池上兄弟は、数多くの大聖人門下のなかでも、とくに四条金吾、富木常忍、南条時光などと並び称される模範的な信徒である。それは有名な「兄弟抄」を初めとする、これら十七編の御書に如実にしのぶことができる。御書に残された大聖人の指導は、ある時は、百雷が一時に落ちるような厳しい御叱責であったり、またある時には、さながらわが子に対するような暖かい慈愛にみちた激励であったりする。その大聖人の、心を尽くしての指導を、池上兄弟は終始一貫して忠実にまもり、見事、数々の難を克服していったのである。
なかんずく兄弟抄の「魔競はずば正法と知るべからず。」(986頁)との御金言は、末法の御本仏たる日蓮大聖人がわれら門弟に示された信心の永遠の指針である。正しく日蓮大聖人の御一生それ自体、想像を絶する三障四魔との闘争の連続であった。
また、大聖人のお弟子方も、数々の三障四魔を乗り越え、それぞれ幸福境涯を確立している。なかでも、二十余年間、あらゆる困難や三障四魔と戦いぬいて、宿命を打開し、遂に一家の革命をなし遂げた池上兄弟の姿は、現在もなお、信心の鏡として輝いているのである。
池上家の由来については、定かではないが、その本来の姓は、藤原氏であることが、一般の説のようである。その一説によれば、摂政藤原忠平を父に、源能有の娘を母に持つ、藤原忠方に始まるという。すなわち、忠方は、天慶三年(940)の平将門の乱平定のために、京都より下向し、戦功を立て、武蔵国千束池のほとりに住居をかまえ、池上の名をもって氏としたというのである。
池上兄弟の父左衛門大夫康光は、鎌倉幕府の作事奉行として、この武蔵国池上にある千束の郷を賜っていた。康光の名は「吾妻鏡」の中に、暦仁元年(1238)六月、将軍頼経の春日神社の社参の衛兵の一人、「池上藤兵衛康光」として記されている。また御書の中にも「さえもんの大夫殿」とあり、当時の慣例に従って「兵衛尉」より「衛門尉」に転じたと思われる。
また、兄弟もそれぞれ御書には「右衛門の大夫志宗仲」「兵衛志宗長」と呼ばれている。この「大夫」という呼称からみると、父子ともに五位に叙爵されていたことがわかる。また、当時の通例として、父を左衛門大夫といい、子を右衛門の大夫の志、兵衛の志といっていたようである。
次に「志」は兵衛府・衛門府の第四等の官名である。
長官を督、二等を佐、三等を尉、そして四等を志というのである。「職原抄」によれば、衛門志は六位官である。六位の担当官であって、五位となるので「右衛門大夫志」あるいは「大夫志」と呼ぶのである。当時、位階が実質的なものではなくなってきたとはいえ、執権すら四位五位を上らなかったことを思えば、鎌倉時代にあっては、相当な身分であったといえる。なお、池上左衛門康光が鎌倉幕府の作事奉行であったことは前述したが、同奉行は、引付方に属する十三奉行の一つで、殿舎の造営や修理などの建築、土木をつかさどっていた。
池上右衛門大夫宗仲の入信は、日蓮大聖人が立宗を宣言された建長五年から三年目、建長八年(1256)ごろと伝えられている。一説によると、宗仲が三四歳の時であった。同じ年、当時二七歳であった四条金吾も入信したと伝えられている。続いて、弟兵衛志宗長も入信した。池上兄弟は建長五年十一月に大聖人に帰依して、門下となっていた弁阿闍梨日昭の甥であったから、その関係で入信したともいわれている。
このころは、先の四条金吾をはじめとして、安房の国、長狭郷天津の豪族、工藤左近尉吉隆、進士善春、また池上家の縁にあたるといわれる荏原義宗などの青年武士が続々と入信し、松葉ヶ谷の庵室は、草創期の息吹に満ちていたのであった。
一方、池上兄弟の父康光は、兄弟の信心には猛反対であった。それは康光が、律・念仏の極楽寺良観の熱心な信者であったためである。実に、弘安元年、父康光が入信するまで二十余年にわたる反対であった。
入信当時から文永十二年(1275)の兄宗仲の勘当に至るまで、約二十年間は、池上兄弟に関する資料は全くない。しかし、その間、大聖人の門下に対して三障四魔の嵐が吹き荒れたなかで、兄弟が純真に信心を貫いたことは、あとに述べる御書の指導からも想像に難くない。
建長八年ごろ入信した池上宗仲、宗長の兄弟は外には天変地夭、蒙古襲来、物情騒然たる世相であり内には日蓮大聖人およびその門下に対する激しい迫害のあったなかで、以来二十年間にわたる信心を貫いたのであった。したがって、その間も決して平坦な道でなかったことは、容易に推察されるところであるが、資料がないので詳しいことはわからない。
文永八年(1271)、雨祈に敗れて以来、怨みに燃え、日蓮大聖人を讒訴して首の座にすえ、さらには佐渡へ流罪する等の卑劣な行動に出ていた良観等は、大聖人に対する弾圧が成功しないと見ると、今度は日蓮大聖人の一門を内から切り崩すために、弟子檀那に対してその信心を妨害する妄道を始めたのであった。
池上宗中を父・康光が勘当したことも、そうした良観の策謀の一つであった。兄弟の勘当以後の数年間は、二人にとって大きな宿命転換の戦いであり、信心は魔との戦いであることを、身をもってしめしたものであった。そのゆえに、日蓮大聖人は、兄弟抄で次のように仰せである。「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ。」(986頁)
正法を修行するゆえの難である。また二人の信心の境涯が進んできたゆえの難である。父康光の勘当に負けず、畏れず戦い切りなさいと指導されたのであった。
三障四魔紛然の文は日蓮大聖人御自身も身で読まれた、また門下一同が、信心の明鏡とすべきものであるがゆえに、兄弟二人が、まずこの文を身をもって読み切り、未来の門下の先駆けとなりなさいとの激励でもあった。池上兄弟は、日蓮大聖人から、慈愛あふれる指導をうけて、おおいに奮起したのである。
兄弟の父・康光は、念仏の強信者であり、良観の熱烈な信奉者であった。したがって、念仏無間と破折し良観を「僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定せり。」(極楽寺良観への御状、376頁)と断言される日蓮大聖人を憎み、兄弟二人が大聖人に帰依したことに対して、何とか心を翻させようと考えたことは想像にかたくない。康光が宗仲を勘当するというような事件も、起こって当然であると考えられるであろう。しかし、それは、仏法の眼からみればさらに明瞭たるものがある。
「正法を修行して、なぜ、父に勘当されるような難をうけるであろうか」日蓮大聖人は、その疑問に対して、兄弟抄に二つの理由をあげて指導されたのせある。
難を受ける一つは悪知識によるのである。昔、舎利弗が、六十劫という長期間、法華経の修行をしながら、退転したのも、乞眼の婆羅門となって現われた魔に負けてしまったがためである。この婆羅門が舎利弗にとっては悪知識であった。いま、池上兄弟にとっては、父・康光が、悪知識として二人の信心を妨げんとしているのである。したがって、康光の言葉にのったり、情にひきずられて退転したならば、、兄弟二人とも地獄に堕ちてしまう。そこで大聖人は、次のように、悪知識を恐れよと指導されたのである。
「天台大師釈して云はく『若し悪友に値へば則ち本心を失ふ』云云。本心と申すは法華経を信ずる心なり。」(979頁)「されば法華経を信ずる人のをそるべきものは、賊人・強盗・夜打・虎狼・師子等よりも、当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人々なり。」(980頁)
法華経を信ずる者が、もっとも恐れ、心していくべきものは、強盗や夜打ち、虎や狼のような猛獣、また蒙古の襲来等ではなく、信心を妨げようとする人々である。強盗、夜打によって盗られるものは金銭や物品であり、虎狼や合戦においても、現在の生命を失うにすぎない。しかし、悪知識は信心を破って、その人の永遠の幸福を破壊し、無間地獄に堕とす地獄の使いだからである。では、兄弟にとっては、父である康光が、悪知識となって、信仰を妨げるとは、どういうことであろうか。
大聖人は、この世界は第六天の魔王の所領であり、仏道修行をしている者をみると、第六天の魔王は、自分の眷属の減るのを恐れて、父母等の身に入って信心を邪魔しようと計るのであると教えられている。
「第六天の魔王或は妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、或は国王の身に入って法華経の行者ををどし、或は父母の身に入って孝養の子をせむる事あり。」(980頁)
釈迦仏ですら、出家する時に第六天の魔王が邪魔をした。いま池上宗仲・宗長の場合も、兄弟の信心が強盛になってきたのを見て、第六天の魔王が、康道の身にはいって、せめているのである。
「父母の身に入って孝養の子をせむることあり」とは、とくにこの時の二人の身についていわれたものである。池上兄弟二人にとって、辛いことは、高齢の父を裏切ることであったに違いない。第六天の魔王は、それを知って、父、康光の身に入りかわって兄弟を苦しめ、兄弟を退転させようと図ったのであった。
今度の池上兄弟に対する難は直接には念仏者である父康光によって惹き起こされているように見えるが、それは表面だけの姿であり、その裏には、極楽寺良観等の策謀があった。それは「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに」(1270頁)と述べられている通りである。
大聖人の門下のなかにも少輔房等のように初めは信心修行に励んだが、途中で退転して、もとから誹謗していた者よりも、かえって激しく大聖人を非難した者もあった。それらもすべて、この魔王のついた悪知識の働きにまけたのであった。そこで日蓮大聖人は、兄弟に法華経を捨てる恐ろしさを次のように説かれ、深く退転を戒められたのである。
「さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。一字一点もすつる人あれば千万の父母を殺せる罪にもすぎ、十方の仏の身より血を出だす罪にもこへて候ひけるゆへに三五の塵点をば経候ひけるなり。」(979頁)
しかし、このように恐るべき悪知識も、修行者の一念によって、善知識に転ずるのである。日蓮大聖人においても、北条時宗、平佐衛門尉ら大聖人に迫害を加えたものを、善知識としてられる。種種御振舞御書に「相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆逹多よ。」(1063頁)とわれているのがそれである。
池上兄弟にとっては、父・康光は、宗仲を勘当して、信心を妨げようしたのであるから悪知識というべきであるが、結果的には、二人の信心を強盛にし、二人の宿命転換を成し遂げただけでなく、自らも入信することとなったがゆえに、善知識といえるのである。
難を受ける第二番目の原因は、過去世における正法誹謗の罪によるのである。池上兄弟が、康光のような念仏の強信者のもとに生まれ、強い迫害に値わねばならぬ原因は、過去世にあったといえる。
「今又日蓮が弟子檀那等は此にあたれり。法華経には『如来の現在すら猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや』と。又云はく『一切世間怨多くして信じ難し』と。涅槃経に云はく『横さまに死殃に罹らん、呵責・罵辱・鞭杖・閉繋・飢餓・困苦、是くの如き等の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず』等云云。般泥洹経に云はく『衣服不足にして飲食麁疎なり。財を求むるに利あらず。貧賤の家及び邪見の家に生まれ、或は王難及び余の種々の人間の苦報に遭ふ。現世に軽く受くるは斯の護法の功徳力に由る故なり』等云云。文の心は、我等過去に正法を行じける者にあだをなしてありけるが、今かへりて信受すれば過去に人を障へつる罪によて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳強盛なれば、未来の大苦をまねきこして少苦に値ふなり。」(981頁)
般泥洹経の「邪見の家に生れ」とは、兄弟が念仏信者の康光の子として生まれたことであり、「浅い王難」とは、法華経の行者を迫害する悪王の国に生まれたことを指すのである。こうした困難に遭うのは、過去世において、正法を行じていた者に反対した結果である。この正法誹謗の罪によって、未来に地獄に堕ちる筈であるのに、今生にその罪障を招き出すことができたのは、法華経を信じた功徳によるのである。この日蓮大聖人の指導にしたがって考えれば、いま兄弟が、康光からせめられていること自体が大きな宿命転換であり、大功徳なのである。池上兄弟は、このように、大聖人より仏法の因果律の上から、明快な指導を受けて腹を決めて戦ったのである。
兄弟にとって、最大の悩みは、法華経につくか親につくかであったであろう。日蓮大聖人は、その兄弟の心を知り、「真の孝養とはなにか」ということについて、明確な指導を成されたのである。
「一切はをやに随ふべきにてこそ候へども、仏になる道は随はぬが孝養の本にて候か。」(983頁)
世間的に考えれば、すべては親に随うべきである。しかし、成仏の道は、親がそれを妨げる時には随わないのが、孝養の本である。なぜなら、仏道修行によって、自分自身が仏の境涯を得てこそ、親をも根本的に救うことができ、真実に親の恩を報ずる者となるからである。この「仏道修行こそ孝養の道である」という指導は、池上兄弟の信心に対する深いくさびとなった。いずれにしても、このような三障四魔を呼び起こしたというこは、兄弟二人が、信心の関所にさしかかっていたことを示すものであり、宿命転換の大事な時点であたことを証拠づけるものであった。
さて、当時の勘当は、単に父と兄弟という関係だけでなく、兄弟二人の仲を裂くという要素も含まれていた。さらに鎌倉時代における勘当は、現代と違って、重大な意味をもっていた。それは血縁関係の断絶だけではなく、経済的保証を奪い取ることでもあり、また社会的な破滅をも意味するものであった。したがって、家督相続権を、兄宗仲から剥奪し、弟の宗長に与えるということは、弟にとっては、大きな魅力であったであろう。
日蓮大聖人はそれを心配され、弟宗長の信心がゆらぐことを心配しておられた。それゆえ、兄弟抄も別して兵衛志宗長に与えておられるのである。ところが、この災難に対し、宗長は兄について、二人は心を合わせて戦った。それを大聖人は大変喜ばれ「賢王のなかにも兄弟をだやかならぬれいもあるぞかし。いかなるちぎりにて兄弟かくはをはするぞ。浄蔵・浄眼の二人の太子の生まれかわりてをはするか、薬王・薬上の二人か。大夫志殿の御をやの御勘気はうけ給ひしかども、ひゃうへの志殿の事は今度はよもあににはつかせ給わじ。さるにてはいよいよ大夫の志殿のをやの御不審は、をぼろげにてはゆりじなんどをもいて候へば、このわらわの申し候はまことにてや。御同心と申し候へばあまりのふしぎさに別の御文をまいらせ候。未来までのものがたりなに事かこれにすぎ候べき。」(984頁)とおほめになっている。
そして、故事を例にあげて兄弟仲よくしなさいと指導され「今二人の人々は隠士と烈士とのごとし。一もかけなば成ずべからず。譬へば鳥の二つの羽、人の両眼の如し。」(986頁)と二人の団結を強調されている。さらに大聖人は、兄弟の油断を戒められている。
「一生が間賢なりし人も一言に身をほろぼすにや。各々も御心の内はしらず候へばをぼつかなしをぼつかなし。」(983頁)
「設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入って、法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり。何に況んや其の已下の人々にをいてをや。」(980頁)
仏の境涯に等しいところまで昇った菩薩ですら、元品の無明という悪鬼に惑わされて、妙覚の位に入ることができない。まして、それより劣る人々においては、この元品の無明を断ち切ることは、まことに困難である。池上兄弟は、この時、既に二十年にわたって信心を貫いていた。しかし、その信心の年功も、ひとたび第六天の魔王に従う心を起こしたときには一瞬にして水泡に帰してしまうのである。
また、当時は、自界叛逆、他国侵逼の両難が並び起こり、文永九年(1272)二月には、評定衆、名越時章、教時とそれに呼応した六波羅南探題、北条時輔の内乱等があり、文永十一年(1974)には、蒙古の大軍が壱岐、対馬に攻め寄せた。この自界叛逆、他国侵逼の両難によって、日本国全体が、戦乱の恐怖の渦にまきこまれていた。そして、上は国王から、下は民衆に至るまで、全てが修羅道に堕ちていた時であった。
「各々のせめられさせ給ふ事も、詮ずるところは国主の法華経のかたきとなれるゆへなり。国主のかたきとなる事は、持斎等・念仏者等・真言師等が謗法よりをこれり。今度ねうしくらして法華経の御利生心みさせ給へ。日蓮も又強盛に天に申し上げ候なり。いよいよをづる心ねすがたをはすべからず。」(982頁)
二人の受けた迫害も日本国の受難も、全て謗法によって起こったものである。したがって、この謗法を対治しなければ、災難を除くことはできない。だから決して恐れる態度や姿があってはならない。大聖人と共にじっと歯をくいしばって謗法と戦い、御本尊の大功徳を証明しなさいとの指導である。
「なにとなくとも一度の死は一定なり。」(982頁)
「設とひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして、只法華経の事のみさはぐらせ給ふべし。」(987頁)
池上宗仲・宗長の兄弟は、大聖人の偉大な慈悲に感激し、団結して難と戦ったことであろう。しかし、勘当は簡単に許されなかった。
「各々二人はすでにとこそ人はみしかども、かくいみじくみへさせ給ふは、ひとへに釈迦仏、法華経の御力なりとをぼすらむ。又此にもをもひ候、後生のたのもしさ申すばかりなし。此より後もいかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよはりあげてせむべし。たとい命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ。」(1166頁)と。
兄弟抄の翌年に書かれた建治三年(1277)八月二十一日のお手紙である。
世間の人々はみな、兄弟がもう退転するだろうと思っていたが、あらゆる迫害に負けず二人はがんばった。
その戦いを、大聖人は殊勝であると喜ばれさらに「弛むことなく、謗法を責め、命に及んでも魔に負けてはならない」と厳しく叱咤激励をなされたのである。そして、日蓮大聖人の厳しくもまた慈愛溢れる指導と、兄弟二人の弛みなき戦いによって、建治二年(1276)七月、ついに兄宗仲の勘当を解くことができたのである。
この三障四魔の戦いのなかで、見逃してはならないのは、宗仲、宗長兄弟の夫人たちの信心である。
大聖人は「定んで女人は心よはくをはすれば、ごぜんたちは心ひるがへりてやをはすらん。」(982頁)と夫人たちの信心を危ぶんでおられた。そして、いかなる問題にも夫人の信心如何が、大きく結果を左右することを知っておられたがために、二人の夫人にもまた厳格なる指導を与えられたのである。
「又二人の御前達は此の人々の檀那ぞかし。女人となる事は物に随って物を随へる身なり。夫たのしくば妻もさかふべし。夫盗人ならば妻も盗人なるべし。是偏に今生計りの事にはあらず、世々生々に影と身と、華と果と、根と葉との如くにておはするぞかし。」(987頁)
二人の夫人は宗仲・宗長に従って、苦楽を共にする身である。夫と妻は、影と身、華と果、根と葉のごとく一体不二であるり、夫の信心も決定し、また妻の信心によって夫の信心も決定する。
だから、宗長、宗長と心を合わせて、団結してこの難と戦いなさいと指導されている。
そして、もし、夫の信心に弛みが見えたならば、夫の心を諌めなさいと、励まされたのである。
「夫と妻とは是くの如し。此の法門のゆへには設夫に害せらるゝとも悔ゆる事なかれ。一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ、末代悪世の女人の成仏の手本と成り給ふべし。此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも、日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生に仏になしたてまつるべし。心の師とはなるとも心を師とせざれとは、六波羅蜜経の文なり。」(987頁)
法華経のゆえには、たとえ夫に害されても、悔いることなく、二人で夫の心を諌めるならば、竜女の跡を継いで、末代悪世の女人成仏の手本となることが出来るとの指導である。また「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」と、あくまでも信心第一に、難と戦いなさいと強調されたのである。
二人の夫人もまた、この大聖人の指導を忠実に守り、あるいは、さまざまな御供養をし、日蓮大聖人について信心に励んだ、宗仲、宗長の兄弟が難に勝ちきった影には、この夫人たちの、信心が大きくあずかったことは疑いない。
ところが三障四魔の戦いはこれで終わらなかった。建治二年(1267)最初の勘当が許されたのも束の間、翌建治三年(1268)十一月、宗仲は、再び父の勘当を受けた。
この再び襲った三障四魔に対して、兄宗仲は毅然として揺るがず、日蓮大聖人の門下として信心を貫く決意を示したが、弟宗長の方には、信心の動揺が見えたようである。第二回の勘当については、すでに大聖人は予測されていた。それ以前に大聖人のもとを訪れた宗長の妻に大聖人がはっきりそのことを申されていたのである。
「このたびゑもんの志どのかさねて親のかんだうあり。とのゝ御前にこれにて申せしがごとく、一定かんだうあるべし、ひゃうへの志殿をぼつかなし、ごぜんかまへて御心へあるべしと申して候ひしなり。」(1183頁)
大聖人は、池上家の内情を女房から聞かれて、遠からず宗仲の勘当のあることを予測されていたのである。また、宗長の信心状態を考えられ、宗仲の勘当によって、信心がぐらつくのではないかと心配され、くれぐれもしっかりするよういっておられたのである。
この大聖人の予測どうり、再び宗仲の勘当が起こり、宗長の動揺も現実になるに及び、日蓮大聖人は、兵衛志宗長に対して厳しい指導の手紙を送られた。建治三年(1268)十一月の「兵衛志殿御返事」がそれである。ここで大聖人は、親に対する孝養と信心、家督相続の問題と信心のあり方の二点から厳しく指導された。
「さゑもんの大夫殿は今度法華経のかたきになりさだまり給ふとみへて候。ゑもんのたいうの志殿は今度法華経の行者になり候はんずらん。とのは現前の計らひなれば親につき給はんずらむ。」(1183頁)
父左衛門太夫康光は法華経を信ずる宗仲を勘当して、その信心を妨げようとしたのであるから法華経のかたきとなり定まった。右衛門大夫宗仲は、法華経を信ずるゆえに難を受け、その難に負けず信心を貫いているゆえに、親につき随うであろう。気違いじみた人々は、あなたの行動を讃めるかもしれないが、それは真の親孝行ではないと、大聖人は厳しくもまた、じゅんじゅんと孝養について説かれている。
治承元年(1177)後白河法皇が平氏打倒の計をめぐらした時、平清盛は、後白河法皇を幽閉しょうとした。だが、息子の重盛に諫められて思いとどまった。しかし、治承三年(1179)重盛が死ぬと、清盛は法皇を幽閉し、完全な独裁権を握ったが、その事がのちに源氏に滅ぼされる原因ともなった。清盛の二子宗盛は親に従って事に加担したが、源氏に敗れて近江の篠原で殺された。
百年前の事件を引いて、日蓮大聖人は、親を諌めた重盛と親の悪事に従った宗盛のいずれが孝子であるかと、宗長を諌められた。宗仲の方は信心強盛で、性格も剛直であったが、弟の宗長は、九十に近い父・康光の親の情に絆されやすい面を持っていたのだった。それゆえ、ともすると、諸僧の策動によって康光がうごかされているということを見抜けず、父に従うような気配をみせたとも考えられる。
こうした宗長であったから、日蓮大聖人は厳しい言葉で、兄について信心を貫くよう励まし、指導されたのである。
「百に一つ、千に一つも日蓮が義につかんとをぼさば、親に向かっていゐ切り給へ。親なればいかにも順ひまいらせ候べきが、法華経の御かたきになり給へば、つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば、すてまいらせて兄につき候なり。兄にすてられ候わば兄と一同とをぼすべしと申し切り給へ。すこしもをそるゝ心なかれ。過去遠々劫より法華経を信ぜしかども、仏にならぬ事これなり。しをのひるとみつと、月の出づるといると、夏と秋と、冬と春とのさかひには必ず相違する事あり。凡夫の仏になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。」(1183頁)
この御抄の最初に、御供養の品をいただいたと述べておられるが、宗長がそのように使いをもって御供養しているということは、まだ退転していないことであろう。少しは信心があるのであろうと大聖人は考えられ、万一、大聖人の教えに従おうという気があるならば、このように親に向かっていい切りなさいと、教えられたのである。
また、浄蔵、浄眼が、外道に執着する父妙荘厳王を救ったのと同じように、兄弟二人は団結して父・康光を折伏しなさいと励まされ、昔と今は、時は変わっても、法華経の道理は変わらないことを示されたのであった。
また大聖人は、康光が家督を宗長に譲ろうとしたことに対しても、わずかの所領や財産に目をくらませて、仏道修行を捨てるのは、堕悪道の行為である。執権の北条時頼ですら、三十歳で家督を嫡子時宗に譲り、池上家には較ぶるもない、多大な所領や家来を捨てたではないかと、現世の財産や名誉に執着する心を打ち破っておられる。そして「かへすがへす今度とのは堕つべしとをぼうるなり。」(1183頁)と、重ねて退転を戒められ、このように厳しくいうのも、いままで、純真に信心を貫いてきたのに、ここで退転して三悪道に堕ちることが、かわいそうであるがゆえにいうのだと諭されている。「今度はとのは一定をち給ひぬとをぼうるなり。をち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず。但地獄にて日蓮をうらみ給ふ事なかれ。しり候まじきなり。」(1183頁)
宗長はきっと退転するだろう。退転することをとやかくいうつもりは、さらさらないが、ただ地獄に堕ちてから怨んでも知らないぞと、まるで、突きはすような厳しいお言葉である。だが、その底には、地獄へおちることがないように、その禍根を断ち切っておられる。厳父の慈悲がひしひしと感じられるではないか。
いずれにしても、この第二回の難は、兄弟にとっては大きく信心の成長を期すべき時であり、一家にあっては、家庭革命をなし遂げる時がきた証拠であった。
「しをのひるとみつと、月の出づるといると、夏と秋と、冬と春とのさかひには必ず相違する事あり。凡夫の仏になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。」(1184頁)過去遠々劫から、法華経を信心していても、いまだ成仏を遂げることがべきなかったのは、魔に値って退転してしまったからである。
潮の干満、月の出と月の入り、あるいは夏と秋、冬と春のような、自然の境目にも変調がある。信心修行の上においても、凡夫が仏になる時には、かならず三障四魔の嵐が出てくる。したがって、三障四魔が競うのをもって、己の宿命転換をして成仏を遂げる時であると知るがゆえに、賢者は喜んで、この難と戦うのである。しかし、愚者はそれを知らず、三障四魔の表面的な恐ろしさに驚いて退転してしまうのである。
このように日蓮大聖人は、二人が二十年の信心を経て、いよいよ成仏を遂げる時が近づいたことを教えられて、喜んでこの難と戦いなさいと指導されている。
「仏になり候事は此の須弥山にはりをたてゝ彼の須弥山よりいとをはなちて、そのいとのすぐにわたりて、はりのあなに入るよりもかたし。いわうやさかさまに大風のふきむかへたらんは、いよいよかたき事ぞかし。」(1184頁)
更に、成仏の難しいこと、法華経に値い難いことを常不軽品の文を挙げて述べられている。
「されば父母はまうけやすし、法華経はあひがたし。今度あひやすき父母のことばをそむきて、あひがたき法華経のともにはなれずば、我が身仏になるのみならず、そむきしをやをもみちびきなん。」(1185頁)
康光の迫害や感情に負けず、その命に背いて、法華経の友、すなわち、日蓮大聖人につき従うならば、自分の成仏だけでなく、法華経に背いた親をも救うことができるのであると激励されている。
そして最後に兵衛志に対して、兄の跡を譲られたとしても、千万年も繁栄していけるものではない。目先のはかない利益に迷うのではなく、永遠の幸福という最高の目的に生きなさいと念を押されている。
「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二つのわの車をたすけ二つの足の人をになへるが如く、二つの羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ひぬる御計らひ、偏に貴辺の御身にあり。」(1270頁)
二十余年にわたって信仰に反対しつづけた父、康光も、日蓮大聖人の慈悲溢れる指導のもとに、宗仲、宗長二人が団結してきたことによって、弘安元年(1278)ついに法華経に帰依するにいたったのである。
第一回の勘当から三年目のことであった。「兄弟抄」や「兵衛志殿御返事」におて、厳格な指導をされた大聖人も、二人が車の二輪のごとく、二つの足の如く、二つの羽の如く団結して、父左衛門康光を入信させたことを大変喜ばれて、その長い労をねぎらわれている。
とくに、動揺を見せて、大聖人より熱鉄の如き指導を賜った弟宗長に対して「このように親を入信させることができたのはひとえにあなたの信心の力よる」と、その信心をめでられている。
そして弘安二年(1279)に、父、康光は題目を唱えつつ安らかに息をひきとった。この時、兄弟は大聖人から、孝子であると次のような言葉をいただいた。
「案にたがふ事なく親父より度々の御かんどうをかうほらせ給ひしかども、兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か、将又薬王・薬上の御計らひかのゆへに、ついに事ゆへなく親父の御かんきをゆりさせ給ひて、前に立てまいらせし御孝養、心にまかせさせ給ひぬるは、あに孝子にあらずや。定めて天よりも悦びをあたへ、法華経・十羅刹も御納受あるべし。」(孝子御書、1353頁)
兄弟に与えられた御抄において、大聖人は孝養の道について度々論じられ、仏法については、親に背いても信心を全うし、ひるがえって、親を折伏し、法華経に入信させることが、最高の孝行であると教えられていた。兄弟二人は、その指導を身をもって実銭し、父を入信させた。大聖人は、兄弟二人は浄蔵・浄眼の後身か、あるいは薬王・薬上の御計らいであろうかといわれ、「あに孝子にあらずや。」(1353頁)とよろこばれたのであった。
池上兄弟は、父・康光の亡きあと、兄・宗仲が家督を継いで、作事奉行の任に当たつた。そして、いままでにもまして信心修行に励んでいた。弘安四年(1281)、鎌倉の鶴岡八幡宮が前年に焼け、その再建造営の仕事を池上兄弟が請け負うことになっていたのが、人の讒言によってそれをはずされるという事件が起こった。この時、日蓮大聖人は、二人に「八幡宮造営事」を送られ、懇切に指導されている。
「さては八幡宮の御造営につきて、一定ざむそうや有らんずらむと疑ひまいらせ候なり。をやと云ひ、我が身と申し、二代が間きみにめしつかはれ奉りて、あくまで御恩のみなり。設ひ一事相違すとも、なむのあらみかあるべき。わがみ賢人ならば、設ひ上よりつかまつるべきよし仰せ下さるゝとも、一往はなに事につけても辞退すべき事ぞかし。」(1556頁)
ここでは世法の上から指導されている。すなわち、二代にわたって主君に召しつかわれて御恩のある身である。たとえ、一度ぐらい約束の違うことがあっても、どうして主君をいい加減に思ってよいことがあろうか。また賢人ならば、仰せにつけられても一応辞退すべきものである等と諭されている。
またつづいて仏法の立場から次のようにいわれている。「八幡大菩薩は本地は阿弥陀ほとけにまします。衛門の大夫は念仏無間地獄と申し、阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ、其の堂をやきはらひ、念仏者のくびを切れと申す者なり。かゝる者の弟子檀那と成りて候が、八幡宮を造りて候へども、八幡大菩薩用ひさせ給はぬゆへに、此の国はせめらるゝなりと申さむ時はいかゞすべき。然るに天かねて此の事をしろしめすゆへに、御造営の大ばんしゃうをはづされたるにやあるらむ。神宮寺の事のはづるゝも天の御計らひか。」(1557頁)
すなわち、八幡大菩薩の本地は阿弥陀仏であり、無間地獄といって阿弥陀仏を攻撃する日蓮大聖人の檀那となっている衛門大夫が八幡宮を造営しても、八幡大菩薩はそれを用いないので、日本は蒙古に攻められるような結果になったのだと、世間の人々は悪口するに決まっている。
それを天がかねて御存知であったので、あなたをこの度の御造営の棟梁からはずされたのであろう。それも諸天善神の計らいによる功徳ではないかと。
ほとんど全生涯を大難の連続のなかにすごされてきたため、かなり健康を損われていた大聖人は、弘安四年(1281)になると、次第にお体の具合も思わしくなくなってきた。
弘安四年(1281)の御書、八幡宮造営事では「此の法門申し候事すでに廿九年なり。日々の論義、月々の難、両度の流罪に身つかれ、心いたみ候ひし故にや、此の七八年が間年々に衰病をこり候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年は正月より其の気分出来して、既に一期をわりになりぬべし。其の上齢既に六十にみちぬ。たとひ十に一つ今年はすぎ候とも、一二をばいかでかすぎ候べき。」(1556頁)と、その後入滅が近いことを記されている。
かくして、翌弘安五年(1282)夏も過ぎた九月、人々のすすめで、常陸の湯治においでになることになり、それに先立つて、日興上人に一切の仏法を御相承あそばされた。これが、日蓮一期弘法付嘱書といわれる総付嘱書である。
大聖人は九月八日、御弟子たちに護られて身延を発たれ、九月十八日正午ごろ、池上右衛門大夫宗仲の邸に到着された。この池上の地で大聖人は、ほぼ一か月をすごされた。十月八日、主な御弟子を集められ、本弟子六老僧を定められた。また、この時期に、日蓮大聖人は、御弟子方に最後の御講として「立正安国論」を講じられたことが伝えられている。
同十三日、いよいよ後入滅の時も迫り、別付嘱書が認められた。日興上人を嗣法と定められ、弟子檀那に異議もち、これに背く者は非法の衆であると、かたく戒められたのである。
かくして十月十三日辰の刻に、日蓮大聖人は後入滅あそばされたのである。この時大地が震動したと「御遷化記録」に記されている。葬儀については、翌十四日の戌の刻に御入棺され、同日子の刻に御葬儀が施行された。
「御遷化記録」によると、宗仲・宗長兄弟も御葬送の列に加わり、兄・宗仲は、四条金吾とともに幡をにない、弟の宗長は、御太刀をもって、身延までお供申し上げた。この時、二十数年間にわたって、ある時は慈父のごとく、ある時は厳格な師として、数々の教えを受けた日蓮大聖人を霊山にお送りした池上兄弟の気持ちはいかばかりであったろう。
大聖人滅後の池上兄弟がどうであったかは、当時の詳しい史書はないので、はっきりした事はわからない。ただ「日蓮正宗富士年表」によると、二人の没年は宗仲が永仁元年(1293)宗長が弘安六年(1283)である。