はじめに

 

松野家について

松野家の系譜を下記に示す。この系図を見ると、一族の中より有為な人材を多く輩出していることがわかる。すなわち、六郎左衛門入道の息女には南条兵衛七郎夫人がおり、子息には日持がおり、孫には南条時光、曾孫には日目上人、玄孫に日道上人がでている。

松野六郎左衛門入道

 松野六郎左衛門入道は、駿河国庵原郡松野に住んでいた。生年については明らかではないが、没年については、弘安二(1279)年頃と考えられている。
 六郎左衛門入道が日蓮大聖人よりいただいたお手紙は、下記の五通と思われる。

① 松野殿御消息 建治二年二月一七日  五五歳
② 松野殿御返事 建治二年一二月九日  五五歳
③ 松野殿御消息 建治二年       五五歳
④ 松野殿御返事 建治三年九月九日   五六歳
⑤ 松野殿御返事 建治四年二月一三日  五七歳

 

松野殿御家尼御前

松野殿後家尼御前は、さきに述べた松野六郎左衛門入道の妻と思われる、すなわち、松野六郎左衛門尉、日持、上野尼御前の母である。
日蓮大聖人よりいただいた御消息は、下記の二通と思われる。

⑥ 松野尼御前御返事    弘安二年一月二一日  五八歳
⑦ 松野殿後家尼御前御返事 弘安二年三月二六日  五八歳

 

松野六郎左衛門尉

 六郎左衛門尉は、松野六郎左衛門入道の長男である。六老僧の一人、日持の兄にあたると思われる。入信は、父入道、母後家尼御前と恐らく同時であったと思われる。
日蓮大聖人よりいただいた御消息には、下記の一通と思われる。
⑧ 浄蔵浄眼御消息  弘安三年七月七日  五九歳
弘安三年の同御消息によれば、子息を亡くしたことで、本気で信心に励むようになったと思われる。このことは、
 「此の子なき故に母も道心者となり、父も後世者に成りて候は只とも覚え候はぬ」(1481頁)
とあることから伺うことができる。子息は、普通の人より凛々しく、心も純粋で、しかも賢かったようである。したがって、子を亡くしたことは、この上ない悲しみであったろう。それ故に、大聖人に赤裸々な姿で仏法を求め、真心から御供養申し上げたことであろうと思われる。

 

松野殿女房

 松野殿女房は、松野六郎左衛門尉の夫人である。その出身地、父母等については不明である。入信も夫の六郎左衛門尉と同じ頃であると思われる。入信動機も夫と同じで、亡子のために道心を起こしたのであろうことは前述の通りである。
 大聖人よりいただいた御消息には、「松野殿女房御返事」二編がある。

⑨ 松野殿女房御返事  弘安二年六月二〇日  五八歳
⑩ 松野殿女房御返事  弘安三年九月一日  五九歳

刑部左衛門尉女房

お手紙の最後に「尾張刑部左衛門尉女房御返事」とあるから、尾張国に住んでいたと考えられる。御消息も一編だけで、女房についての叙述がないために詳しいことはわからない。松野殿とは親戚関係にあったらしい。
 母の十三年忌で日蓮大聖人に銭二十貫も御供養している。それから考えると、豪族の夫人であったと思われる。文永三(1266)年の頃の物価を記した、「丹波国大山荘領家年貢注文物価表」によると、当時は、銭一貫文で米百八十㎏であった。
 したがって、刑部左衛門尉女房は、米二十石にもおよぶほどの大金を御供養したわけである。富木殿でさえ、たびたび金銭で御供養しているが、多くは銭一貫文、多くて銭七貫文の御供養であった。
 こうしてみると、女の身でありながら、銭二十貫目もの大金を御供養したところから、大変裕福な生活をしていたと考えられる。
 日蓮大聖人から、その返書として供養の受納を報ぜられるとともに、孝養の徳について賞讃され、下記の御書を賜わっている。
⑪ 刑部左衛門尉女房御返事  弘安三年一〇月二一日  五九歳

 

妙法尼

 妙法尼というのは名前ではなく、信心強情な女性ということ。一人は四条金吾の母、一人は駿河岡宮の尼、一人は中興入道の母、日目上人の父の母、の四名がそう呼ばれている。
妙法尼(日目上人の父の母)は大聖人から下記の御書を賜わっている。
⑫ 妙法尼御返事  弘安元年五月一日  五七歳
それには、妙法尼が干飯・古酒を御供養したのに対して、草花や木の皮の香を供養しても功徳があるのだから、まして人が苦労して作った米や酒を供養した女人の成仏は疑いないと説かれている。