曾谷教信について

 

1. 曾谷教信の人物像と家族について

1.1. 出身

 曾谷教信は下総国葛城郡八幡庄曾屋の領主で、幕府に仕えていた役人であるといわれている。
 曾谷町一帯は、近年、日本でも最大級といわれる馬蹄型貝塚の跡である曾谷遺跡が発見され、縄文武士器が多数発見するなど、縄文時代から集落生活が営まれており、古代から人類が生活する条件に恵まれた土地柄のようである。
 この曽谷町に、曾谷氏が領主として住んでいたといわれる城跡がある。「曾谷村長谷山安国寺略縁起」や「曽谷安国寺祖像記」などに、この城址についての記述がみられ、また、八幡庄曾屋郷の地名は、中山法華経寺文書の千葉胤貞譲状や、浄光院文書の千葉胤継寄進状案、さらには弘法寺文書の平某寄進状などにもみられる。
 曾谷教信の出自につては、諸説がある。
 日潮の「本化別頭仏祖統記」は教信と出自について、桓武平氏の流れをくむ下総国の豪族・千葉氏の系譜を探って千葉勝胤の子重胤が下総国千田庄に住し、その九代の裔が曾谷教信であるとしている。
 日順の「御書略注」は、曾谷教信は清原皇后宮大進三位清原真人行清の裔の大野政清の子であるとしている。しかも、大野政清は大聖人の御母の兄にあたるとしているから。この説に従えば、教信は大聖人と従兄弟という関係になる。
 ちなみに、大聖人の御母の係累については、産湯相承事に「悲母梅菊女は童女御名なり平の畠山殿の一類にて御坐すと云云。」(1708頁)と述べられており、「本化別頭仏祖統記」などは畠山政清は畠山氏の一族であるとしている。
 日精の「日蓮聖人年譜」では「註画讃に云く母は清原氏云云、此の説末だ本拠を見ず。産湯記に云く悲母梅菊女童女の御女なり畠山殿の一類に御座す云云」と、産湯相承に述べられている畠山氏の名を挙げておられるだけで、清原氏との関係については確認する根拠がないとしている。
 また「曾谷村長谷山安国寺略縁起」や「曾谷安国寺祖像記」によれば、右大将源頼朝は故あって千葉勝胤を下総を与えたが、その裔の千葉介胤鎮が同族の曾谷重胤に曽谷村の近在三千町歩を与えた。曾谷教信はこの重胤から二代後であるとしている。
 更に、転重軽受法門の宛名に金原法橋御房の名がみえるが、千田庄金原郷は中山法華経寺の千葉胤貞譲状にもみえる地名で、法橋はこの地に住んで金原を名乗ったと思われる。当時、千葉氏の本領であった千田庄に住む金原法橋が千葉氏と無縁であったはずがなく、その金原氏と教信の深い交誼からすれば、教信と千葉氏との間に親戚あるいは姻戚関係があったとしても不思議ではない。
 しかし、曾谷教信が千葉氏の系譜から出ているとする、いまひとつ確かな手掛かりがない。
 千葉氏の系図は大部分が江戸時代に成立したものといわれているが「千葉大系図」の十一代千葉介胤宗の兄・宗胤は禅宗の円通寺に所領を寄進しているし、十二代千葉介貞胤は死にあたり、時宗の引導を受けている。
 千葉氏は代々、念仏信仰に心を寄せていたようで、法華経の信仰をするようになったのは、宗胤の子・千田太郎胤貞の猶子で、中山法華経寺の三代目日祐以後といわれているから、大聖人が御遷化された後ということになる。このように教信の出自については、大野氏説、千葉氏説等があるがいずれも決め手を欠き、ここでは併記するにとどめる。

1.2.教信の生年について

 教信の生涯についても、先の諸説に応じて種々の諸説があり、確定できないが、ここでは「御書略注」の説によってみてみたい。
 「御書略注」によれば大野氏の先祖は清原皇后宮大進三位清原真人行清で、家は代々、故実の博士で鎌倉幕府開創以来、問注所の役人で、大進家といったとある。下総八幡庄大野郷を所領とし、大野郷に住むようになって大野姓を名乗るようになったといわれる。
 また大野政清は念仏の強信者で、教信の父が政清とすれば、建治元年(1275)の法蓮抄に「彼の諷誦に云はく「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云。」(816頁)と仰せられていることから逆算して、弘長三年(1263)に没している。
 教信の生年については元仁元年(1224)説が用いられているが、この生年について明らかにする資料は見当たらない。
 松戸市平賀にある長谷山本土寺の「本土寺大過去帳」に、「曾谷法蓮実名日礼五月」の記載はあるが年代は不明である。富士年表にもこの過去帳に依って、永仁二年(1249)五月一日の項に「曽谷入道法蓮卒」としているが、亨年は不明である。  曽谷教信の社会的地位については、曾谷郷の領主で幕府に仕えていたこと以外は資料に乏しく推測の域を出ないが、大野政清の子とすれば教信も同じく問注所に勤めていた文官ではなかったかと思われる。
 更に、最近の研究では富木常人が千葉氏の家臣であったことが通説になっており、教信も富木氏同様、千葉氏の家臣ではなかったかとする説もある。
 また観心本尊抄送状に「観心の法門少々之を註し、太田殿・教信御房等に奉る。」(662頁)と述べられているように、最も難解かつ重要な観心本尊抄をはじめ、御手紙も純漢文体の御書を送られており、大聖人の壇越でも富木常忍・大田乗明等と並んで屈指の知識階級に属していたと思われる。
 また、文永十二年(1276)三月の曾谷入道許御書に「貴辺並びに大田金吾殿の越中の御所領の内、並びに」(790頁)と仰せられているように、教信は越中に所領を有していることが分かる。更に、大聖人から莫大な費用の嵩む書物の収集を依頼されていることから、経済的にもかなり豊かであったことがうかがえる。
 これらの点から、曾谷教信は大聖人の檀越のなかでも、豊かな知識と教養をもち、しかも、財力に恵まれ、門下の経済的支柱の一人であったことが分かる。

1.4.家族について

  曾谷教信の家族についても、確かな資料が乏しく、多くは俗伝であるが、ほぼ次のことがいえる。

・妻

 曾谷教信の妻は、法華経の信仰が厚く大聖人から蓮華比丘尼の名を授けられたとされ、寺誌などには三度大聖人を請じ、説法を欽奉したと記されている。

・子供

 「本化別頭仏祖統記」によれば、教信には二人の子供がいたとされる。そのうち一人が女子で、芝埼の前といわれ、千葉宗胤の子・胤貞の室になったとある。
 ただし「平賀本土寺史要には、千葉胤宗の子・貞胤の室とあり、芝埼の前が難産で、平賀本土寺の宗祖の御影に祈念したところ、たちまち安産をし、喜びのあまり平賀六ヵ村の男女がことごとく改宗し、本土寺の檀那となった旨が記されている。
 胤貞、貞胤いずれの室であるかはともかくとして、曾谷教信は娘・芝埼の前を通して、下総国の実権者千葉氏と強いつながりをもっていたことがうかがえる。
 教信のもう一人の子供が嫡子・曾谷四郎左衛門直秀、入道して道宗である。道宗は野呂の石井左近と縁があり、父と別居して野呂に移り住んだといわれている。後に、平賀に一寺を建立しようとする父・教信と野呂に建立しようとする道宗との間に五ヵ年間、不和が続いたという。建治元年(1275)十一月、野呂の館内に一宇を建立し、日合を迎えて妙興寺を興した。
 道宗は、身延の山中で御不自由な生活を余儀なくされている大聖人に多額の御供養をしている。曾谷殿御返事に「抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ。此らは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ。いくそばくか過去の聖霊もうれしくをぼすらん。釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり。貴辺あに世尊にあらずや。」(1386頁)と、その信心をほめられ「貴辺あに世尊にあらずや」とまで仰せられている。
 後に、平賀本土寺とも交流するようになり、本土寺第八代日福は道宗の孫であるといわれている。

・弟

 また、教信には二人の弟があると伝えられるが、確かなことは分からない。「御書略注」には一人は浄蓮房で金原大宮の別当金原法橋であるとし、もう一人は大聖人の御書にしばしば登場する大進阿闍梨がそうであるとしている。しかし、この二人が教信の弟であるとする明確な資料はない。
 また、三位房も教信の弟であるとする説があるがこれも、全く根拠がない。

2. 曾谷教信の信仰姿勢について

2.1.入信について

 大聖人と曾谷教信の出会いについて、いつ、どこで、どのような経緯で入信したのか明らかではないが、一説では、文応元年(1260)ごろ、富木常忍邸で大聖人の化導によって大田、秋元氏らとともに入信したと伝えられている。
 文応元年(1260)七月十六日、大聖人は前の執権北条時頼に宛てて立正安国論を上書されている。第一回目の国主諌暁である。これに対し、下山御消息に「御尋ねもなく御用ひもなかりし」(1150頁)と述べられているように、幕府からなんらの沙汰もなかったばかりか、一月ほどした八月二十七日、突然、松葉ヶ草庵に暴徒の襲撃を受けられるのである。大聖人は危うくこの難を避けられ、ひとまず鎌倉を離れて下総の富木氏の館に身をよせられたといわれる。富木氏は法華堂を建立して寄進申し上げ、ここで百座の説法が行われたと伝えられている。
 当時、富木氏の館は下総国葛飾郡八幡庄若宮にあり、教信の住む曾谷とは目と鼻の先の距離であり、日頃から富木氏と密接な交流があった教信が、説法の座に加わって入信したことも、ありえぬことではない。

2.2.入道について

 曾谷教信が大聖人からいただいた最初の御消息は、文永八年(1271)十月の「転重軽受法門」で、このときすでに「曽谷入道殿」の宛名になっている。文応元年(1260)に入信したとして、文永八年(1271)、までの十一年間に教信の身辺に何が起こり、信仰の転機となって入道したのか、それを知る資料は見当たらない。
 ただ、教信が大野政清の子であるとすれば、この間、弘長三年(1263)に政清が死去しているという事実がある。大聖人との出会いによって、法華経信仰の正しさを知った教信にとって、念仏信仰のまま最後まで、正法に目覚めることのなかった父への哀惜から、孝心の篤い教信が、この父の死を転機に入道したということも考えられる。

2.3.教信の孝養

 法蓮抄に「彼の諷誦に云はく「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云。」(816頁)と述べられている。父の死去以来実に十二年間、教信は自我偈一巻を父のために読誦し続けたのである。
 大聖人は教信の孝養の志を喜ばれ、「法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財なり、松さかふれば柏よろこぶ、芝かるれば蘭なく。情なき草木すら此くの如し。何に況んや情あらんをや、又父子の契りをや。」(816頁)と教信の信心を励まされている。
 そして、その功徳について「今の施主十三年の間、毎朝読誦せらるゝ自我偈の功徳は唯仏与仏乃能究尽なるべし。夫法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。自我偈の功徳をば私に申すべからず。次下に分別功徳品に載せられたり。此の自我偈を聴聞して仏になりたる人々の数をあげて候には、小千・大千・三千世界の微塵の数をこそあげて候へ。」(818頁)と述べられている。
 更に「法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す。此の文字の数は五百十字なり。一々の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来となり、大光明を放って大地をつきとをし、三悪道無間大城を照らし、乃至東西南北、上方に向かっては非想非非想へものぼり、いかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給ひて、彼の聖霊に語り給ふらん。我をば誰とか思し食す。我は是汝が子息法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり。此の文字は汝が眼とならん、耳とならん、足とならん、手とならんとこそ、ねんごろに語らせ給ふらめ。其の時過去聖霊は我が子息法蓮は子にはあらず善知識なりとて、娑婆世界に向かっておがませ給ふらん。是こそ実の孝養にては候なれ。」(819頁)と仰せられている。
 純真に大聖人の仏法の信仰に励み、かつ孝心の厚い教信に対して、大聖人は「法蓮上人」と述べられ、そのけなげな孝養の姿を烏竜遺竜の故事の遺竜にたとえられ「是れこそ実の孝養」と仰せられているのである。

2.4.大田乗明、金原法橋と曾谷教信

 転重軽受法門に「修利槃特と申すは兄弟二人なり。一人もありしかば、すりはんどくと申すなり。各々三人は又かくのごとし。一人も来たらせ給へば三人と存じ候なり。」(480頁)と仰せられているように、曾谷教信、大田乗身、金原法橋の三人は信仰上のみならず、日常生活においても密接な関係にあったようである。
 大田乗明は大聖人と同年の貞応元年(1222)の生まれで、下総国葛飾郡八幡庄中山に住し、祖父・三善康信や父・大田康連と同様に鎌倉の問注所の役人であったといわれる。乗明は本来、三善家は高野山金剛峰寺に大搭を供養したこともあり、かなり熱心な真言宗の信徒であったようである。
 文応元年(1260)、大聖人が富木邸で百座説法を講じられた席に教信等とともに参加し、入信したといわれているが、乗明も教信や富木氏同様、当時の知識階級に属する人達であったから、大聖人の真言亡国の説法を聞いても、初めはそれに反発し、憤りさえ感じたことであろう。しかし、大聖人の一国の安堵を願う大師子吼に感動し、真言を捨てて、大聖人のもとに帰依したのであろう。
 文永十二年(1275)三月教信は大田乗明と連名で曾谷入道殿許御書をいただいている。そのなかで「貴辺並びに大田金吾殿の越中の御所領の内、並びに近辺の寺々に数多の聖教あり等云云。両人共に大檀那たり、所願を成ぜしめたまへ。」(790頁)「若し此の書を見聞して宿習有らば、其の心を発得すべし。使者に此の書を持たしめ、早々北国に差し遣はし、金吾殿の返報を取りて速々是非を聞かしめよ。」(791頁)と大聖人から「大檀那」と呼ばれ、しかも諸山秘蔵の書物の収集という重要な依頼をされている。
 また、この御文からも拝せるように、越中に所領を持っており、しかもかなり長期にわたって、滞在いていたようである。「吾妻鏡」建長二年(1250)三月一日の項の造閑院殿雑掌の事のなかに、裏築地の押小路面二十本の中二本を越中大田次郎左衛門尉に割り当てられたことが記されている。
 金原法橋については、転重軽受法門に一度だけ登場する。詳しいことは分からないが、千田庄金原郷に住した千葉氏有縁の人であったと思われる。ある説では、千葉胤長の兄の日諭がその人であるとしている。社会的立場は金原郷の在地領主である。
 ともあれ、文応元年(1260)の富木氏邸における曾谷教信、大田乗明らの入信以来、大聖人の下総における教勢は一挙に拡大し、千葉氏の縁者にまで深く浸透していったことが分かる。

2.5.曾谷教信と迹門不読について

 建治元年(1275)十一月、大聖人が富木常忍に宛てられた観心本尊抄得意抄に「抑今の御状に云はく、教信の御房、観心本尊抄の「未得」等の文字に付いて迹門をよまじと疑心の候なる事」(914頁)と述べられている御文がある。大聖人に帰依し、一生不退を決意した教信が、行解が進むにしたがって、一時、法華経の迹門は読まなくてもよいのではないかとの、疑問を持ったことがあった。ともに信心に励んできた常忍がそのことを大聖人に報告し、指導を求めたのである。
 なお、弘安二年(1279)五月の四菩薩像立抄にも「一、御状に云はく、太田方の人々、一向に迹門に得道あるべからずと申され候由」(1370頁)の御文が見られるから、大田乗明も迹門不読の我見を構えたことがあったようである。
 このことは、大聖人が富木常忍並びに教信、乗明に与えられた観心本尊抄のなかの「一品二半よりの外は小乗教・邪教・末得道教・覆相教と名づく。」(655頁)等の御文を教信等が誤って解釈したものと思われる。一品二半とは、法華経従地湧出品の後半・半品、如来寿量品の全一品、分別功徳品の前半・半品のことをいい、この一品二半以外の教えは邪教等と大聖人が仰せられた以上、法華経以前の諸経はもちろん、法華経のなかでも迹門は無得道であろう。したがって迹門は読まなくてもよいのではないか、と考えたのである。
 これに対して大聖人は「不相伝の僻見にて候か。」(観心本尊抄得意抄、914頁)と仰せられ、富木常忍に「去ぬる文永年中に此の書の相伝は整足して貴辺に奉り候ひしが、其の通りを以て御教訓有るべく候。」(観心本尊抄得意抄、914頁)と教信に善導を託された後、大聖人は真意を説かれている。すなわち「所詮、在々処々に迹門を捨てよと書きて候事は、今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり。」(観心本尊抄得意抄、914頁)と仰せられ、同じ法華経の迹門でも、いま末法において大聖人の読まれる迹門と像法時代の天台の迹門とは異なることを明されたのである。
 もともと観心本尊抄の「一品二半よりの外は」云々の御文は、一切経を批判するにあたり、五重三段の法門をもって法体の勝劣を論じたもので、修行の是非を論じられたものではない。それを教信が法体と修行を混同して、迹門不読の我見を起こしたのである。
 大聖人の御教示によって、教信も素直に迹門不読の我見を改め、再び純真な信心に立ち戻ったものと思われる。その後、大聖人の信頼はいよいよ厚く、教信は門下の大檀那として地歩を固めていったようである。
 弘安四年(1281)七月曾谷二郎入道御返事には、蒙古襲来に備え、出陣することになるかもしれない教信に対して、大聖人は「然而日蓮が勘文粗仏意に叶ふかの故に此の合戦既に興盛なり。此の国の人々、今生には一同に修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城に入らんこと疑ひ無き者なり。爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり。然りと雖も有漏の依身は国主に随ふ故に此の難に値わんと欲するか。感涙押さへ難し、何れの代にか対面を遂げんや。」(1563頁)と、「貴辺と日蓮とは師檀の一分なり」とまで仰せられ、別れを惜しまれている。

2.6.曾谷教信の事跡

①平賀本土寺と曾谷教信

 平賀本土寺と曾谷教信の関係については、寺伝や民間伝承などによってしか知ることができないが、本土寺の創建については文永六年(1269)、大聖人に帰依した郡の目代、蔭山土佐守が平賀郷神野の松原に法華堂を建てたのが始まりであると伝えている。
 寺域は源氏一門の平賀家の屋敷跡といわれ、寺伝では、清和源氏新羅三郎義光の三男が平賀四郎盛義であり、その孫義信は武蔵守となり、美濃も領して八十万国の大豪族となり、その子惟義は頼朝とは義兄弟で相模守となり、伊賀を領した。その子惟信が承久の乱で天皇側に与し、破れて当地に配流されていたと伝えられている。
 また、日晴の「平賀本土寺継図次第」には、曾谷教信が平賀に在郷して、地蔵堂を改めて法華堂とし、日朗にその開山を要請したが、日朗は池上・比企谷の両寺を領していたため、代官として大円阿闍梨日伝を遣わす代わりに、日蓮大聖人授与の大曼荼羅、九条の袈裟ならびに水晶の数珠を授けた旨が記されている。また、本土寺第八世日福は曾谷教信の曾孫で、大野の法蓮寺から入山したとある。
 また「平賀本土寺史要」は、建治三年(1277)正月に、檀越の曾谷山城守胤直が、平賀郷鼻和に一宇を建立し、地蔵堂を改めて法華堂を改めて法華堂とし、開堂供養の導師を大聖人にお願いしたが、大聖人は日朗に命じて代わりに導師を務めさせた。この時、九条の袈裟と念珠を日朗に賜ったと記している。

②安国寺と曾谷教信

 曾谷山安国寺と教信の関係についても、確かなことは分からない。寺伝には曾谷日礼が文永十一年(1274)十一月に創建されたとある。山号は一般には長谷山と称したが、曾谷氏の城内にあったので、曾谷山というとうになったと伝えている。
 また、別の資料では、建長年間に大聖人の折伏で入信した教信が、大聖人の恩に報いるために安国寺を建立し寄進したとも伝えられている。

2.7.御供養と賜書

①曾谷教信、道宗の御供養

 御供養については、大聖人の御書に拝する限り多いとはいえないが、一回分の御供養の額、量が多いことに驚く。すなわち鵞目十貫、扇百本、小字法華経は際立っている。
 また、弘安二年(1279)三月の「鵞目若干」の御供養については「若干」とあるものの「抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ。」(1386頁)とあることから、その規模がうかがえる。
 御供養の品々には生活必需品ともいうべき、食料、衣料、果物、香辛料などがみられ、教信の細やかな気配りがうかがえる。さらに、先にも述べたように、身延の大聖人から諸山秘蔵の経巻等の収集を依頼されているから、各地から収集したかなりの書物を大聖人にお届けしたと思われる。

②賜書

 曾谷教信・道宗が賜った御書は、転重軽受法門(与三子書)/曽谷入道殿御書(自界叛逆御書)/曽谷入道殿許御書(大田禅門許御書)/曽谷入道殿御返事(方便品長行事)/法蓮抄(烏竜遺竜御書)/曽谷殿御返事(成仏用心抄)/曽谷入道殿御返事(如是我聞抄)/曽谷殿御返事(五味主抄)/曾谷二郎入道殿御返事の九編である。
 なお、観心本尊抄送状によれば、観心本尊抄に註を入れて送られていることになるが、同抄の元本は富木入道になっているから、曾谷殿の賜書に加えないことにした。
 送られた御書のうち、曽谷入道殿御書(自界叛逆御書)/曾谷二郎入道殿御返事の二編は漢文体であり、このような漢文体の御書を賜ったのは、富木常忍/大田乗明/大学三郎/波木井三郎/池上宗仲/妙一尼の六人だけとされており、曾谷教信は少なくとも漢文を解読でき、法門や種々の引用文を理解できたことがうかがえる。
 教信の賜書に共通していることは、大聖人の法門に関する内容のものが多いということである。他の檀越にみられるように教信自身や家族に関する記述は少なく、わずかに法蓮抄に父の十三回忌を迎えた教信の孝養ぶりを伺い知る程度である。

2.8.曾谷教信の晩年

 教信はその後、大野に移り、建治三年(1277)法蓮寺を創建している。
 晩年の教信は、次第に富木氏や大田氏と疎遠になり、平賀の系統、すなわち日朗門流に傾斜していくようである。その背景にあった事情については、詳細は分からない。
 ただ、檀越のなかでも仏法の信解も深く、大聖人から「爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり。」(1564頁)とまで信頼され、門下の経済的支柱として功績のあった教信が、なぜか「宗祖御遷化記録」にも「御遺物配分事」にもその名前が記されていない。富木氏や大田氏の名は明記してあり、教信が大聖人御遷化という重要な席に、なぜ参加していなかったのか、いずれにしても、法華経の信仰者として教信の晩年に、信仰の節目となる何かがあったのではないかと推測されるが、それを明らかにする資料はないのが残念である。