最蓮房については出身が不明であるため、その幼少年期の名も明らかでない。出家して最蓮房と名乗ったのであろう。最蓮房に与えられた御書の本文のなかでは、最蓮房をさして「貴辺」と呼ばれているのみで、名前は記されていない。ただ、宛先として「最蓮房御返事」「最蓮房に之を送る」「日蓮最蓮房に伝え畢んぬ」等と記されているだけである。
この最蓮房が日蓮大聖人の弟子となって、いただいた名前が日浄である。
ところが、ほかに最蓮房の名を日栄とする説がある。これは江戸時代中期の書である本化別頭仏祖統紀に「甲州下山本国寺開山日栄上人伝」として「師、諱は日栄或いは日浄と曰う、字は最蓮、洛陽の人、天台宗の英なり、時の不遇に遭いて佐州に謫せらる。文永九年壬申の春、我が高祖に相見す」とあることによる。下山本国寺については後に詳しく述べるが、これは本国寺の開山を最蓮房としたことによって生じた混乱であろう。
下山本国寺では、その起源を下山兵庫光其の氏寺の平泉寺としている。この平泉寺の住職が後に大聖人の弟子となった因幡房日永であり、本国寺の開山は日永であったはずである。ところがいつのころからか開山は最蓮房であるとされ、最蓮房と日永が結びつき、その同音ゆえに「最蓮房日栄」といわれるようになったと思われる。
大聖人が一人の弟子に「日浄」と「日栄」といった二つの名を付けられることは考えがたい。したがって、ここでは最蓮房の名は「日浄」であるとしておきたい。
最蓮房の生れた年についても、はっきりしない。下山本国寺には最蓮房の墓と称するものがあって、その碑銘には「延慶元戊申年四月十八日とあり、八十七歳示寂としている。これからすると、その生年は承久三年(1221)ということになる。
しかし、下山本国寺と最蓮房の関係は後世に創作したものである可能性が極めて強く、その墓が最蓮房の墳墓であるという根拠はない。したがって、その碑銘も信憑性は低く、それに基づいた生年も確かなものとはいいがたい。
最蓮房関係の御書には、はっきりとその生年を示す記述はないが、大聖人とお会いしているころの年齢をうかがわせるものがいくつかある。
文永十年(1273)の最蓮房御返事(祈祷経送状)に「一御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云」(642頁)とあるのであるから、当時、少なくとも十七歳以上であったことは確かである。しかし、それだけではあまりにも漠然としている。
そこで推測ではあるが、一般に自身の若かりしころを振り返るというのは、ある程度、年をとってからではなかろうか。まして、出家後、妻子をもたず、肉を食べずにすぎた等と報告するということは、それが短期間でないことを意味していると考えられる。それは、そのことを受けて大聖人が「地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し」(642頁)と述べられていることからもうかがえる。
また、同状に「御山篭の御志しの事」(641頁)とあり、最蓮房に山籠りの気持ちがあったことが分かる。これは最蓮房が病弱であったためでもあるが、やはり山籠りするというのは晩年の行為のような感じを抱かせる。
最蓮房御返事には「結句は卯月八日・夜半・寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり」(587頁)これは受職潅頂という言葉を使われているが、いうまでもなく大聖人が南無妙法蓮華経という独一本門の円戒をもって最蓮房に授戒されたことである。ただこの受職潅頂という言葉は密教では阿闍梨位を授けるときになされる儀式をいい、伝法潅頂ともいう。これを受ける資格は当時は四十歳以上とされており、六十歳代で受ける者が多かったようである。
こうしたことを考え合わせてみると、大聖人にお会いしたころの最蓮房の年齢は、相当の年配ではなかったかと思われる。大聖人が五十代前半であられたから、それと同じぐらいか、もしくは六十前後とみて、最蓮房の生年は大ざっぱに建保から承久年間(1213~1221)と推測しておく。
最蓮房の出身地は最蓮房御返事(供物書)の次の文から京都であることは明らかであろう。
「貴辺の御勘気疾く疾く許させ給ひて都へ御上り候はゞ、日蓮も鎌倉殿はゆるさじとの給ひ候とも諸天等に申して鎌倉に帰り、京都へ音信申すべく候。又日蓮先立ちてゆり候ひて鎌倉へ帰り候はゞ、貴辺をも天に申して古京へ帰し奉るべく候。」(588頁)
また「都よりの種々の物慥かに給び候ひ畢んぬ。」(585頁)とあるのは、最蓮房が京都から届いた品物を大聖人に御供養されたことに対する御返事であろう。とすると、京都から最蓮房に品物を送った人がいることになる。それはおそらくは京都にいる最蓮房の身内ではなかったかと思われる。
なお、以前においては、高橋殿御返事が諸法実相抄の一部とみられていたときがあり、それをもとにして最蓮房の駿河出世説があったが、今日ではその根拠が失われているので、あらためて論及することはしない。
最蓮房御返事(祈祷経送状)に「一御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云」(642頁)とあることから明らかなように、最蓮房は十七歳で出家している。出家の動機は分からないが、当時の京都の社会状況に少なからずあったのではなかろうか。
承久の乱の後、幕府は京都に六波羅探題を設置し朝廷の監視と洛中の警護にあたったが、京中の治安状況は極めて悪かったようである。
嘉禄から天福年間(1225~1233)ごろは夜盗・強盗が横行し、放火による家屋の焼失が頻繁に起こっている。群盗は銭や砂金ばかりでなく公家の宝物から寺々の金銀や仏像や梵鐘などまで、金目の物はなんでも奪い取っていった。しかも、その手口は馬や牛車を使い、群れをなし、夜の巷を駆け回るといったものであり、文字どおり「百鬼夜行」というありさまであったという。
この群盗の横行とあいまって、五十年来といわれる寛喜の大飢饉が起こっている。寛喜二年(1230)の春ごろから始まった全国的な飢饉は翌三年に頂点に達し、諸国から流入してきた飢民を含めて京都での餓死者はおびただしい数にのぼった。死骸は鴨川の「川原の当り、凡そ其の隙なき」ありさまであり、道路等にも充満していたという。
藤原定家の日記である明月記の寛喜三年七月十五日の条には「京中道路の死骸、更に止まず、北西の小路連日加増す。東北院内数を知らずと云云」とある。この大飢饉に対して、幕府は、禁止されていた人身売買を緩和して、妻子や従者を売ることを認めている。
先に推測したように最蓮房の生年を建保・承久ごろとすれば、実に最蓮房はこうした深刻な社会不安のなかで少年時代を過ごしたことになる。出家の契機になったかどうかは別にしても、少年の心に大きな影を落としたであろうことは想像に難くない。
ところで、最蓮房はどこの寺のだれについて出家したのであろうか。詳しいことは何一つ分かっていない。最蓮房が京都に在住していたことからすると、それは京都周辺の寺院で出家したと考えられるのが自然であろう。しかし、特定することは困難であると思われるので、京周辺のおもだった寺を挙げるにとどめておく。
当時は京内の寺院としては俗に六角堂と呼ばれる頂法寺と、因幡堂と俗称された平等寺があっただけである。平安京建設後、洛中に寺院を建設することは禁止されていたため、この二寺以外の寺院は創建されなかったようである。
それにひきかえ京の周辺には、天皇の御願寺である四円寺・六勝寺・醍醐寺や御所を兼ねた仁和寺等をはじめ、公家の邸宅を寺院となした世尊寺・東北院・法成寺等、多くの寺院が建立されていた。その他、太秦の広隆寺、高雄の神護寺、大原の鞍馬寺、京極大路の東に京極寺等があり、そして、京都の西北に比叡山延暦寺があったことが知られている。
一般に最蓮房は比叡山で修学したといわれる。比叡山が京都から適当の距離にあり、当時の僧の多くが比叡山で仏法を学んでいたこと、また大聖人からいただいた御書にしたためられた法門の内容等からして、そう考えてよいのではないかと思う。
それでは、当時の比叡山の状況がどのようであったかをみてみたい。前に挙げた最蓮房御返事(祈祷経送状)に「一御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云」(642頁)とあるが、これは何を意味しているのであろうか。これは、最蓮房が出家後、妻子をもたない等の戒を堅くまもってきたことを大聖人に報告したものであるが、もう一面からすると当時の出家のイメージからして、そんな当たり前のようなかとを、どうしてわざわざ言っているのかという思いはする。
同時代のころ妻帯した僧としては、浄土真宗の祖、親鸞が有名であり、特殊なケースと受け止められている。ところが、当時の史料によれば、そうとはいえないようである。
藤原定家は明月記の中で「妻子を帯び出挙して裕福なるもの、悪事を張行し山門に充満し」と比叡山の僧の堕落ぶりを述べ、「これ仏法滅亡の時至るか」と嘆いている。ここで「出挙」というのは、今でいう「闇金業者」である。比叡山の僧が妻子をもち、闇金業を営んで私腹を肥やしているというのである。闇金の取り立てには、山門の威を借り、神輿をかつぎ出しての強訴を背にした横暴なものであったらしい。こうした背景からすると、最蓮房があえて「妻子を帯せず」と断って報告していることも、当然いかに破戒の僧が多かったかを示しているととることもできよう。
ただ比叡山の僧といっても、それは学生と堂衆とに分かれていた。学生はもっぱら学問をする僧であり、貴族の出身者が多かった。
それに対し、堂衆は元来が学生の所従が法師となった者で、仏事供養などの寺務に従事していたが、後に学生に対抗するようになり、いわゆる僧兵の中核となった。その他、その中間に堂僧といって、常行三昧堂に住して念仏を行ずるのを仕事とするような僧もいた。最蓮房は次にみるように、その学識の深さからいって学生ではなかったかと思われる。
最蓮房の学識にいついては、大聖人からいただいた御書の内容もさることながら、そのなかで経論の文等について「兼ねて御存知の上は申すに及ばず候。」(587頁)とか「上に挙ぐる所の法門は御存知たりと雖も書き進らせ候なり。」(1519頁)等と述べられており、仏法に関して相当な知識があったことがうかがわれる。
また十八円満抄に「貴辺年来の権宗を捨てゝ日蓮が弟子と成り給ふ。真実、時国相応の智人なり。総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。」(1519頁)と仰せられているところからすると、最蓮房は智慧も優れていたようである。
京都の出身者である最蓮房が大聖人とお会いしたのは、佐渡においてである。大聖人が佐渡に流罪になられたとき、最蓮房もまた佐渡に流されていたようである、最蓮房御返事に「是の如く思いつゞけ候へば、我等は流人なれども身心共にうれしく候なり。」(588頁)とあり「劫初より以来、父母・主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるゝの人、我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ。」(588頁)とあることからみて、流罪になったことは確かであろう。
佐渡が流罪の地と定められたのは神亀元年(0724)のことである。都よりの距離の遠近によって流罪の地が遠・中・近の三種に分けられ、流罪のなかで最も重い刑罰が遠流であった。律における刑罰としては、笞・杖・徒・流・死の五刑があり、それぞれ罪の軽重によって数種に分けられていた。流罪は罪人を特定の僻地に送り、居住を制限して、原則として労役に服せしめるものである。なかでも、遠流は死罪に次ぐ重罪であった。
最蓮房は、いかなる罪状で、いつ、この遠流に遭ったのであろうか。大聖人の佐渡流罪は貞永元年(1232)に幕府によって制定され御成式目、いわゆる貞永式目の「謀叛」の科によるものではないかといわれているが、最蓮房の流罪の原因は貞永式目に求めることはできない。というのは貞永式目の効力の範囲が幕府の支配下の土地と土民に限られており、国衙・荘園・寺社領等は範囲外とされていたからである。最蓮房が修学していたと思われる比叡山においては、奈良・平安時代以来の律令の法制が適用されていたことであろう。そこで、律の条文によって遠流の刑に処せられるべき罪の内容をみてみると、およそ次のようである。
○『反、及び大逆の者の祖・孫・皆遠流に配す』とあるように反逆・謀叛に連座して遠流される場合。
○『大社を毀す者、遠流』等とあって、不敬・不孝の罪の場合。
○囚人を強奪したり、人を毒をもって害する等の場合。
○『妖書、及び妖言を造るは流罪』。
○強盗に関して『其れ仗を持する者は罪を得ずといえども遠流』。
○その他、関所の通行証を盗んだり、棺を開いたり、人を略奪して奴卑としたり等が遠流と定められている。
以上、簡単に挙げてみたが、それ以外に注意してよいと思われる条文に次のようなものがある。
○『僧尼、仏像を盗毀する者は徒流』
鎌倉時代当時、寺院間における坑争等にかかわった者に対して、こうした条文に基づいて遠流の裁断がなされることがあったかもしれない。というのは、鎌倉時代になると刑罰の裁断は剣非違使頂の自由な裁量に任せられ、律令の法制は空文化していたといわれる。
その他、放火罪の刑罰は、律では徒三年に過ぎなかったが、宝亀四年(0773)に後悪を懲らしめるため格殺とした。だがその後、刑を軽減する傾向が生まれ、死罪は一等を減じて遠流にすることが行われてもいる。
そうしたことから律令の条文のみから流罪の原因を探ることは無理のようにも思える。
そこで、現実に佐渡に流罪になった人々がどのような罪で流されていたかを挙げて、佐渡流罪の刑にあたる罪状をみてみよう。その際、一定の時代状況下という意味で鎌倉時代に特定し、文献に残っているもののなかからみることにする。ちなみに、最蓮房が流されていた文永九年(1272)は鎌倉時代中期にあたる。
以下は流罪の理由が明らかなもののみを挙げたのであって、これ以下にも記録に残ることなく多くの人が流されていたことはいうまでもない。
建久九年(1187) 玄俊 嗷訴の罪による
正治元年(1199) 文覚 後鳥羽院を廃し、守貞親王を立てるによる
建永元年(1206) 藤原公定 子、其実のことに坐す
承元二年(1208) 行空 諸宗に訴えられる
建歴二年(1212) 伊達為家 萩生右馬允と争戦するによる
建保二年(1214) 快玄 清水・清閑両寺境界諍論による
建保四年(1216) 仙秀 安楽寺悪徒十七人の内なるによる
承久三年(1221) 順徳天皇 承久の変による
弘安七年(1284) 北条時光 陰謀の発覚せしによる
永仁元年(1293) 平宗綱 父、頼綱のことに坐す
永仁六年(1298) 京極為兼 陰謀による
正中二年(1325) 日野資朝 正中の変に坐す
これらのうち、約半数は政権転覆等にかかわるものであり、律令や貞永式目の条文からみて遠流であってしかるべきであろう。しかし、その他の場合、特に僧侶が多い。その流罪の理由はさまざまである。興福寺の玄俊の場合は僧兵として徒党を組んで訴えた罪であり、法然の弟子法本坊行空は念仏を弘通して諸仏を謗ったとして南都の諸宗に訴えられたためであり、清水寺の執行であった快玄は境界の争いがきっかけとなっている。仙秀は筑紫の安楽寺別当の定円に悪僧として訴えられて流されたなかの一人である。
こうした数少ない事例ではあるが、このことから僧侶が流罪になった場合を考えてみると、悪事をはたらいたという場合は当然として、なんらかの紛争が原因となって流罪になっているケースが多いように思える。
最蓮房の場合を考えるに、最蓮房御返事(祈祷経送状)に「一、御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云。権教を信ぜし大謗法の時の事は何なる持戒の行人と申し候とも、法華経に背く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千万倍劣り候なり。彼の謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に堕す。正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑ひ無き故なり。但今の御身は念仏等の権教を捨て正法に帰し給ふ故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり。尤も比丘と成りては権宗の人すら尚然るべし。況んや正法の行人をや。仮使権宗の時の妻子なりとも、かゝる大難に遇はん時は、振り捨てゝ正法を弘通すべきの処に、地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し。」(643頁)とあることから、悪事をはたらいての流罪ということは考えにくい。とすると、比叡山を取り巻くなんらかの紛争に関連しての流罪と考えるのが妥当かもしれない。
その際、大聖人が佐渡流罪中に著された次の御書の御文は一つの参考となろう。すなわち開目抄に当時の天台宗の僧侶の姿を述べられているところで「寺塔を焼て流罪せらるゝ僧侶はかずをしらず。」(569頁)とある。僧侶同士の抗争における寺搭の焼き打ち等の罪で流罪になることが多くあったであろう。
次に、最蓮房が流されたのは、いつかを考えてみたい。一説には、文永元年(1264)の比叡山の諸堂炎上の件に連座して佐渡に流されたというものがある。もし、そうだとすると、最蓮房は日蓮大聖人が赦免になった文永十一年(1274)のときまでは、佐渡にいたであろうから、あしかけ十一年、流罪になっていたということになる。
律令の規定によれば、流罪の刑期は満一年から三年で、その間に恩赦にあって刑を終える場合もあり、その後は配流の籍に編入されて百姓と同じ課役にあたった。そして、満六年経過後は仕官も許され、本来流罪にあたらない特別配流者には満三年後に再任官が許されていたが、反逆者に縁坐して流罪になった者と反逆の死罪を免れて流罪になった者は永久に選任されなかったとされる。先にも述べたように、鎌倉時代に律令の規定がそのまま遵守されたかどうかは疑わしいが、少なくともこの規定を基本にして執行されていたことであろう。
先にみた鎌倉時代における佐渡流罪の者のなかで、赦免の記録が残っている者をみてみると、文覚は三年九ヵ月後に許されており、京極為兼は約五年で京都に帰っている。日蓮大聖人の場合は二年六ヵ月で赦免になられている。
それに対して流罪が許されずに佐渡で没した例をみると、順徳上皇は流されて二十二年後になくなっており、日野資朝は満六年を過ぎた年に斬首されている。
律では服役または赦免の後、配所の籍に編入されて百姓と同じ課役にあたったとあるが、鎌倉時代のケースでは赦免の後に京都や鎌倉に帰っている。このことからすると、当時は配流での生活を余儀なくされた時が流罪の刑期で、反逆者等で永久に許されない者は別として、それは六年未満であったのではなかろうか。
もしそうだとすると、最蓮房が後に赦免された場合、少なくとも十年にわたる流罪の後に許されたことに成る最蓮房の文永元年(1264)流罪説は一考を要しよう。
最蓮房は後に流罪が許されたとしても、大聖人が赦免になった文永十一年(1274)以後であると考えられるから、満六年以内の赦免であったとしても逆算した場合、文永五年(1268)以降に流罪になったことになる。そして、最蓮房の入信の時期等の関係から、その流罪は大聖人の流罪以前、すなわち文永八年(1271)以前とされる。こう考えてくると、最蓮房が流罪された時は文永五年(1268)から文永八年(1271)までの間ではないかと推測される。
ちなみに、この期間における比叡山に関連した紛争の幾つかを次に挙げておく。
文永五年(1268)九月七日 梶井・青蓮院門徒、争論の事あり。
文永五年(1268)九月二十二日 山門僧徒、訴えることあり。諸堂の門戸を閉じる。
文永五年(1268)十月十日 梶井門徒、青蓮院門徒を襲う。
文永五年(1268)十月十日 山徒、正傳寺を毀つ。
文永六年(1268)正月二日 東西両塔の僧徒、蜂起し、諸堂社の門戸を閉じる。
文永六年(1268)正月十日 梶井・青蓮院両門徒、神輿を奉じて入洛する。六波羅兵を遣わしてこれを防ぐ。
さて、それでは佐渡に流された最蓮房の生活がどのようなものであったかを、律令の流刑の規定をとおしながらみてみたい。
「僧が流刑になった場合は、還俗させて後に配所に送った」。
僧侶には一般人とは別に刑の規定がなされていたが、僧尼が徒刑以上の罪を犯して処せられる場合は還俗させられ、還俗のうえは一般の律によって処断された。還俗させられれば俗名になったと思われるが、大聖人の場合をみるかぎりにおいては、そうしたようなことがなされたようには思われない。最蓮房にあっても僧名だけで、俗名はどこにも伝わっていない。
「流人の妻妾は必ず随伴させ、父祖・子孫も欲すれば従うことが許されたが、家人は従うことを許されなかった」。
最蓮房は最蓮房御返事(祈祷経送状)にのなかに「十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云。」(643頁)とあることから、妻子の随伴はなかったことが明らかである。おそらくは、一人で流されていたのではないだろうか。
「配所においては良賤・男女・身体の大小を問わず一人に一日、米一升と塩一勺が供給され、最初の春が来た時に田と種子が与えられ、その年の秋になれば食料の供給は停止になった」。
最初の一年間は米と塩が与えられることになっていたが、当時はしばしば飢饉などがあったことを考えると、きちんと行われていたかどうか疑わしい。大聖人の御流罪中の様子を述べられた御書のなかに「預かりよりあづかる食は少なし。」(一谷入道女房御書、829頁)とあり、「現身に餓鬼道を経」(法蓮抄、821頁)とあることからすると、食糧に事欠く状況は最蓮房も例外ではなかったであろう。また一年後には自分で田畑を耕して食物を得なければならなかったということは、慣れない農作業であるうえ病弱であったと思われる最蓮房にとって大変つらかったにちがいない。
「初めの一年は労役に服さなければならなかったが、満一年か三年の服役が終わるか、もしはそのあいだに赦にあったときには、配所の籍に編入されて百姓と同じ課役にあたった」。
初めの一年間の労役がどのようになっていたかははっきりしないが、慣れない地での流人の労役は大変であったことだろう。最蓮房が大聖人にお会いした時は、その様子などから既に労役の期間は終えていたのではないかと思われる。
以上、律令の規定の上から一般的な流人の生活をとおしてみてきたが、次に具体的な最蓮房の配所等について考えてみようと思う。
流人が配所に生活するにあたっては、預かりの主が流人およびその家族に食糧を供給したり、身柄の確保や逃亡等を防ぐための見張をつけるなどしなければならなかったと思われる。こうしたことは、預かりの主にとって相当の負担となったであろう。そこで当然、考えられるのは一つの所に集中するのではなく、各地に分散して預けられたのではなかろうかということである。そこで、大ざっぱではあるが、先に挙げた鎌倉時代の流人のなかで配所が推定されているのをみてみると、次のようになる。
文覚 畑野町大久保
順徳天皇 金井町泉
日蓮大聖人 佐和田町一野沢
京極為兼 佐和田町八幡
日野資朝 真野町竹田
これらを地図のうえで見ると、見事に国仲平野の周囲に点在していることが分かる。身柄を守護所に拘束されていたと思われる日野資朝は別として、どちらかというと順徳天皇以後の流人の配所は国仲平野と大佐渡山脈の接合点にあるように思える。
これは後のことだが、鎌倉時代の終わりから約百年後に流された世阿弥の配所は金井町新保で、やはりそうした地点にある。これは多分に流人の警備上からの配慮ではないかと思われる。国仲平野の小佐渡山脈側では、その中ほどに松が崎を経て本州とを結ぶ主要な街道である小倉街道があり、本州に抜けられやすい。そうした所に流人の配所を置くことは避けたであろう。それに対し、大佐渡山脈側は国仲平野の中央の北東から南西に流れる国府川があって本州への通交の障壁となっており、地理的な隔離条件に適しているといえよう。
こうしたことから、大佐渡山脈と国仲平野との接合点にあたる集落で、大聖人の配所の一の谷と順徳上皇の配所とされる泉を除いた場合、残るのは中興と新保である。
それでは中興と新保とを比べた場合、どちらの地が最蓮房の配所としての可能性が大きいであろうか。この二か所には、それぞれ大聖人に帰依した信徒がいたことが知られている。中興には中興次郎入道が、そして新保には阿仏房が住んでいた。
阿仏房は文永九年(1272)の初めごろ入信し、塚原に住まわれていた大聖人のもとを訪れ外護したとされている。後にでてくるが、最蓮房の入信は文永九年(1272)の二月初めであり、そのころ大聖人にたびたび質問したりしている。もし最蓮房が新保にいたとすると、阿仏房と同じ地に住み、同じころ入信したことになる。
今日残っている阿仏房関係の七編の御書には、佐渡の信徒である国府入道や一の谷入道のことについては出てくるが、最蓮房についてはそれらしい記述は見当たらない。
それでは、中興次郎入道はどうかというと、中興入道御消息に「島にてあだむ者は多かりしかども、中興の次郎入道と申せし老人ありき。彼の人は年ふりたる上、心かしこく身もたのしくて、国の人にも人とをもはれたりし人の、此の御房はゆへある人にやと申しけるかのゆへに、子息等もいたうもにくまず。其の已下の者どもたいし彼等の人々の下人にてありしかば、内々あやまつ事もなく、唯上の御計らひのまゝにてありし程に、水は濁れども又すみ、月は雲かくせども又はるゝことはりなれば、科なき事すでにあらわれて、いゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計らひばかりにて、ついにゆり候ひてのぼりぬ。」(1432頁)と述べられている。この御文からすると中興次郎入道は聡明で身なりも立派で人望のあった老人であり、その影響は子供達をとおして相当多くのひとびとにまで及んでいたことがうかがえる。また、それとなく大聖人をかばっていたことが分かる。
ところで、最蓮房であるが、その行動をみてみると、ずいぶん自由な振る舞いが目につく、文永九年(1272)四月の最蓮房御返事には「夕さりは相構へ相構へて御入り候へ。」(588頁)と述べられているが、流人が流人の所へまだ明るさの残る夕方から行くことができるものだろうか。塚原に大聖人がおられたときは、阿仏房や国府入道でさえ夜中に人目を忍んでいっているのである。また、この四月九日には午前四時ごろに大聖人のもとで受職灌頂を受けている。そんなに明け方ちかくまでいて大丈夫であったのだろうか。また一の谷に移って間もないころで、預かった宿の入道である一谷入道も大聖人を恐れ警戒していたときである。
こうしたことを、どう考えたらよいであろうか、一つには、最蓮房の預かりの主が相当広い範囲に影響力があり、大聖人を許容する心をもった人物であると考えれば納得できよう。二つには、やはり大聖人がおられた一の谷から、それほど遠くない所に最蓮房がいたと考えることができよう。ちなみに、一の谷から新保までは、直線にして約四㌔であり、中興までは二・五㌔である。
こうしたことを考え合わせて、ここでは一往、最蓮房の配所は中興ではなかったかと推論しておく。
次に、過去において最蓮房に関係のある遺跡ではないかとされたものを挙げてみよう。大正二年(1913)発刊の富田海音の「塚原誌」では、根本寺から一㌔北方にある最蓮清水という所が最蓮房の配所跡ではないかと推定している。これは、最蓮清水の「最蓮」という音からの推論であろうが、世間から見れば名も知れない流人の名をとって清水に名付けたと考えるのはどうであろうか。ところで、この最蓮清水というのは現在ない。その土地の人の話では、昔この新穂北方あたりでは、よく清水が涌いていて、その一つに「せいれんしみず」というのがあり、この「せいれんしみず」は「西蓮清水」という字をあてたということである。
安永八年(1777)に著された「高祖年譜」の文永九年の項には「最蓮の遺跡を問うに、之を知る者無し、或るは曰く、中興村に本間山西蓮寺有り、此れ其の旧跡なり」とあるが、この西蓮の場合もサイレンという音からの類推であろうが、それが寺号である点で可能性は高いかもしれない。
由緒書によれば、西蓮寺は、本間左衛門四郎有綱が大番として上洛したおり、本願寺第三世覚如の弟子となって法名を西祐と称し、元亨三年(1323)に建立されたとある。これは最蓮房の流罪中から数えて約五十年後のことである。また、十五世紀の後半に西蓮房という者のときに寺号が免許されたと伝えられる。その我、天正十七年(1589)上杉景勝の佐渡攻めのとき、寺院を破却されたという。したがって、天正以前の事柄についてはあいまいな部分も多いことであろうが、最蓮房と同じ音の西蓮房という人物がいたことは注目に値しようが、年代的に二百年の開きがあり、関係性の有は薄いのではないだろうか。
ただ、この西蓮寺が浄土真宗の寺でありながら、江戸時代の文献には寺の什宝として「日蓮上人自筆之本尊」があった旨の記録がある。
今はこの本尊は見当たらず、それが大聖人の御真筆の御本尊かどうか確かめることはできないが、いずれにしても大聖人が「念仏無間」と徹底的に破折された念仏宗の寺に、大聖人筆とされる本尊が、それも寺の什宝として伝えられてきたということは不可解なことである。自宗の教義を否定している者の本尊を途中から寺の什宝とするということは考えがたい。
とすると、それは寺の草創から、開基にかかわるような者が教義に関する深い理解のないままに大切にしてきたものであったがゆえに、こうしたことになったのではなかろうか。そのように考えると、開基もしくはその関係者が、大聖人の弟子とつながりがあったとみることもできよう。ここに最蓮房がかかわったかどうかの断定はできないが、興味深い課題ではあろう。
最蓮房が日蓮大聖人に帰依し、弟子となったのは文永九年(1272)二月初めである。それは文永九年の最蓮房御返事に「御状に云はく、去ぬる二月の始めより御弟子となり、帰伏仕り候上は、自今以後は人数ならず候とも、御弟子の一分と思し食され候はゞ、恐悦に相存ずべく候云云。」(585頁)と述べられていることから明らかであろう。文永九年(1272)二月十一日付の生死一大事血脈抄の「過去の宿縁追ひ来たって今度日蓮が弟子と成り給ふか。」(514頁)との仰せも、このことを裏付けている。そして四月九日の午前四時ころ、大聖人より御授戒を受けている。
何が機縁となって弟子となったかは明確ではないが、前の月の一月十六日、十七日に塚原問答が行われていることは注目してよいのではなかろうか。
塚原問答は、佐渡だけではなく北陸等からも各宗の僧達が大聖人を論詰しようと塚原に集まり、行われた法論である。そのときの様子は種種御振舞御書に詳しいが、諸宗の僧等の論難は大聖人の前にひとたまりもなかったようである。そればかりか、その場で念仏を捨てることを誓うものまで出てきたという。そうした状況を考えると、そこに集まっていた人達のなかに大聖人に対する心服の念が生じて、教えを請いたいという思いに駆けられた者がいたとしても不思議ではなかろう。
それでは、入信以前の宗教は何かというと、先にみてきたように最蓮房が比叡山で修学したと思われることと、大聖人から天台関係の法門の御書をいただいているということから、天台宗の僧とされている。しかし御書の記述をみるかぎりにおいては、天台宗と明言されているわけではない。十八円満抄には「貴辺年来の権宗を捨てゝ日蓮が弟子と成り給ふ。」(1519頁)と、ただ「権宗」とあるだけだが、最蓮房御返事には「念仏・真言等の邪法・邪師を捨てゝ日蓮が弟子となり給ふらん」(587頁)とあり、最蓮房御返事(祈祷経送状)には「但今の御身は念仏等の権教を捨て正法に帰し給ふ」(642頁)とあって、具体的に「念仏」「真言」の名をあげておられる。
このことが即座に、最蓮房が念仏宗であったとか、真言宗であったかを意味するものではない。当時の天台宗が真言宗の悪法を取り入れて邪義に染まってしまっていたこと、また、法華経を持ちながら念仏を称えていた者が多かったことから、このように言われたとみるほうが自然であろう。
最蓮房の入信に際しては生死一大事血脈抄に「而るに貴辺日蓮に随順し又難に値ひ給ふ事、心中思ひ遣られて痛ましく候ぞ。」(514頁)と述べられているように、大聖人に付き従っていたために難にあったようである。
しかし、最蓮房はそうした難に屈することなく、大聖人に教えを求めていったのであろう。続いて「金は大火にも焼けず大水にも漂はず朽ちず、鉄は水火共に堪へず。賢人は金の如く愚人は鉄の如し、貴辺豈真金に非ずや。」(514頁)と賛嘆され、最蓮房御返事には「此の経文に比丘と申すは貴辺の事なり。其の故は聞法信受、随順不逆、眼前なり。争でか之を疑ひ奉るべきや。」(587頁)と、その信心を賞されている。そして「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云はく「我久遠より来是等の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし。」(諸法実相抄、666頁)等の指導を受けつつ、大聖人の一門として純真な信心を貫いたものと思われる。
最蓮房の求道心は厚く、「生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴し貴し。」(生死一大事血脈抄、514頁)と述べられていることからも分かるとおり、大聖人にたびたび法門についての質問をしている。それに対して日蓮大聖人は「貴辺に去ぬる二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ。」(最蓮房御返事、587頁)とか「日蓮が相承の法門等前々かき進らせ候ひき。」(諸法実相抄、668頁)と仰せのように、いくつもの重要な法門を御教示されている。
これは、弘安三年十月十八日の十八円満抄に「当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門等、前々に書き進らせしが如し。」(668頁)と述べられているように、後々まで続いている。
こうした佐渡流罪中にでしとなった最蓮房に対して、大聖人は深い因縁のうえから、その師弟の関係について述べられている。
生死一大事血脈抄には「過去の宿縁追ひ来たって今度日蓮が弟子と成り給ふか。釈迦多宝こそ御存知候らめ。「在々諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ。」(514頁)と述べられ、最蓮房御返事には「此の経釈を案ずるに、過去無量劫より已来師弟の契約有りしか。我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ、忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事、是偏に過去の宿習なるか。」(585頁)と述べられ、そして諸法実相抄には「不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首上行等の四菩薩の変化か。さだめてゆへあらん。総じて日蓮が身に当たっての法門わたしまいらせ候ぞ。日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん。南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかんとおもへばなり。経に云はく「一名上行、乃至唱導師」とは説かれ候はぬか。まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給ふ。」(668頁)と仰せられているのである。
流人という社会的に疎外された最悪の状況下にあって、そうした世間の思惑を越えて純粋に法を求めてやまない弟子の出現に、大聖人はひとかたならぬ思いを抱かれているのではなかろうか。
日蓮大聖人が佐渡流罪を赦免になった後、最蓮房もまた赦免になったとされる。その主たる根拠は最蓮房御返事の「余りにうれしく候へば契約一つ申し候はん。貴辺の御勘気疾く疾く許させ給ひて都へ御上り候はゞ、日蓮も鎌倉殿はゆるさじとの給ひ候とも諸天等に申して鎌倉に帰り、京都へ音信申すべく候。又日蓮先立ちてゆり候ひて鎌倉へ帰り候はゞ、貴辺をも天に申して古京へ帰し奉るべく候。」(588頁)という御文によるものと思われる。すなわち大聖人が流罪中に、自分が先に許されて鎌倉にかえったならば諸天に申しつけて最蓮房も故郷に帰れるようにしよう、といわれているところから、当然その約束はかなえられたことであろう、というのである。
これは最蓮房の赦免の確かな根拠ではない。しかし、先にみたような当時の流刑の規定等を勘難してみるならば、赦免はあって当然と考えてもよいのではないかと思う。
それでは、赦免後の最蓮房の消息はというと、いくつかの説があって確定できない。一つには「古京へ帰し奉る可く候」という御文から故郷である京都へ帰り、そこで没したという説であり、また師弟の契りのうえから身延の大聖人のもとへ来て仕え、近くの下山兵庫光基の館に寺を構えて住んだという説もある。なかには折衷的に一度、京都に帰った後、下山(山梨県巨摩郡身延町)に住んで身延の大聖人に給仕したという説もある。
いずれにしても、赦免後の最蓮房の足どりは、京都に帰ったという説と、下山に来て住んだという説に大別される。そこで、京都帰郷説については後にのべるとして、まず下山居住説について検討を加えてみることにする。
下山に居住したとする説としては、つぎのようなものがある。
まず、最蓮房が開山であるとする下山の長栄山本国寺の縁由には「(下山兵庫助)光基の一子因幡房は館の一隅に寺を建て阿弥陀経を読誦していましたが、……宗祖に信服した因幡房はただちに弟子となり日永の名を賜りました。この上は父をも法華経の信仰に引き入れようと勤めましたが父の反感は募るばかりでありました。これを聞いた宗祖は建治三年六月一日因幡房に代り父光基公に下山御消息をあたえられました。一読した光基公の疑雲はたちまちに晴れ、宗祖の門に入り、法重房日房の名を賜りました。時あたかも佐渡において門弟となった学僧最蓮房上人は宗祖を慕い身延にきて、比叡山においての旧知学友であった因幡房に再会し、その奇愚を喜び、光基父子は改宗を記念し上人を開山として寺を本国寺と改めました。弘安五年九月八日池上へと向かわれた宗祖は、同夜当山に御泊りになられました。……寺は後、穴山梅雪の居館となり、寺尾に移されましたが、武田家の滅亡後現地にもどりました」とある。
また、以前の本国寺の由緒沿革によれば、最蓮房は文永十二年(1275)春の末に下山にきて光基の館に泊り、因幡房とともに身延の庵室に宗祖を拝した。そして因幡房も光基も改宗し、最蓮房日浄は本国寺を開き、宗祖から因幡房は日永、光基は法重日芳という法名をいただいた。宗祖の滅後は最蓮房は身延の宗祖の御墓参を日課とし、身延の寺平に塔を建てて実行山本因寺と称した。
その後、本国寺を下山の寺尾に移して西林寺と呼んだが、天正七年(1577)三月十八日に寺平の本因寺を西林房に合併し現在の地に復帰した、という。
以上の本国寺の縁由ならびに由緒沿革の内容から、最蓮房の下山居住説は下山にある本国寺の由来によったものであることが明らかとなる。
すなわち、最蓮房のゆかりの事筆と称するものが他になく、下山の本国寺が開山は最蓮房であるとしていることから、下山居住説は出ている。したがって、下山居住説を検討するには、本国寺の由来をしらなくてはならない。
そのまえに、いつごろから最蓮房の下山居住説や本国寺開山説がいわれてきたのかを各種の大聖人の伝記等を手がかりにみておきたい。
江戸時代中期の享保十六年(1731)の本化別仏祖統紀の「甲州下山本国寺開山日栄上人伝」には「師、諱は日栄、字は最蓮、洛陽の人、天台宗の英なり…翌年乙亥、栄、果たして赦を得、骨肉旧友を見ず。直ちに身延に至り、定省奉侍す。晩に茅を山麓に結いて終に延慶元年戊申四月十八日化す。或いは云く、志茂山本国寺開山は西林房日房なりと。其の日房、末だ何人なることを詳かにせざるなり。恐らくは謬ならんや」とある。
これ以後の安永八年(1277)の本化高祖年譜ならびに攷異には「日浄」の項に「建治元年赦に逢う。甲に如き、大士に事うこと本文の如し」とあり、本文の建治元年の項には「最蓮、先に佐州に謫せらる。今歳、赦に値いて還り、居を下山に卜す。地、延山に隣る。大士朝夕せんと欲してなり」として「下山」項には「巨摩郡に在り、最蓮の遺磧、長栄山本国寺と号す」とある。
それに対し、本化別頭仏祖統紀以前に著された文明十年(1478)の元祖化導記や、貞亨二年(1685)の法華霊場記冠部や、亨保五年(1270)の本化別頭高祖伝などには、最蓮房の下山居住や本国寺当の記述は見当たらない。
これらの諸伝記における記述の有無だけで判断するとすれば、最蓮房の下山居住や本国寺開山説は亨保五年(1731)の間にいわれだしたものといえる。もちろん、下山での最蓮房や本国寺の記述が載っていないからといって、当時そうしたことが全くいわれていなかったとはいえないかもしれないが、たとえいわれていたとしても亨保五年以前においては伝記のなかに取り入れられるほどの明確なものではなかったということであろう。
それでは、最蓮房が下山へ居住していたとする根拠はどこに求められるのであろうか。一般的には下山の本国寺に最蓮房の墓があるということであろう。また、その墓碑の「延慶元戊申歳四月十八日」という銘によって、最蓮房の没年が示されていることによる。
だが、こうした墓は遺骨を埋蔵した墳墓というのではなく、開山がだれであるのかの標識の意味とともに、後世に追善供養のために建てられたものがほとんどといってよい。歴史的にみても、戦国時代末から江戸時代にかけて、多くの寺の格を上げるべくその宗派の著名な僧を開山に仕立てて脚色をほどこした縁起が盛んにつくられた時期がある。したがって開山の墓があるからといって、それを事実在住したことの根拠とするのは短絡的すぎるといえよう。
そのほかに身延十五世の日叙が奥書に「吾祖己心相承秘法最蓮精舎之霊宝書写之畢 御本書過去無量劫難得之祖書精舎宝蔵 殊更予依為多病預之者也」と記した祈祷経が本国寺に所蔵されているところから、これが「最蓮房が下山に在住したとか、本国寺が最蓮房の遺跡であるという何よりの証據だとも思はれる」とする説もある。しかし、この日叙の祈祷経が本国寺にあるということが、どうして最蓮房の下山在住や本国寺が最蓮房の遺跡ということの証拠となろうか。それは、この論者自身がそのあとに「然し単に所蔵據せられてあることを丈に證據して直ちにそこが遺跡だと断定ぬることは如何かと思う」と自らの見解に対する批判を投げかけていることからも、これを根拠とすることには疑問の余地が残ろう。
まして、その蔵経の経緯を「叙師の祈祷経写本が下山本国寺に所蔵されるに至ったのは、おそらく叙師が遷化せられた天正五年正月以後であったろうと思うが、この頃すでに最蓮房が下山に居たとか本国寺はその遺跡だとか云うような伝説が信ぜられていた為に、最蓮房所持の転写本だから下山本国寺に置くべきであろうと云う所から、本国寺に所蔵せられるようになったのではあるまいか」と述べているように、先に「最蓮房所持の転写本だから下山本国寺に置くべきであろうという所から、本国寺に所蔵せられるようになった」とするなら、その所蔵は全く最蓮房の下山在住や本国寺が最蓮房の遺跡ということの証拠としての意味をもたないということになる。
このように最蓮房の下山在住を裏づける根拠は、はなはだ薄弱であるといわざるをえない。
当時の状況から考えてみた場合、最蓮房が建治元年(1275)に下山にきて身延の大聖人に仕えていたとするには、いくつかの点において無理があるように思う。
第一に、大聖人の御書はもとより身延の関係の文献にも最蓮房の下山在住を示すようなものは何一つとしてないということである。
もし延慶元年(1308)まで下山にいたとすると三十余年間、身延と至近の地にいながら、その痕跡が皆無ということはいかにも不自然といえよう。
弘安五年(1282)、大聖人が湯冶のため常陸に出発されたとき、下山に立ち寄られたとされるが、最蓮房とのかかわりの記述は後の伝記当になんら語られていない。そして、御入滅の際の葬送の様子を記録した御遷化記録にも、その後の御廟所を守るべき弟子の番帳のなかにも、その名は見当たらない。大聖人を慕って仕えたとするなら、最蓮房の名が必ずみられるはずであろう。
また、文永十二年(1275)二月づけの立正観抄が最蓮房に宛てられたものとした場合、それは当然、最蓮房の手もとにあるはずだが、これを身延三世の日進が正中二年(1325)に京都で書写してきたという記録があることは、どう考えたらよいであろうか。もし最蓮房が下山に居たとしたなら、没後それほど経っていないことからすると立正観抄も下山あったであろうし、そこに書写するというのが自然ではなかろうか。
ちなみに、日進は最蓮房が亡くなったとされる延慶元年(1308)から六年目の正和三年(1314)に身延に入山している。
更に、本国寺縁由等では下山の平泉寺を本国寺と改めて最蓮房を開山したとされているが、当時、本国寺という寺号の存在を示す資料はない。
逆に、延慶元年(1308)の前年の徳治二年(1307)には、まだ下山に平泉寺はあったと考えられる。徳治二年(1307)の日興上人授与の御本尊脇書きに「下山平泉寺尼」としたためられていることからすると、これは動かし難いであろう。
このように見てくると、最蓮房の下山居住説というものは根拠がないばかりか、否定せざるをえないように思われる。
それでは、なぜこのような説が出てきたのであろうか。先にもみたように江戸前記以前の大聖人の伝記等には、そうした記述はない。しかしながら、本国寺という寺号は江戸前期の史料に散見される。このことから単純に考えられることは、先に本国寺という寺があり、後になんらかの理由から最蓮房の下山居住説というものが唱えられるようになったのではないかということである。本国寺の歴史にこの問題を解決するカギがあると思えるので、本国寺の由来を史料に照らしてみよう。
下山本国寺の寺号は慶長八年(1603)の四奉行黒印の宛所に「本国寺」とあるのが初見である。そのまえというと、慶長六年(1601)の検地帳である慶長古高帳には同所をさして「西林房」と記し、天正十九年(1591)加藤光泰の文書にも「西林房」となっている。また、天正九年(1581)ころと思われる穴山梅雪の文書には「西林房」ときされている。そして、その地はそれ以前にいて穴山梅雪の館であったことが知られているばかりで、そこに寺が存在していたことを示す史料は何一つない。十三世紀末に下山兵庫五郎光基が建てた平泉寺、また下山左衛門四郎光長が新道を建立したときから数えて実に二百数十年間は空白状態であり、確かな史料がない。
もともと、本国寺の縁由等では穴山梅雪の時、本国寺を梅雪の館としたため、それまであった本国寺は下山の寺尾に移され、武田家滅亡の後に元の地に戻ったとしているが、これは信ずるに足りない。確かに寺尾には寺院の跡と思われる楚石等が見つかっており、そこに寺院が存在したことは事実だと思われるが、発見された器物等の考証から平安期から鎌倉時代のものと推定されている。縁由は本国寺の発祥を遡らせるための単なるつじつま合わせに過ぎないと見て差し支えなかろう。
これらのことから言えることは、本国寺は天正年間(1573~1591)の中ごろ興り、当初、西林房と称していたという事実である。西林房と最蓮房の音が似ていることはだれしも気が付くことであろう。現に文化十一年(1814)の甲斐国誌には「長栄山本国寺」の項に編者の考察として「按ニ最蓮西林音相近シ古今通用シテ最蓮房ト称セシト見エタリ」と記している。下山本国寺が、もと西林房と呼ばれていたころから、西林房の寺がやがて最蓮房の寺といわれ、最蓮房が開山の寺といわれるようになったということは容易に想像される。
また、先に引いた本化別頭仏祖統紀の「甲州下山本国寺開山日栄上人伝」の項には「或は云く、志茂山本国寺開山は西林房日芳なりと。日芳、末だ何人なること詳らかにせざるなり、恐らくは謬ならんか」とあった。この日芳が西林房にいた住僧の名か、それとも下山兵庫五郎光基の法号とされる日芳からきたものかは明らかではないが、開山を「西林房」とするという説もあったということは、こうした見解を裏付けるものといえよう。
本国寺が最蓮房と関係のない寺となると、いったい本国寺はどのような縁由の寺院なのであろうか。直接的には最蓮房に関する事柄ではないが、本国寺の起こりを確認しておくことは誤った言い伝えを正す上で意味がないことではないと思われるので、それについて述べることとする。
先にも述べたように、本国寺は穴山梅雪の館跡に建てられたものであり、当初は西林房と言った。本国寺の起こりを考えていくうえで、どうしても穴山梅雪について述べておかなければならない。武田の家臣である穴山一族が甲斐の巨摩郡に勢力を張り出し、下山を含む河内一帯を領したのは十五世紀中ごろといわれる。一方武田系図では穴山氏の祖を武田義武とし、二代を満春、三代の信介以後、穴山氏代々の菩提寺が河内の主要な地に建てられている。
宝徳二年(1450)に没した信介の菩提寺は下山に天輪寺が、四代信懸には永正十年(1513)に本郷に建忠寺、五代信綱には亨禄三年(1530)に下山竜雲寺、六代の信友には永禄三年(1560)に南部に円蔵院が建てられた。その他、梅雪の母の菩提寺として永禄九年(1566)下山に南松院が建てられ、そして梅雪の子勝千代の墓は天正十五年(1587)に福士の最恩寺が建てられている。
このように、それぞれの菩提寺が河内の領地内にあるのに対して、梅雪の墓は駿河国庵原郡の霊泉寺にある。その地が晩年の江尻城主として梅雪の支配下にあった所であったことを考慮したとしても、いかにも奇異な感は否めない。
穴山家代々のなかでも栄えたのは五代信綱・六代信友・七代梅雪の三代の時代だとされているが、その中でも梅雪は武田信玄の姉を母とし、信玄の娘を妻とするなど、主家の武田と親族の関係を結び、最も権勢を誇ったといわれる。その梅雪が、どうして一族の墓のある古くからの領地に菩提寺をもたず、一人だけ離れた所に墓があるのであろうか。
それは梅雪の晩年の境遇とは無縁ではなかろう。梅雪は天正十年(1582)三月の武田滅亡の際、敵の徳川方に降って徳川勢の甲斐進攻を助け、本領を安堵された。それが保身のための裏切りであったか、それとも武田の家系を守らんために恥を忍んでの行動だったのかは意見の分かれるところであるが、いずれにしても当時の社会にあっては親族である主家の滅亡に手をかしたことは、厳しい目が向けられていたことであろう。
そのうえに、その年の六月、徳川家康と泉州の境を遊覧していた梅雪は、織田信長が家臣の明智光秀に討たれた本能寺の変を聞いて急ぎ国許に帰る途中、山城の宇治田原で土民によって殺されている。その遺体は木津川の西南の浄土宗の寺に葬られたとも、草内の渡しの西岸に葬られたともいわれている。甲斐から遠く離れた地での横死であり、遺骨が家族のもとへ届いたかどうかは定かではない。
こうした事情から梅雪の開基とされる霊泉寺が、本国から隔たった駿河の庵原郡薩埵にあるのではなかろうか。なお、駿河の領地は梅雪の死後、徳川の領地となっている。墓の供養もままならなかったであろう。
梅雪の跡を継いだ勝千代は天正十五年(1587)に早逝して穴山家は断絶する。それ以後は穴山家の追善供養を営んだのであろうか。その一人は梅雪の妻であろう。法名を見性院といった。梅雪の妻は子の勝千代の死後、江戸で過ごし、元和八年(1262)没している。
ここで、少しややこしくなるが、梅雪が家康に降りるときに二人の美女を献じており、その一人の秋山夫人の生んだ子、万千代が後に徳川信吉と名乗り、武田の姓を襲って穴山の家跡を継いでいるのである。天称十八年、八歳の信吉は下総の小金三万石に封じられて梅雪の旧臣が付嘱され、翌年からは見性院によって養育された。そして信吉は天正二十五年(1592)年には佐倉十万国に封じられ、慶長七年(1602)水戸二十五万国に加封されている。
この信吉のバックアップによって、穴山家の各菩提寺に供養等がなされたと思われる。慶長八年(1603)信吉が亡くなった後も水戸家によって引き継がれ、それらの供養はなされたようである。
やや梅雪を取り巻く説明が長くなったが、以上のことを踏まえて西林房がどうして本国寺になったかに考えていきたい。
前にも述べたように西林房という名は天正九年(1581)ごろ、江尻から出たものと思われる梅雪の文書に見える。
「 梅雪花押
西林房寺中之竹木之事 縦役□□帯印無置判者不可為切候為其手形可遺候 仍如件
二月二十六日 東漸院 」
という内容で、西林房の寺領の竹木の伐採規定を定めてその管理を東漸院に命じたものである。
この文章の年号は明らかではないが、梅雪はもとは信君といい、天正八年(1508)に除髪して梅雪斉不白と名乗ったといわれる。また天正十年(1582)二月は武田家滅亡の直前の緊迫したときであり、このような文書を出すとは考えられない。したがって、梅雪の花押のあるこの文書は天正九年(1581)のものと推測されるのであるが、いずれにしても、そのころ梅雪の館、もしはその館の一部が西林房と呼ばれておたことは間違いないであろう。おそらくは天正八年(1580)に除髪して以後、そのようにまったのではあるまいか。
なお、先の宛名にあった東漸院というのは、身延山久遠寺にあって貫主に次ぐ要職にあった僧のようである。穴山家の代々の菩提寺は龍安寺が曹洞宗である以外は皆、臨済宗である。それは宗旨を検討したうえの選択というよりも、多分に当時の京での臨済宗が盛んであったことの影響等があったためと考えられる。そうしたなかで西林房が身延の末寺であるということは不可解な感もするが、梅雪の領地の中にあった身延山久遠寺に対して、単なる領主というにとどまらず寺の運営や人事等に深くかかわっていたことからすると、それほど不思議ではないともいえよう。
この西林房が慶長6年(1601)まではあったことが知られているが、天正10年(1582)に梅雪が死に、天正15年(1587)に子の勝千代が死んで穴山家の断絶に直面し、悲嘆のなか妻の見性院の思いとして梅雪の思い出の残るこの西林房を菩提を弔う寺としても不思議ではない。それが、思いもかけず穴山家の跡を継ぐ信吉の出現によって、穴山家の長き栄えと、そこが夫の本国であるとの思いを込めて、本格的な寺院を建立して西林房を長栄山本国寺と改めたと考えられるのである。
それがいつかといえば、前に述べた文献から慶長六年(1601)から慶長八年(1603)との間ということができる。
本国寺を梅雪の菩提供養とする一つの根拠として、本国寺に伝わる棟札がある。これは本国寺境内にあった。神社の宮拝殿等の棟札とされるが、神仏習合の当時にあっては寺と一体のものと考えて差し支えなかろう。
それは寛永十三年(1636)のものと、天和三年(1583)のもので、いずれも梅雪の五十回忌、百回忌直後の建立であり、それぞれ「穴山梅雪賢集台霊 為難苦徳楽證大菩提修営之者也」「穴山伊豆守信君梅雪斉 為難苦徳楽報恩謝徳以衆檀助力修営之者也」と記されている。
以上、みてきたように、本国寺は穴山梅雪との深いかかわりのなかで創建されたものと考えられ、最蓮房とは関係のないことを改めて確認しておきたい。
次に、最蓮房が佐渡流罪赦免後、故郷の京都へ帰ったとする説について考えてみよう。
先にも触れたように最蓮房御返事の末尾のところで「貴辺の御勘気疾く疾く許させ給ひて都へ御上り候はゞ、日蓮も鎌倉殿はゆるさじとの給ひ候とも諸天等に申して鎌倉に帰り、京都へ音信申すべく候。又日蓮先立ちてゆり候ひて鎌倉へ帰り候はゞ、貴辺をも天に申して古京へ帰し奉るべく候。」(588頁)と約束されていたことからすると、最蓮房自身がいっていたものか、それとも大聖人がその気持ちを酌まれたのかは分からないが、最蓮房が京都へ帰ることを望んでいたものとみることができよう。そうしてみると、最蓮房が赦免になったとき京都に帰ったとするのは自然のような気がする。
ところで、最蓮房の帰郷と関連する事柄として、その赦免がいつであったかについて考えてみたい。一説によれば、最蓮房は文永十二年(1275)に赦免になったとしている。この説の初見は江戸時代中期の文献である本化別頭仏祖統紀である。
この書は先にみたように、最蓮房の名前を日栄として、赦免後、直ちに身延の大聖人のもとに行って仕えたと記し、下山本国寺を開山するなど、誤謬と思われるものが少なくなく、これをもって赦免の年を文永十二年(1275)と断定するのはやや不安が残る。
赦免の年を考察するうえで、一つの手掛かりとなるものとして立正観抄送状ならびに立正観抄がある。文永十二年(1275)二月二十八日の日付のある立正観抄送状の冒頭には「今度の御使ひ誠に御志の程顕はれ候ひ了んぬ。又種々の御志慥かに給び候ひ了んぬ。」(773頁)とある。これは、最蓮房が使いをもって種々の御供養をしたことに対して御返事されたところであるが、この使いはどこから遣わされたものであろうか。文の流れからすると、佐渡からのものということは考えがたい。
佐渡の信徒が、身延に入られてからの大聖人に初めて人を遣わしたときの御返事と思われるものに、文永十二年(1275)四月十二日のこう入道殿御返事がある。それには、最初に御供養の品々を挙げられたあと「人の御心は定めなきものなれば、うつる心さだめなし。さどの国に候ひし時、御信用ありしだにもふしぎにをぼへ候ひしに、これまで入道殿をつかわされし御心ざし、又国もへだたり年月もかさなり候へば、たゆむ御心もやとうたがい候に、いよいよいろをあらわし、こうをつませ給ふ事、但一生二生の事にはあらざるか。」(795頁)と、佐渡から身延の大聖人のもとへ御供養してきた、その信心の姿勢を心から讃嘆されている。国府入道よりも数ヶ月も早い時にあたる最蓮房の使いが、もし佐渡からのものであれば、その御返事も一行で終わるような簡単なものではなかったはずである。
また、使いに託した質問の内容は、止観勝法華等についてであり、これは当然、天台宗でいわれていたものと考えられる。そうした教説は比叡山を中心に論じられていたものであろうことからすると、この質問をしてきたときには最蓮房は京都にいたのではないかと推測される。
ここで注意しなければならないことは、たしかに立正観抄送状の日付は文永十二年(1275)二月二十八日であるが、立正観抄が文永十一年の御述作とされているということである。ということは、最蓮房の使いは文永十一年(1274)に大聖人のもとにきていることになる。
立正観抄は文永十一年(1274)にしたためられたが、なんらかの事情により、文永十二年(1275)二月二十八日に立正観抄送状とともに最蓮房に送られたのであろうか。そうすると、最蓮房は文永十一年(1274)の時には既に京都にいたものと考えられよう。
このようにみてきると、最蓮房の赦免は、大聖人が赦免になった文永十一年(1274)以降で同年十二月までの間となろう。ここでは大まかに文永十一年(1274)の後半のころ最蓮房は赦免になって京都に帰ってきていたものとしておきたい。
更に、京都帰郷説の一つの裏付とみられるものに、身延三世・日進によるといわれる立正観抄の写本の奥書がある。そこには「正中二年乙丑三月於洛中三条京極最蓮房之本御自筆有人書之今于時正中二年乙丑十二月廿日書写之也身延山重写也」と記されているという。日進むがどうしてこのような意味不明瞭な文を書き記したものか理解に苦しむところであるが、それでも意を酌んで読み下せば、次のように読むことができようか。「正中二年三月、洛中の三条京極に於いて最蓮房の本の御自筆を有る人、之を写す。今、時に正中二年一二月二十日、之を書写するなり、身延山にて正徳二年四月中旬、重ねて写すなり」と。
ここからすると、正中二年(1325)三月に最蓮房所持の立正観抄の御真筆を、ある人が洛中の三条京極で書写したものがあったものと思われる。それを日進が正中二年(1325)十二月二十日に書写し、元徳二年(1330)四月中旬に身延山で重ねて書写したということであろう。もし正中二年(1325)三月、洛中の三条京極に最蓮房に送られた立正観抄の御真筆があったとすれば、これは最蓮房が京都に帰っていたというかなりの有力な根拠といえよう。
ここで、洛中の三条京極で書写したといわれる、その場所を確認しておこう。京都にあっては、その位置を示すのに東西・南北に走る碁盤の目のような道路を用いる。三条京極の三条とは東西に走る道路のなかの三条大路を意味し、京極とは南北に走る東京極大路をさす。京極大路は西にもあったが、平安京の西側は造営当初から発展せずに荒廃したままであったので、一般に京極という場合は東京極大路をさしていたようである。
当時、ここに天台宗の京極寺という寺院があったことが知られている。この寺は桓武天皇の皇子・賀陽親王の創建と伝えられ、今昔物語にも記されている。平安時代後期には延暦寺の末寺となり、山門の衆徒の拠点と化した。そして、鎌倉時代にかけて京極寺の神輿が振られ、たびたび強訴に利用されている。
もし、この寺に立正観抄の御真筆があったとすれば、最蓮房も京極寺になんらかの関係があったものとみることができよう。もしかすると、最蓮房はこの寺で出家したのかもしれない。そして、赦免の後、京都に帰った最蓮房は昔なつかしい京極寺において仏法の研鑽に励むと同時に大聖人に教えをうけつつ、晩年をすごしたというような想像もできよう。
寂年については、本化別頭仏祖統紀に「延慶元年戊申四月十八日、或いは曰く二日化す」とあるが、これは信ずるに足りない。最蓮房に与えられた御書のうち残っているもののなかで、一番最後の御書は、弘安三年(1280)十一月三日の十八円満抄であるが、その後どれほどの年月を過ごしたかは、はっきりしない。