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(★1867㌻) 先づ日蓮聖人の本意は、法華本門に於ては曽て異義有るべからざるの処、其の整足の弟子等、忽ちに異趣を起こして法門を改変す。況んや末学等に於ては、面々異轍を生ぜり。故に日興の門葉に於ては、此の旨を守って一同に興行せしむべきの状仍って之を録す。 |
まず日蓮大聖人の真意が法華文底独一本門にあることについては、かつては異義を唱える者はなかったのであるが、大聖人入滅後は高弟とされた者たちが、たちまちに異義を唱えて、師の法門を改変した。ましてや末学等弟らにおいては、それぞれさまざまな主張をするに至ったのである。ゆえに日興の末流においては大聖人の法門を守り、心を同じくして、仏法を行じるべきであり、そのための書状として、これを記録するのである。 |
| 一、 |
聖人御在生の時弟子六人を定むる事。 弘安五年十月 日之を定む。 一 日昭 弁阿闍梨 二 日朗 大国阿闍梨 三 日興 白蓮阿闍梨 四 日向 佐渡阿闍梨 五 日頂 伊予阿闍梨 六 日持 蓮華阿闍梨 一義に云はく、五十箇条を付す。 此の六人の内五人と日興一人と和合せざる由緒条々の事。 |
一、 |
聖人御在生の時・弟子六人を定むる事、弘安五年十月 日 之を定む 一 日昭 弁阿闍梨 二 日朗 大国阿闍梨 三 日興 白蓮阿闍梨 四 日向 佐渡阿闍梨 五 日頂 伊予阿闍梨 六 日持 蓮華阿闍梨 この六人のうち五人と日興一人が和合できない理由を項目的にあげる。 |
| 一、 |
五人一同に云はく、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍って公所に捧ぐる状に云はく、天台沙門云云。又云はく、先師日蓮聖人天台の余流を汲む云云。又云はく、桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み、法華宗を弘めんと欲す云云。 (★1868㌻) 日興が云はく、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり、今日蓮聖人の弘宣し給ふ法華は本門なり、此の旨具に状に載せ畢んぬ。此の相違に依って、五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。 |
一、 |
五人一同に言う。日蓮聖人の法門は天台宗である。したがって幕府に提出した申状には、我々は天台宗の僧侶であると言っている。 また、先師日蓮聖人は天台宗の流れを受け継いでいると言っている。また、桓武天皇の時代の姿を仰ぎ、伝教大師の流れを汲んで法華宗の宗旨を弘通するとの願いがあると言っている。 日興が言う。かの天台天台大師や伝教大師が弘通した法華経は迹門である。今、日蓮大聖人が弘通される法華経は文底独一本門である。日興は、この相違をつぶさに書状に記載した。この相違によって五人と日興が関係を堅く断絶した。 |
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| 一、 |
五人一同に云はく、諸の神社は現当を祈らんが為なり。仍って伊勢太神宮と二所と熊野と、在々所々に参詣を企て精誠を致し二世の所望を願ふ。 日興一人云はく、謗法の国をば天神地並びに其の国を守護するの善神捨離して留まらず、故に悪鬼神其の国土に乱入して災難を致す云云。此の相違に依って義絶し畢んぬ。 |
一、 |
五人が一同に言う。多くの神社は現世・当世を祈るためにある。従って、伊勢太神宮と伊豆神社・箱根神社の二所と熊野神社と、いろいろな所に参詣して誠を尽くして現世・来世への二世への望みを祈るのである。 日興一人が言う。正法に背く謗法の国を、天の神や地の神、国を守るべき善神は捨て去ってしまい、そこに留まっていない。そのため悪鬼神がその国土に乱れ入ってきて災難を起こしてしまっているのである。と、この相違によって五人とは関係を義絶したのである。 |
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| 一、 |
五人一同に云はく、如法経を勤行し之を書写し供養す、仍って在々所々に法華三昧又は一日経を行ず。 日興が云はく、此くの如き行儀は是末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず文。此に依って日興と五人と堅く以て不和なり。 |
一、 |
五人が一同に言う。法華経をその教え通りに勤行し、これを書写し、供養するのである。従ってあちこちで法華経の三昧を修行し、または一日経を行ずるのである。 日興が言う。そのような修行は、末法の修行ではない。また謗法の時代には行うものではない。このことから日興と五人の関係は堅く不和になったのである。 |
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| 一、 |
五人一同に云はく、聖人の法門は天台宗なり、仍って比叡山に於て出家授戒し畢んぬと。 日興が云はく、彼の比叡山の戒は是迹門なり、像法所持の戒なり。日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり、今末法所持の正戒なり。之に依って日興と五人と義絶し畢んぬ。 已前の条々大綱此くの如し、此の外巨細具に日興注し難きものなり。 |
一、 |
五人が一同に言う。日蓮聖人の法門は天台宗である。よって比叡山延暦寺において出家し、戒を受けたのである。 日興が言う。かの比叡山延暦寺の戒は、法華経迹門の戒であり、像法時代に受持する戒である。日蓮大聖人の受戒は法華文底独一本門の戒であり、今、末法の時代に受持すべき正しい戒である。これによって日興と五人と義絶したのである。 ここに述べた一つ一つの条目は根本的なことである。このほかにもさまざまあるが、詳しいことは十分に記しきれない。 |
| 一、 |
甲斐国波木井郷身延山の麓に聖人の御廟あり、而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細条々の事。彼の御廟の地頭南部六郎入道法名日円は日興最初発心の弟子なり。此の因縁に依って、聖人御在所九箇年の間帰依し奉る。滅後其の年月義絶する条々の事。 釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。 次に聖人御在生九箇年の間停止せらるゝ神社参詣其の年に之を始む、二所三島に参詣を致せり是二。 (★1869㌻) 次に一門の勧進と号して南部の郷内のふくしの塔を供養奉加之有り是三。 次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。 已上四箇条の謗法を教訓する義に云はく、日向之を許す云云。此の義に依って去ぬる其の年月、彼の波木井入道並びに子孫と永く以て師弟の義を絶し畢んぬ、仍って御廟に相通ぜざるなり。 |
一、 |
甲斐の国の波木井郷身延山のふもとに大聖人の墓所がある。しかし、日興が参詣しない理由として、かの墓所の地頭である南部六郎入道・法名日円は日興の教化によって初めて帰依した弟子であり、この因と縁によって大聖人が身延におられた九年間、帰依できたのである。大聖人御入滅後、しかるべき時に南部実長と義絶したのであり、その条目を記しておく。 釈迦如来の仏像を造立して本尊として奉ろうとした。是れが第一である。 大聖人が身延に在山されていた九ヵ年の間は禁止されていた神社の参詣を近年になって始めた。すなわち二所すなわち伊豆神社・箱根神社と三島神社の参詣である。是れが第二である。 南部一門の勧進と称して、南部郷内フクシに念仏の石塔を供養し、財物を寄進した。是れが第三である。 南部一門の仏事の助成と称して、九品念仏の道場、一堂を造立して荘厳した。甲斐の国がその所である。是れが第四である。 以上四ヵ条の謗法について教戒したが、南部実長は「日向から許可を得ている」と言って聞こうとしない。この義によって去る年月にかの波木井入道の子孫とは永久に師弟関係の義を絶絶した。よって大聖人の墓所には。通っていないのである。 |
| 一、 |
聖人の御例に順じて日興六人の弟子を定むる事。![]() 已上の五人は詮ずるに聖人給仕の輩なり、一味和合して異義有るべからざるの旨議定する所なり。 |
一、 |
日蓮大聖人の例にちなみ日興が六人の弟子を定めた事。 一 日目┐ 二 日華┤ 三 日秀┼ 大聖人に常に随い仕えた。 四 日禅┤ 五 日仙┘ 六 日乗─ 大聖人にお会いしたことはない。 以上の初めの五人は、所詮、大聖人に給仕した輩である。この六人は和合して、異義があってはならないことを協義して決定した。 |
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| 一、 | 聖人御影像の事。 或は五人と云ひ、或は在家と云ひ、絵像木像に図し奉る事在々所々其の数を知らず、而して面々各々不同なり。 爰に日興が云はく、先づ影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為なり、是に付け非に付け有りのまゝに移すべきなり。之に依って日興門徒の在家出家の輩、聖人を見奉る仁等一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体に異ならずと雖も大概麁相に之を図せり、仍って裏に書き付けを成す云云。 (★1870㌻) 但し彼の面々に図する像一つも相似せざるの中に、去ぬる正和二年日順図絵の本あり、相似の分なけれども自余の像よりもすこし面影有り。而る間後輩に彼此の是非を弁ぜんが為に裏に不似の書き付け之を置く。 |
一、 | 大聖人の御影像のこと。 あるいは五人といい、あるいは在家の人といい、絵像や木像に描いており、それがあちこちに存在して、そのかずは計り知れず、それぞれお顔立ちが違っている。 ここで日興が言う。御影を描くのは、所詮、大聖人の御姿を慕う後代の人々に大聖人の面影を残しておくためである。よきにつけ、あしきにつけ、ありのままに描くべきである。これによって日興門流の徒の在家・出家の者、および大聖人を信奉する人たちは、一同に評議して、しかるべきときに描いたのである。全体としては大聖人のお顔と異なってはいないが、おおむね粗末に描かれており、そこで裏面に注を書き付けたのである。 ただし、それぞれの描いた像は一つも似ていないものの、その中で去る正和二年、日順が描いた御影が本であり、似ていないけれども、ほかの像より少し面影があった。従って、多くの御影のうち是非を後世の人々にわきまえさせるために、裏書に似ていないと付け置いたのである。 |
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聖人御書の事。付けたり十一箇条 彼の五人一同の義に云はく、聖人御作の御書釈は之無き者なり。縦令少々之有りと雖も、或は在家の人の為に仮名字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若しは俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に、施主分を書きて愚癡の者を引摂し給へり。而るに日興は聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に散在する処の御筆を或はすきかえしに成し、或は火に焼き畢んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。 |
大聖人御書のこと、十一ヵ条を付けくわえた。 かの五人一同の義に言う。「大聖人の御作で正式に経論を解釈した書はない。たとえ少しあるといっても、あるいは在家の人のために仮名文字で仏法の因縁を大まかで示したものであつたり、または世間の男女がわずかな供養を捧げた手紙に対し、その返書に、檀那が供養した財物の種類等を書いて、愚癡の者を仏道へと誘引されたものにすぎない。しかるに日興は、それを大聖人の御書と称して、これを人々に語り、読んでいる。これは先師の恥をあらわすものである」と。故にあちこちに散在している御真筆をあるいは漉き返したり、あるいは火で焼却したのである。 このように先師・大聖人の残されたものを破滅しているので、詳しくこれを記して、後世の手本とするのである。 |
| 本尊の事。四箇条 | 本尊の事四箇条 |
| 一、 |
五人一同に云はく、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉るべしとて既に立てたり、随って弟子檀那等の中にも造立供養の御書之在り云云。而る間盛んに堂舎を造りて、或は一体を安置し、或は普賢文殊を脇士とす。仍って聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又堂舎の廊に之を捨て置く。 日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、 (★1872㌻) 唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり。 |
一、 |
五人一同に言く。本尊については、大聖人は釈迦如来を崇めるべきであると言われ、御自身、釈迦仏を立てられたし、弟子檀那等にも釈迦如来の造立・供養について述べられた御書がある。そのような言い分のもと、五人は盛んに釈迦如来を安置する堂舎を造ったり、あるいは釈迦如来の一体仏を安置したり、あるいは普賢菩薩・文殊菩薩を脇士としたりし、大聖人御筆の曼荼羅本尊については、その釈迦如来の仏像の後ろにかけたり、また堂舎の廊下に捨て置いているのが実情である。 日興が言う。大聖人が立てられた法門においては、全く絵像や木像の仏・菩薩を本尊とは立てない。ただ御書の本意通りに妙法蓮華経の五字を本尊とすべきである。すなわち大聖人御自筆の御本尊がこれである。 |
|
| 一、 |
上の如く一同に此の本尊を忽諸し奉るの間、或は曼荼羅なりと云ひて死人を覆ふて葬る輩も有り、或は又沽却する族も有り。此くの如く軽賤する間多分は以て失せ畢んぬ。 日興が云はく、此の御筆の御本尊は是一閻浮提に未だ流布せず、正像末に未だ弘通せざる本尊なり。然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては、左右無く子孫等にも譲り弟子等にも付嘱すべからず。同一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべし。是偏に広宣流布の時、本化国王御尋ね有らん期まで深く敬重し奉るべし。 |
一、 |
五人が一同に、このように、御本尊をおろそかにしているので、あるいは曼荼羅を死体を包んで葬るために使う輩もあり、あるいは御本尊を売却する者もいる。五人がこのように軽んじ賎しんで扱ったので、たくさんの御本尊が失われてしまった。 日興が言う。この大聖人御自筆の御本尊は、全世界に未だ流布しておらず、正法・像法・末法の三時に未だ弘通していない本尊である。従って日興の門流で御自筆の御本尊を所持している者は軽々しく子孫に譲つたり弟子等にも付嘱してはならない。御自筆の御本尊は一ヵ所に安置し、本六の弟子が心を合わせて守護するべきである。そしてひとえに広宣流布の時・本化国主のお尋ねある時が来るまで、深く敬って重んじるべきである。 |
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| 一、 | 日興弟子分の本尊に於ては一々皆書き付け奉る事、誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事最も其の恐れ有りと雖も、或は親には強盛の信心を以て之を賜ふと雖も子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与すと雖も弟子等之を捨つ。之に依って或は以て交易し、或は以て他の為に盗まる。此くの如きの類其の数多きなり。故に賜はる所の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり。 | 一、 | 日興の弟子たちに授与された本尊については、その一つ一つに授与した者の名を書き付けた。このように凡人の筆で書き入れたことは、誠に大聖人の尊い筆をけがすものであり、最も恐れ多いことではあるが、あるいは親には強盛の信心によって御本尊を賜ったけれども、子孫たちが御本尊を捨てたり、あるいは師匠には、大聖人に常随給仕した功績に報いて御本尊を授与されたといっても、その弟子たちが御本尊を捨てたりしている。このような状態で、あるいは御本尊を人に売ったり、あるいは他人に盗まれたりした例が数多くあった。その故に大聖人から御本尊を授与された当事者の名を書きつけたのであり、これは後世に、授与された人の名を高くとどめるためである。 | |
| 一、 |
御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由諸方に其の聞こえ有り、所謂日向・日頂・日春等なり。 日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり。 本尊人数等、又追放人等、頚切られ死を致す人等。 |
一、 |
大聖人御自筆の本尊を形木に彫って、不信の者に授与し、御本尊を軽んじ賎していることが、方々から聞こえてくる。いわゆる日向・日頂・日春らがそれである。 日興の弟子においては、在家・出家を問わず、あるいは命を捨てたり、あるいは傷を受けたり、もしくはいる場所を追放されたりした信心ある弟子門下に対して、恐れ多くも日興自身が御本尊を書写し奉りこれを授与するのである。 日興が本尊を授与した人数等を記した。また追放された人、首を切られ殉死した人等も記した。 |
| 一、 | 本門寺を建つべき在所の事。 彼の天台・伝教は在生に之を用ひらるゝの間、直ちに寺塔を立てたまふ、所謂大唐の天台山、本朝の比叡山是なり。而るに此の本門寺に於ては、先師何れの国何れの所とも之を定め置かれず。 (★1873㌻) 爰に日興云はく、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるゝの時は、必ず富士山に立てらるべきなり。 |
一、 | 本門寺を建立すべき所のこと。 五人が一同に言う。かの天台大師・伝教大師は存命中に法門が用いられたので、直ちに寺院を建立された。いわゆる中国の天台山・日本の比叡山がこれである。しかし、かの本門寺については日蓮大聖人は、どの国、いずれの所であるとも定めおかれていない、と。 ここに日興が言う。およそ勝れた地を選んで寺院を建立するのが仏教の通例である。従って、駿河国の富士山こそ、日本第一の名山であるから、この所に本門寺を建立すべきであることを奏上したのである。よって広宣流布の時が到来し、国主がこの大聖人の法門を用いられるようになった時は必ず富士山に建立されるべきである。 |
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| 一、 | 王城の事。 右王城に於ては殊に勝地を撰ぶべきなり。就中仏法と王法と本源体一なり。居処随って相離るべからざるか。仍って南都の七大寺・北京の比叡山、先蹤之同じ後代改まらず。然れば駿河国富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり、二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖の本願を祈る所なり云云。 |
一、 | 王城のこと。 右、帝王の住む城は、とりわけ勝れた地を選ぶべきである。特に仏法と王法は、その根源は一体であるから、その所も離れているべきではない。奈良七大寺・京都の比叡山はその先例であり、後世もこの原理が改まることはない。さて駿河の国の富士山は広々とした地域である。一には日本国が扶桑国だからである。二には四神相応の勝れた地であるからである。本門寺と王城とが一所であるべきことは、かつは昔のよき例があり、かつは日蓮大聖人の誓願の所である。 |
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日興集むる所の証文の事。 御書の中に引用せらるゝ若しは経論書釈の文、若しは内外典籍の伝文等、或は大綱随義転用し、或は粗意を取って述用し給へり。之に依って日興散引の諸文典籍等を集めて次第証拠を勘校す、其の功未だ終はらず、且く集むる所なり。 |
日興が収集したところの証文のこと。 大聖人が御書の中に引用されている経文・論書・解釈の文、あるいは内道・外道の書物や伝承の文などは、大聖人は根本的な事柄をとって義の宜しきに随って転用され、あるいはほぼ意味を取って述べ用いられている。このところから日興は種々引用された文、書物を集めて、順次証拠を照合しているのである。しかしその作業は末だ終わっておらず、収録の途中の段階である。 |
| 一、 | 内外論の要文上下二巻開目抄の意に依って之を撰ぶ。 | 一、 | 内道・外道論からの要文。上下二巻、これは大聖人の開目抄の意図に従って選んだ。 | |
| 一、 | 本迹弘経要文上中下三巻撰時抄の意に依って之を撰ぶ。 | 一、 | 本門と迹門の弘経についての要文。上中下三巻、これは撰時抄の意図に従って選んだ。 | |
| 一、 | 漢土の天台妙楽、邪法を対治して正法を弘通したまふ証文一巻。 | 一、 | 中国の天台大師や妙楽大師が南三北七の邪法を破折して正法を弘通したことを示す証文一巻。 | |
| 一、 | 日本の伝教大師、南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通したまふ証文一巻。 | 一、 | 日本の伝教大師が南都六宗の邪宗を破折して法華経の正法を弘通したことを示す証文一巻。 |
| 已上七巻之を集めて未だ再治せず。 | 以上の七巻を集めたが、未だ内容を調べ直すには至っていない。 |
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奏聞状の事。 (★1874㌻) |
幕府に奏上した書状のこと。 |
| 一、 | 先師聖人文永五年の申状一通。 | 一、 | 先師・大聖人の文永五年の諌暁の書状が一通。 | |
| 一、 | 同八年の申状一通。 | 一、 | 大聖人の文永八年の諌暁の書状が一通。 | |
| 一、 | 日興其の年より申状一通。 | 一、 | 日興が大聖人の申状を添付して提出した申状が一通。 | |
| 一、 | 漢土の仏法先づ以て沙汰の次第之を図す一通。 | 一、 | 中国における仏法について、その順序を示した図一通。 | |
| 一、 | 本朝の仏法先づ以て御沙汰の次第之を図す一通。 | 一、 | 日本における仏法について、その順序を示した図一通 | |
| 一、 | 三時弘経の次第並びに本門寺を建つべき事。 | 一、 | 正法・像法・末法の三時における弘経の順序、ならびに本門寺を建立すべきことについて述べたもの。 | |
| 一、 | 先師の書釈要文一通。 | 一、 | 先師・大聖人の書と釈の要文一通。 |
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追加 八箇条 近年以来日興所立の義を盗み取り己が義と為す輩出来する由緒条々の事。 |
八ヵ条を追加する。 近年以来、日興が立てた義を盗み取ってあたかも自分が立てた義であるかのようにいつわる輩が出来する経緯を一つ一つ挙げる。 |
| 一、 | 寂仙坊日澄始めて盗み取って己義と為す、彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、仍って甲斐国下山郷の地頭左衛門四郎光長は聖人の御弟子、遷化の後民部阿闍梨を師と為す帰依僧なり。而るに去ぬる永仁年中新堂を造立し一体仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已はって自義と為し候処に、正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一体仏を開眼供養す。爰に日澄本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ、日興に帰伏して弟子と為る。此の仁盗み取って自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり。 | 一、 | 寂仙房日澄は、日興が立てた義を盗み取ってあたかも自分が立てた義であるかのようにした最初の人間である。かの日澄は民部阿闍梨の弟子である。そういうわけで甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は大聖人の御弟子である。大聖人後入滅の後、民部阿闍梨日向を師とした。しかるに去る永仁年中に新しい堂宇を建立し、釈迦仏の像一体を安置した時、日興のところにやってきて、日興の立てた義を非難した。日興の義を聞き終わってそれを自分の義としていたところ、正安二年に民部阿闍梨日向が、かの新しい堂宇ならびに釈迦仏の像一体を開眼供養したのである。このため日澄は自分の師である民部阿闍梨日向と永久に義絶して、日興に帰伏して弟子となったのである。この日澄は日興の義を盗み取って自分の義としたのであるが、後に反省して日興に帰伏した者である。 | |
| 一、 | 去ぬる永仁年中越後国に摩訶一と云ふ者有り天台宗学匠なり。 日興が義を盗み取って盛んに越後国に弘通するの由之を聞く。 | 一、 | 去る永仁年中に越後国に摩訶一という天台宗の学匠がいた。日興が立てた義を盗み取って、盛んに越後の国で弘通していると聞いている。 | |
| 一、 |
去ぬる正安年中以来浄法房天目と云ふ者有り聖人に値ひ奉る。日興が義を盗み取って鎌倉に於て之を弘通す又祖師を蔑如 して添加する義も之有り。 (★1875㌻) |
一、 | 去る正安年中から、浄法房天目と云う者がおり(この者は大聖人にお会いしている)、日興が義を盗み取って鎌倉においてこれを弘通している。彼は、大聖人が正行である唱題に助行として方便品・寿量品の読誦を加えられたことを蔑如し非難している。 | |
| 一、 | 弁阿闍梨の弟子帥房日高去ぬる嘉元年中以来日興が義を盗み取って下総国に於て盛んに弘通す。 | 一、 | 弁阿闍梨日昭の弟子、少輔房日高は、去る嘉元年中から日興が義を盗み取って、下総国中山において盛んに弘通している。 | |
| 一、 | 伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一体仏なり。而るに去ぬる年月、日興が義を盗み取って四脇士を造り副ふ、彼の菩薩の像は宝冠形なり。 | 一、 | 下総の国にある伊予阿闍梨日頂の真間の堂釈迦像一体を本尊としている。ところが、いつごろからか、 日興が立てた義を盗み取って上行・無辺行・浄行・安立行の四脇士を脇士として造り添えた。この四菩薩の像は宝で飾った冠をつけた形である。 | |
| 一、 | 民部阿闍梨同じく四脇士を造り副ふ、彼の菩薩像は比丘形にして衲衣を著す、又近年以来諸神に詣づる事を留むるの由聞くなり。 | 一、 | 民部阿闍梨日向も同じく四脇士を脇士として造り添えた。かの四菩薩の像は、頭髪を剃った比丘の姿をしており、納衣を着ている。また、彼は近年、諸の神社に参詣してはならないと言っていると聞いている。 | |
| 一、 |
甲斐国に肥前房日伝と云ふ者有り寂日房の向背の弟子なり。 日興が義を盗み取って甲斐国に於て盛んに此の義を弘通す云云。 又四脇士を造り副ふ、彼の菩薩の像は身皆金色剃髪の比丘形なり、又神詣でを留むる由之を聞く。 |
一、 | 甲斐国に肥前房日伝という寂日坊日華に背いた弟子がおり、日興が義を盗み取って甲斐国において盛んにこの義を弘通している。彼もまた四脇士を脇士として造り添えているが、彼の四菩薩像は、全身が金色で頭髪を剃った僧の姿をしている。また、神社の参詣を禁じていると聞いている。 | |
| 一、 | 諸方に聖人の御書之を読む由の事。 | 一、 | 方々に大聖人の御書を読むことが行われている。 |
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此の書札の抄、別状に有り之を見るべし。 |
本抄は、書きつけてあるから、これを詳細にした別状があり、それを見るべきである。 |