文永八(1271)年十月、鎌倉幕府は日蓮大聖人を佐渡へ流罪した。佐渡といえば、神亀元(0724)年に伊豆・安房・常陸・隠岐・佐渡とともに流罪の地と定められた所である。
「佐渡の国につかはされしかば、彼の国へ趣く者は死は多く、生は希なり」(821頁、法蓮抄)
とあるように厳しい自然環境の中に、いままで多くの罪人が流されたが、そのほとんどが佐渡の地で生涯を閉じている。流刑は笞・杖・徒・流・死の五刑中、死罪に次ぎ、しかも遠流の場合、死罪に代わるものであった。日蓮大聖人は、この佐渡で二年五ヵ月にわたって流人として過ごしてきたのである。十月十日、依智を出発。その夜は武蔵国久目河に泊まり、児玉を経て、十月二十一日、寺泊に到着、日本海は荒れもようで、波の静まるのを待ち、十月二十八日、佐渡に到着。配所の塚原三味堂に入られたのは、十一月一日であった。塚原の地は、守護代・本間六郎左衛門の館の後方にあり、死人の捨て場のようなところであった。そこにあった三味堂は、一間四面の小さな堂で、本来、人の住む建物ではなく、長年修理もされていなかったらしく極度に荒廃していた。その様子について次のように記されている。
「そらはいたまあわず、四壁はやぶれたり。雨はそとの如し、雪は内に積もる。仏はおはせず、筵・畳は一枚もなし」(1264頁、妙法比丘尼御返事)、
「法華経を手ににぎり、蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり」(1264頁、妙法比丘尼御返事)、
「雪にはだへをまじえ、くさをつみて命をさゝえたりき。」(740頁、国府尼御前御書)、
「昼夜・耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり、現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ」(821頁、法蓮抄)
と、着るものも乏しい、寒さと飢えによる苦しみを一身に受けられながらの毎日を過ごされたのである。しかも佐渡の念仏者は、大聖人を亡き者にしようと、常に機会をうかがい
「彼の国の道俗は相州の男女よりもあだをなしき。」(740頁、国府尼御前御書)、
「地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、かよう人をあるをまどわさんと」(1253頁、千日尼御前御返事)
とあるように、島の念仏者が大聖人に近づく者がないように常に監視していた。
こうした流人の身として、たえず生命の危険にさらされた生活のなかにあって、一人二人と大聖人の教えに帰依する者がでてきた。阿仏房夫妻、国府入道夫妻等であった。
「阿仏房にひつをしをわせ、夜中に度々御わたりありし事」(1253頁、千日尼御前御返事)、
「しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはゞからず、身にもかわらんとせし人々なり」(740頁、国府尼御前御書)
と、大聖人は、後年、感謝の意をこめてしたためられている。
大聖人を佐渡で亡きものにしようと企んだ幕府権力者達の意を受けて、大聖人の住居の近くを歩いただけでも信仰者達を牢につなぎ厳しい取り調べをした時もあった。ましてや、日蓮大聖人に食物を運んでいることがわかれば、どのような咎めを受けるかわからなかった。おそらく生命にもかかわったであろう。
「或は其の前をとをれりと云ひてろうに入れ、或は其の御房に物をまいらせけりと云ひて国をおひ或は妻子をとる」(1067頁、種々御振舞御書)、
「或は所ををい、或はくわれうをひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ひぬ」(千日尼御前御返事、1253頁)
とあることからも、その厳しさがうかがわれる。
しかし、これほどの危険を冒しても、阿仏房夫妻、国府入道夫妻は、昼は監視の目が厳しいので、夜中に人目につかないように、食物をはじめ、不足しがちの紙・硯・墨など種々御供養申し上げたのである。
こうした真心と勇気ある行為に対して、大聖人は、
「いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡国に生まれかわりて有るか」(千日尼御前御返事、1253頁)、
「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。浄行菩薩はうまれかわり給ひてや日蓮を御とぶらひ給ふか。不思議なり不思議なり」(阿仏房御書、793頁)
とまで賞められている。
その後、文永九(1272)年四月、大聖人は、塚原の地から石田郷一谷にある一谷入道の館に移された。
一谷に移されて、状況は塚原の地より恵まれてきたようであるが、流罪の生活に変わりはなく、まして念仏者等の憎悪の念は、文永九(1272)年一月の塚原問答に破れたことから、いよいよ増していた。
「預かりたる名主等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに」(一谷入道女房御書、829頁)
という状態であった。しかも、
「預かりよりあづかる食は少なし。付ける弟子は多くありしに、僅かの飯の二口三口ありしを、或はおしきに分け、或は手に入れて食せしに」(一谷入道女房御書、829頁)
とあるように、一段と食糧に事欠くようになっていた。それは大聖人に支給される食糧はきわめて少ないうえに、
「是へ流されしには一人も訪ふ人もあらじとこそおぼせしかども、同行七八人よりは少なからず」(呵責謗法滅罪抄、718頁)
と、大聖人に給仕する弟子の数が多くなっていたからである。
こうした一谷の生活の中にあっても実際に大聖人を預かった一谷入道夫妻も、大聖人に帰依し、外護の任を果たすようになっていった。
一谷入道は、
「久しく念仏を申しつもりぬ。其の上阿弥陀堂を造り、田畠も其の仏の物なり」(一谷入道女房御書、829頁)
とあるような念仏者であった。しかし、
「宿の入道といゐ、めといゐ、つかうものと云ひ、始めはおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内々不便と思ふ心付きぬ。預かりよりあづかる食は少なし。付ける弟子は多くありしに、僅かの飯の二口三口ありしを、或はおしきに分け、或は手に入れて食せしに、宅主内々心あて、外にはをそるゝ様なれども内には不便げにありし事」(一谷入道女房御書、829頁)
とあるように、初めは大聖人に接するのに恐れを抱いていたようであるが、徐々に一族皆好意をもつようになり、食糧の面でも優遇するようになっていった。しかも、
「入道の堂のらうにていのちをたびたびたすけられたりし事」(千日尼御前御返事、1254頁)
といわれている点からみても、たびたび大聖人を危機から護ったようである。
また中興に住む中興入道の父・次郎入道も大聖人に帰依し、
「島にてあだむ者は多かりしかども、中興の次郎入道と申せし老人ありき。彼の人は年ふりたる上、心かしこく身もたのしくて、国の人にも人とをもはれたりし人の、此の御房はゆへある人にやと申しけるかのゆへに、子息等もいたうもにくまず。其の已下の者どもたいし彼等の人々の下人にてありしかば、内々あやまつ事もなく、唯上の御計らひのまゝにてありし程に」(中興入道御消息、1432頁)
と、人望も厚く、身分のある人であったが、大聖人を恨む人々が鎌倉よりも多いなかにあって、大聖人に帰依し、「この御房は何かいわれのある人に違いあるまい」と子の中興入道や家族の者に厳命するなど大いに外護の任を果たしていった。
子の中興入道もまた、
「故入道殿のあとをつぎ、国主も御用ひなき法華経を御用ひあるのみならず、法華経の行者をやしなはせ給ひて」(中興入道御消息、1434頁)
と父の跡を継ぎ、大聖人の生活を支えるために種々の御供養を差し上げたのである。
こうした人々に対しても、
「何の世にかわすれん。我を生みておはせし父母よりも、当時は大事とこそ思ひしか。何なる恩をもはげむべし。まして約束せし事たがうべしや」(一谷入道女房御書、829頁)
と、自分の父母よりも大事に思い、その真心に応えられたのでる。
さらに、この四月には鎌倉から四条金吾が、五月には日妙尼が幼子を連れて、はるばる御供養の品々を携えて佐渡まで大聖人を訪ねて来たし、遠近の弟子・檀那からは、種々の消息・御供養が届くようになり、生活も塚原の時と比べると徐々にではあるが安定してきた。
しかし、念仏者の唯阿弥陀仏、持斎の生喩房の弟子・道観などが相変わらず大聖人を亡き者にしようと画策し、武蔵守宣時に早く対置するようにと訴え、宣時はそれに応えて、三度も私製の御教書を出すなど、弟子檀那を近づけないようにと大聖人の身辺の厳しい取り締まりは続けていた。
日蓮大聖人は、このような佐渡の地で、日蓮仏法の骨格ともいえる重要な法門についての御抄を次々と著された。竜口法難以後、久遠の本地を顕された大聖人にとって、末法救済の大法を明確に遺すことが、単に門下のみならず、末法の未来まで全民衆のために、なさねばならない仕事であったからである。
文永九(1272)年の「開目抄」「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「佐渡御書」、文永十(1273)年の「観心本尊抄」「諸法実相抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」「当体義抄」等々三十数編にのぼっている。特に、文永九(1272)年二月に塚原で著された人本尊開顕の書「開目抄」と、文永十年四月に一谷で著された法本尊開顕の書「観心本尊抄」は、日蓮大聖人の奥義を明かす二大柱石とされている。
しかもこうした重要な御抄が、
「佐渡の国は紙候はぬ上」(佐渡御書、583頁)
とあるように、ともすれば筆紙の窮乏の中でしたためられたのであり、「観心本尊抄」の御真筆を拝しても、紙は一様ではなく、全17紙中、前半は和紙、後半は雁皮紙が使われ、さらに表と裏にしたためられているなど、いかに物資の不足した大変な状況の中で執筆されていたかうかがわれる。
こうした佐渡での生活も、文永十一(1274)年二月、幕府の流罪赦免によって終わりを告げた。赦免状は二月十四日に発せられ、佐渡へは三月八日に到着した。
赦免の理由は、
「科なき事すでにあらわれて、いゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計らひばかりにて、ついにゆり候ひてのぼりぬ」(中興入道御消息、1433頁)
とあるように、無実の罪であることはすでに明らかであったし、自界叛逆・他国侵逼等の予言が的中していた。それでもなお北条一門をはじめ、諸大名はこぞって反対したが、執権・北条時宗の裁量によって赦免決定がなされたようである。文永十一(1274)年三月十三日、真裏港を出発、信濃路を経て鎌倉に向かった。阿仏房・国府入道・中興入道・一谷入道等の佐渡の人々にとっては、大聖人が流罪を許されて鎌倉に還られることは、喜ばしいことではあったが、半面、二年五ヵ月にわたって親しく給仕してきた大聖人と別れることはとても辛いことであったであろう。
大聖人にとっても、同様であった。
「さればつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すゝむあしもかへりしぞかし」(国府尼御前御書、740頁)
とその心境を述べられている。
一方、佐渡の念仏者は、大聖人を阿弥陀仏の敵として、生きて鎌倉には帰すまいと企んでいた。
「念仏者等僉議して云はく、此程の阿弥陀仏の御敵、善導和尚・法然上人をのるほどの者が、たまたま御勘気を蒙りて此の島に放されたるを、御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云ひて、やうやうの支度ありしかども」(種々御振舞御書、1067頁)
とあるが、
「何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来たりて島をばたちしかば、あはいあしければ百日五十日にもわたらず。順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ」(種々御振舞御書、1067頁)
と、予期せぬ順風に恵まれて対岸へ渡ることができ、そのため、念仏者は全く危害を加えることができなかったようである。
かくして、
「去ぬる文永十一年太歳甲戌二月の十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉へ入り」(報恩抄、1030頁)
とあるように、二年半ぶりで無事鎌倉に帰られたのである。
文永十一(1274)年三月二十六日に日蓮大聖人は、鎌倉に着かれた。そして四月、三度目の国主諌暁をされたあと、
「いにしへの本文にも、三度のいさめ用ひずば去れといふ。本文に任せて且く山中に罷り入りぬ」(1153頁、下山御消息)
とあるように、鎌倉を去る決意をされ、波木井郷・身延の地を選ばれて、五月十七日に入山された。
身延の地は、
「北には身延の岳天をいたゞき、南には鷹取が岳雲につゞき、東には天子の岳日とたけをなじ。西には又峨々として大山つゞきて、しらねの岳にわたれり。猿のなく音天に響き、蝉のさゑづり地にみてり」(1373頁、松野殿女房御返事)、
「このところは山中なる上、南は波木井河、北は早河、東は富士河、西は深山なれば、長雨・大雨、時々日々につゞく間、山さけて谷をうづみ、石ながれて道をふせぐ。河たけくして舟わたらず」(1272頁、上野殿御返事)
等とあるように、周囲を険しい山に囲まれ、激しい河の流れにはさまれた奥深いところであった。
しかし、大聖人が草庵に落ち着かれたことを知ると、各地から弟子檀那が大聖人を慕って身延の身を訪れた。そして、大聖人はこの奥山で、法門の講義、弟子の育成、了法久住の戦いを展開されたのである。
こうして大聖人のもとを訪れる弟子檀那の中に、遠く佐渡に住む阿仏房や国府入道の姿も見られた。
当時、佐渡から身延まで、どのような経路で行ったかは定かではないが、阿仏房は、およそ二十日ほどの日数を経て身延に着いている。その間、海を渡り、山を登り、谷を越し、文字道り険難の道であった。また当時は、山賊や海賊がしばしばあらわれ、宿泊すべき宿も少なく、食糧も持ち歩かなければならなかったであろう。
そのうえ、文永十一(1274)年十月には、蒙古の大軍が壱岐・対馬を侵略し、嵐による壊滅後、翌建治元(1275)年九月には、幕府に再度入貢をすすめてきた蒙古の使者を鎌倉で斬首している。また建治三(1277)年の秋頃より、翌弘安元(1278)年の春にかけて疫病が大流行している。
このように内外が騒然とした中での長旅は、常に生命の危険にさらされることを十分覚悟の上でなければできない難事であった。しかし、阿仏房はこうした幾多の障害を乗り越え、貯えた銭や、千日尼の女性らしい細やかさで調えた心尽くしの干飯、また山中では得難いと思われる海苔、わかめなどの品々を携え、身延に向かったのである。弘安元(1278)年七月、阿仏房は高齢をおして、大聖人のもとへ三回目の参詣をした。
大聖人は、この老いた夫を快く送り出した妻の信心を称賛された千日尼御前御返事の中で、
「人は見る眼の前には心ざし有れども、さしはなれぬれば、心はわすれずともさてこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」(1253頁、千日尼御前御返事)
と喜ばれている。
また、この年は前述の通り疫病の流行した時でもあった。大聖人は、はるばる訪ねた阿仏房の姿を見つけ、心せくままに、佐渡の人達の状況をまず問うておられる。
同御返事には
「七月廿七日の申の時に阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにと、まづといて候ひつれば、いまだやまず、こう入道殿は同道にて候ひつるが、わせはすでにちかづきぬ、こわなし、いかんがせんとてかへられ候ひつるとかたり候ひし時こそ、盲目の者の眼のあきたる、死し給へる父母の閻魔宮より御をとづれの夢の内に有るを、ゆめにて悦ぶがごとし」(1254頁、千日尼御前御返事)
と。心にかかっていた佐渡の懐かしい人々が、疫病の流行にもかかわらず、元気で信心に励んでいる様子を喜ばれ、安堵されているお気持が切々と伝わってくる御文である。この時は、国府入道も途中まで、阿仏房と同道したが、稲の借り入れのため、やむなく引き返した。しかし、それ以前にも、数回、御供養の品を携え、身延に参詣している。
こうして大聖人のもとを訪ねた人々は、
「又今年来てなつみ、水くみ、たきぎこり、だん王の阿志仙人につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ」(1220頁、是日尼御書)
とあるごとく、大聖人やお弟子達の身の回りの世話をしつつ、十日、一月と過ごしたようである。
しかし大聖人が心にかけられたのは、現実に眼前にやってきた夫達以上に、このように夫を送り出し、留守を守っている夫人達のことである。
また国府入道夫妻に対しては、
「子息なき人なれば御としのすへには、これへとをぼしめすべし」(795頁、こう入道殿御返事)
と、老後のことまでに温かな配慮をされている。
やがて、阿仏房は、弘安二(1279)年三月二十一日、佐渡でその生涯を終えた。純真な信心を全うした阿仏房に対し、大聖人は、
「故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも、法華経の明鏡をもって其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」(1475頁、千日尼御前御返事)
とおおせられている。その年の七月、阿仏房の子・藤九郎は、遺骨を大聖人のもとへ納めるべく、身延を訪ねた。その後、父の跡を継ぎ、法華経の行者として、佐渡・北陸方面の弘教に励んだ。
このように、佐渡に住む人々は大聖人のもとからは、海山をはるかに隔てた地にありながら、大聖人を心から慕い、大聖人に直結した信心を貫いたのである。