくこの文を借用して本地難思・境智冥合・種子能生の徳を顕すなり。謂く、「諸仏の国王」とは、即ちこれ能証の智なり。「是の経の夫人」とは、即ちこれ所証の境なり。この境智冥合の処に必ず種子能生の徳を含む。譬えば父母和合の処に必ず種子能生の徳を含むが如きなり。故に文底深秘の本地難恩・境智の妙法は即ちこれ三世の諸仏の種子能生の父母なり。故に宗祖云く「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」と云云。また云く「三世十方の諸仏は法華経より出生し給えり、故に今能生を以て本尊と為すなり」と云云。文の中に「法華経より出生し給えり」というは、即ちこれ下種の法華経・妙法蓮華経の五字なり。
一、普賢経に云く等文。(二四五㌻)
次に結経の二文を借りて久遠元初の三徳具足の能生の徳を顕すなり。初めの引文、また三と為す。初めに「此の大乗経典」とは、即ちこれ標の文なり。正しく久遠元初の種子能生の妙法を指して「此の大乗経典」というなり。「諸仏」の下は釈の文、自ら三と為す。初めに「諸仏の宝蔵」とは、即ちこれ主徳なり。次に「十方三世の諸仏の眼目」とは、即ちこれ師徳なり。三に「三世の諸の如来を出生する種」とは、豈父母の徳に非ずや。「乃至汝大乗を行じて」の下はこれ結文なり。「仏種を断ぜざれ」の文、能くこれを見るべし云云。
 次の所引の文、また三と為す。初めに「方等経」とは、即ちこれ標の文なり。正しく久遠元初の種子能生の妙法を指して「方等経」というなり。次に「是れ諸仏の眼なり」の下は釈の文、自らまた三と為す。初めに「是れ諸仏の眼」とは、これ師徳なり。この師また能生の徳を具す。故に「諸仏是に図つて五眼を具することを得」というなり。「諸仏是に因つて」とは即ち能生の義、「五眼を具することを得」とはこれ所生の義なり。「仏の三種の身は方等従り生ず」とは、即ちこれ父母能生の徳なり。三には「是れ大法印」とは、即ちこれ主の徳なり。譬えば漢土の伝国の王璽、吾が朝の神璽の如く、横に万国を統べ、竪に百王に伝う。久遠元初の能生の妙法にもまたまた是くの如く横に法界に遍じ、竪に三世に亘る。竪に深く横に広き故に「是れ大法印にして涅槃海に印す」というなり。豈主徳に非ずや。この主君また能生の徳を具す。故に「此くの如き海中能く三種の仏の清浄身を生ず」というなり。当に知るべし、今の師主各能生の徳を明かすなり。故に知んぬ、一体の三徳を顕すのみ。
 三に「此の三種の身は人天の福田なり」とは、これ結文なり。当に知るべし、仏はこれ八福田の中の第一の福田なり。三種の福田の中にも第一の敬田なり。此くの如く三世の諸仏は皆久遠元初の種子能生の妙法五字より出生し給うなり。
 問う、今先ず此に種子能生の徳を明かす意如何。
 答う、若しこれを明かさずんは、何ぞ能く三世の諸仏の因果の万法、妙法五字の本尊に帰入することを知るを得んや。故に先ずこれを明かすなり。例せば「従多帰一」を明かさんが為に先ず「従一出多」を明かすが如し。これ則ち当家深秘の観心、卒爾に彰し難し。故に諄々として丁寧なり。若しこの旨を了せば、則ち所帰を知らん。若し所帰の広大を知れば、則ち吾が観心の義を了せんか云云。
一、夫れ以れば・釈迦如来等文。(二四六㌻)
 この下は次に非を以て是を顕す、また二あり。初めに釈、次に「然りと雖も」の下は結。初めの釈また二あり。初めに通じて諸宗の依経の非を挙げ、次に「而るに新訳」の下は別して真言宗を破するなり。
 文に云く「或は十方台葉・毘盧遮那仏」とは、即ちこれ新訳の意なり。文に「速疾頓成之を説かず」というは、若し現本に准ぜば、無量義経の「華厳皆空宣説菩薩歴劫修行」の意なり。また異本に云く「速疾頓成之を説けども」と云云。若しこの本に准ぜば、華厳・真言等の一生初地の即身成仏は種を知らざる脱なれば趙高・道鏡の如きなりと云云。文に云く「未だ別円にも及ばず」等とは、別教の中にすら尚縦横の三徳を明かす故なり。文に云く「本有の三園」とは弘の五中十四に云く「三千即空性は了因なり。三千即仮性は縁因なり。三千即中性は正因なり」等云云。
一、然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば乃至有名無実なり文。(同㌻)この下は結文なり。
 問う、一念三千を以て仏種と名づくる意は如何。
 答う、種はこれ能生の義なり。故に妙楽の記第四に「種は生の義」というなり。然れば今、「一念三千」とは即ちこれ文底秘沈の本地難思の境智の妙法の御事なり。この本地難恩の境智の妙法蓮華経は能く十方三世の諸仏を生ず。故に「一念三千の仏性」というなり。即ち前に引く所の開結二経の意なり。忠抄の仏種の義、恐らくはこれ浄浅なり。
一、問うて日く上の大難未だ其の会通を聞かず等文。(同㌻)
この下は三に正しく受持即観心を明かすなり。文分つにまた二あり。初めに問、次に答、また三と為す。初めに引文、次に「私に会通を加えば」の下は釈。三に「妙楽」の下は結文なり。
 文に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も乃至自然に在前す」等文。この文の意は、因位の万行の妙法五字に具足する義を顕すなり。故に妙法五字を受持する則は因位の万行を修せずと雖も、義はこれを修するに当る、故に「自然に在前す」というなり。因位の万行既に爾り、果位の万徳もまた爾なり。例せば大乗の因とは諸法実相、大乗の果とはまた諸法実相の如し云云。
 故に下に「因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」というなり。
 文に云く「法華経に云く『具足の道を開かんと欲す』」等云云。この下の五文、並びに妙法即ちこれ「具足」の義を顕すなり。妙楽の弘一中四に云く「法華の前には未だ曽て権を開せざれば具足と名づけず」等云云。当に知るべし、爾前は所開・迹門は能開、迹門は所開・本門は能開、脱益は所開・下種は能開なり。今文底下種の本地難思の境智の妙法を以て「具足」と名づくるなり。
一、私に会通を加えば本文を黷が如し等文。(二四六㌻)
 この下は釈にまた二と為す。初めに正釈、次に釈成。文に云く「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」等とは「因行果徳の二法」というは即ち前に難ずる所の権迹本の教主釈尊の因行・果徳の二法なり。「妙法蓮華経の五字に具足す」というは即ち前に引く所の開結二経の本地難思の境智の妙法なり。前に難ずる所の権迹本の因果の二法は即ちこれ所生なり。前に引く所の本地難思の境智の妙法は即ちこれ能生なり。所生は必ず能生に帰し、権は必ず実に帰し、迹は必ず本に帰し、脱は必ず種に帰す。故に彼の釈尊の因行・果徳の二法は妙法五字に具足す。故に「具足」というなり。
 玄文第七に云く「若し過去は最初所証の権実の法を名づけて本と為すなり。本証より已後、方便化他・開三顕一・発迹顕本とは、還って最初を指して本と為す。中間示現の発迹顕本も亦最初を指して本と為す。今日の発迹顕本も亦最初を指して本と為す。未来の発迹顕本も亦最初を指して本と為す。三世乃ち殊なれども毘盧遮那一本異らず、百千枝葉同じく一根に趣くが如し」等云云。
 この文、正しくこれ久遠元初を本と為し、一は一根に譬う。本果已後を迹に属し、以て枝葉に譬う。而して「百千枝葉同じく一根に趣くが如し」という。豈権迹本の教主釈尊の因果の功徳、本地難思・境智の妙法に具足するに非ずや。
 問う、本地難思の境智の妙法は、即ちこれ十方三世の諸仏の能生の種子なるが故に、故に十方三世の諸仏の因果の功徳も皆咸くこの妙法五字に具足すべし。何ぞ「釈尊の因行果徳」というや。
 答う、実に所問の如し。一切諸仏の因位の万行、果位の万徳、皆悉くこの妙法五字に具足するなり。故に本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の力用を備えたまえり。而るに但「釈尊」というは即ちこれ一を挙げて諸に例する故なり。例せば「是れ我が方便なり、諸仏も亦然なり」及び「諸仏如来は、法皆是くの如し」等の如し。
一、我等此の五字を受持すれば文。(二四六㌻)
 この文は正しくこれ受持即観心の義なり。これ則ち「於我滅度後、応受持斯経」の文の意なり。「我等」というは「於我滅度後」の末法の我等なり。即ち長行の「是故汝等、於如来滅後」の文これなり。「受持」というは全く経文に同ず。即ちこれ観心なり。「此の五字」とは経文の「斯経」の両字、即ちこれ本尊なり。この経文の「斯経」の二字は即ち長行の四句の要法なり。故に妙楽この文を釈して云く「若能持と言うは四法を持つなり」と云云。宗祖のいう「名体宗用教の南無妙法蓮華経」の意なり。故に滅後末法の我等衆生、この五字の本尊を受持するを即ち観心と名づくるなり。
 問う、何ぞ受持を以て即ち観心と名づくるや。
 答う、凡そ当家の意は唯信心口唱を以て、即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当る。故に受持即観心というなり。
 問う、何を以てか受持正しく信心口唱に当ることを知るを得んや。
 答う、今謹んで経文を案ずるに、受持に二義あり。
一には総体の受持、二には別体の受持なり。総体の受持とは五種の妙行を総じて受持と名づくるなり。これ則ち受持は五種の妙行に通じ、五種の妙行を総する故なり。今経処々の「能持是経」の文及び「受持無行余行徒然」の文の意、能く能くこれを思うべし。
 二には別体の受持とは、即ち五種の妙行の中の第一の受持これなり。「信力の故に受け、念力の故に持つ」「文を看るを読と為し、忘れざるを誦と為す」等これなり。所以に結要付嘱の文に若し長行の中には別体に約して説く、故に「応当一心受持読誦解説書写如説修行」というなり。これ則ち要法五種の妙行なり。偈頌の中に至っては総体に約して説く、故に但「応受持斯経」というなり。これ則ち宗祖の所謂「但受持の一行にして成仏すべし」とはこれなり。
 然るに当抄の意、正しく偈の文に拠る。故に今「受持」とは即ちこれ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。然るに今、受持正しく信心口唱に当るとは、信心は即ちこれ受持が家の受持なり。口唱は即ちこれ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦はこれ即ち自行なり。今自行の観心を明かす、故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為る故にこれを論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。
 またまた当に知るべし、この文の中に四種の力用を明かすなり。謂く「我等受持」とは即ちこれ信力・行力なり。「此の五字」とは即ちこれ法力なり。「自然に譲り与う」は豈仏力に非ずや。所謂「信力」とは一向に唯この本尊を信じ、この本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち「信力」と名づくるなり。天台の所謂「但法性を信じて、其の諸を信ぜず」とはこれなり。「行力」というは、日出すれば燈詮なし、雨降るに露は詮なし。今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。故に余事を雑えず、但南無妙法蓮華経と唱うるは即ちこれ「行力」なり。
 「法力」ヒいうは既に迦中化他の三世の諸仏の図果の功徳を以て、本地自行の妙法五字に具足す。故にこの本尊の力用化功広大、利潤弘深なるは即ちこれ「法力」なり。「仏力」というは久遠元初の自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足円満の妙法五字を「我本立誓願」の大悲力を以ての故に、一幅の本尊に図顕し、末法の幼稚に授与する時、我等この本尊を受持すれば、自然に彼の自行化他の因果の功徳を譲り与え、皆成く我等が功徳と成し、「如我等無異」の悟りを開かしめたまうは、偏にこれ「仏力」なり。
 若し仏力、法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや。大論第一に云く「譬えば蓮華の水に在って、若し日光を得ざれば翳死することを疑わざるが如く、衆生の善根も若し仏に値わざれば成を得るに由なし」等云云。
 今この文を解して云く、花は信力の如し。蓮は行力の如し。水は法力の如し。日は仏力の如し。当に知るべし、蓮華は水に依って生じ、我等が信力、行力は必ず法力に依って生ずるなり。若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何ぞ信行を生ぜん。この故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし。水に依って蓮華を生ずと雑も、若し日光を得ざれば則ち翳死疑わざるが如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず。蓮華の若し日光を得れば則ち必ず能く栄え敷くが如く、我等仏力を蒙れば則ち信行成就して、速かに菩提を得るなり。故に末法今時の幼児は唯仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟の観察を借らんや。
 止観第五に云く「香城に骨を粉き、雪嶺に身を投ずるとも、亦何ぞ以て徳に報ゆるに足らん」等云云。また第一に云く「常啼は東に請い、善財は南に求め、葉王は手を焼き、普明は頭を刎ぬらる。一日に三たび恒河沙に身を捨つるとも、尚一句の力を報ずる能わず。況や両肩に荷負し、百千万劫すとも寧ぞ仏法の恩を報いんをや」云云。これを思いこれを思え。
一、四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」等文。(二四六㌻)
 この下は次に釈成、また二と為す。初めに上を承けて下を起し、次に経にいう「我が如く等く」の下は正しく釈成するなり。初めに上を承けて下を起すとは、この「無上宝聚・不求自得」の一文は正しく上の「自然譲与」を承けて、下の本尊行者体一を引き起す。故に承上起下というなり。文に「無上宝聚」等というは爾前は有上・迹門は無上、迹門は有上・本門は無上、脱益は有上・下種は無上なり。故にこの文底下種の本尊は無上の中の極無上なり。故に「無上」というなり。この妙法五字の本尊に釈尊の因位の万行、果位の万徳の宝を聚む、故に「宝聚」というなり。故にこの本尊をまた功徳聚と名づくるなり。此くの如き無上の宝聚を辛労もなく、行功もなく但信心口唱を以て、自然にこれを受得す。故に「不求自得」というなり。文に「我等が己心の声聞界」というとは、文意は我等が己心の声聞の不求自得なる故に即ち我等が不求自得なり。故に「我等が己心」等というなり。
一、経に云く我が如く等くして異なる事無し等文。
(二四六㌻)
この下は次に正しく釈成するなり。当に知るべし、前の正釈の中には人即法に約す。故に「我等此の五字を受持すれば」等というなり。今の釈成の中には法即人に約するなり。これにまた二意あり。一には三身即一身に約す。謂く、久遠元初の自受用身なり。二には一身即三身に約す。謂く、本地無作の三身これなり。
 この釈成の文また分ちて三と為す。初めに「我が如く等く」の下は自受用に約して師弟不二を示し、次に「宝塔品」の下は無作三身に約して親子一体を示し、三に「寿量品」の下は久遠元初に約して君臣合体を示す云云。
 初めに自受用身に約して師弟不二を示すとは、謂く「如我等無異」の一句は自らこれ標の文なり。「如我昔所願」の下の四句は自らこれ釈の文なり。何が故に「如我等無異」なるや。謂く「我願已満、衆生皆入仏道」の故なり。「如我等」の我の字、「如我昔」の我の字、並びにこれ久遠元初の自受用身なり。故に「昔」というなり。いう所の「昔」とは、天台・妙楽この文を釈して玄・籤第三に展転明久の判釈丁寧なり。然りと雖も、当流の意は「本行菩薩道」の時、猶甚だ近きを恨む。正しくこれ久遠元初の所願なり。故に「如我昔所願」というなり。この久遠元初の自受用身、末法に出現してこの本尊を授与す。故に「今者已満足」というなり。この本尊を受持する衆生は皆久遠元初の仏道に入る、故に「化一切衆生、皆令入仏道」というなり。即に久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり。故に「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」というなり。自受用はこれ師、我等はこれ弟子、既に「如我等無異」なり。豈師弟不二に非ずや。
一、宝塔品に云く等文。(同㌻)
 この下は次に無作三身に約して親子一体を示すなり。当に知るべし、「其有能護此経法」は即ちこれ観心なり。「我及多宝諸来化仏」は即ちこれ本尊なり。「我」はこれ無作の報身、「多宝」はこれ無作の法身、「及」は即ち境智冥合なり。「我に及ぶ多宝」はこれ境の智に冥ずるなり。「我多宝に及ぶ」はこれ智の境に冥ずるなり。境智冥合すれば必ず慈悲あり。慈悲即ちこれ無作の応身なり。故に「諸来化仏」というなり。「其れ能く本尊を護る」我等衆生は即ちこれ無作の三身なり。故に釈迦・多宝・十方の諸仏は我等が己心の仏界というなり。故に我等、無作三身の跡を紹継して無作三身の功徳を受得し、即無作三身と顕る。故に「須臾聞之即得究竟」というなり。謂く、須臾も本尊を受持すれば我等の当体、全くこれ究竟果満の無作三身なり。譬えば太子、三種の神器を受持すれば先帝の跡を紹継し、先帝統御の国々を受得して即ち帝王と顕るるが如し。然れば則ち本尊も無作三身、我等もまた無作三身、親も仏、子も仏、親も帝王、子も帝王、豈親子一体に非ずや。
一、寿量品に云く、然るに我実に成仏してより已来等文。(二四七㌻)
 この下は三に久遠元初に約して君臣合体を示すなり。「我実成仏已来」とは、今は通明三身に約するなり。「我」は即ち無作の法身、「成仏」は即ち無作の報身、「已来」は即ち無作の応身なり。文に「我等が己心の釈尊は五百慶点乃至所顕の三身にして無始の古仏」というなり。
 問う、いう所の「乃至」とは、これ何物を指すや。
 答う、蒙抄所引の恵抄の意は能顕を以て「乃至」というなり。これ「所顕」の二字に望む故なり。これに多種の能顕あり。一には本因妙は能顕、本果妙は所顕なり。二には報身は能顕、法身は所顕なり。三には折伏の行はこれ能顕、衆生の仏種は所顕なり。四には妙法修行は能顕、己心の妙法は所顕なり云云。これ即ち忠抄の義なり。
 今謂く、既に「五百慶点乃至」という、故にこれ時に約するなり。而も後より前に向い「乃至」というなり。謂く「五百塵点」は即ちこれ久遠本果の時なり。「所顕の三身」は久遠名字の時に在り。今久遠本果の時より久遠名字の時に向ってその中間を乃至するなり。即ち諸抄の「五百塵点の当初」の文に同じきなり。故に今の「乃至」は即ちこれ諸抄の「当初」の二字なり。
 総勘文抄に云く「釈尊、五百塵点の当初、凡夫の御時即座に開悟し」(取意)等云云。当体義抄に云く「釈尊五百慶点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して」等云云。秘法抄に云く「大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」等云云。此等の諸抄の「当初」の二字、これを思い合すべし。故に今の文意は、我等が己心の釈尊は五百塵点の当初、名字凡夫の御時所顕の三身にして無始の古仏なり云云。これ即ち久遠元初の自受用身、報中論三の無作三身なり。諸門流の輩この無始の本仏を知らず、所以に当文を消すること能わざるなり。また御義口伝下十四に云く「我は法身、仏は報身、来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し」と云云。
 文に云く「我本菩薩の道を行じて乃至我等が己心の菩薩等」とは、「我等が己心の釈尊」は即ちこれ種家の本果妙、無始の仏界なり。「我等が己心の菩薩界」は即ちこれ種家の本因妙、無始の九界なり。この本因、本果の釈尊は我等が己心の主君なり。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。常恒髄逐して仏の行化を輔く。譬えば周公、太公等の如し。この地涌千界の上行等は我等が己心の菩薩界なり。君臣既に我等が一心に居す。一心豈君臣を分たんや。故に君臣合体を示すというなり。当に知るべし、前問の初めに三徳を挙げて難を設け、今は三徳に約して一体を示すなり。文体の首尾、常山の蛇の如し。古来の学者、この意を了せず。宗祖の意に背き、後生をして迷わしむ。一に何ぞ謬るや。
一、当に知るべし身土一念の三千なり乃至法界文。(二四七㌻)
 これ三に結文なり。古来異説云云。今謂く、当に知るべし、「身土」の二字はこれ本尊を示す。即ち「夫れ一心に十法界を具す乃至即三千種の世間を具す」の文に同じきなり。「一念三千」の四字はこれ観心を明かすなり。即ち「此の三千、一念の心に在り乃至即ち三千を具す」の文に同じ。故に当に知るべし、「身土」は即ちこれ本地自受用の身土なり。自受用の身土は十法界の全体なり。「身」は謂く、正報の生蘊二千、「土」は謂く、依報の国土一千、故に三千あるなり。「一念」即ちこれ我等が信心、「三千」即ち自受用の身土なり。「成道」は只これ我等が成仏、「本」は謂く、本地久遠元初、「理」は謂く、難思境智の妙法、「一身」即ちこれ我等が五大、「一念」またこれ我等が信心、「遍於法界」は自受用身なり。故に文意に謂く、当に知るべし、本地自受用の身土は、我等が信心の一念の中の三千なり。故に成仏の時、此の本地難思の境智の妙法に称い、一身の五大法界に領じて所証の境と為り、一念の信心法界に遍じて能証の智と為り、久遠元初の境智冥合の自受用身と顕るるなり。
 問う、本地難思の境智の妙法は即ちこれ事の一念三千なり。何ぞ「本理」といわん。故に日忠抄に「此の本事に称う」の一字の口伝を示す。何ぞこれを用いざるや。
 答う、一字の口伝、既に諸文に違う。故にこれを用いず。且く一文を引かん。宗祖云く「釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し」等云云。また云く「本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず」等云云。解して云く「五百塵点劫の当初」は即ちこれ本地なり。「証得」の二字は能証の智なり。「妙法の当体蓮華」は所証の境なり。「世世番番に成道」は即ちこれ垂迹なり。能証は即ち「証得」の二字、所証は即ち「妙法当体蓮華」の六字なり。「本」はこれ「五百塵点当初」の六字、「理」はこれ「証得此妙法当体蓮華」の九字なり。故に本地難思の境智の妙法を以て名づけて本理と為すこと、文に在って分明なり。
 当に知るべし、世々番々の迹に対して久遠元初を本と名づく。迹仏等の思慮に及ばざる故に、難思の境智の妙法を理と名づくるなり。「止みなん止みなん須く説くべからず、我が法は妙にして思い難し」、これを思い合すべし。兄弟抄に云く「法華経の極理・南無妙法蓮華経」等云云。また事の一念三千と名づくる所以は、この本地難思の境智の妙法に即ち御主有り。所謂蓮祖聖人これなり。故に蓮祖聖人の御振舞は、全くこれ本地難思の境智の妙法の御振舞なり。故に事の一念三千と名づくるなり。当に知るべし、この本地難思の妙法に無量の徳を含む。故にその便に従って以てその名を得たり。何ぞ一概なるべけんや。

 

観心本尊抄文段下

 第七段 略して本尊を釈す

観心本尊抄文段下
(第七段 略して本尊を釈す)
一、夫れ始め寂滅道場・華蔵世界より等文。(二四七㌻)
 この下は次に本尊を明かす、また二と為す。初めに略釈、次に「問う正像」の下は広釈。初めの略釈、また三と為す。初めに権迹熟益の本尊を明かし、次に「今本時の」の下は本門脱益の本尊を明かし、三に「此の本門の肝心」の下は文上熟脱の本尊を簡びて、文底下種の本尊を顕すなり。
 問う、初めの文に若し熟益の本尊を明かさば、応に教主の身相及び脇士等を明かすべし。何ぞ但変土無常の相のみを明かすべけんや。
 答う、実に所問の如し。然るに教主の身相は前に已にこれを明かせり。故に今文にはこれを略するなり。謂く、上の文に云く「教主釈尊は始成正覚の仏四十余年の間四教の色身を示現し爾前・迹門・涅槃経等を演説して」等云云。若し脇士等は後に将にこれを明かさんとす。故にまたこれを略するなり。謂く、下の文に云く「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す」等云云。今、文には略すと難も、その義は宛然なり。今大旨を考え、以てその文を消す。学者但文にのみ随って解を生ずることなかれ云云。
一、華蔵・密厳等文。(同㌻)
 「華蔵」は即ちこれ実報土なり。「密厳」はまたこれ寂光土なり。「三変」とは即ち宝塔品の所変なり。「四見」とは即ち涅槃経の所見なり。釈籤の第七の意は、三変土田を以て正しく同居の浄に約し、兼ねて実報・方便と為す。故に「三変」は同居の浄土・方便・実報なり。「四見」は即ち同居・方便・実報・寂光なり。故に「三土・四土」とは即ち「三変・四見」の所変、所見の土を示すなり。「皆成劫の上の無常の土」とは即ちこれ三界同居の穢土なり。「能変の教主」とは今日同居出世の釈尊なり。「所変の諸仏」とは方便土の勝応身、実報土の他受用身、寂光土の法身、安養の弥陀、浄瑠璃の薬師、密厳土の大日如来等なり。今日出世の釈尊涅槃に入れば、此等の諸仏は随って滅尽するなり云云。
一、今本時の姿婆世界は等文。(二四七㌻)
 この下は次に本門脱益の本尊を明かす、また二と為す。初めに正しく明かし、次に迹門には未だ説かざる所以を示す。初めの正しく明かすにまた二と為す。初めに正しく脱益の本尊を明かし、次に「此れ即ち」の下は在世の観心を明かすなり。
 文に云く「今本時」等とは、且く一文を引いて以て当文を消せん。経に云く「時我及衆僧、倶出霊鷲山」等云云。「時」は即ち本時なり。「我」は即ち仏なり。「衆僧」はこれ所化なり。「倶出」は即ち同体なり。謂く、師弟倶に三世常住なり。故に「倶出」「及」は同体というなり。玄の真記第九に云く「経に『時我及衆僧倶出霊鷲山』と。此れは師弟の三世常住を明かすなり」と云云。「霊鷲山」は即ち三災を離れ、四劫を出でたる常住の浄土なり。故に伝教大師云く「霊山報土は劫火にも焼けず」等云云。文にいう「仏既に過去にも滅せず」等とは、経に云く「如是我成仏已来乃至常住不滅」と云云。故に経文の相は正しくこれ過去常住なり。故に「過去にも滅せず」という。然るに大師、この四字に寄せて以て未来常住を明かす。故に「未来にも生ぜず」というなり。
一、此れ即ち己心の三千具足等文。(同㌻)
 この下は次に在世の観心を明かすなり。「此即」の二字は即ち上の文を指す。謂く「本時の裟婆」は即ちこれ本国土、依報の一千なり。「仏」及び「所化」は本因本果、生・蘊の二千なり。これ即ち身子等が己心の三千具足、三種の世間なり。妙楽云く「故に長寿を聞いて複宗旨を了す」等云云。謂く、身子等、本因本果の長寿を聞いて、また唯円即観一念三千の宗旨を了するなり。血脈抄に云く「一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等・凡夫の為には教相たり」等云云。
 問う、忠抄の意に云く「『今本時』の下は在世に約し、『此れ即ち己心』の下は末法に約す」等云云。辰抄に云く「『これ即ち己心の三千具足』とは、蓮祖門弟の信者行者の己心の一念三千なり」と云云。この義如何。
 今難じて云く、上の「夫れ始め」より下の「是くの如し」に至るまで、皆在世に約せる一連の釈相なり。況やまたこの段は但本門に約せるをや。故に「迹門十四品には未だ之を説かず」等というなり。何ぞ但この一文のみを別して末法に約すといわんや。況や妙楽の釈及び蓮祖の相伝に違するをや。況やまたこの文を強いて以て末法の観心と為し、在世上達の観心を以て末法下機の観心と為さんをや。謬れるかな、謬れるかな。
一、此の法門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては等文。(二四七㌻)
 この下は三に文上熟脱の本尊を簡び、文底下種の本尊を明かす。文を分って三と為す。初めに付嘱の人を明かし、次に「其の本尊の為体」の下は正しく遺付の本尊の相貌を明かし、三に「是くの如き」の下は末法出現を結す。初めの付嘱の人を明かすに、また三と為す。初めに付嘱する所の法体を示し、次に非器の人を簡び、三に正しく付嘱の人を示す。
 文に「此の本門の肝心」というはこれ文上熟脱の本尊を簡ぶなり。中に於て「此本門」の三字は熟益の迹門の本尊を簡び、「肝心」の二字は文上脱益の本尊を簡ぶなり。「南無妙法蓮華経の五字に於て」とはこれ文底下種の本門、事の一念三千の本尊を明かすなり。これ即ち本化所嘱の法体なり。日我云く「本迹の不同、在世・滅後の本尊、能く能く意を留む可きなり」と云云。文上は久近の本迹、文底は種脱の本迹なり。故に「本迹の不同」というなり。文上脱迹は在世の本尊、文底の種本は末法の本尊なり。故に「在世・滅後の本尊」等というなり。次に非器の人を簡ぶとは、即ちこれ文殊・薬王等なり。天台云く「器に非ざれば授くるなかれ」等云云。三に正しく付嘱の人を示すとは、即ちこれ「地涌千界」なり。
一、但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う文。(同㌻)
 「八品を説いて」とは、通じて本化付嘱の始終を示すなり。「之を付属し」とは、別して寿量の肝心を付嘱するを示すなり。謂く、涌出品に付嘱の人を召出し、寿量品に所嘱の本尊を説き顕し、分別品にこの本尊に於て能く一念の信解を生ずる功徳を明かし、随喜品にこの本尊を聞いて五十展転する功徳を示し、法師功徳品にはこの本尊の五種の妙行の勝利を明かし、不軽品にはこの本尊の末法弘通の方軌を示し、神力品には別してこの本尊を正しく本化に付し、嘱累品には地涌の菩薩、付嘱を受け已って座を退いて帰去せり。
 故に知んぬ、八品は只これ付嘱の始終なることを。但地涌千界にこの本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字を付嘱す。故に「八品を説いて之を付嘱」というなり。籤の一の末十六に云く「今釈迦仏は本迹を説き竟って、総じて枢要を撮って諸の菩薩に付嘱す」等云云。玄の七四十二に「今日、本門を説いて一切諸仏の所有の法を付嘱す」等云云。当に知るべし、妙楽は一経三段の意に約し、通じて一部の始終を挙ぐ。故に「本迹を説き」等というなり。大師は二経六段の意に約し、別して本門の始終を示す。故に「本門を説いて」等というなり。今吾が蓮祖は本化の在座に約し、付嘱の始終を明かす。故に「八品を説いて」というなり。三師の解釈、能くこれを思うべし。
一、其の本尊の為体等文。(二四七㌻)
 この下は次に正しく遺付の本尊の相貌を明かすなり。今この文を釈して且く三段と為す。初めにこの寿量所顕の本尊を明かし、次にこの文底下種の本尊を明かし、三には文に随って消釈す。
 初めにこの寿量所顕の本尊を明かすとは、
 問う、今この本尊は八品所顕と為んや、寿量所顕と為んや。
 答う、寿量所顕の本尊なり。将にこの義を明かさんとするに、初めに明文を引き、次に異解を破せん。初めに明文を引くとは、新尼抄に云く「今此の御本尊は乃至宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いし」等云云。また御義口伝下四十二に云く「二仏並座・分身の諸仏集まつて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し釈尊十種の神力を現じて四句に結び上行菩薩に付属し給う」等云云。また二十九に云く「宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事竟るなり」等云云。此等の諸文並びに寿量品に説き顕すというなり。下の文に云く「正像乃至未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」と云云。また云く「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」等云云。此等の明文、宛も白日の如し。故に知んぬ、今この本尊は寿量所顕の本尊にして、八品所顕の本尊には非ざることを。問う、既に「八品を説いて之を付属し給う」という。この文如何。
 答う、これはこれ通じて付嘱の始終を示す。故に「八品」等というなり。八品にこの本尊を説き顕すというには非ざるなり。
 問う、日忠抄に云く「『此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五宇』をば八品の間に説いて上行菩薩に付属して是れを本尊と為すなり」と云云。また「下に云う『此れは但題目の五字』とは、これは但八品と口伝するなり」と云云。この意は本門八品の間にこの本尊を説き顕し、上行菩薩に付嘱して末法の本尊と為す。故に八品所顕の本尊なりと云云。この義如何。
 答う、宗祖の滅後一百余年の後に八品所顕の新義を立つる所以は、但此の一両の文に由る。然るに彼等の所解、既に宗祖に違う。誰かこれを用いんや。何となれば、宗祖は諸抄の中に但「寿量品に説き顕し」といい、「八品所顕」といわざる故に。況や宗祖は但「本門寿量の本尊」等といい、「本門八品の本尊」といわざるが故に。況やまた宗祖は但「此れは但題目の五字」といい、「此れは但八品」等といわざるが故に。この故に明らかに知んぬ、宗祖違背の曲説なり。況やまた妙楽云く「今釈迦仏は本迹を説き竟って、総じて枢要を撮って諸の菩薩に付嘱す」と。既に「本迹を説き」という。若し爾らば応に「本迹二門・一部所顕の本尊」というべけんや。況やまた大師云く「今日、本門を説いて一切諸仏の所有の法を付嘱す」と云云。既に「本門を説いて」という。若し爾らば応に「後の十四品・本門所顕の本尊」というべけんや。若し爾らずんば、今「八品を説いて」等というと雖も、何ぞ「八品所顕の本尊」といわんや。
 問う、下の文に云く「是くの如き本尊は(乃至)但八品に限る」等云云。この文は如何。
 答う、「是くの如き本尊」とは寿量所顕の本尊なり。この寿量所顕の本尊は但八品に亘り、余品に亘らざるが故に「但八品に限る」というなり。何ぞこれ八品所顕の文ならんや。
 問う、諸流一同の義に云く「今此の本尊は本門八品の儀式なり」と云云。この義は如何。
 答う、凡そこの本尊は正しくこれ寿量品の儀式なり。何となれば宝塔品の時、二仏座を並べ分身来集し、涌出品の時本化涌出し、正しく寿量品に至って十界久遠の上に国土世間既に顕れ、一念三千の本尊の儀式既に円満円足して更に一事の闕滅なし。豈寿量品の儀式に非ずや。然るにこの本尊の付嘱未だ畢らず、故に儼然未散にして通じて嘱累品に至るなり。故に寿量品の儀式は通じて八品に亘る故に八品の儀式なりといわば、これ大なる妨げなし。然るに諸門流の輩、これ寿量品の儀式なることを知らず、直ちに八品の儀式という、故に不可なり。
 問う、日辰の抄に云く「通じて本尊を明かす時は八品所顕の本尊なり。故に『但八品に限る』と云うなり。別して本尊を明かす時は寿量所顕の本尊なり。故に『本門寿量の本尊』と云うなり」と云云。この義は如何。
 答う、「通じて本尊を明かさば八品所顕」とは、恐らくはこれ謬りなり。宗祖の諸抄、都てこの説なし。故にまたまた日辰の所謂寿量所顕は、当流の所謂寿量所顕に同じからざるなり。
 問う、蒙抄に云く「一部八巻二十八品皆是れ本尊なり。『但八品に限る』とは、一念の尊像を但八品の間に事相に示す故なり。隠顕は機に在り、仏意は常に然なり」と云云。この義は如何。
 答う、またこれ宗祖違背の曲説なり。宗祖既に「末代悪世の凡夫は但法華経の題目を本尊と為すべし」という故なり。但し唱法華題目抄に「本尊は法華経八巻一巻」等というはこれ仏の爾前経の如し云云。
 次にこの文底下種の本尊を明かすとは、問う、この御本尊の為体、今日の寿量品の儀式を移すとせんや。久遠元初の本仏の相貌を顕すとせんや。若し今日寿量品の儀式といわば、即ちこれ在世脱益の本尊にして末法下種の本尊に非ず。若し久遠元初の本仏の相貌といわば、二仏並座、本化、迹化、身子・目連等、豈今日寿量品の儀式に非ずや。
 答う、この御本尊は正しくこれ文底下種の本仏、本地難思、境智冥合、久遠元初の自受用の一身の相貌なり。将にこの義を明かさんとするに、初めに文証を引き、次に外難を遮す。
 一には経に云く「如来秘密神通之力」と云云。御義口伝に云く「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」等云云。諸法実相抄に云く「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」等云云。
 二には経に云く「是好良薬今留在此」等云云。下の文に云く「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり乃至仏猶迹化に授与し給わず何に況や他方をや」と云云。
 三には経に云く「時我及衆僧倶出霊鷲山」等云云。御義口伝に云く「本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり乃至其の故は時とは末法第五時の時なり、我とは釈尊・及は菩薩・衆僧は二乗、色とは六道なり、出とは霊山浄土に列出するなり霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」等云云。前にこの文を引くは文上の意なり。今この文を引くは文底の意なり。
 四には下の文に云く「所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」と。
 五には撰時抄に云く「寿量品の肝要、南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆえに、此の菩薩を召出されたり」(取意)等云云。
 六には下山抄に云く「実には釈迦・多宝、十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」と云云。七にはまた云く「地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき」等云云。次上の文に云く「此の本門の肝心南無妙法蓮華経」と云云。
 此等の諸抄に「本門寿量の肝要」とは、熟益の迹門を簡び、脱益の本門を取る。故に「本門寿量」というなり。仍文上の脱益を簡び、但文底の下種を取る。故に「肝要」というなり。この故に開目抄に「本門・寿量品の文の底」といい、諸抄の中には「本門寿量の肝要」というなり。当に知るべし、肝要とは文底・眼目の異名なり。
 凡そ肝要とは、唯一法を挙げて一切を摂むるの義なり。文底またまた斯くの如し。故に文底大事の口決に云く「所詮文底とは久遠下種の法華経・名字の妙法に、今日熟脱の法華経の帰入する処を志し給うなり。妙楽云く『雖脱在現・具騰本種』とは是れなり」と云云。
 問う、正しく本尊の為体、二仏並座、本化・迹化、身子・目連等、豈今日寿量品の儀式に非ずや。
 答う、今句寿量品の儀式は文上脱益、迹門の理の一念三千、教相の本尊なり。若し今遺付の本尊は文底下種、本門の事の一念三千、観心の本尊なり。然るに本事已往、若し迹を借らずんば何ぞ能く本を識らん。故に今日寿量品の儀式を以て、久遠元初の自受用の相貌を顕すなり。妙楽の所謂「雖脱在現・具騰本種」これを思い合すべし。若し具にこれを論ぜば施開廃の相伝あり。
 謂く、文上の意は、久遠本果の本より中間・今日の迹を垂れ、中間、今日の迹を開して久遠本果の本を顕す。久遠本果の本を顕し已んぬれば更に一句の余法なし。唯これ久遠本果の為体、一念三千の儀式なり。若し文底の意は、久遠元初の本より本果・中間・今日の迹を垂れ、本果・中間・今日の迹を開して久遠元初の本を顕す。久遠元初の本を顕し已んぬれば更に一句の余法なし。唯これ久遠元初の自受用身の当体の相貌にして真の事の一念三千の為体なり。
 譬えば池月に准じて天月の相貌を知り、天月を知り已んぬれば池月の影を撥って唯天月を指すが如し。天台の所謂「下に准じて上を知り、影を撥って天を指す」はこれなり。然るに諸流の族は天月を識らず、但池月を観る。云何ぞ盆に臨みて天漢を仰がざるや。鳴呼聾駭なり、若為ぞ道を論ぜんや云云。
 問う、何ぞ本果を以て仍迹に属するや。
 答う、若し文底の意は但久遠元初を以て名づけて本地と為す。本果已後を通じて迹に属するなり。これ則ち本果成道に既に四教・四仏の浅深不同あるが故なり。文一二十一に云く「唯本地の四仏は皆是れ本なり」と云云。籤七十一に云く「既に四義の浅深不同あり。故に知んぬ、不同は定めて迹に属す」等云云。
 三に文に随って消釈せば、文に云く「本師の裟婆の上に宝塔空に居し」とは、「本師の裟婆」は即ちこれ「常在霊鷲山」なり。妙楽云く「常在の言に拠るに即ち自受用土に属す」等云云。故に知んぬ、能居の宝塔五百由旬は即ち自受用身の本有の五大を表し、所居の虚空は即ち自受用所居の寂光を表することを。
 文に云く「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」等とは、忠抄に云く「中央の妙法蓮華経の脇士は釈迦・多宝なり。釈迦、多宝の脇士は四大菩薩なり。文殊・弥勒等は四大菩薩の眷属なり」と云云。この義最美なり。
 問う、仏在世の「塔中の妙法蓮華経」とは、その体何物ぞや。
 答う、是れ能表を以て所表を顕し、「塔中の妙法蓮華経」というなり。これに三意あり。謂く、無始・色心、境智冥合なり。
 一には妙法蓮華経とは、即ちこれ本有の五大なり。謂く、今日迹中の五百由旬の宝塔は密に本地自受用身の本有の五大を表するなり。自受用身の本有の五大とは即ちこれ妙法蓮華経なり。故に宗祖云く「五行とは地水火風空なり乃至是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり」と云云。
 二には妙法蓮華経とは、即ちこれ十界互具なり。謂く、今日迹中の十界の聖衆は即ち本地自受用の一念の心法所具の十界互具の妙法蓮華経を表するなり。故に宗祖云く「因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕滅無し」等云云。
 三には妙法蓮華経とは、即ちこれ境智の二法なり。謂く、十界の聖衆左右に坐するは即ち本地難思の境智の妙法蓮華経を表するなり。天台云く「境智和合すれば則ち因果あり。照境未だ窮らざるを因と為し、源を尽すを果と為す」等云云。当に知るべし、左右の九界は「照境未窮」の妙因を表し、釈迦・多宝の両仏は即ち「尽源為果」の妙果を表するなり。
 問う、妙法蓮華経の左右に文字に書き顕す仏菩薩等と、色相荘厳の造立の仏菩薩等と、何の異りありや。
 答う、種本脱迹、天地雲泥なり。謂く、文字に書き顕す仏菩薩等は本地自証の妙法、無作本有の体徳なり。譬えば種子の中に百千枝葉を具足するが如し。若し色相荘厳の造立の仏菩薩等は迹中化他の形像なり。譬えば種子より生ずる所の百千枝葉の如し。豈硬異に非ずや。
 問う、色相荘厳の仏菩薩等を以て、何ぞ必ずしも迹中化他の形像といわんや。
 答う、教時義に云く「世間皆仏に三十二相を具するを知る。此の世情に随って三十二相を以て仏と為す」と文。当に知るべし、劣応の三十二相、八十種好、勝応の八万四千の相好、他受用報身の十蓮華蔵微塵の相好、及び徴妙浄法身具の相三十二、応仏昇進の自受用身等は皆世情に順じて現ずる所の仏身なり。故に機縁に随って相好に多少あり。故に止観第七に云く「縁の為に同じからず。多少は彼に在り」等云云。
 問う、縦い色相荘厳と雖も、若し本果の成道の如きは即ちこれ本地自行の成道なり。何ぞ迹中化他の形像といわんや。
 答う、本果第一番の成道に既に四仏あり。具に四教、八教を説く。故に天台云く「本地の四仏」等云云。妙楽云く「久遠に亦四教有り」等云云。既に四教、八教あり。豈化他の形像に非ずや。妙楽云く「本地の自行は唯円と合す。化他は不定、亦八教有り」等云云。
 問う、辰抄に云く「本尊に総体・別体あり。総体の本尊とは一幅の大曼荼羅なり。即ち当文是れなり。別体の本尊に亦二義あり。一には人本尊。謂く、報恩抄、三大秘法抄、佐渡抄、当抄の下の文の『事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊』等の文是なり。二には法の本尊。即ち本尊問答抄の『末代悪世の凡夫は法華経の題目を本尊とすべし』等の文是なり」と云云。この義如何。
 答う、これはこれ文底の大事を知らず、人法体一の深旨に迷い、但在世脱益・教相の本尊に執して以て末法下種の観心の本尊と為す。故に諸抄の意に通ずる能わず。恣に総体、別体の名目を立て、曲げて諸文を会し、宗祖の意を失うなり。当に知るべし、日辰所引の諸抄の意は、並びにこれ人法体一の本尊なり。人法体一なりと雖も、而も人法宛然なり。故に或は人即法の本尊に約し、或は法即人の本尊に約するなり。人即法の本尊とは即ちこれ自受用身即一念三千の大曼荼羅なり。法即人の本尊とは一念三千即自受用身の蓮祖聖人これなり。当文及び本尊問答抄、当抄の下の文の「本門の本尊」、佐渡抄の「本門の本尊」の文は並びにこれ人即法の本尊なり。三大秘法抄、報恩抄等は法即人の本尊なり。
 問う、当門流に於ては総体、別体の名自、これを立つべからざるや。
 答う、若しその名を借りて以てその義を明かさば、本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応にこれ別体の本尊なるべし。これ則ち面々各々の本尊なるが故なり。
一、是くの如き本尊等文。(二四八㌻)
 この下は三に末法出現を結するにまた三と為す。初めに在世の希有を示し、次に正像末有を示し、三に末法出現を結するなり。
 文の意は、是くの如きの寿量品の本尊は在世四十余年にこれなし。八年の間にも但八品に限る。正像二千年の間、小権迹の仏をば造り画けども、未だ是くの如きの寿量品の仏あらず。末法に来入して始めてこの寿量品の仏像出現せしむべきか云云。故に始終一連相続の文なり。寧んぞ八品所顕の本尊、但八品に限るというべけんや。何ぞ漫りに通別を作るべけんや。愍むべし、悲しむべし。
 文に云く「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し」等は、釈門正統第三三十五に云く「今殿中に釈迦・文殊・普賢・阿難・迦葉、梵王・金剛を設くるは此の土の像なり。阿難は合掌す、是れ仏の堂弟なればなり。理異儀に非ず。迦葉は拳を●ぐ、本外道の様なればなり。且く本習に附して威を以て衆を来す。若し声聞の人を以て輔くれば則ち迦葉左に居し、阿難右に居す。若し菩薩の人を以て輔くれば則ち文殊左に居し、普賢右に居す」と云云。文に云く「未だ寿量の仏有さず、乃至始めて此の仏像」とは、
 問う、前に明かす所は正しくこれ法の本尊なり。
何ぞ「寿量品の仏」及び「仏像」等というや。
 答う、これ人法体一の深旨を顕すなり。前に人即法に約して正しく本尊の相貌を明かす。今は法即人に約して末法出現を結するなり。究めてその体を論ずれば人法体一なり。謂く、前に明かす所の本尊の為体、一毫も動かず、全くこれ久遠元初の自受用身の当体の相貌なり。故に今「寿量の仏乃至此の仏像」というなり。
 問う、曽て師説を聞くに当流の本尊は人法体一なりと。今また師説に同じ、故に敢てこれを疑うべからず。然りと雖も、時々諸経の明文を開き、聊か疏釈の玄旨を伺うに、人法の勝劣猶天地の如し。供養の功徳また水火の如し。且く一文を引いて以て明答を待つ。
 普賢観経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり」と云云。薬王品に云く「若し復人有って七宝を以て三千大千世界を満てて、仏、及び大菩薩、辟支仏、阿羅漢に供養せん。是の人の所得の功徳も、此の法華経の、乃至、一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ」等云云。文の十に云く「七宝を四聖に奉るは一偈を持つに如かず。法は是れ聖の師、能生・能成・能栄、法に過ぎたるはなし。故に人は軽く法は重し」等云云。妙楽云く「四不同と雖も、法を以て本と為す」等云云。籤の八二十五に云く「父母に非ざれば以て生ずる無く、師長に非ざれば以て成ずる無く、君主に非ざれば以て栄うる無し」等云云。その外これを略す。此等の文に准ずるに法はこれ諸仏の主師親なり。豈勝劣天地に非ずや。方便品に云く「法を聞いて歓喜し讃めて、乃至、一言をも発せば則ち為れ已に一切三世の仏を供義するなり」と云云。宝塔品に云く「其れ能く此の経法を護ること有らん者は則ち為れ我及び多宝を供養す」と云云。陀羅尼品に云く「八百万億那由佗恒河沙等の諸仏を供養せん。乃至能く是の経に於て乃至一四句偈を受持し乃至功徳甚だ多し」と云云。善住天子経に云く「法を聞いて謗を生じ、地獄に堕つとも恒沙の仏を供養するに勝る」と云云。名疏十に云く「実相は是れ三世の諸仏の母なり。乃至、仏母の実相を供養すれは即ち三世十方の仏所に於て倶に功徳を得」等云云。余の文はこれを略す。豈供養の功徳水火に非ずや。
 答う、所引の経釈は皆文上熟脱の人法に約す、故に勝劣あり。若し文底下種の本尊は人の外に法なく、法の外に人なし。人全くこれ法、法全くこれ人。人法の名は殊なれども、その体は一なり。今また明文を引いて須く汝が疑網を断ずべし。
 法師品に云く「若しは経巻所住の処には乃至此の中には、已に如来の全身有す」と云云。天台云く「此の経は是れ法身の舎利」等云云。今「法身」とはこれ自受用身なり。宝塔品に云く「若し能く持つこと有らば則ち仏身を持つ」云云。観普賢経に云く「此の経を持つ者は則ち仏身を持つ」と云云。文第十に云く「法を持つは即ち仏身を持つ」と云云。また涅槃経には如来行を宣べ、今経には安楽行という。天台会して云く「如来は是れ人、安楽は是れ法。如来は是れ安楽の人、安楽は是れ如来の法。総じて大理は別ならず。人即法の故に」と云云。会疏十三に云く「如来は即ち是れ人の醍醐、一実諦は是れ法の醍醐。醍醐の人、醍醐の法を説く。醍醐の法、醍醐の人と成る。人と法と一にして二なし」等云云。略法華経に云く「六万九千三八四、一一文文是れ真仏」と云云。此等の文意、実には下種の本尊の人法体一の深旨を顕すなり。経に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず。時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出ず」と云云。この文正しく人法体一を顕す。これを思え、これを思え。
 四に釈を明かして、云く「十界互具方に円仏と名づく」と云云。伝教大師、秘密荘厳論に云く「一念三千即自受用身」等云云。宗祖云く「自受用身即一念三千」等云云。諸法実相抄に云く「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」と云云。「明星直見の口伝」に云云。「日蓮在判の口伝」に云云。此等は直ちにこれ人法体一の明文なり。
 問う、今「寿量の仏乃至此の仏像」等というは、応にこれ本門寿量の教主釈尊の色相荘厳の画像・木像なるべし。何となれば一代聖教を以て正像末に配するに、正像はこれ小権迹の時なり。末法今時はこれ本門の時なり。故に正像に於ては、既に小権迹の仏を造り画いて以て本尊と為す。故に末法に於ては、応に須く本門寿量の教主釈尊を造り画き、以て本尊と為すべき故なり。何が故に爾らざるや。
 答う、実に所問の如し。末法今時は本門の時なり。然るに宗祖云く「本門に於て亦二の意あり。一には在世の衆生の為、二には滅後末法の為なり」と云云。故に今日寿量の教主、色相荘厳の仏は在世脱益の本尊なり。文底下種の本仏は滅後末法の本尊なり。故に三時の相配、これ相違に非ざるなり。また「仏像」の言は木画に限るに非ず。故に天台云く「燃燈仏の時に、縁熟すれば仏像を以て之を化す」と云云。況やまた正像には「造り画く」といい、末法には「出現」といえるをや。深くこれ「を思うべし。下の文に云く「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し」等云云。救護本尊に云く「上行菩薩世に出現し始めて之を弘宣す」と云云。三処の「出現」、三処の「始」の字、これを思い合すべし。

 第八段 広く本尊を釈す

 (第八段 広く本尊を釈す)
一、問うて日く正像二千余年の間等文。(二四八㌻)
 この下は次に広く釈す、また二と為す。初めに問、次に答。初めの問、また二と為す。初めに所聞を牒じ、次に「此の事」の下は請益なり。
 初めの文に「本門寿量品の本尊」というは、これ正釈の中の人即法の本尊を勝ずるなり。「並びに四大菩薩」とは、これ結文の中の法即人の本尊を牒ずるなり。
 問う、「本門寿量品の本尊」とは、応にこれ本門寿量の教主、色相荘厳の釈尊なるべし。「並びに四大菩薩」とは、また応に身皆金色、三十二相の四脇士なるべし。何ぞ当文を以て人法に配すべけんや。
 答う、前に已に明かす所の本尊の為体、塔中の妙法蓮華経は本尊の正体なり。釈迦・多宝は妙法蓮華経の脇士なり。四大菩薩はまた釈迦・多宝の脇士なり。若し爾らば、今何ぞ正体の本尊を挙げずして但両重の脇士のみを牒ぜんや。況や所難の義勢の如くんば、唯これ彼は脱の本尊にして、此れ種の本尊に非ず。問答の起尽、如何がこれを通ぜんや。
 問う、今法即人の本尊を四大菩薩という意、如何。
 答う、これ摂前顕後の徳あるが故なり。謂く、前の自受用を摂し、後の日蓮を顕す故なり。故に「名異体同」の相伝に云く「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」等云云。
 問う、若し爾らば、応に「並びに上行菩薩」というべし。何ぞ「四大菩薩」というや。
 答う、「四大菩薩」というと雖も、意は別して上行に在り。故に言は総、意は別なり。故に救護本尊に「上行菩薩世に出現」というなり。下の文に云く「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し」と云云。また云く「此の時地涌千界出現」等。これに准じて知るべし。
一、答えて日く法華経一部八巻等文。(同㌻)
 この下は次に答、自ら五あり。初めに一代の三段、次に十巻の三段、三に迹門の三段、四に本門の三段、五に文底の三段なり。当に知るべし、第一は内外相対、第二は権実相対、第三は権迹相対、第四は本迹相対、第五は種脱相対なり。
 ある時、解して云く、答の文また二と為す。初めに一往総の三段、次に「又法華経」の下は再往別の三段。初めの総の三段にまた二あり。初めに一代三段、次に一経三段。次に別の三段にまた三と為す。初めに迹門熟益三段、次に本門脱益三段、三に性文底下種の三段なり。凡そ総の三段は別の三段を顕さんが為なり。故に一往と名づくるなり。別の三段は正しく本尊を明かす、故に再往というなり。別の三段の中に於て、迹門熟益の三段は今家所立の第一の教相、即ち熟益の本尊を明かすなり。次に本門脱益の三段は今家所立の第二の教相、即ち脱益の本尊を明かすなり。三に文底下種の三段は今家所立の第三の教相、即ち下種の本尊を明かすなり。一代聖教の方寸を知るべし云云。
一、又法華経等の十巻に於て等文。(二四八㌻)
 標、釈見るべし。この下は迹門熟益三段、また五と為す。
一には正しく三段を明かし、二には能説の教主、三には所説の法体、四には権実勝劣、五には化導の始終なり。
 第一、第二は文の如く見るべし。第三は所説の法体を示す。文に「本無今有の百界千如を説いて」というは、後の本門に望みてこれを判ず。故に「本無今有」等というなり。十法界抄に云く「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて末だ必ず本覚本有の十界互具を明かさず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや」と云云。即ちこの文の意なり。
 第四に「已今当に超過せる」等とは、これ権実勝劣を判ずるなり。文の意は、後の本門に望むれば本無今有の百界千如なれども、若し三説に対すれば難信難解の正法なりと云云。
 第五に「過去の結縁を尋れば」等とは、これ化導の始終を明かすなり。この文にまた三。初めに爾前入実、次に「二乗」の下は今経の当機、三に「又在世に於て」の下は結縁衆なり。当に知るべし、同じく大通十六の時、仏果の種子を下す中にこの三類を分つなり。「但毒発等の一分」とは、これ爾前入実の機類を以て総じて毒発不定に属するなり。而して種類は一に非ざる故に「一分」というなり。「二乗凡夫等」とは、これ今経の当機なり。
 問う、応に「法華に来至して得脱す」というべし。何ぞ「法華に来至して種子を顕わし」というや。
 答う、凡そ得脱とは種子を顕示するを得脱と名づくるなり。故に五百品に云く「珠を与えし親友、示すに繋けし所の珠を以てす。貧人此の珠を見て其の心大いに歓喜す」等云云。これはこれ脱は必ず種に還るの明文なり。読の一本に云く「聞法は珠を繋くるなり。是れを円因と為す。得記は珠を示すなり。名づけて円果と為す」等云云。
 「又在世に於て始めて八品を聞く」等とは、この下は三に結縁衆なり。
 「或は一句一値等を聞て下種とし」とは、
 問う、いう所の「下種」とは、聞法下種と為んや、発心下種と為んや。若し聞法下種といわば、在世は皆これ本已有善の衆生なり。何ぞ始めて聞法を論ずべけんや。若し発心下種といわば、既に「始めて八品を聞く」等という。豈聞法下種に非ずや。
 答う、これ発心下種なり。謂く、大通十六の時、法華を聞くと雖も、而も信を生ぜず。不信を以ての故に不聞に属す。故に「始めて聞く」等というなり。例せば「第三類の人、未だ曽て大を聞かず」の義勢の如し云云。
 「或は普賢・涅槃等に至り」等とは、
 問う、何ぞ本門得脱の人を挙げざるや。
 答う、本門得脱の人は即ちこれ本門種脱の人にして迹門種脱の人に非ず。何ぞこれを挙ぐべけんや。「或は正像末」とは、
 問う、この人は但正像に至るべし、何ぞ末法に至らん。これ即ち末法は皆これ本未有善の衆生なるが故なり。
 答う、仍末法の初めの一二百年は、本已有善の衆生これあり。故に下の文に云く「迹門の四依は多分は像法一千年・少分は末法の初なり」と云云。
 問う、当に文には具に化導の始終を明かすべし。何ぞ迹門熟益の三段というや。
 答う、迹門の言は爾前に対し、熟益の言は本門の脱益に対するなり。謂く、爾前に対する時は化導の始終を明かすと雖も、若し本門の脱益に望む時は通じて熟益に属する故なり。故に下の文に云く「久遠を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為す。本門に至って等妙に登らしむるを脱と為す」(取意)等云云。当に知るべし、今化導の始終を明かすは、今家所立の第一の教相なり。若し今家所立の第二の教相に望めば、只これ熟益の分斉なり。
一、又本門十四品の一経に序正流通有り等文。(二四九㌻)
 この下は本門脱益の三段、また五と為す。一には正しく三段を明かし、二には能説の教主、三には所説の法体、四には迹本の勝劣、五には化導の始終なり。初めの正しく三段を明かす中に「寿量品と前後の二半」とは、これ天台の配立の如く略広開顕の「一品二半」なり。下の「一品二半」に岡じからざるなり。次に能説の教主は、即ちこれ久遠実成の仏にして始成正覚の釈尊に非ざるなり。
 「所説の法門も亦天地の如し十界久遠の上に国土世間既に顕われ一念三千殆んど竹膜を隔つ」とは、これ三に所説の法体を明かすなり。この所説の法体を明かすに、また二と為す。初めに直ちに迹門に対して以て本門を明かし、次に重ねて文底に望みて還って本迹を判ずるなり。
 初めに直ちに迹門に対して以て本門を明かすとは、謂く、彼の迹門の所説は本無今有の百界千如なり。この本門の所説は本有常住の三千世間なり。急所説の法門また天地の如くに非ずや。次に「十界久遠」の下は、重ねて文底に望んで還って本迹を判ずるなり。将にこの文を消せんとするに、初めに異解を破し、次に正義を明かす。
 一には本迹抄に云く「国土世間と十如是と、只開合の異なり。故に竹膜を隔つと云うなり」。
 二には決疑抄に云く「九界の一念三千と仏界の一念三千と、但竹膜を隔つるなり」。
 三にはまた云く「能居の十界も所居の国土も既に一念に具す。故に但竹膜を隔つるなり」。
 四には幽微録に云く「迦化の内証自行の辺と宗門の自行化他の口唱と、但竹膜を隔つるなり」。
 五にはまた云く「始成の仏を指すと久成仏久成の十界を説くとは、殆ど竹膜を隔つるなり」。
 六にはまた云く「在世の機情の近成を執する迷と仏意の悟と、殆ど竹膜を隔つるなり」。
 七にはまた云く「十界久遠の大曼荼羅と一念三千と、殆ど竹膜を隔つるなり」。
 八にはまた云く「法相に約する時は本有の三千なり。行者に約する時は一念三千なり。既に少分の異の故に竹膜を隔つと云うなり」。
 九にはまた云く「『殆ど隔つ』の上に開悟の二字を添入して見るべし。例せば証を取ること掌を反すが如し」と云云。
 十には日朝抄に云く「迹門の理円と本門の事円と、事理の心地只竹膜を隔つるなり」。
 十一にはまた云く「本門の一念三千既に顕れ已れば、白己の一念三千と只竹膜を隔つるなり」。
 十二には亨抄に云く「迹門には未だ国土世間を説かず、本門には之を説く。此の不同の相、殆ど竹膜を隔つるなり」。
 十三には安心録に云く「一念三千は凡聖同体なり、迷悟の之を隔つること猶竹膜の如きなり」。
 十四には蒙抄に云く「寿量品の囲果国の説相と一念三千の本尊と、只竹膜を隔つるなり」。
 十五には忠抄に云く「十界久遠の上に国土世間既に顕れたると一念三千の法門と、只竹膜を隔つるなり」。
 十六には辰抄に云く「一念三千の始めの相違は竹膜の如し。後の相違は天地の如し。謂く、迹門の妙法蓮華経を一念三千と名づくると、本門の妙法蓮華経を一念三千と名づくると、殆ど竹膜を隔つるなり。若し種熟の流通に約して本化・迹化の三千の不同を論ずれば天地水火の如きなり」と云云。
 十七には日我抄に云く「『一念三千殆ど竹膜を隔つ』とは久成と始成と、事の一念三千と理の一念三千となり。『雖近而不見』の類なり。近き処の事の一念三千を知らざるを竹膜を隔つと云うなり」略抄。
 今謂く、諸説皆これ人情なり、何ぞ聖旨に関らん云云。若し破決の義は、その義遂に成立せざるが故に今これを略す。
 次に正義を明かすとは、謂く、今所説の法体を明かすにまた二意あり。
 一には前に已に弁ぜしが如く、直ちに迦門に対して以て本門を明かす。所謂彼は本無今有の百界千如、此れは本有常住の一念三千なり。故に「所説の法門も亦天地の如し」というなり。二には重ねて文底に望みて還って本迹を判ず。謂く、本迹の不同は実に天地の如しと雖も、若し文底独一の本門・真の事の一念三千に望み、還って彼の迹本二門の一念三千を見れば殆ど竹膜を隔つるとなり。譬えば直ちに一尺を以て一文に望む則は長短殊なりと雖も、若し十丈に望みて還って彼の一尺・一文を見れば、則ち但これ少分の異と成るが如し。また二万億仏の時節は久しと雖も、若し大通に望めば殆ど昨日と為るが如し。また三千塵点は遥かと雖も、若し五百塵点に望めば猶信宿と成るが如し。玄文第六、記の第一等、これを思い合すべし。妙楽の所謂「凡そ諸の法相は所対不同」と、宗祖の所謂「所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり」とはこれなり。
 また文底の大事に望む則は、迹本事理の三千にして尚同じく理の一念三千と名づく。故に血脈抄に云く「一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千」と云云。また云く「迹門を理具の一念三千と云う脱益の法華は本迹共に迹なり、本門を事行の一念三千と云う下種の法華は独一の本門なり」等云云。譬えば一尺と一丈とは長短殊なりと雖も、若し十丈に望む則は同じく短と名づくるが如し。若し反例せば、妙楽の「第一義は理なりと雖も、観に望めば事に属す」というが如し。本門は事なりと雖も、文底に望めば理の一念三千に属するなり。故に文底に望めば、迹本事理の三千を尚同じく迹門の理の一念三千と名づく。況や今「竹膜を隔つ」といえるをや。何の疑滞あらんや。
 問う、若し爾らば、本迹一致といわんも応に妨げなかるべけんや。
 答う、この問、恐らくは非なり。凡そ本迹の不同は実に天地の如し。但文底下種の独一の本門・真の事の一念三千に望む、故に竹膜を隔つというなり。竹膜を隔つというと雖も、彼の天地の不同忽ちに促して竹膜と成るには非ざるなり。彼の二万億仏の如き、若為ぞ忽ちに促して始めて昨日と為さん。但三千塵点の久々に望むるが故なり。また三千塵点の如き、如何ぞ忽ちに促して猶信宿と成らん。但五百塵点の遠々に望むるが故なり。故に縦い文底に望むと雖も、尚本迹一致というべからず。況やまた彼の輩、文底の大事を知らざるをや。何ぞ本迹一致というを得べけんや。国王に望む則は同じく臣と称すと雖も、豈官階に高下なきを得んや。故に国王に望むと雖も、尚群臣一致というべからず。何に況や国王を知らざる者に於てをや。
 文に「又迹門並びに前四味」等というは、この下は四に本迹の勝劣を明かすなり。文の意に謂く、後の文底に望むれば迹本二門の事理の三千は只竹膜を隔つれども、迹門・前四味・無量義・涅槃経等の三説に望むれば、本門は三説の外の難信難解の随自意となり云云。
 五には化導の始終の文なきは略せるなり。「三種一例」の相伝、これを思え。これを略する所以は、迹を以て本に例する故に、後を以て前に例する故に。謂く、後の文に云く「久遠を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為す。本門に至って等妙に登らしむるを脱と為す」等云云。
 問う、若し爾らば具に化導の始終を明かすに、何ぞ本門脱益の三段と名づくるや。
 答う、本門の言は迹門に対し、脱益の言は文底下種に対す。謂く、迹門に対する時は化導の始終を明かすと雖も、若し文底に望むる時は但脱益と名づくるなり。故に下の文に云く「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字」等云云。当に知るべし、今家所立の第二の教相の種熟脱は、若し今家所立の第三の教相に望むれば、但脱益と名づくるのみ。
一、又本門に於て序正流通有り等文。(二四九㌻)この下の二十一行は、正しく文底下種の三段を明かす、また五と為す。一には正しく三段を明かし、二には能説の教主、三には所説の法体、四には種脱の勝劣、五には化導の始終なり。初めの正しく三段を明かすにまた二と為す。初めに序、正を明かし、次に「迹門十四品の正宗の八品」の下は流通を明かすなり。初めの序・正を明かすにまた二と為す。初めに正しく明かし、次に「一品二半より」の下は序分の非を以て正宗の是を顕すなり。
 問う、何ぞ文底下種の三段と名づくるや。
 答う、これに多意あり。今略してこれを示さん。
 一には五段の教相に准ずる故に。謂く、開目抄と当抄とは、或は教相・観心為り、或は一巻の始終と為る故に、その大旨往いて差うべからず。然るに開目抄に五段の教相あり。所謂内外相対、権実相対、権迹相対、迹本相対、種脱相対なり。然るに当抄の五種の三段、全く彼の抄に同じ。故に第五の三段は種脱相対、正しくこれ文底下種の三段なり。
 二には三重秘伝に准ずる故に。謂く、今一往総の三段は且く置いてこれを論ぜず。再往別の三段に就いて以てこれを論ずるに、第一の迹門熟益の三段は爾前当分・迹門跨節、権実相対、今家所立の第一の教相なり。第二の本門脱益の三段は迹門当分・本門跨節、本迹相対、今家所立の第二の教相なり。今この下の三段は正しく脱益当分・下種跨節、種脱相対、今家所立の第三の教相に当るなり。故に知んぬ、正しくこれ文段下種の三段なることを。
 三には本門の両意に准ずる故に。謂く、諸抄の意、本門にまた二意あり。一には在世の衆生の為、二には滅後末法の為なり云云。然るに第四の本門の三段は正しく在世脱益の為なり。故に知んぬ、この下の三段は応にこれ末法下種の為の文底の三段なるべきことを。
 四には問の中の意に准ずる故に。謂く、前の問の中に既に「前代未聞」という。故に知んぬ、正像未弘の大法なることを。豈文底下種の三段に非ざるを得べけんや。
 五には序分の広大に准ずるが故に。謂く「尺の池には文の浪たたず驢・吟ずるに風・鳴らず」と。正宗若し深遠に非ずんば、序分豈広大なるべけんや。天台の所謂「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、華の盛んなるを見て池の深きを知る」等云云。宗祖云く「法華経序品の六瑞は一代超過の大瑞なり、涌出品は又此には似るべくもなき大瑞なり」等云云。序・正若し爾らば、流通豈狭少なるべけんや。故に知んぬ、前代未聞の文底下種の三段なることを云云。
 問う、慕抄の意は、但この下を以て序・正の勝劣を判ずと名づけ、正しく第五の三段を没す。この義は如何。
 答う、前の四種の三段は、第五の三段を明かさんが為の弄引なり。若し第五の三段を明かさずんば、譬えば花咲いて菓なく、雷鳴って雨なきが如し。若しこの段の中に文底下種の三段を明かさずんば、天に日月なく、国に大王なく、山河に珠なく、人に神のなからんが如し。日講已に宗祖弘通の骨目を失す。若し逆路伽耶陀に非ずんば、定めてこれ天魔波旬ならんか。
 問う、辰抄の意は、但この下を広序の三段と名づく。この義は如何。
 答う、若し爾らば、第四の外に更に第五の三段を立てて何の詮あらんや。若し広序を以てその規模と為さば、応にこれ一代三段は勝れ、迹門三段は劣り、迹門三段は勝れ、本門三段は劣るべし。既に本門の序は狭く、迹門の序は広し。また迹門の序は狭く、一代の序は広き故なり。況やまた序分のみ常に異にして正宗若し常に異ならずんば、豈雨猛くして竜小さく、華盛んにして池浅きに非ずや。況やまた流通の文義倶に闕けて、未だその可なることを知らざるをや。
 問う、忠抄の意は、この下を以て法界の三段と名づく。この義は如何。
 答う、法界というと雖も、未だ文底下種の深広を暁らず。故に全分の法界に非ず。況や法界の名目遂に汎爾と成るをや。
一、過去大通仏の法華経より等文。(二四九㌻)
往古の諸師一同に、直ちに大通仏の所説の法華経に約す。この義、恐らくはこれ穏やかならず。今謂く、只これ大通十六王子の覆講の法華経なり。而して文には略して「大通仏の法華経」という。例せば常に「大通下種」というが如し。これはこれ迹門常途の所談なり。何ぞ敢て寿量品の有無を論ずべけんや。若し大通所説の法華経は、十方三世の諸仏の微塵の経々の中にもあるべし。何ぞ別してこれを挙げんや。当に知るべし、今序分の大旨は迹門所談の化導の始終の経々を以て、通じて文底下種の序分に属するなり。謂く、大通十六王子の覆講の法華経は結縁の始めの経なり。現在の華厳等は毒発等の得脱の終り、当機衆の熟益の経々なり。迹門十四品は当機衆の得脱の終り、結縁衆の発心の始めの経なり。涅槃経等は即ち結縁衆の得脱の終りの経々なり。十方三世の諸仏もまたまた是くの如く、彼の諸仏の迹門の所談の化導の始終の徴塵の経々を以て、同じく文底下種の序分に属するなり。「是れ我が方便、諸仏も亦然なり」とはこれなり。
 問う、彼の諸仏の徴塵の経々は応にこれ彼の文底の序分なるべし。何ぞこの文底の序分と成らんや。
 答う、若し文底の意は東方の善徳仏、中央の大日如来、十方の諸仏、三世の諸仏、皆これ久遠元初の自受用身の垂迹なり。天台の所謂「一月万影」はこれなり。故に彼の十方三世の微塵の経々は、皆この文底下種の序分と為るなり。玄文第七に「三世乃ち殊なれども毘盧遮那一本異らず。百千枝葉同じく一根に趣くが如し」等云云。当に知るべし、今「毘慮遮那」とは、即ちこれ久遠元初の自受用身なり云云。
 文に云く「皆寿量の序分なり」とは、
 問う、今の文勢に准ずるに、応に「皆一品二半の序分なり」というべし。何ぞ但「皆寿量の序分」というや。
 答う、「一品二半」をまた「寿量品」と名づくるなり。若しこの義を知らんと欲せば、先ず須く正宗一品二半の名同義異を了すべし。謂く、一品二半の名は同じと雖も、而もその義に於て多くの不同あり。
 一には配立の不同。初めに天台の配立は、涌出品の略開近顕遠及び動執生疑の半品、寿量品、分別功徳品の半品、これを一品二半と為すなり。次に蓮祖の配立は、前の涌出品の略開近顕遠の三十余行の一段の経文を除いて、但動執生疑の半品、寿量品、分別功徳品の半品を取って、これを一品二半と名づくるなり。
 二には種脱の不同。謂く、天台の配立は在世脱益の為なり。若し蓮祖の配立は末法下種の為なり。
 三には異名不同。謂く、天台の配立をば「略広開顕の一品二半」と名づく。蓮祖の配立をば「広開近顕遠の一品二半」と名づけ、また「広開近顕遠の寿量品」と名づくるなり。また天台の配立をば「在世の本門」と名づく。蓮祖の配立をば「末法の本門」と名づけ、また「我が内証の寿量品」と名づけ、また「文底下種の本因妙」と名づくるなり。当に知るべし、蓮祖配立の末法の本門の広開近顕遠の一品二半をば、既に「広開近顕遠の寿量品」と名づけ、また「我が内証の寿量品」と名づくるが故に、今但「皆寿量」等というなり。
 問う、その証如何。
 答う、天台の配立は常の如く知るべし。蓮祖の配立は取要抄に云く「本門に於て二の心有り一には涌出品の略開近顕遠は前四味並に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり、二には涌出品の動執生疑より一半並びに寿量品・分別功徳品の半品已上一品二半を広開近顕遠と名く一向に滅後の為なり乃至問うて日く誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや、答えて日く乃至末法今時の日蓮等が為なり」。
 下の文に云く「在世の本門と末法の始は一同に純円なり」と云云。また云く「所詮迹化他方の大菩藩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず」等云云。血脈抄に云く「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり」等云云。此等の文分明なり。当に知るべし、天台配立の略広開顕の一品二半は、即ちこれ第四の三段、本門脱益の正宗なり。若し蓮祖配立の広開近顕遠の寿量の一品二半は、即ちこれ第五の三段、文底下種の正宗なり。
 問う、蓮祖何ぞ天台に違して略開の一段を除き、但動執生疑の半品を取るや。
 答う、これに深意あり。謂く、寿量品に両辺あり。文上は在世脱益の為、文底は末法下種の為なり。然るに蓮祖、弥勒の疑請の文意に准じて、文上の辺を以て退いて涌出品の略開近顕遠に属し、即ち在世脱益の為とするなり。既に文上の辺を退いて略開に属し、在世脱益の為とす。故に寿量品は一向に滅後末法の為と成るなり。これ則ち弥勒の疑請の文意に依る。故に天台・蓮祖、各一義に拠るなり。
 問う、日汁門流が一品二半の南無妙法蓮華経と勧むるは、これ何れの一品二半と為んや。
 答う、彼の門流、未だ曽て文底の大事を知らず、故に但第四の三段、在世の本門略広開顕の脱益の一品二半なるのみ。
一、一品二半よりの外等文。(二四九㌻)
 文の意に謂く、我が内証の寿量の一品二半の外は小邪未覆なり等云云。
 問う、若し爾らば、文上の寿量品並びに前後の十三品は皆これ「小邪未覆」なりや。
 答う、これ然るべからず。今はこれ序・正相対なり。序の中には既に本門なし。何ぞ「小邪未覆」といわんや。
 問う、迹門十四品は、或は序分と為し、或は流通と為す。今迹を以て本に例するに、文上の本門もまたまた爾るべし。何ぞ序分の中にこれを除くや。
 答う、或は所問の如し。文上の本門もまた序分に属すべし。序分に属すと雖も、これ小邪未覆に非ず。これ則ち「在世の本門と末法の始は一同に純円」なるが故なり。この故に且くこれを除く。例せば施権の中に華厳の別教を除くが如く、誠諦の下の随他の中に迹門の円を除くが如し。然りと雖も、通じて前四味三教を権と為し、及び権実倶にこれ随他意と釈するが如く、究めて而してこれを論ずるに、文上の本門はまた序分に属すべきなり。而して文にこれを除くは、これ小邪未覆に非ざる故なり。具に下に論ずるが如し。
 問う、古来の諸師は本門流通の十一品半を以て並びに小邪未覆に属す、この義は如何。
 答う、これはこれ増滅両謗をもって妙判を加誣す。謂く、文底の正宗を闕くはこれ滅の謗なり。流通の諸品を小邪未覆に属するはこれ増の謗なり。妙楽云く「本門遠ざかり已って更に遠からざる無し」
等云云。何ぞ流通の諸品を以て小邪未覆に属すべけんや。
 この下は序分の非を以て正宗の是を顕すにまた二と為す。初めに在世に約し、以て「爾前迹門」の下は滅後に約す。初文また二と為す。初めに法、次に「其の機を論ずれば」の下は人。
 文に「小邪未覆」というは、今謂く、我が内証の寿量の一品二半の外の序分の経々には、久遠元初の種子の法体を明かさざる故に小邪未覆というなり。若し別してこれを論ぜば、久遠元初の大久の仏道を明かさざる故に「小乗教」というなり。久遠元初の種家の因果を明かさざる故に「邪見教」というなり。久遠元初の無上の種子を明かさざる故に「未得道教」というなり。久遠元初の真秘を明かさざる故に「覆蔵教」というなり。
 文に「其の機を論ずれば」等とは、本種を退忘する故に「徳薄」というなり。漸々に迹に執する故に「垢重」というなり。本を退いて迹を取るは、体を忘れて影に執するが如し。その癡宛も小児の如きが故に「幼稚」というなり。久遠元初の主君を知らざる故に「貧窮」といい、久遠元初の父母を知らざる故に「孤露」というなり。久遠元初の師恩を知らざる故に「禽獣に同ず」というなり。
 問う、序分の非を以て正宗の是を顕す意は如何。
 答う、若しその法を論ずれば、我が内証の寿量品には久遠元初の大久の仏道を明かす、故に大乗教なり。久遠元初の種家の因果を明かす、故に正見の教なり。久遠元初の無上の種子を明かす、故に得道の教なり。久遠元初の真秘を明かす、故に顕露の教なり。若しその人を論ずれば、法華本門の直機にして文底下種の主師親・久遠元初の自受用身の寵臣なり、愛子なり、入室の弟子なり。古来の諸師この義に同ぜず。学者宜しく能くこれを思うべし。
 文に云く「爾前迹門の円教尚仏因に非ず」等とは、この下は滅後に約するなり。
 問う、今大旨に准ずるに、但在世に約して応にその義を明かすべし。何ぞまた滅後に約してこれを釈するや。
 答う、これに所以あり。謂く、この第五の中の正宗は正しく末法の蓮祖の為なるが故に「末法の本門」と名づくるなり。またその序分の経々は正像流布の宗々の依経なり。故に滅後に約して、序分の非を以て正宗の是を顕すなり。
 問う、正像流布の宗々、何ぞ末法弘通の序分と成らんや。
 答う、宗祖の妙判に分明の故なり。下山抄に云く「迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、これは又地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」と云云。撰時抄の下に云く「法然選択を作る。本朝一同に念仏者なり。権大乗の題目の流布するは実大乗の題目の広宣流布せんずる序に非ずや」(取意)等云云。
 この下の文、分ちてまた二と為す。初めに台宗の依経の非を挙げ、次に「何に況や」の下は七宗の依経の非を明かす。初めの文に云く「爾前迹門の円教」等とは、即ちこれ台宗の依経なり。故に守護章上中二十九に云く「今山家所伝の円教宗の依経は正に法華及び無量義に依り、傍に大涅槃乃至諸大乗所説の円教等に依るなり」と云云。文に云く「況や阿含大日経等の諸小乗経」等とは、啓蒙に云く「『阿含』の二字は衍文なり。古本皆『況や大日経』というなり」と云云。故に大日経とは即ちこれ慈覚・智証の依経なり。故に文意に謂く、天台仏立宗の所依の爾前・迹門の円教は、久遠元初の仏種を明かさざれば尚仏因に非ず。況や慈覚・智証等の所依の大日経等の小乗教をやと云云。
 問う、何ぞ天台・伝教の弘通を以て序分の非に属すべけんや。
 答う、これに二意あり。一には謂く、彼の師は像法適時の弘通なり。何ぞ非分に属せん。唯彼の依経の爾前・迹門の円教は、仍序分の非に属するなり。彼彼の経々に久遠元初の仏種を明かさざる故なり。二には謂く、彼の師の依経は像法熟益の法にして、末法下種の法に非ず。然るに彼の末弟、時機を知らず、今末法に於て仍これを弘通す。故に縦い彼の師の如く法の侭に弘通すと雖も、今末法に至っては去年の暦の如し。何に況や慈覚已来大謗法に同ずるをや。故に序分の非に属するなり。
 文に云く「何に況や華厳」等とは、文の意に謂く、天台仏立宗の依経すら仍仏因に非ず。何に況や論師・人師の所立の宗々の依経をやと。この下の文、分ちて二と為す。初めに「況や」は標文を出す。次に「与えて之を論ずれば」の下は釈、また二と為す。初めに法に約し、次に「譬えば」の下は人に約す。初めの文意に謂く、彼の論師・人師の宗々の依経は、与えてこれを論ずれば前三教を出でず。奪ってこれを論ずれば蔵通に同じ。その故は、設い華厳・真言等の経々に一生初地の即身成仏を明かし、法は甚深なりと称すと雖も、未だ種熟脱を論ぜざれば還って二乗の灰断に同ず、故に蔵通に同ずるなりと云云。
 次の文意に謂く、彼の七宗の論師・人師の尊貴なること、譬えば王女の如し。蔵通の下劣の経々を受持するは畜種を懐妊するが如し。故にその下賎なること、尚殺者・屠者にも劣るなりと。
 文に云く「此等は且く之を閣く」とは、彼の宗々の非分に就いて種々の義ありと雖も、此等は且く之を閣くとなり。古来の諸師の義は未だ大当ならざるか。また正宗の是なるを顕すこと、前に反するを知るべし云云。

 第九段 文底下種三段の流通を明かす

 (第九段 文底下種三段の流通を明かす)

一、迹門十四品の正宗の八品等文。(二四九㌻)
 この下は次に迹本二門通じて文底の流通に属することを明かすなり。
 問う、迹本に各序・正あり。何ぞ流通に属せんや。
 答う、文上の章段は実に所問の如し。今は文底下種の正宗に望む、故に文上の三段を通じて流通に属するなり。凡そ流通とは、在世正宗の法水を滅後末代に流通する故に流通という。然るに今の文は「迹本並びに再往滅後末法の為」という。豈流通に属するに非ずや。故に御義口伝下二十五に云く「惣じては流通とは未来当今の為なり、法華経一部は一往は在世の為なり再往は末法当今の為なり、其の故は妙法蓮華経の五字は三世の諸仏共に許して未来滅後の者の為なり、品品の法門は題目の用なり体の妙法・末法の用たらば何ぞ用の品品別ならむや」等云云。
 問う、迹本同じく流通に属せば、本迹一致妨げなきや。
 答う、同じく流通に属すれども勝劣分明なり。故に宗祖云く「今時は正には本門、傍には迹門」と云云。また云く「正には寿量品、傍には方便品」(取意)等云云。三時相望の傍正、迹本相望の傍正、これを混乱すべからず。
 この下の文、分ちてまた二と為す。初めに迹門、次に本門なり。初文の意は、即ち血脈抄に云く「前十四品悉く流通分の本迹。如来の内証は序品より滅後正像末の為なり」等云云。
 問う、迹門十四品已に序分に属す、何ぞまた流通と為さんや。
 答う、凡そ迹門に於てまた二意あり。一には迹門当分。これ則ち本無今有の法なり。「不識天月・但観池月」とはこれなり。二には本家の迹門。これ則ち本有常住の迹門なり。「従本垂迹・如月現水」とはこれなり。前には迹門当分の辺を以て序分に属す、故に小邪未覆というなり。今は本家の迹門を以て流通に属す、故に末法を正と為すというなり。
 問う、本家の迹門、本有常住ならば、何の勝劣あらんや。
 答う、本有の本迹の勝劣は宛然なり。故に十法界抄に云く「天月水月本有の法と成りて本迹倶に三世常住と顕るるなり」等云云。例せば体内の権は、体内の実に及ばざるが如きなり。
 初めの迹門の文、分ちてまた三と為す。初めに正釈、次に引証、三に結。初めの正釈、また二と為す。初め一往在世の正宗を示し、次に再往滅後の流通を明かす。初めの文にまた傍正あり。所謂順次にこれを見れば二乗を正と為し、菩薩、凡夫を傍と為す。謂く、菩薩・凡夫は成じ易き故に傍なり。若し二乗の人は成じ難き故に正なり。また同じき大通下種の中もに、菩薩の人は法華已前に或は種子を顕し、凡夫の人は法華已後に或は種子を顕す。故にこれ仏の本意に非ず、故に名づけて傍と為す。但二乗の人のみ、法華に来至して種子を顕示す。これ仏の本意なり。故に正と為すなり。
 問う、取要抄に云く「第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり」と云云。豈相違するに非ずや。
 答う、今得脱に約する故に傍正という。彼は経文の次第に約する故に第一・第二等というなり。謂く、経に云く「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除く。千二百羅漢悉く亦当に作仏すべし」と云云。次に歓喜段の文に云く「我等亦是くの如く必ず当に仏と作ることを得べし」と云云。
 次に再往滅後流通を明かす、文にまた通別あり。所謂逆次にこれを見れば、通じては正像末を正と為し、別しては末法を以て正が中の正と為すなり。次の引証の文は即ちこの意なり。次に引証の文に「而も此の経は」「法をして久住せしむ」というは、当に知るべし、「此経」の二字、「法」の一字、正しく正宗八品を指すなり。文意は既に如来の在世を挙げて、漸々に次第してこれを況す。故に況や正法をや、況や像法をや、況や末法をや等云云。また仏の本意は、法をして正像末法の外に住せしめんとなり。故に「況滅度後」「令法久住」の文は、通じては滅後を正と為し、別しては末法を正と為す意なり。既に末法を以て正中の正と為す、故に末法下種の流通段に属するなり。
一、本門を以て之を論ずれば等文。(二四九㌻)
 この下は次に本門なり。血脈抄種二十一に云く「後十四品皆流通の本迹。本果妙の釈尊・本因妙の上行菩薩を召し出す事は一向に滅後末法利益の為なり、然る間・日蓮修行の時は後の十四品皆滅後の流通分なり」等云云。
 本門また二と為す。初めに正釈、次に引証。初めの正釈、また三と為す。初めに標、次に「所謂」の下は釈、三に「在世の本門」の下云云。初めの標の文に「一向」等というは、若し迹門は通じて滅後の為、別して末法の為なり。本門は爾らず、一向に末法の初めを以て正と為すなり。次に「所謂」の下は釈、また二と為す。初めに一往在世の正宗を示し、次に再往末法の流通を示す。
 初めの文に云く「久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為し、本門に至って等妙に登らしむるを脱と為す」(取意)とは、
 問う、この文は一類に約すと為んや、総じて一切に亘ると為んや。
 答う、正しくこれ一切に亘るなり。その故は本門を以て既に両意と為す。一往在世の為、再往末法の為云云。豈但一類のみを挙げてこれを判ずべけんや。況や迹門の一往既に一切に亘る、本門の一往豈爾らざらんや。故に下の文に「病尽く除癒」の文を引いて云く「久遠下種・大通結縁乃至前四味迹門等の一切の菩薩・二乗・人天等の本門に於て得道する是なり」云云。即ちこの文に同じ。豈一切に亘るに非ずや。
 問う、今日の二乗等はこれ大通下種、迹門得脱の人なり。何ぞ大通・迹門を以て熟益に属すべけんや。故に知んぬ、今文は応に一類に約すべし。故に日澄の決疑抄の意は、この文を以て四節の中の第一節、本種現脱の一類と為すなり。如何。
 答う、二乗等はこれ大通下種、迹門得脱とは、これ天台の第二、今家の第一の教相の意なり。これはこれ一往なり。若し天台の第三、今家の第二の教相の意は、彼の二乗等も実にこれ久遠下種の人なり。故に大通を以て仍熟益に属するなり。また迹門得脱とは、唯これ当分の得脱にして、跨節の得脱に非ず。これ即ち久遠下種を明かさざる故なり。故に迹門を以て仍熟益に属するなり。日澄尚天台の教相を知らず、況や当家の教相を知らんや。況や四節中の第一節は序品得脱の人なり。故に「今日雨華動地」等という。何ぞ本門得脱の人と為んや。澄、尚台家に暗し、況や当家を暁らんや。
 問う、今日の木門に妙覚の益なし、何ぞ「等妙」というや。
 答う、文上の所談は実に所問の如し。若し文底の意は、皆名字妙覚位に至るが故なり。取要抄愚記の如し云云。
 文にいう「再往之を見れば」等とは、この下、次に再往末法流通を明かすなり。「迹門には似ず」とは、若し迹門の意は流通段より立ち還ってこれを見れば末法の為なり。本門は爾らず。始め序分より直ちに末法の為なり。故に「似ず」というなり。仏の本化を召すは、豈末法の為に非ずや。
 文にいう「本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す」等とは、
 問う、今流通段に属する所の本門とは、文底下種の本門と為んや、文上脱益の本門と為んや。若し文底下種の本門といわば、即ちこれ第五の三段の正宗なり。何ぞ流通といわん。若し文上の脱益の本門といわば、即ちこれ在世脱益の為なり。何ぞ末法を詮と為すといわんや。
 答う、文上脱益の本門にまた二意あり。一には脱益当分、二には種家の脱益なり。今は種家の脱益の本門を以て流通段に属するなり。迹門の中に例して応にこの義を了すべし。種本脱迹、これを思い合すべし。血脈抄に云く「下種の仏は天月・脱仏は池月」等云云。当に知るべし、文底下種の本門は天月の如し。即ちこれ第五の三段の正宗なり。文上脱益の本門は池月の如し。若し脱益の当分は「不識天月・但観池月」なり。若し種家の脱益は「従本垂迹・如月現水」なり。学者能く宜しくこれを思うべし。然れは則ち迹本二門通じて流通に属すること、明文白義宛も日月の如し。然るに日忠抄に云く「三世倶に上行付属の辺を流通に属す」と云云。また破決第四に云く「常の如く十一品半を流通段と為す」と云云。並びにこれ文外の推度なり。また日我抄に云く「一品二半の寿量の序・正の時は流通の沙汰之無し。脱益の寿量品は在世正宗にて終るが故なり」等云云。
 また謂く、既に「又本門に於て序正流通有り」という。何ぞ「流通の沙汰之無し」といわんや。標の文既に爾なり、釈の段また然るべし。何ぞ流通を闕かんや。況やまた脱益の寿量は在世の正宗に終ると雖も、内証の寿量は全く末法の為なり。如何ぞ内証の寿量の流通段を明かさざらんや。況や日我の義は流れあって源なきに似たるをや。学者これを思え。
 またまた当に知るべし、文底下種の三段とは、正宗は前の如く久遠元初の唯密の正法を以て正宗と為す。総じて一代五十余年の諸経、十方三世の徴塵の経々並びに八宗の章疏を以て、或は序分に属し、或は流通に属す。謂く、彼の体外の辺は以て序分と為し、彼の体内の辺は以て流通に属するなり。その証は如何。謂く、序分は前の如し。若し流通の意は、宗祖云く「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし」等云云。即ちこの文の意なり。故に知んぬ、今は但迹本二門を用いて流通と為るは仍これ文略なることを。則ち知んぬ、今この三段は三世の諸仏の微塵の経々一塵も余すことなく、十方法界の仏法の露一滴も漏さず、皆咸く文底下種の序・流通なり。此くの如き法相、豈前代未聞に非ずや。古来の学者、未だこの旨を了せざるなり。
一、在世の本門と末法の初は一同に純円なり文。(二四九㌻)
 この下は三に在末の本門の異を判じて流通の正体を示し、観心本尊を結成す。文また二と為す。初めに一往名同、次に「但し」の下は再往体異なり。文に「在世の本門」というは、即ちこれ第四の三段、文上脱益の本門なり。「末法の始」とは即ちこれ第五の三段、文底下種の正宗、末法の本門なり。
 問う、若し爾らば、応に「末法の本門」というべし。何ぞ「末法の始」というや。
 答う、末法の始めは即ちこれ久遠元初なり。豈本門に非ずや。これ久末一同の深旨を顕すなり。文に「一同に純円」というは、これに人法あり。謂く、人に約するときは、在世の本門の教主は久遠実成の仏にして、始成正覚の方便を帯びざる故に純円なり。末法の本門の教主は久遠元初の名宇の凡身にして、色相荘厳の方便を帯びざる故に純円なり。また法に約するときは、在世の本門の所説は十界久遠の三千にして、本無今有の方便を帯びざる故に純円なり。末法の本門の所説は「不渡余行」の妙法にして、熟脱の方便を帯びざる故に締円なり。故に純円名同というなり。
 問う、何ぞこの下を一往と為し、「但し」の下を再往と為すや。
 答う、体異を明かさんが為に、且く名同を示す故なり。例せば天台・妙楽の解釈の如し。玄文第二に今昔二円の同異を明かして云く「此の妙、彼の妙、妙の義殊なる無し。但方便を帯するか方便を帯せざるかを以て異と為すのみ」等云云。疏記の第三に法華・無量義の同異を示して云く「彼は出水の如し、此れは開敷の若し。所以に仍ち名づけて蓮、故に花と為す。但未開・当開の別あるのみ」等云云。又云く「権実名同、義意不同」と。また云く「一家の釈義、名通義別」と。若し此等の文意を暁らば、即ち当文の意を知らん。また略要集、これを思い合すべし。
 文に「彼は脱此れは種」等というは、この下は次に再往体異、また二と為す。初めに能説の教主、次に所説の法体なり。熟脱の文の中に既に五段あり。当文には略すと雖も、その義を闕くに非ず。故に能説の教主に勝劣の義を含み、所説の法体にもまた化導の始終を含むなり云云。然るに辰抄等の意に「本同益異」と云云。これ大謗法の濫觴、種脱混乱の根源なり。
 今この文を釈するに、且く三段と為す。初めに文相を詳らかにし、次に種脱を詳らかにし、三に本尊を詳らかにするなり。初めに文相を詳らかにするとは、この一文にまた三意を含む。所謂文義意これなり。初めに文の重とは、正しく在末の本門の異を判ずるなり。謂く、在世の本門の教主は色相荘厳の脱益の仏なり。故に「彼は脱」というなり。末法の本門の教主は名字凡身の下種の仏なり。故に「此れは種」というなり。また在世の本門の正宗は文上脱益の一品二半なり。故に「彼は一品二半」というなり。末法の本門の正宗は文底下種の妙法なり。故に「此れは但題目の五字」というなり。当に知るべし、「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり」と云云。これを思い合すべし。
 次に義の重とは、これ末法流通の正体を示すなり。謂く、在世の本門、脱仏所説の正宗はこれ在世脱益の為にして、末法下種の法に非ず、故に流通の正体と為さず。末法の本門、下種の仏の所説の正宗は正しく末法下種の為なり、故に末法流通の正体と為す。故に「彼は脱此れは種」等というなり。
 三に意の重とは、観心の本尊を結成するなり。謂く、在世の本門、脱益の人法はこれ教相の本尊にして観心の本尊に非ず、故に末法の本尊と為さず。末法の本門、下種の人法は正しくこれ観心の本尊なり、故に末法下種の本尊と為すなり。故に「彼は脱此れは種」等というなり。学者応に知るべし、略釈の中に「此の本門の肝心」というは、略して熟脱の本尊を簡ぶなり。迹門三段の中に「始成正覚の仏・本無今有の百界千如を説いて」というは、これ熟益の本尊を簡ぶ所以なり。本門三段の中に「一念三千殆ど竹膜を隔つ」というは、これ脱益の本尊を簡ぶ所以なり。今「彼」「此れ」というは、正しく文上脱益、迹門の理の一念三千の教相の本尊を簡んで、文底下種の本門、事の一念三千の観心の本尊を顕すなり。御相伝の文の釈、略して題の下にこれを引くが如し云云。また問答の起尽、これを思い合すべし。豈前代未聞の本尊に非ずや。
 次に種脱を詳らかにすとは、これを三段と為す。初めに略して在末の機縁を明かし、次に能説の教主を明かし、三に所説の法体を明かす。初めの略して在末の機縁を明かすとは、謂く、在世の機縁は皆これ本已有善の衆生なり。故に疏の十に云く「本已有善、釈迦、小を以て而して之を将護す」等云云。籤の十に云く「故に知んぬ、今日の逗会は昔成就の機に趣く」等云云。証真云く「経に云く『是の本因縁を以て今法華経を説く』云云。故に知んぬ、此の経は皆往縁の為なり」等云云。取要抄に云く「仏の在世には一人に於ても無智の者之れ無し」等云云。これ則ち本已有善の故なり。末法の機縁は皆これ本未有善の衆生なり。故に疏の十に云く「本未有善、不軽、大を以て而して之を強毒す」等云云。太田抄に云く「今末法に入つて在世結縁の者は漸漸に衰微し、権実の二機皆悉く尽きぬ。不軽菩薩世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(取意)文。教行証抄、唱法華題目抄等、これを略す。
 次に能説の教主を明かすとは、凡そ熟脱の教主は必ずこれ色相荘厳の尊形なり。故に経に云く「我相を以て身を厳り、光明、世間を照す、無量の衆に尊ばれ、為に実相の印を説く」等云云。文の四に云く「身相炳着、光色端厳、衆の尊ぶ所と為って則ち信受すべし」と云云。弘の六に云く「或は恐らくは度せん者、心に軽慢を生ぜん。謂く、仏の身相具せざれば一心に運を受くる能わず。乃至是の故に相好もて自ら其の身を厳る」等云云。当に知るべし、熟脱の化主は本已有善の衆生を利益す。若しその身を厳らずんば、則ち所化の衆生、心に軽慢を生じ、下種の善根を破するの浅あり。この故にその身を荘厳して、所説をして一心に信受せしむ。宿善を熟脱する故に、熟脱の教主は必ずこれ色相荘厳の形貌なり。
 若し下種の教主、本未有善の衆生を利益する所以は逆縁を面と為る故に、外相を見て心に軽慢を生ずと雖も、更に宿善を破するの損なく而して却って逆縁を結ぶの益あり。故にその身を厳らず。故に下種の教主は唯これ凡身の当体なり。止観第六に云く「和光同塵は結縁の始め、八相成道は以て其の終りを論ず」等云云。然れば則ち種脱の形貌、文義分明なり。本迹の約身約位、これを思うべし。
 問う、今日本門寿量の教主は唯脱益の教主と為んや、またこれ下種の教主なりや。若しまたこれ下種の教主といわば、既に色相荘厳の仏身なり。何ぞこれ下種の教主ならんや。若し但脱益の教主為りといわば、既に在世下種の人あり。謂く、発起等の四衆の中の結縁衆は豈在世下種に非ずや。況や五千起去の類は、既に略開を聞いて即ち下種と為し、涅槃経等に至って即ちこれ得脱す。況やまた前文に云く「在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし」等云云。迹門尚爾なり、況やまた本門をや。故に知んぬ、今日寿量の教主はまたこれ下種の教主なるべきことを。何ぞ但脱益の教主といわんや。
 答う、今日寿量の教主は但これ在世脱益の教主にして、これ末法下種の教主に非ざるなり。在世の下種とは唯これ発心下種にして、これ聞法下種には非ざるなり。当に知るべし、下種に即ち二義あり。所謂聞法と発心となり。妙楽のいう「聞法を種と為し、発心を芽と為す」とはこれなり。これに三重の秘伝あり。また各通局あるなり。謂く、一には権実相対。証真、玄の私記第一に云く「最初聞法は必ず是れ円教、若し発心を論ぜば大小定まらず」等云云。文の意は、最初の聞法下種は必ずこれ法華の円教なりと云云。妙楽のいう「余経を以て種と為さず」とはこれなり。即ちこれ今家所立の第一の教相なり。二には本迹相対。謂く、最初聞法、必ずこれ本門なり。若し発心を論ぜば権迹不定なり云云。即ちこれ今家所立の第二の教相なり。三には種脱相対。謂く、最初聞法は必ずこれ文底なり。若し発心を論ぜば迹本不定なり。即ちこれ今家所立の第三の教相なり。
 問う、最初聞法は必ずこれ文底の証文如何。
 答う、宗祖云く「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘し沈め給えり」(取意)と。「一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」と。「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五宇を種として仏になり給へり」と。或は「一乗を演説すれども題目の五字を以て下種と為す可きの由来を知らざるか」等云云。
 問う、若し発心を論ぜば迹本不定の証文如何。
 答う、玄文第一に云く「並びに脱、並びに熟、並びに種、番々息まず」等云云。妙楽云く「時時、世世、念念、皆種等の三相有る故なり」と云云。疏の第一、記の第一に云云。既にこれ世々番々、時々念念に種熟脱あり。豈迹本不定に非ずや。当に知るべし、在世は皆これ本已有善の衆生なり。何ぞ更めて最初聞法を論ずべけんや。故に知んぬ、唯これ発心下種なることを。若し迹門の発心下種は、即ちこれ熟益の摂属なり。若し本門の下種は、即ちこれ脱益の摂属なり。故に今日寿量の教主は、但これ在世の本門の脱益の化主にして、末法の本門下種の教主に非ず。故に「彼は脱此れは種」と判ずるなり。然るに有る師、下種の両義を知らず、両義の通局を知らず、三重の秘伝を知らず、但在世下種の文を見て彼の脱益の教主に執し、即ち末法下種の本尊と為す。自ら謬り、他を謬る。悲しいかな、悲しいかな。
 三に所説の法体を明かすとは、
 問う、種脱の法体は応にこれ一体なるべし。その故は在世脱益はこれ化導の終り、譬えば去年の秋の如し。末法下種はこれ化導の始め、譬えば今年の春の如し。然るに去年の秋の葉を以て即ち今年の春の種と為す。故に菓即種なり。葉と種とこれ別体なるに非ず。唯去年の秋に在るを以て即ち名づけて菓と為し、今年の春に在るを以てこれを名づけて種と為す。その名は殊なりと雖も、その体は全く同じ。故に在世化導の終りの脱益の一品二半の法体を以て、即ち末法化導の始めの下種の法体と為すべし。何ぞ種脱の法体異るべけんや。
 答う、この義は爾らず。今若し譬を仮れば、且く田家の如き、槽を脱するを米といい、脱せざるを籾と名づく。米は以て命を養い、籾は即ち種と成る。米は文上脱益の一品二半の如く、籾は文底下種の題目の五字の如し。仏は米を以て在世の衆生に与えて法身の慧命を養わしめ、籾を以て本化の菩薩に付嘱して末法今時の種子と為す。故に「彼は一品二半此れは但題目の五字」というなり。若し粳米を以て即ち種子と為さば、豈菓を得べけんや。余穀も例して爾なり。また瓜等の如き、仏の実は種子と成らず、瓜の核能く種子と成る。瓜の実は文上脱益の一品二半の如く、瓜の核は文底下種の題目の五字の如し。瓜の実は能く熱を除き、喉を潤す。故に仏は一品二半の瓜の実を以て在世の衆生に与え、無明の熱を除き法性の喉を潤す。瓜の核は種と成り、能く菓を生ず。故に仏は妙法五字の瓜の核を以て本化の菩薩に付嘱し、末法の衆生の信心の畑に下す。故に「彼は一品二半此れは但題目の五字」というなり。若し瓜の核を以て種子と為さずんば、豈菓を得べけんや。余菓も例して爾なり。
 問う、忠抄に云く「在世の本門と末法の本門と、其の体に二無し。故に『一同に純円』と云う。譬えば菓と種と不同無きが如し。但し地に下すを種と云い、梢に結ぶを菓と云う。此の不同を判ずる時『彼は脱此れは種』と云うなり」と。この義は如何。
 答う、菓は人の喰う所と為り、種子は能く菓を生ず。故に梢に結ぶと雖も、柿の移は菓に非ず。また地に下すと雖も、柿の実は種に非ず。若し体一といわば、何ぞ柿の核を喰わざるや。何ぞ柿の実、菓を生ぜざるや。況やまた大師釈して云く「子能く果を生ず、果能く子を生ず」等云云。当に知るべし、柿の核は柿を生ず、故に「子能く果を生ず」というなり。柿の実は能く柿の核を生ず、故に「果能く子を生ず」というなり。これ則ち柿の実の漸く熟すれば、柿の核も随って生ずるが故なり。若し体一といわば、応に「果即ち子を成す」というべし。何ぞ「果能く子を生ず」といわんや。学者、能く宜しくこれを思うべし。
 問う、忠抄の意は通じて「本同益異」と名づく。既に「一同鈍円」という、故に「本同」なり。「彼は脱此れは種」という、故に「益異」なり云云。この義は如何。
 答う、「本同益異」の一言に具に五箇の迷乱あり。
一には謂く、文上・文底の迷乱、二には謂く、在末・種脱の迷乱、三には謂く、今家の本迹の迷乱、四には謂く、事理の三千の迷乱、五には謂く、教相・観心の迷乱なり。
 当に知るべし、在末本門の体異とは、謂く、在世の本門は文上脱益ヘ迹門の理の一念三千の教相なり。末法の本門は文底下種、本門の事の一念三千の観心なり。且く一文を引かん。血脈抄に云く「一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」と云云。具には題の下に諸文を引くが如し云云。
 三に本尊を詳らかにすとは、
 問う、末法今時「色相荘厳の仏像を造立して本尊と為すべきや。
 答う、然るべからざるなり。将にこの義を明かさんとするに、須く三門に約すべし。
 初めに道理とは、一には彼は脱益の教主なるが故に。謂く、それ釈尊は久遠に下種し、大通に結縁し、その機純熟して仏の出世を感ず。故に本より迹を垂れ、王宮に誕生して樹下に成道し、世情に随順して色相を荘厳し、爾前・迹門を演説して機縁既に熟すれば、次に本門寿量を説いて皆悉く脱せしむ。故に色相荘厳の尊形は在世脱益の教主にして、末法下種の本尊に非ざるなり。
 二には三徳の縁浅きが故に。謂く、在世は本已有善の機類なり。故に色相荘厳の仏に於てその縁最も深きなり。今末法は本未有善の衆生なり。故に色相荘厳の仏に於ては三徳の縁浅し。故に末法今時の我等が本尊に非ざるなり。
 三には人法勝劣なるが故に。宗祖云く「本尊とは勝れたるを用うべし」と云云。天台云く「法は是れ聖の師なり。生養成栄、法に過ぎたるはなし」と云云。妙楽云く「四不同なりと雖も、法を以て本と為す」と云云。故に色相荘厳の仏を以て本尊と為すべからざるなり。
 次に文証を引くとは、経に云く「須く復舎利を安くべからず」等と云云。天台云く「須く更に生身の舎利を安くべからず」等云云。妙楽云く「生身の全砕は釈迦・多宝の如し」と云云。法華三昧に云く「未だ必ずしも須く形像舎利を安くべからず」等云云。本尊問答抄に云く「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給ヘ私の義にはあらず」と云云。門徒存知に云く「五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可し乃至日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」等云云。
 問う、蓮祖の影像を造立して本尊と崇め奉る、その謂は如何。
 答う、初めに逆理を明かす。一にはこれ下種の教主なるが故に。謂く「末法は是れ本未有善の衆生なり。故に不軽、大を以て而して之を強毒するの時なり。日蓮は不軽の跡を紹継す」等云云。二には三徳の縁深きが故に。謂く「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし、明師ぞかし」と云云。三には人法体一なるが故に。伝教云く「一念三千即自受用身」等云云。宗祖云く「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候ヘ」と云云。妙楽云く「本地の自行は唯円と合す」等云云。
 次に文証を引くとは、血脈抄に云く「仏は熟脱の教主・某は下種の法主なり」と云云。また云く「内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」等云云。開目抄の始めに云く「一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」と。終りに云く「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」等云云。また造初めの御影、生御影等、これを思い合すべし。
 問う、下の文に云く「事行の一念三千の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊」等云云。或る人、「本門本尊」の四字を以て、色相荘厳の仏と為す。この義如何。
 答う、これ当抄の大意に迷う故なり。謂く、下の文の意は、南岳・天台は但理具を論じて未だ観心本尊を行ぜざるなり。「事行の南無妙法蓮華経」とは即ち観心なり。「本門本尊」は即ちこれ本尊なり。故に「本門本尊」の四字は、即ち前に明かす所の遺付の本尊の御事なり。何ぞこれ色相荘厳の仏ならんや。
 問う、佐渡抄に云く「天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう乃至今既に時来れり四菩薩出現したまわんか」等云云。この文は如何。
 答う、これはこれ三大秘法の中に、本尊に於て人法に開す。故に「本門の本尊と四菩薩」というなり。「本門の本尊」とは人即法の本尊なり。「四菩薩」とは法即人の本尊なり。故に「今既に時来れり四菩薩出現」等というなり。当に知るべし、「本地自受用報身の垂迹上行の再誕日蓮」なり。或る人、名異体同の相伝を知らざるが故に法を非り人を毀る。愍れむべし、愍れむべし云云。
 問う、三大秘法抄に云く「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」と云云。この文は如何。
 答う、この文の意に謂く、我が内証の寿量品に建立する所の本尊は即ちこれ久遠元初の自受用身、本因妙の教主釈尊これなりという文なり。故に「五百塵点の当初」という。即ち勧文抄の「五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時」等の文と同じきなり。或る人、人法体一の深旨を知らざるが故に謬解少なからず云云。
 問う、報恩抄に云く「日本・乃至一閻浮提、一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」等云云。この文は如何。
 答う、またこれ人法体一の深旨を顕す明文なり。その故は、この文は人に約してこれを標し、法に約してこれを釈する故なり。謂く「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とは、これ人に約してこれを標するなり。「所謂宝塔の内の釈迦多宝」等とは、これ法に約してこれを釈するなり。これ則ち「所謂」已下の釈の文は、全く当抄の十界互具・一念三千の本尊に同じきなり。但文は少しく略すれども、その意は全く同じきなり。当に知るべし、「本門の教主釈尊」とは、即ちこれ久遠元初の自受用身、本因妙の教主釈尊なり。この本因妙の教主釈尊の当体は、全くこれ十界互具・一念三千の妙法五字なるが故に、本尊と為すべしと釈し給う文意なり。豈人法体一の深旨に非ずや。
 問う、若し爾らば本因妙の教主釈尊を本尊と為すべし、何ぞ蓮祖を本尊と為すべけんや。
 答う、本因妙の教主釈尊とはこれ蓮祖聖人の御事なり。故に血脈抄に云く「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」と云云。故に次下に三徳有縁を明かして云く「日蓮が慈悲渡大ならば南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし親徳、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり師徳、無間地獄の道をふさぎぬ主徳、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり」と云云。豈三徳分明に非ずや。故に本尊と崇め奉るなり。
 当に知るべし、「教主釈尊」の名は一代に通ずれども、その体に六種の不同あり。謂く、蔵・通・別・迹・本・文底なり。名同体異の相伝、これを思え。第六の文底の教主釈尊は即ちこれ蓮祖聖人なり。名異体同の口伝、これを思え云云。
 問う、四条金吾抄、日眼女抄、真間供養抄には釈迦造仏を称歎す。この義は如何。
 答う、此に三意あり。謂く、一には一機一縁の為の故なり。謂く、此等の造立は皆一体仏なり。開山釈して云く「一体の形像豈頭陀の応身に非ずや」と云云。例せば大黒を供養したまうが如きなり。
 二には弥陀造仏に対する故なり。謂く、日本国中一同に弥陀を以て本尊と為す。然るにその中に希に釈尊を造立す、猶、曇華の如し。豈称歎せざるべけんや。
 三に内証の観見に約す。謂く、宗祖の観見に約すれば、並びにこれ己心の一念三千即自受用身の仏なるが故なり。彼の抄の前後、往いてこれを見るべし。若し唱法華題目抄は佐渡已前なり。
 問う、宝軽法重抄に云く「一聞浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像を、かきつくれる堂塔いまだ候はず」等云云。この文は如何。
 答う、またこれ人法体一の深旨を顕すなり。謂く、下種の法華経、我が内証の寿量品の釈迦仏の形を文字にこれを書けば、即ち大曼荼羅なり。木画にこれを作れば蓮祖聖人の御形なり。故に「かきつくる」というなり。彼の抄の始めに人軽法重の釈相分明なり。また云く「日蓮が弟子とならむ人人は・やすくしりぬべし」と云云。これを思い合すべし。
 問う、本尊問答抄の意は、但「法華経の題目を以て本尊とすべし」と云云。何ぞ蓮祖の形像を以てまた本尊と為すや。
 答う、「法華経の題目」とは蓮祖聖人の御事なり。蓮祖聖人は即ちこれ法華経の題目なり。諸法実相抄に云く「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」等云云。具には予が末法相応抄の如し云云。
一、問うて日く其の証文如何等文。(二四九㌻)
 この下は次に引証、また二と為す。初めに正しく引証、次に「疑つて云く」の下は本化出現の時節を明かす。初めの正しく証を引く文、また二と為す。初めに問、次に答、また三と為す。初めに本門序分の文を引き、次に本門正宗の文を引き、三に本門流通の文を引く。
 文に「涌出品に云く」等というは、
 問う、正しくこれ本門序分の文なり。何ぞ文底の流通に属せんや。
 答う、血脈抄に云く「本果妙の釈尊・本因妙の上行菩薩を召し出す事は一向に滅後末法利益の為なり、然る間・日蓮修行の時は後の十四品皆滅後の流通分なり」と云云。玄籤の第一に「流通中三変千涌に至る」といえるは、即ちこの意なり。
 初めの本門序分の文、また二と為す。初めに如来不許の文を引き、次に「法師より」の下は釈、また二と為す。初めに前後の相違を標し、次に「天台智者」の下は会釈、また二と為す。初めに前三後三を標し、次に「所詮迹化他方」の下は取意略釈、また二と為す。初めに迹化・他方を止むる所以を明かし、次に「又迹化の大衆」の下は伏疑を釈す。
 初めの文にいう「所詮迹化他方の大菩薩」とは、
 問う、三種の菩薩の立名如何。
 答う、此に二義あり。一には謂く、菩薩所住の処に約す。疏の九に「下方・他方・旧住」というはこれなり。本化の菩薩は下方空中に住するが故に下方という。他方の菩薩はこの娑婆の外の国土に住するが故に他方という。この他方の菩薩に対して文殊等の迹化の菩薩を旧住の菩薩と名づくるなり。
 二に謂く、仏の本迹の教化に約す。疏の十に「迹化・本化・他方」というはこれなり。これ即ち下方の菩薩は仏の本地の教化の菩薩なり。故に本化と名づく。経に「我久遠より来、是等の衆を教化せり」というはこれなり。文殊等の菩薩は、仏の迹中の教化の菩薩なり。故に迹化というなり。若し他方の菩薩は本地の教化にも非ず、迹中の教化にも非ず、唯これ他仏の弟子なり。故に他方というなり。若し此の立名を暁らば、即ち三種の菩薩の親疎を知らん。若し三種の菩薩の親疎を知らば、即ち諸抄の何況を了らんのみ。
 文にいう「我が内証の寿量品」とは、
 問う、寿量品の肝心、妙法五字に同じと為んや、異ると為んや。若し同じといわば、凡そ内証の寿量品とは広開近顕遠の寿量品なり。寿量の肝心、妙法五字とは久遠元初の本因妙なり。何に況や同じからんや。若し異るといわば、血脈抄に云く「我等が内証の寿量品とは、脱益寿量の文底の本困妙の事なり」と。豈同じきに非ずや。
 答う、これ即ち脱益当分の寿量品に同じからず、種家の脱益の寿量品にも同じからず。「我等が内証の寿量品」とは、直爾に久遠元初の本因妙を説き顕す故に、能詮の辺に従って内証の寿量品と名づけ、所詮の辺に従って久遠元初の本因妙と名づくるなり。然るに能詮・所詮に二なく別なし。故に「我が内証の寿量品」とは、即ちこれ脱益の寿量品の文底本因妙の事なり。当に段の文勢義意、全くこれこの意たるべきなり。
 文に「又迹化の大衆」等というは、
 この下は次に伏疑を釈す、また二あり。初めに正釈、次に「天台」の下は引証なり。初めの正釈とは、疑って云く、経文には但他方を止む、何ぞ迹化、他方を止むというや。これを釈する文の意は、迹化の大衆はこれ我が久遠名字の弟子に非ず。これ我が久遠名宇の子に非ざれは、応に我が久遠名字の妙法を弘むべからず。故にまた迹化の大衆は久遠名字の本法所持の人にも非ず、故に応に久遠名字の本法を付すべからず。故に倶にこれを止むるなり。「弟子等」の「等」の字、深くこれを案ずべし云云。
 次に引証の文の中に、輔記の意に謂く、法はこれ久遠実成名字の妙法なり。故に久遠実成名字の妙法所持の人に付するぞとなり。当に知るべし、久遠実成名字の妙法とは、即ちこれ本法なり云云。今本化付嘱の三文を引いて、反って迹化制止の義を顕すなり。
 問う、今天台の前三後三の釈に准ずるに、応に迹化・他方に各前三後三の義あるべきや。
 答う、諸文の意に准ずるに、若し広くこれを釈せば、応にその義あるべきなり。謂く、他方・本化の前三後三とは、
 一には他方は釈尊の直弟に非ざるが故に。義疏第十に云く「他方は釈迦の所化に非ず」等云云。
 二には他方は各任国あるが故に。天台云く「他方は各各自ら任国あり」等云云。
 三には他方は結縁の事浅きが故に。天台云く「他方は此土結縁の事浅し」等云云。
 一には本化は釈尊の直弟なるが故に。天台云く「是れ我が弟子、応に我が法を弘むべし」等云云。
 二には本化は常にこの土に住するが故に。大田抄に云く「地涌千界は娑婆世界に住すること多塵劫なり」(取意)と云云。
 三には本化は結縁の事深きが故に。天台云く「縁深厚なるを以て能く此の土に遍じて益す」等云云。
 次に迹化・本化の前三後三とは、
 一には迹化は釈尊名字即の弟子に非ざるが故に。今文に云く「迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり」と云云。「初発心」とは名字即なり。輔記の第八の如し。
 二には迹化は本法所持の人に非ざるが故に。下の文に云く「文殊・観音等は又爾前・迹門の菩薩なり。本法所持の人に非ざれば」(取意)等云云。
 三には迹化は功を積むことが浅きが故に。新池抄に云く「観音・薬王等は智慧美じく覚り有る人人とは雖も、法華経を学ぶの日浅く、末代の大難忍び難かるべし」(取意)等云云。
 一には本化は釈尊名字即の弟子なるが故に。下の文に云く「我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」等云云。
 二には本化は本法所持の人なるが故に。輔記に云く「法是れ久成の法なるが故に久成の人に付す」と云云。御義上終に云く「此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり」と云云。
 三には本化は功を積むことが深き故に。下山抄に云く「五百塵点劫已来一向に本門寿量の肝心を修行し習い給う上行菩薩」(取意)等云云。若し能く此等の意を暁れば、通じて迹化、他方を止むること理在絶言なり云云。
一、又弥勒菩薩疑請して云く等文。(二五〇㌻)
 この下は次に本門正宗の文を引く、また二あり。初めに動執生疑の文を引き、次に「寿量品」の下は広開近顕遠の文を引くなり。初めの文、また二と為す。初めに正しく引き、次に流通に属する所以を明かすなり。
 文に云く「我等は復た仏の随宜の所説・仏所出の言未だ曽て虚妄ならず、仏の所知は皆悉く通達し給えりと信ずと雖も」と。応に此くの如く点ずべし。証真、日遠倶にこれ謬りなり。何ぞ仏に対して「我等仏の所知は皆悉く通達す」というべけんや云云。次に文の意に謂く、寿量品の法門は滅後の為にこれを請う。故に流通段に属するなりと云云。
一、寿量品に云く等文。(同㌻)
 この下は次に広開近顕遠の文を引く、また二と為す。初めに一往在世の正宗を証し、次に再往末法の流通を証す。初めの文、また二と為す。初めに正しく引き、次に「久遠」の下は釈。即ち前の「一往之を見れば」等の文に同じきなり。
 文に云く「経に云く、余の心を失える者」等とは、この下は次に再往末法の流通を証するなり。「心を失える」というは、これ末法今時の衆生を指すなり。
 問う、「心を失える」というと雖も、仍これ仏子なり。豈結縁なからんや。況や「心を失える」という、豈下種の善根なからんや。若し爾らば、末法今時の衆生を何ぞ本未有善と名づけんや。
 答う、仏子の義を釈する疏に三意あり。所謂正・縁・了なり。而して失心を以て仍仏子と名づくることは、これ縁因の子に非ず。唯これ正因の子なり。また失・不失を釈すろに即ち両解あり。初めに正因に約し、次に縁因に約す。而して失心と名づくることは、これ縁因の失心に非ず。唯これ正因の失心なり。故に仏子というと雖も、失心というと雖も、仍これ本未有善の衆生なり。若し正因に拠らば法界に非ざることなし。何ぞ須く更に已善・未善を論ずべけんや云云。
 この文また二と為す。初めに正しく引き、次に「問うて日く」の下は釈。初めの正しく引くにまた二あり。初めに正しく引き、次に「分別功徳品」の下は「今留」の二字を助成するなり。
 文に「是の好き良葉を今留めて此に在く」というは、「是の好き良薬」とは流通する所の正体を挙げ、「今留めて此に在く」とは正しくこれ流通の義なり。文に「問うて日く此の経」等というは、この下は釈、また二と為す。初めに問、次に答、また二と為す。初めに「遣使還告」を釈し、次に「今の遣」の下は「是好良薬」を釈するなり。初めの文、また二と為す。初めに通じて示し、次に別して釈す、自ら四あり。文の如く見るべし。
 文に「今の遣使還告」等というは、この下、次に「是好良薬」を釈す、また三と為す。初めに付隔の人を示し、次に所嘱の法体を釈し、三に非器の人を簡ぶなり。
 文に云く「是好良薬とは寿量品の肝要乃至是なり」とは、文の意に謂く、今の是好良薬は脱益の寿量品の文底、名体宗用教の南無妙法蓮華経これなりと云云。当に知るべし、「肝要」とは、これ文底の異名なるのみ。
 問う、天台云く「経教を留めて在く。故に是好良薬今留在此と云う」等云云。妙楽云く「聴漸に被ると雖も、本実乗に在り」等云云。今何ぞ文底下種の妙法に約するや。
 答う、経文の意は通じて正像末に亘る。故に天台は総じて一代経に約するなり。若し妙楽は時、像法に在り。故に今経に約するなり。若し蓮祖は時、末法に在り。故に文底下種の妙法に約するなり。法華経は一法なれども、時機に随って同じからず云云。 問う、何ぞ「是好良葉」の文を以て名体宗用等と判じたまうや。
 答う、深く所以あり。謂く「是好良葉」とは、色香美味皆悉く具足す。故に是好良薬というなり。
然るに天台、これを釈して云く「色は是れ般若、香は是れ解脱、味は是れ法身、三徳不縦不横なるを秘密蔵と名づく。教に依って修行して此の蔵に入ることを得」等云云。妙楽云く「体等の三章只是れ三徳」等云云。故に知んぬ、「色」はこれ般若、即ち妙宗なり。「香」はこれ解脱、即ち妙用なり。「法身」は即ち妙体なり。「秘密蔵」は即ちこれ妙名なり。「教に依って修行して」とは即ちこれ妙教なり。故に今の文に「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」という云云。
 またまた当に知るべし、体等の三章は只これ三徳、三身なり。故に久遠元初の自受用の報中論三の無作三身なり。人法体一の深旨、予が取要抄愚記の如し云云。耆婆が薬童、これを思い合すべし。また四五二十重の相伝あり云云。
 問う、啓運抄第一に云く「名体宗用教は序品より起る。故に迹門の五重玄なり。今本門の是好良薬を迹門の名体宗用教と判ず。故に知んぬ、本迹一致なることを」と云云。愚案記第一もこれに同じ。この義は如何。
 答う、序品はこれ名体宗用教の次第なり。これを約行の次第と名づくるなり。神カ品は名用体宗教の次第なり。これを約説の次第と名づくるなり。文は一に随ってこれを説くと雖も、義は実に迹本二門に通ず。故に迹門に約説の次第あり、本門にまた約行の次第あり、何ぞ唯一辺のみに限るべけんや。
 今難じて云く、若し爾らば、迹門の中に永く約説の次第なく、本門にもまた約行の次第なからんや。妙楽云く「迹を以て本に例す」と。また云く「若し迹を借らずんば、何ぞ能く本を識らん」と云云。今迹を以て本に例し、迹を借りて本を識る。豈本門に約行なかるべけんや是一。
 況やまた序並びに迹本を表するをや。故に記三上二十一に云く「近は則ち迹を表し、遠は本に表す」等云云。能表既にこれ約行の次第なり。所表の本門豈爾らざらんや是ニ。
 況やまた迹門の開示悟入は正しくこれ約行の次第なるをや。故に玄一二十五に云く「開示悟入亦行の次第に約す」と云云。然るに顕本の後は即ち本門の開示悟入と成る。故に記八本九に云く「開示悟入は是れ迹要なりと雖も、若し顕本し已れば即ち本要と成る」等云云。何ぞ顕本の後、約行の次第なかるべけんや是三。
 況やまた一部八巻二十八品、通じてこれ五重玄なるをや。故に妙楽云く「品品の内咸く体等を具し、句句の下通じて妙名を結す」等云云。故に五重玄は正しく二十八品に亘れり。故に今、余品の五重玄を簡んで「寿量品の肝要たる名体」等という。何ぞ本迹一致といわんや是四。
 況やまた妙楽の記の第一に云く「本地の総別は諸説に超過し、迹中の三一は功一期に高し」等云云。総は謂く、名玄義、別は即ち体宗用、三は即ち体宗用、一は謂く、名玄義なり。この文に迹本の勝劣分明なり。故に輔記に云く「一は則ち前十四品に超え、二は則ち一代の教門に超ゆ」等云云。台家尚爾なり。況や当流に於てをや是五。
 況やまた常抄に云く「問う、序品、神力品の五重玄如何。答う、木迹二門の題名の勝劣なり。故に記の一に云く『本地の総別は諸説に超過す』と」等云云。縦い日常の速作に非ずと雖も、文義分明なり是六。
 況やまた応に文に依り、義に依り、意に依って宗門の奥義を明かすべきをや。何ぞ少分の法相の次第等に拘って宗門の奥旨を示さんや是七。
一、神カ品に云く、爾の時に千世界等文。(二五一㌻)
 この下は三に本門流通の文を引く、また三と為す。初めに別付嘱の文を引き、次に総付嘱の文を引き、三に●拾遺嘱を示す。初めの別付嘱の文を引くにまた三と為す。初めに本化発誓の文を引き、次に十神力の文を引き、三に正しく結要付嘱の文を引く。初めの本化発誓の文をまた二と為す。初めに正しく経文を引き、次に「天台」の下は釈。
 初めの経文に云く「地より涌出」とは、即ち今の「遣使還告」なり。「仏の滅後に於て」とは、即ちこれ「悪世末法の時」なり。「当に広く此の経を説くべし」とは「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」これなり。発誓既に然なり。付嘱知るべし云云。
 文に「天台の云く」等とは、この下は釈、また二と為す。初めに但本化の発誓のみあることを明かす。故に「但下方の発誓のみを見たり」というなり。次に「道暹」の下は迹化の発誓なきを明かす、また三と為す。初めに別付嘱は唯本化にのみに限ることを明かし、次に「夫れ文殊」の下は暫時往来の菩薩なることを明かし、三に「又爾前」の下は本法所持の人に非ざることを明かすなり、
 初めの文意に謂く、別付嘱は唯本化のみに限る。故に道暹云く「此の経をば唯下方涌出の菩薩に付す」と云云。付嘱既に爾なり、発誓もまた然り。故に迹化の発誓なきなり。
 問う、別付嘱は本化に限ると雖も、総付嘱は既に迹化に通ず。何ぞ発誓なからんや。
 答う、別命に由り方に本化の発誓あり。発誓に由る故に即ち別付嘱あり。故に別命、発誓、付嘱、並びにこれ一例なり。また通命に由り即ち勧持品の発誓あり。勧持品の発誓に由り総付嘱あり、故に総付嘱は迹化に通ずるなり。故にまた一例なり。
 次の文意に謂く、若し本化の菩薩は塵劫常にこの土に住し、釈尊の初発心の弟子なり。故に発誓あり。然るに文殊等は他方他仏の弟子にして暫時往来の菩薩なり。故に発誓なきなり。
 問う、縦い他方他仏の弟子にして暫時往来の菩薩なりと雖も、何ぞ必ずしも発誓なからんや。例せば過八恒沙は他方他仏の弟子にして暫時往来の菩薩なりと雖も、而も発誓あるが如し。他方すら尚爾なり。況や文殊等をや。如何。
 答う、既に他方他仏の弟子、暫時往来の菩薩を止めて「止みね善男子」と説く。故にその義、正しく文殊等の迹化を止むるに当れり。故に重ねて更に発誓あるべからざるなり。
 第三の文意は、本化は既にこれ本法所持の人なり。故に発誓あり。文殊等はこれ権迹の菩薩にして、本法所持の人に非ず。故に発誓なきなり。
 問う、文殊等は今日、権迹の菩薩の相を示すと雖も、既にこれ法身の大士なり。故に往世同居の中に於て、或は寿量の説を聞けり。縦い往世に寿量の説を聞かずと雖も、今日既に発迹顕本を聞いて皆悉く信受せり。何ぞ本法所持の人に非ずといわんや。
 答う、縦い往世寿量の説を聞くと雖も、今日発迹顕本を開くと雖も、唯これ文上脱益の本法にして文底下種の本法に非ず。若し文底に望めば、脱益の本法をば通じて迹門と名づく、故に本法所持の人とは名づけざるなり。
 問う、当抄所引の「但下方の発誓のみを見たり」等の文は即ち問の言なり。正しく答の中に於て下方の発誓は迹化を兼ぬる義を明かす。故に文第十二十に云く「問う、但下方の発誓のみを見て、文殊等の誓を見ざるは何ぞや。答う、上の文に云く、我が土に自ら菩薩有り。能く此の経を持ち即ち之を兼得するなり」と云云。この文如何がこれを会せんや。
 答う、古来の諸師、衆義蘭菊たり。今謂く、答の文の大旨、正しく文殊等の資を見ざる所以を明かすなり。文の意は、但下方の発誓のみを見て文殊等の誓を見ず、その所以は何ぞや。謂く、文殊等は即ち兼ねて末法の弘経は下方に限るの勅命を得たり。故に発誓なきなり。譬えば平家の輩は即ち兼ねて今度の大将は源氏に限るの勅命を得たり。故に競望することなきが如し。当に知るべし、「我が土に自ら菩薩有り」等とは、末法の弘経は下方に限るの励命なり。いう所の「之」とは上の八字を指すなり。
 問う、何ぞ答の文を引かざるや。
 答う、これ即ち問の意に同じき故にこれを略するなり。謂く、問答倶に文殊の誓なきことを明かす故なり。仍問の中の「不見」等の八字を略するは、これ即ち「不見」等の六字能くこれを顕す故なり。
 問う、若し爾らば国家論の意、何ぞ傍には迹化を兼ぬる義に約するや。
 答う、且く台家伝来の一説に准ずるが故なり、例せば大師、古姉に准じて一往釈す等の如し。叡峯の証真もこの伝来の義を用ゆるなり。
一、経に云く、爾の時に世尊乃至一切の衆の前等文。(二五一㌻)
 この下は次に十神力の文を引く、また三と為す。初めに正しく引き、次に「夫れ顕密」の下は神通の超過を以て付法の超過を顕し、三に「是くの如く」の下は結文なり。
 文に「師子の座の上の諸仏も亦復是くの如く」というは、
 問う、多宝如来は舌相を現ずと為んや。若し爾らば経文にその相を見ず。若し現ぜずといわば、釈尊及び分身皆舌相を現ずるに、多宝仏のみ独り何ぞ偶然たらんや。
 答う、下山抄に云く「実には釈迦、多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」等云云。文に云く「此は皆兼帯の故に久遠を覆相する故なり」と。これ即ち「行布を存する故に仍末だ権を開せず」「始成をいう故に尚末だ迹を発せず」の二失なり。
一、経に日く、爾の時に仏上行等の菩薩大衆に告げ給わく文。(二五二㌻)
 いう所の「等」とは本化の余輩を等しくするなり。
 この下は三に。要付聴の文を引く、また二と為す。初めに正しく引き、次に「此の十神力」の下は釈。初めの正しく引くにまた三と為す。初めに経文を引き、次に天台の釈を引き、三に伝教の釈を引く。初めの経文を引くにまた二と為す。初めに称歎付嘱の文を引き、次に結要付嘱の文を引くなり。
 初めに称歎付嘱というは、即ちこれ本尊の功徳を称歎するなり。文に「諸仏の神力は是くの如く乃至此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能わじ」とは、文意は、我この神力を以て無量無辺百千万億劫にこの本門の本尊、妙法五字の功徳を説くとも、猶尽すこと能わずとなり。当に知るべし、「此の経」というは、即ちこれ本門の本尊、妙法蓮華経の五字なり。
 次に結要付嘱とは、正しくこれ本門の本尊を付嘱するなり。文に「要を以て之を言わば乃至皆此の経に於て宣示顕説す」というは、文意は、如来の一切の名用体宗を皆この本門の本尊、妙法蓮華経の五字に於て宣示顕説するぞとなり。これ即ち「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」の五字の本尊なり。今この本尊を地涌の菩薩に付嘱するが故に結要付嘱というなり。
 問う、但妙法の五字を以て地涌の菩薩に付嘱す、何ぞ必ずしも本尊を付嘱すといわんや。
 答う、総じて結要付嘱の一段の経文に三大秘法分明なるが故なり。謂く、初めの称歎付嘱は本尊の功徳を称歎し、次の結要付嘱は正しくこれ本門の本尊を付嘱し、三に「是の故に汝等」の下は本門の題目、五種の妙行を勧奨し、四に「所在の国土」の下は本門の戒壇起立を勧奨するなり。記の八に云く「五師及び此の経の所在は即ちこれ法身の四処なり。皆応に塔を起つべし」等云云。具に予が依義判文抄の如し。故に結要付嘱の文は正しく本門の本尊を付嘱するなり。故に前の文に云く「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず乃至但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体」等云云。新池抄に云く「今此の御本尊は乃至上行菩薩を召出し之を譲りたまう」取意等。天台云く「其の枢柄を撮って而して之を授与す」と云云。前の文に云く「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ」と云云。本尊の授与書、これを思い合すべし云云。
 文に云く「伝教云く」等とは、この下は三に伝教の釈を引くなり。文に「果分」等というは、これ即ち久遠元初の自受用の名体宗用なり。故に果分というなり。「因分可説、果分不可説」、これを思い合すべし。
 問う、若し爾らば何ぞ久遠名字の妙法及び本因妙等というや。
 答う、実に久遠元初の果分の法なりと雖も、雨もまた天台の名宇に判摂す。故に名字の妙法、本因妙等というなり。文に云く「此の十神力」等とは、この下は次に釈、また二と為す。初めに付嘱を明かし、次に滅後を正と為すことを明かす。
 経に「能持是経」というは、能く妙法五字の本尊を持つ故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現じたまうなり。
一、次下の嘱累品に云く等文。(二五二㌻)
 この下は次に総付嘱の文を引く、また二と為す。初めに正しく引き、次に釈。
 文に云く「地涌の菩薩を以て頭と為して」等とは、
 問う、地涌の菩薩もまた総付嘱を受くるや。若し爾らば、太田抄の中に総付嘱を明かすに、何ぞ但文殊、観音等に約するや。
 答う、通命既に本化・迹化に亘る。総付嘱、豈本化に通ぜざらんや。故に「地涌の菩薩を以て頭と為して」というなり。若し大田抄の意は、別付嘱ば唯本化のみに限る。故に総付嘱を以て且く迹化等に約す。地涌総付嘱を受けずというには非ざるなり。若し啓運抄の義は甚だ不可なり。
 問う、総付嘱とは一経に亘ると為んや。若し爾らば下山抄に云く「迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う」等云云。この文如何。
 答う、但一経に亘るのみに非ず、仍前後一代の諸経に通ずるなり。故に太田抄に云く「法華経の要より外、広略二門並びに前後一代の一切経を此等の大士に付嘱す」等云云。若し下山抄の意は、文底下種の要法を本門と名づけ、文上の広略を通じて迹門と名づくる故に、往いて太田抄の意に同じきなり。
 問う、一代諸経を通じて本化・迹化に付す。その意これ同じきや。
 答う、その意同じからず。謂く、一代諸経の体外の辺を以て迹化等に付嘱するなり。此にまた二意あり。一に謂く、正像二千年の機の為なり。二に謂く、末法弘通の序分の為なり。また一代諸経の体内の辺を以て本化の菩薩に付嘱し、以て文底の流通と為すなり。
 故に知んぬ、前品には正宗を付嘱し、当品に至って流通を付嘱することを。故に「神力、属累に事極る」というなり。

 第十段 地涌出現の時節を明かす

 (第十段 地涌出現の時節を明かす)

一、疑つて日く正像二千年の問等文。(二五二㌻)
 この下は次に地涌出現の時節を明かす、また二と為す。初めに正像に末だ出でず、末法に必ず出ずるの所以を明かす。次に「問うて日く仏の記文」の下は如来の兼識を明かす。初の文、また五と為す。初めに略して正像に末だ出でざるを示し、次に「驚いて云く」の下は三請三誡、重請重誡、三に「法師品」の下は仏意は正しく末法に在るを示し、四に「地涌千界」の下は正像に未だ出でざるの所以を明かし、五に「今末法」の下は正しく末法に必ず出ずるの所以を明かすなり。
 文に云く「驚いて云く」等とは、忠抄の如し云云。文に云く「法師品に云く、況んや滅度の後をや」とは、文意漸々に況顕するが故に、仏意は正しく末法に在るなり。大難等の義は今の所用に非ざるなり。
一、地涌千界正像に出でざること等文。(二五三㌻)
 この下は四に正像末出の所以を明かす、また二と為す。初めに標、次に「正法」の下は釈、また二と為す。初めに正法、次に像法、また二と為す。初めに釈、次に「所詮」の下は結。初めの釈、また三と為す。初めに能弘の姉、次に所弘の法、三に未弘の法を示すなり。
 文にいう「迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して」等とは、若し但迹門のみを用ゆれば、一念三千何ぞその義を尽さん。故に本門を以て裏と為して、一念三千その義を尽すなり。宗祖云く「第七正観の章は本門の意なり」等云云。
 問う、宗門の本面迹裏の意如何。
 答う、諸門流の意は彼の迹面本裏を反転してこれを用ゆるなり云云。若し当流の意は、本迹の名は反転してこれを用ゆ。その本迹の体は彼此永異なり。謂く、彼は前十四品を迹面と為し、後の十四品を本裏と為す。此れは迹本二門を通じて迹裏と為し、文底下種の妙法を本面と為すなり。故に台当両家の意、天地水火なり。
 文にいう「一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて」とは、今面裏の迹本を以て、通じて迹門理の一念三千と名づく。故に「但理具を論じて」というなり。これ文底下種の本門、事の一念三千に望むるが故なり。
 治病抄に云く「天台・伝教等の御時には理なり今は事なり乃至彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり天地はるかに殊なり」と云云。即ちこの意なり。
 文に云く「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」とは既に面裏の迹本二門を以て通じて但理具を論ずと名づく。故に知んぬ、文底下種の妙法を「事行の南無妙法蓮華経」といい、文底下種の本尊を「本門の本尊」と名づくることを。
 問う、有る人云く、末法の愚人は理観に堪えず、妙法を口唱するに三千具足す。故に口唱を以て事行と名づくるなりと云云。この義如何。
 答う、事理の名目は応に法体に約すべし。若し文上の迹本二門の妙法を口唱するは、仍これ理行なり。この故に宗祖は天台の口唱を以て理行の題目と名づくるなり。但文底下種の妙法を口唱するを以て、即ち「事行の南無妙法蓮華経」と名づくるなり。血脈抄に云く「迹門を理具の一念三千と云う脱益の法華は本迹共に迹なり、本門を事行の一念三千と云う下種の法華は独一の本門なり」と云云。故に知んぬ、日本国中の諸門流の口唱は、一同に皆これ理行の題目なることを。これ即ちその法体は脱益の法華経、本迹倶に迹門の軽の一念三千なるが故なり。但当流の口唱のみ本門事行の題目なり。これ即ちその法体は文底下種の法華経、独一の本門、事の一念三千なるが故なり。
 また有る人云く「『並びに本門の本尊』とは即ちこれ久成の釈尊なり」と云云。今謂く、当抄の大旨は正しく文底下種の法の本尊を明かす。何ぞ文上脱益の人本尊といわんや。
 文にいう「末だ広く之を行ぜず」とは、
 問う、若し爾らば天台も粗これを行じたまうや。
 答う、有る人云く「若し天台等は唯自行のみにして、末だ広く他の為にこれを行ぜず。故に『末だ広く之を行ぜず』というなり。謂く、天台宗の本尊は実にこれ久成の釈尊なり。また天台の法華懺法に『南無妙法蓮華経』と云云。故に知んぬ、自身はこれを行ずることを。然りと雖も、彼の時は在世帯権の円機の如し。故に末だ広くこれを行ぜざるなり」と云云。
 今謂く、彼の宗の本尊は縦い久成の釈尊なりと雖も、仍これ在世脱益の教主にして文底下種の本門の本尊に非ず。彼の師もまた妙法を口唱すと雖も、仍これ理行の題目にして事行の南無妙法蓮華経に非ず。何ぞ自身これを行ずといわんや。
 問う、若し爾らば何ぞ「未だ広く之を行ぜず」というや。
 答う、これ末法の広行に望む故に「未だ広く之を行ぜず」という。自身これを行ずというには非ず。例せば「正像未弘」等の文の如し。或は恐らくは応に「未だ曽て之を行ぜず」に作るべし。例せば本尊の「未曽有」の文の如し。学者能く宜しくこれを思うべし。
 文にいう「所詮円機有つて円時無き故なり」とは、これ即ち与えて「有り」といい、奪って「無し」というなり。
一、今末法の初小を以て大を打ち等文。(二五三㌻)
 この下は五に末法必出の所以を明かす、また三と為す。初めに謗法の時に約して地涌出現を明かし、次に「我が弟子」の下は拒んで必出の所以を明かし、三に「当に知るべし」の下は摂折適時を示すなり。初めの文、また二と為す。初めに謗法の時を示し、次に地涌出現を明かす。初めの文をもまた三と為す。初めに執権謗実、次に迹化不現、三に諸天捨国なり。
 文に「此の時地涌の菩薩乃至幼稚に服せしむ」というは、前の文に「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」云云といい、今「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し」云云という。これを思い合すべし。「妙法蓮華経の五字」とは即ちこれ本尊なり。「幼稚に服せしむ」とは即ちこれ観心なり。「妙法蓮華経の五字」は「是好良薬」なり。「幼稚に服せしむ」は即ちこれ「汝可取服」なり云云。
 文に云く「我が弟子之を惟え」等文。この下は次に必出の所以を明かす、また二と為す。初めに初発心の弟子なるに寄せ、次に地涌の高貴に寄するなり。
 文にいう「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」等とは、文意に謂く、地涌の菩薩は釈尊久遠名字已来の御弟子なり。然るに初成道にも来らず、入涅槃にも訪わざるはこれ不孝の失に似たり。若し末法に出現せずんば、この失何に由って免るるを得んや云云。これ世界悉檀に約するなり。
 文に云く「是くの如き高貴の大菩薩」等とは、拙き者の習いは約束せし事をも実の時はこれを忘る。然るに高貴の人は約束を差えず。例せば季礼等の如し云云。
 文に云く「当に知るべし此の四菩薩」等文。
 問う、応に「四菩薩折伏を現ずる時は、聖僧と成って」というべし。即ち蓮祖の如し。何ぞ賢王というや。
 答う、折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く「法華折体、破権門理」の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし」等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云。
一、問うて日く仏の記文等文。(二五四㌻)
 この下は次に如来の兼讖を明かす、また二と為す。初めに問、次に答、また三と為す。初めに讖文を引き、次に「此の釈」の下は釈、三に「此れを以て之を惟う」の下は地涌出現の先兆を明かすなり。初めの讖文は見るべし。次に「此の釈」の下は釈、また三と為す。初めに時を標し、次に「此の時」の下は釈、三に「此の菩薩」の下は結責。「此の時」の下の釈、また二と為す。初めに正しく本門の本尊を明かし、次に「日本国」の下は権迹の本尊を簡ぶ。初めの文をまた二と為す。初めに正しく本尊を明かし、次に「月氏」の下は称歎。
 文に云く「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」とは、これ即ち妙法五字の本尊なり。前の文に云く「塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏・多宝仏」と云云。この文の意なり。また云く「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」と云云。またこの意に同じきなり。或は云く「地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す」等云云。或は云く「『本門の釈尊』とは、中央の妙法なり」云云。此等は過ぎたるは及ばざるの失あるなり。一巻の大旨、前来の諸文、これを思い合すべし。「一閻浮提第一」とは、宗々殊なりと雖も皆仏を以て本尊と為す。然るに当家の意は、別して仏の中に於ても本門の仏を以て脇士とする妙法五字の本尊なり。豈閻浮第一に非ずや。「月氏震旦に末だ此の本尊有さず」とは、御本尊の讃に云く「一閻浮提の内未曽有の大曼茶羅なり」と云云。即ちこの意なり。
 問う、何を以てこれを知るや。
 答う、天に二の日なく、国に二の主なし。故に知んぬ、能弘の師、唯この国にのみ生じて彼の土に生ざることを。故に月氏・震旦に未だこの本尊有らざるなり。
 文に云く「此れを以て之を惟う」等とは、この下は三に地涌出現の先兆を明かす、また三と為す。初めに正釈、次に「天台」の下は例証、三に「天晴れぬれば」の下は結。
 文に「智人は智を知り」というは、文意に謂く、智人は我と我が智慧を知るなり。譬の意また爾なり。蛇は自ら蛇足を識るなり。文に云く「天晴れぬれば」とは法華を知るなり。「地明かなり」とは世法を知るなり。世法を知るとは、天変地夭即地涌出現の先兆と知るなり。

 第十一段 総 結

 (第十一段 総 結)

一、一念三千を識らざる等文。(二五四㌻)
 この下は大段の第三、結文なり。
 文意に謂く、末法今時の理即・但妄の凡夫は自受用身即一念三千を識らず。故に久遠元初の自受用身、大慈悲を起して妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕し、末代幼稚の頚に懸けしむ等となり。
 或は云く、妙法五字の袋の内に理の一念三千の珠を裹むと云云。或は云く、妙法五字の袋の内に本果修得の事の一念三千の珠を裹むと云云。
 今謂く、妙法五字の袋の内に久遠元初の自受用身即一念三千の珠を裹むなり。当に知るべし、久遠元初の自受用とは蓮祖聖人の御事なり。久末一同、これを思い合すべし。
 問う、妙法五字のその体何物ぞや。
 謂く、一念三千の本尊これなり。
 一念三千の本尊、その体何物ぞや。
 謂く、蓮祖聖人これなり。
 問う、若し爾らば譬喩如何。
 答う、且く能所に分つも実はこれ同じきなり。例せば「夫れ一心に十法界を具す」乃至「只心は是れ一切法、一切法は是れ心」等の如し云云。
 我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。「幼稚の頚に懸けさしめ」の意、正しく此に在り。故に唯仏力・法力を仰ぎ、応に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔ゆることなかれ云云。

 維れ時享保六辛丑歳霜月上旬
   富士大石寺二十六世 日寛在判