如来寿量品第十六
第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事………1765
第二 如来秘密神通之力の事…………………………1766
第三 我実成仏已来無量無辺等の事…………………1766
第四 如来如実知見 三界之相 無有生死の事 ………1767
第五 若仏久住於世薄徳之人不種善根貧窮下賤貧著五欲入於憶想妄見網中の事………1767
第六 飲他毒薬薬発悶乱宛転于地の事………………1767
第七 或失本心或不失者の事…………………………1768
第八 擣簁和合与子令服の事…………………………1768
第九 毒気深入失本心故の事…………………………1768
第十 是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差の事……1769
第十一 自我得仏来の事………………………………1769
第十二 為度衆生故方便現涅槃の事…………………1769
第十三 常住此説法の事………………………………1769
第十四 時我及衆僧倶出霊鷲山の事…………………1770
第十五 衆生見劫尽〇而衆見焼尽の事………………1770
第十六 我亦為世父の事………………………………1770
第十七 放逸著五欲堕於悪道中の事…………………1771
第十八 行道不行道の事………………………………1771
第十九 毎自作是念の事………………………………1771
第二十 得入無上道等の事……………………………1772
第廿一 自我偈の事……………………………………1772
第廿二 自我偈始終の事………………………………1772
第廿三 久遠の事………………………………………1772
第廿四 此の寿量品の所化の国土と修行との事……1773
第廿五 建立御本尊等の事……………………………1773
第廿六 寿量品の対告衆の事…………………………1773
第廿七 無作三身の事…………………………………1773
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文句の九に云はく、如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり。別して本地三仏の別号なり。寿量とは詮量なり。十方三世諸仏の功徳を詮量する故に如来寿量品と言ふと。 御義口伝に云はく、此の品の題目は日蓮が身に当たる大事なり。神力品の付嘱是なり。如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。寿量品の事の三大事とは是なり。六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり。頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり。其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。聞き奉りて修行するは観行即なり。此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて惑障を伏するを相似即と云ふなり。化他に出づるを分真即と云ふなり。無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云ふなり。 (★1765㌻) 総じて伏惑を以て寿量品の極とせず、唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得べきなり。無作の三身の所作は何物ぞと云ふ時、南無妙法蓮華経なり云云。 |
南無妙法蓮華経如来寿量品第十六についての御義口伝である。 文句の九には、如来とは十方三世の諸仏、真仏・応仏の二仏、法報応の三仏、本仏、迹仏の全体に通ずる名号である。だが別しては本地三仏の別号である。寿量品の寿量ということには、この品には十方三世・二仏・三仏の諸仏の一切の功徳を包含していることを意味するのであり、ゆえに寿量品というのである。と。 日蓮大聖人の御義口伝にいわく、 この南無妙法蓮華経如来寿量品第十六という題号は、日蓮大聖人の御身にあたる大事なものである。これこそ神力品第二十一において、上行菩薩として釈尊より付属を受けた実体なのである。 文句の九の文を文底より読めば、如来とは釈尊のことである。すなわち総じては十方三世のあらゆる仏に通ずるのである。だが別しては、本地無作の三身、すなわち久遠元初の、凡夫即極の本仏である。いま日蓮大聖人およびその門下の意で如来を論ずるならば、総じては、一切衆生はことごとく如来である。だがこれはあくまで理の上で論じたものであり、別して、事の上で論ずるならば、日蓮大聖人およびその弟子檀那のことである。 されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者、すなわち末法に全民衆救済のために出現された御本仏日蓮大聖人の御事である。 この無作の三身、即日蓮大聖人の宝号を、南無妙法蓮華経というのである。これ人法一箇の本尊であり、寿量品の事の三大事、すなわち内証の寿量品に顕わされた事の一念三千の当体たる本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の三大秘法とはこのことなのである。 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の立ち場から如来を六即に配立するならば、この品の如来は、決して色相荘厳の仏をいうのではなく、理即の凡夫をいうのである。われわれ凡夫の身を離れて如来はないのである。 だがこれはまだ理の上であり、われわれが大御本尊を戴いたときは、名字即である。そのゆえは、初めて題目を聞く、すなわち信受したからである。聞き奉って、さらに信行具足し、御本尊を受持しきっていくことは観行即である。この観行即とは、事の一念三千の本尊を観ずる、すなわち信ずることである。われわれが、大御本尊を信じ唱題していくならば、わが身の内に仏界を顕現し、力強い生命が発揮されていくのである。 さて、惑障、すなわち、われわれのさまざまな心の迷い、悩み、また三障四魔、三類の強敵に打ち勝っていくことが、相似即なのである。さらに折伏行に邁進し、広宣流布に向かって戦うことは、分身即というのである。 このとき、わが身が無作の三身と究竟することができる。すなわち生命の奥底に無作三身如来なりと覚知していくことができるのである。これを究竟即というのである。 全体を通じていうならば、釈迦仏法のような、歴劫修行により、次第に惑いを伏し、仏果を得ていくというのではなく、南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の根本は、凡夫の当体本有のままで究竟即、即無作三身如来の真実の幸福境涯を会得していくことである。これが、この品の極理であると心得るべきである。 それではこの無作三身如来の振舞いは何かといえば、それは南無妙法蓮華経以外にないのである。 |
| 御義口伝に云はく、無作三身の依文なり。此の文に於て重々の相伝之有り。神通之力とは我等衆生の作々発々と振る舞ふ処を神通と云ふなり。獄卒の罪人を呵責する音も皆神通之力なり。生住異滅森羅三千の当体悉く神通之力の体なり。今日蓮等の類の意は、即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云ふなり。成仏するより外の神通と秘密とは之無きなり。此の無作の三身をば一字を以て得たり。所謂信の一字なり。仍って経に云はく「我等当信受仏語」と。信受の二字に意を留むべきなり。 |
弥勒菩薩が三請してやまず、如来の誠諦の説法を四請したので、ついに釈尊は「汝等諦かに聴け、如来の秘密神通の力を」と述べ、これより大法を説くことを告げるのである。 この「如来秘密神通之力」について、御義口伝は次のように仰せである。 この文は、無作の三身の依文である。この文において、重々の相伝がある。「神通之力」とは、我等衆生が、瞬間瞬間活動していること自体神通といい、その力用が神通之力なのである。したがって、獄卒を苛責する音も皆神通之力なのである。さらに、生じ、住し、変化し、滅していく森羅三千の現象の当体は、ことごとく神通之力の本体なのである。 だがこれは如来秘密の神通之力ではない。日蓮大聖人および門下の元意でいえば、即身成仏と開覚することを如来秘密神通之力というのである。すなわち南無妙法蓮華経如来の秘密の神通之力となるのである。成仏すること以外に神通も秘密もありえないのである。この無作の三身を開覚していくことは、一字を以て得ることができきる。いわゆる信の一字である。ゆえに経に「我等当に、仏の語を信受したてまつるべし」と。この信受の二字に心を留むるべきである。 |
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御義口伝に云はく、我とは釈尊久遠実成道なりと云ふ事を説かれたり。然りと雖も当品の意は、我とは法界の衆生なり。十界己々を指して我と云ふなり。実とは無作の三身の仏なりと定めたり。此を実と云ふなり。成とは能成所成なり。或は開く義なり。法界無作の三身の仏なりと開きたり。仏とは是を覚知するを云ふなり、已とは過去なり、来とは未来なり。已来の言の中に現在は有るなり。我実と成けたる仏にして已も来も無量なり、無辺なり。百界千如一念三千と説かれたり。百千と云ふ二字は、百は百界、千は千如なり。是即ち事の一念三千なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は寿量品の本主なり。総じては迹化の菩薩此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり。彼は迹表本裏、此は本面迹裏なり。然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか。其の故は此の品は在世の脱益なり。題目の五字計り当今の下種なり。然れば在世は脱益、滅後は下種なり。 (★1767㌻) 仍って下種を以て末法の詮と為す云云。 |
寿量品第十六の「然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」の文について、大聖人の御義口伝には次のように仰せである。 我実とは、釈尊が始成正覚を破って、五百塵点劫の昔に成道していたということが説かれているのである。しかしながら、当時の元意、すなわち日蓮大聖人の仏法の立ち場からこの文を読むならば、この我というのは、法界の一切の衆生、すなわち森羅万象の十界の生命活動己々の当体ことごとく我というのである。 実とは無作三身の仏であると定めるのである。これこそまことの実であって、これ以外に究極の実ではないのである。また、成とは、能成・所成の成ということである。すなわち成とは開くという義である。法界すなわち森羅万象ことごとく無作三身の仏であると開くのである。仏とは、これをわが生命の上に覚知していくことをいうのである。已来の已とは過去であり、来とは未来のことである。已来の言葉の中に現在は含まれるのである。 ゆえに「我実成仏已来無量無辺」の文を、大聖人の仏法の立ち場から読めば「我実に成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」となるのである。すなわち、凡夫の当体本有のままで、無作三身の仏であると覚知し、それが無始無終、永遠に続いていると読むのである。 またこの文には百界千如、一年三千が説かれている。「無量無辺百千万億那由佗劫なり」の百千の二字は・百は百界を意味し、千は千如を意味し、これは事の一念三千、即大御本尊を意味するのである。無作三身の仏は人、事の一念三千が法で、人法一箇をあらわすのである。 このように寿量品の奥底は、まさしく日蓮大聖人の仏法に帰着していくのである。されば日蓮大聖人こそ寿量品の本主、すなわち寿量文底の仏なのである。また総じて南無妙法蓮華経と唱える大聖人の門下もまた寿量品の本主とあらわれるのである。 したがって、全体を通じて、迹化の菩薩はことごとく寿量品に手をつけ、扱うことはできない者なのである。ただ日蓮大聖人のみがこの寿量品の真意を知り、それを事実の上にあらわし、流布せしめているのである。 すなわち南岳・天台等の迹化の菩薩は迹門を表とし、本門を裏として、百界千如、一念三千を説いたのであり、あくまでも理である。だが日蓮大聖人は、寿量文底の独一本門を表とし、文上の法華経を、本迹共に裏となしていくのである。 このように寿量品は偉大であるとはいえ、これを釈迦仏法として読むならば、決して末法の全民衆救済要法とはならないのである。その理由は、この寿量品は、文のとおり読むならば、在世の脱益であり、在世の衆生を得脱えんがために説かれた教法である。もはやそれは末法今時の衆生を救済する力はなく、ただ題目の五字だけが、末法の要法であり、一切衆生の幸福の下種益となるのである。しかれば、在世は脱益であり、滅後末法は下種である。よって下種仏法たる南無妙法蓮華経をもって根本とするのである。 |
| 御義口伝に云はく、如来とは三界の衆生なり。此の衆生寿量品の眼を開けて見れば十界本有と実の如く知見せり。三界之相とは生老病死なり。本有の生老病死と見れば無有生死なり。生死無ければ退出も無し。唯生死無きに非ざるなり。生死を見て厭離するを迷ひと云ひ始覚と云ふなり。さて本有の生死と知見するを悟りと云ひ本覚と云ふなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、本有の生死本有の退出と開覚するなり。又云はく、無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も、悉く皆本有常住の振る舞ひなり。無とは法界同時に妙法蓮華経の振る舞ひより外は無きなり。有とは地獄は地獄の有りの儘、十界本有の妙法の全体なり。生とは妙法の生なれば随縁なり。死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり。若退の故に滅後なり。若出の故に在世なり。されば無死退滅は空なり、有生出在は仮なり、如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり、有生出在は無作の応身なり、如来如実は無作の法身なり。此の三身我が一身なり。一身即三身名為秘とは是なり。三身即一身名為密も此の意なり。然れば無作の三身当体蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等なり。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云。 |
寿量品第十六の「如来は如実に、三界の相を知見す、生死の、若しは退、若しは出有ること無く、亦在世、及び滅度の者無し」の文について御義口伝にいわく、 如来如実知見の「如来」とは、決して色相荘厳の理想人格をさすのではなく、この欲界・色界・無色界の三界に住する迷いの衆生たるわれら凡夫のことである。だがこの三界の衆生たるわれら凡夫の身が、もとより地獄界より仏界にいたるまでの十界を具備し、永遠に続きゆく生命の当体であると、ありのままの自分を知見していけるのである。 三界の相というのは、生老病死の四苦をいう。それが本有の生命であると見たとき、すなわち大御本尊を受持し、永遠の生命を覚知していくならば、それが無有生死となるのである。そうあれば生死もなければ、退出もない。 しかも、ただ生死がないだけではない。生死を見て、それを厭離し恐れるのを迷いといい、始覚というのである。所詮、大御本尊を信ぜず、題目を唱えない者に、正しい宇宙観、生命観がわかる道理がなく、浅はかな今世論に執着するのである。さて、本有の生死すなわち永遠の生命であると自覚することを悟りといい、また自らの生命の本質を知った本質を知った本覚であるといえるのである。 いま、日蓮大聖人およびその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るときに、本有の生死、本有の退出と開覚し、妙法に照らされた生死の二法を永遠に繰り返していくことができるのある、これすなわち真の悟りであり、本覚なのである。 またいわく、 無有生死若退若出等と経文にあるが、無も有も、生も死も、若退も若出も、また在世も滅後も悉く本有常住の振舞いなのである。すなわち久遠以来、常住してきた生命の本質にそなわる本来、本然の姿であり、働きなのである。 さらに無有生死の「無」とは、法界すなわち宇宙の森羅万象ことごとく同時に妙法蓮華経の振舞い以外の何ものでもない。また無有生死の「有」とは、地獄は地獄の有りのまま、餓鬼は餓鬼、畜生は畜生のまま、十界をもともと具しており、それ自体、妙法の全体である。 無有生死の「生」とは、妙法それ自体、久遠より常住するものであり、その妙法を根底とした生であるから、いま初めて生じたものではない。もともとあるものが縁にふれてあらわれたものである。無有生死の「死」とは、寿量の死、すなわち永遠の生命の立ち場からみた死であるから、大宇宙に冥伏し、大宇宙それ自体となり、そこに何の差別もない。法界同時に妙法それ自体なのである。それは「若しは退」のゆえに滅後すなわち死となり、「若しは出」のゆえに在世すなわち生となるのであって、退くか出現するかの違いにすぎない。 されば、無死退滅すなわち有に対し無、生に対し死、出に対し退、在世に対し滅後は、空仮中の三諦より論ずれば空諦となる。大宇宙に冥伏しているからである。有生出在、すなわち無に対して有、死に対して生、退に対して出、滅後に対し在世は、縁にふれて目に見える姿としてあらわれてきたものであるから仮諦である。有生出在に偏らず、無死退滅に偏らず、しかも有生出在、無死退滅を包含して、ありのままに生命の実相をみていく如来如実は中道である。 これを無作三身如来の身に論ずるならば、無死退滅は無作の報身であり、有生出在は無作の応身であり、如来如実は無作の法身である。この三身は久遠元初の自受用身如来の一身にそなわるものである。天台が文句の九に「一身即三身なるを名けて秘と為す」と述べたのも、実はこのことを意味しているのである。同じく「三身即一身なるを名けて密と為す」とあるのも、やはりこのことを意味するのである。 しからば、無作の三身の当体の蓮華の仏とは、南無妙法蓮華経如来たる日蓮大聖人のことであり、また南無妙法蓮華経と唱える日蓮大聖人の門下も、総じてはこれに含まれるのである。 |
| 御義口伝に云はく、此の経文は仏世に久住し玉はゞ薄徳の人は善根を殖うるべからず。然る間妄見網中と説かれたり。所詮此の薄徳とは在世に漏れたる衆生、今滅後日本国に生まれたり。所謂念仏・禅・真言等の謗法なり。不種善根とは、善根は題目なり、不種は未だ持たざる者なり。憶想とは捨閉閣抛第三の劣等、此くの如き憶想なり。妄とは権教妄語の経教なり。見は邪見なり。法華最第一の一を第三と見るが邪見なり。網中とは謗法不信の家なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、かゝる妄見の網中を離るゝ者なり云云。 |
寿量品第十六の「若し仏、久しく世に住せば、薄徳の人は善根を植えず、貧窮下賎にして、五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん」の文について、御義口伝には次のように仰せである。 この経文は、仏が世に久しく住し給うと、薄徳の人は、仏を渇仰する心を忘れ、善根を殖えることができなくなってしまう。しかして、これを妄見網中と経文に説かれたのである。所詮、この薄徳とは、釈迦在世に正法を聞くことなく、また信受することなく、そのため得脱も得られなかった衆生が、いま、滅後末法において、この日本国に生まれてきたのである。いわゆる念仏、禅、真言の謗法の者をいうのである。 経文の不種善根とは、末法今時においては題目である。また不種とは、いまだ御本尊を持ち、題目を唱えないものをいうのである。憶想とは、念仏宗においては法念が浄土の三部経以外の法華経をはじめとする一切の諸経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと邪義を唱えたのも、真言宗においては弘法が、法華経は大日経に相対すれば、第三の劣であると誹謗したのも、まさしくこの憶想にあたるのである。 妄見網中の妄とは、これらの権教方便の妄語の経教をいうのである。見とは邪見をいう。すなわち法華最第一であることが経文に明白であるにもかかわらず、これを第三の劣とみるのが、まさに邪見なのである。いま、日蓮大聖人および門下の弟子檀那が、南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、このような妄見の経、網中の家を離れた者と断ずることができるのである。 |
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(★1768㌻) 御義口伝に云はく、他とは念仏・禅・真言の謗法の比丘なり。毒薬とは権教方便なり。法華の良薬に非ず、故に悶乱するなり。悶とは息たゆるなり。寿量品の命なきが故に悶乱するなり。宛転于地とは阿鼻地獄へ入るなり云云。諸子飲毒の事は、釈に云はく「邪師の法を信受するを名づけて飲毒と為す」と。諸子とは謗法なり、飲毒とは弥陀・大日等の権法なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは毒を飲まざるなり云云。 |
寿量品第十六の「諸子後に他の毒薬を飲む。薬発し、悶乱して地に苑転す」との文についての御義口伝にいわく、 飲他毒薬の他とは、念仏、禅、真言の謗法の比丘のことである。毒薬とは権教方便である。ゆえに権教方便に執する輩は、法法華の良薬を飲まず、あたら毒薬を服しているがゆえに悶乱するのである。悶とは「いきたゆる」の意で、悶乱とは息をつくことができぬほどもだえ苦しむことをいうのである。これすなわち寿量品の命たる永遠の生命を会得できぬゆえに悶乱するのである。苑転干地とは、阿鼻地獄へいくことである。 諸子毒薬のことについては法華文句干の巻第九下に「邪師の法を信受するを名けて飲毒と為す」と説かれているごとく、邪宗教を信受することをいうのである。 この諸子とは謗法の者をいうのである。飲毒とは、弥陀・大日等の権法をいうのである。いま、日蓮大聖人およびその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、この毒を飲まないのである。 |
| 御義口伝に云はく、失本心とは謗法なり。本心とは下種なり、不失とは法華の行者なり、失とは本有る物を失ふ事なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは本心を失はざるなり。 |
寿量品第十六の「或は本心を失える、或は失わざる者あり」の文について、御義口伝にいわく。 本心を失うとは謗法を犯すことである。本心とは過去において仏より受けた成仏の根本の下種である。不心、すなわち失わないとは、法華経の行者のことである。日蓮大聖人は久遠元初以来、南無妙法蓮華経の御当体であり、そのお振舞いであり、いささかも本心も失っておられない。失うというのは、もともとあった本源のもの、すなわち南無妙法蓮華経を失うことである。いま、日蓮大聖人およびその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、本心を失わないのである。 |
| 御義口伝に云はく、此の経文は空仮中の三諦、戒定慧の三学、色香美味の良薬なり。擣は空諦なり、簁は仮諦なり、和合は中道なり、与は授与なり、子とは法華の行者なり、服すると云ふは受持の義なり。是を此大良薬色香美味皆悉具足と説かれたり。皆悉の二字は万行万善諸波羅蜜を具足したる大良薬たる南無妙法蓮華経なり。色香等とは一色一香無非中道にして草木成仏なり。されば題目の五字に一法として具足せずと云ふ事なし。若し服する者は速除苦悩なり。されば妙法の大良薬を服する者は貪瞋癡の三毒の煩悩の病患を除くなり。法華の行者南無妙法蓮華経と唱へ奉る者、謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり。法華の行者罵詈せらるゝも忍辱を行ずるは瞋恚の病を除くなり。法華経の行者是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは愚癡の煩悩を治するなり。されば大良薬は末法の成仏の甘露なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大良薬の本主なり。 |
寿量品第十六の「父、子等の苦能すること是の如くなるを見て、諸の経方に依って、良き薬草の色香美味、皆悉く具足せるを求めて擣簁和合して、子に与えて服せしむ、而して是の言を作さく、此の大良薬は色香美味、皆悉く具足すべし、汝等服すべし、速かに苦能を除いて、復衆の患無けんと」の文についての御義口伝にいわく。 この経文は、空仮中の三諦、戒定慧の三学をあらわしている。これすなわち、色香美味を共に具足した良薬、すなわち大御本尊なのである。この擣簁和合の三諦に約せば、擣は「つく」の意で、空諦である。簁は「ふるう」の意で仮諦である。和合は、完全な一つの薬として仕上げるのであり、中道である。 与子令服の与とは、授与という意味である。子とは法華の行者、すなわち大御本尊を信受する仏子のことである。服するということは受持の義である。この擣簁和合与子令服を、さらに説明して此大良薬色香美味皆悉具足と説かれたのである。 皆悉の二字は、三世諸仏の万行万善の功徳も、六波羅蜜修行の功徳も、ことごとく大良薬たる南無妙法蓮華経に具足していることをあらわしている。 色香等というもは、天台大師が止観の巻一上に「一色一香も中道に非ざること無し」と述べているごとく、草木成仏をあらわすのである。この実体こそ大御本尊にほかならない。されば、題目の五字、すなわち大御本尊に一法として具足しないものはない。万法がすべて具足しているのである。もしこれを服する者は、経文に「速かに苦悩を除く」とあるごとく、ただちに苦悩を消滅することができるのである。 されば、この妙法の大良薬を服する。すなわち大御本尊を信ずる者は、貪瞋癡の三毒の煩悩の病を除くことができるのである。 法華経の行者、すなわち大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱える者は、謗法の供養を受けることはない。これは貪瞋癡の三毒のうち貪欲の病を除くことになるのである。また法華経の行者が、いかに世間の人々から、悪口罵詈されても、忍辱を行じ、ただその人の幸福を思って折伏を行ずるのは、瞋恚の病を除くこたになるのである。また、法華の行者は、神力品に「是の人仏道に於いて、決定して疑有ること無けん」と説かれているが、御本尊を信ずることによって、即身成仏できるのである。これを覚知することは、愚痴の煩悩を治することになるのである。されば、この大良薬たる大御本尊は、末法の即身成仏の甘露なのである。いま、末法の御本仏にち蓮大聖人は、この大御本尊の当体であり、また大御本尊を信ずる日蓮大聖人の門下も、妙法の当体となり、大良薬の本主となるのである。 |
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御義口伝に云はく、毒気深入とは権教謗法の執情深く入りたる者なり。 (★1769㌻) 之に依って法華の大良薬を信受せざるなり。服せしむと雖も吐き出だすは、而謂不美とてむまからずと云ふ者なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は而謂不美の者に非ざるなり。 |
寿量品第十六の「毒気深く入って、本心を失えるが故に」の文について、御義口伝では次のように仰せである。 この「毒気深く入って」という文は、権教謗法への執着心が、深くその人の生命のなかに入り込んでしまった者のことをさすのである。 このために、法華の大良薬たる大御本尊を信受しないのである。また、たとえ、大良薬を服しても、吐き出してしまうのは、而謂不美といって、うまくないという者である。これらの、大御本尊を信受しない者、また入信しても途中で退転してしまう者は、毒気深入のゆえなのである。 いま、日蓮大聖人およびその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るのは、而謂不美の者ではないことになる。 |
| 御義口伝に云はく、是好良薬とは、或は経教、或は舎利なり。さて末法にては南無妙法蓮華経なり。是とは即ち五重玄義なり。好とは三世の諸仏の好み物は題目の五字なり、今留とは末法なり、此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり、取とは法華経を受持する時の儀式なり、服とは唱へ奉る事なり。服するにより無作の三身なり、始成正覚の病患差ゆるなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは是なり。 |
寿量品第十六の「是の好き良薬を、今留めて此に在く、汝取って服すべし、差じと憂うること勿れ」の文について、御義口伝には次のように申されている。 是好良薬とは、一般的には、あるいは経教あるいは舎利とされている。だが、これは文上の範囲内のことであり、末法においては、南無妙法蓮華経こそ、その実体なのである。 好とあるのは、三世諸仏の好み物は、題目の五字なるがゆえである。今留とは末法をさすのである。在此の此とは世界の中でも、御本尊がいますところの日本国である。汝とは末法の一切衆生のことであり、取とは、われわれが末法の法華経たる大御本尊を受持する時の儀式である。服うるということは、唱題することである。服することによって初めて、わが身に仏界が湧現し、無作の三身の当体とあらわれるのである。したがって、始成正覚に執着するという病が治り、今世だけの浅い生命観から、永遠の生命の覚知へと境涯を開いていくことができるのである。いま、日蓮大聖人および南無妙法蓮華経と唱える門下のことをいうのである |
| 御義口伝に云はく、一句三身の習ひの文と云ふなり。自とは九界なり、我とは仏界なり、此の十界は本有無作の三身にして来たる仏なりと云へり。自も我も得たる仏来たれり。十界本有の明文なり。我は法身、仏は報身、来は応身なり。此の三身無始無終の古仏にして自得なり。無上宝珠不求自得之を思ふべし。然れば則ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは自我得仏来の行者なり云云。 |
寿量品第十六の自我得仏来の文について、御義口伝には次のように仰せである。 この自我得仏来の一句は法報応の三身が明確に説かれた文と相伝するのである。自我の自とは九界であり、我とは仏界なのである。したがって、自我で十界を意味し、この十界は、本有無作三身の仏に本然のものであり、この十界互具の当体として末法に出現した仏のことを、自我得仏来というのである。 自すなわち九界も、我すなわち仏界もともに具有した仏が末法に出現したとは、十界が本有であることを示した明文である。さらに我は、三世常住に続きゆく仏の生命それ自体であり、法身である。仏とは、九界より湧現する随縁真如の智であり、報身である。来とは、刻々と移りゆく色法の活動であり、応身である。この三身は、無始無終の古仏たる久遠元初自受用身如来に本来そなわったものであり、他から与えられたものではなく、自ら体得されたものである。信解品の無上宝聚不求自得の文も、実はこのことを意味するのである。すなわち、無上宝聚とは無作三身のことであり、南無妙法蓮華経のことである。これを求めずして得るとは、無作の三身の境地は、決して他から与えられたものではなく、自得されたことを意味するのである。したがって、このような顕本遠寿、すなわち寿量品の文底に説かれた久遠元初の顕本は、絶対に諸経に説かれてはいない。いま、末法においては、日蓮大聖人こそ、自我得仏来の行者であり、総じては大聖人の弟子門下も、自我得仏来の行者となるのである。 |
| 御義口伝に云はく、涅槃経は法華経より劣りたりと云ふ経文なり。既に方便と説かれたり云云。 |
寿量品第十六の「衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず」の文についての御義口伝にいわく。 これは涅槃経は法華経より出たものであることを示す経文である。すでに法華経を説いた後に方便として涅槃経を説いたと、この経文に述べられているからである。 |
| 御義口伝に云はく、常住とは法華経の行者の住処なり、此とは娑婆世界なり、山谷曠野を指して此とは説き玉ふ。説法とは一切衆生の語言の音声、本有の自受用智の説法なり、末法に入っては説法とは南無妙法蓮華経云云。今日蓮等の類の説法是なり。 |
寿量品第十六の「常に此に住して法を説く」の文について、御義口伝では次のごとく仰せである。 常住とは法華経の行者、すなわち末法の御本仏の住処をいうのである。此とは娑婆世界をいい、山であれ、谷であれ、曠野であれ、いずこであろうとも、法華経の行者の住するところは、常住此説法の此であると説かれるのである。説法とは、理の上で論ずるならば、一切衆生の語言の音声が、本有の自受用智の説法なのである。これをいま、末法に約して論ずるなら、説法とは南無妙法蓮華経である。日蓮大聖人御自身の説法も、また弟子檀那の説法も、南無妙法蓮華経の説法以外にないのである。 |
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(★1770㌻) 御義口伝に云はく、霊山一会儼然未散の文なり。時とは感応末法の時なり、我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆を衆僧と説かれたり。倶とは十界なり、霊鷲山とは寂光土なり。時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出づるなり。秘すべし秘すべし。仍って事の一念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕はし出だし玉ふなり。されば倶とは不変真如の理なり、出とは随縁真如の智なり。倶とは一念なり、出とは三千なり云云。又云はく、時とは本時娑婆世界の時なり。下は十界宛然の曼陀羅を顕はす文なり。其の故は時とは末法第五時の時なり。我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出するなり。霊山とは御本尊なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処を説くなり云云。 |
寿量品題十六の「時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出ず」の御義口伝にいわく、 この文は、天台が法華宗法偈に解釈しているごとく「霊山一会儼然未散」の文である。 時我及衆僧の時とは、感応末法の時、すなわち、衆生が御本仏の出現を感じ、御本仏もまたこれに応じて出現するという重大な時をさすのである。 我とは釈尊、すなわち仏界を意味し、及とは菩薩界、そして聖衆すなわち二乗界の聖者を衆僧と説かれたのである。また倶とは十界を意味するのである。霊鷲山とは寂光土のことである。この末法の今時において、我も及も衆僧も倶に、すなわち十界ことごとくが、霊鷲山すなわち寂光土にあらわれるのである。このことは深秘の法門であり、堅く秘すべきである。所詮、この文は、文底下種独一本門、事行の一念三千の明文である。御本尊は、この文を、事実の上に具現化されたものである。 されば俱出の俱とは、大御本尊に十界の生命が、宛然としてそなわっていることであり、これ自体は不変真如の理なのである。出とは信心によって、大御本尊の十界の生命活動がわれわれに感応してくることであり、随縁真如の智なのである。さらに倶とは、信心の一念であり、これが不変真如の理となり、出とは、信心があって、初めて随縁真如の智となり、三千の活動が、妙法に照らされた幸福な活動になっていく。このように、俱出をば二重に拝すべきなのである。 またいわく、時我及衆僧俱出霊鷲山の時とは、この娑婆世界に大御本尊が出現した、久遠即末法の時なのである。下の我及衆僧俱出霊鷲山とは、十界互具、事の一念三千の大御本尊をあらわす文である。 そのわけは、時とは、末法、五五百歳の初め、大御本尊御出現の時であり、我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、俱とは六道であり、出とは、これらの十界の生命活動が、霊山浄土に列出することをいう。しかして、霊山とは、御本尊のことであり、御本尊に十界の生命が列出することを意味するからである。霊山とは、また日蓮大聖人およびその門下が南無妙法蓮華経と唱える、その人の住所が霊山であり、いずこであれ、仏界に照らされ、幸福なる生活をしていくことができるのである。 |
| 御義口伝に云はく、本門寿量の一念三千を頌する文なり。大火所焼時とは実義には煩悩の大火なり。我此土安穏とは国土世間なり。衆生所遊楽とは衆生世間なり。宝樹多華菓とは五陰世間なり。是即ち一念三千を分明に説かれたり。又云はく、上件の文は十界なり。大火とは地獄界なり、天鼓とは畜生界なり、人と天とは人天の二界なり、天と人と常に充満するなり。雨曼陀羅華とは声聞界なり、園林とは縁覚界なり、菩薩界とは及の一字なり、仏界とは散仏なり、修羅餓鬼界とは憂怖諸苦悩如是悉充満の句に摂するなり。此等を是諸罪衆生と説かれたり。然りと雖も此の寿量品の説顕はれては、則皆見我身とて一念三千なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり云云。 |
寿量品第十六の「衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も」から「而も衆は焼け尽きて、憂怖諸の苦悩、是の如き悉く充満せりと見る」にいたる文についての御義口伝である。 これは、本門寿量の一念三千を賛嘆した文である。 大火所焼時の大火とは、実義には、煩悩の大火ということである。また三世間に約していえば、我此土安穏の文は国土世間をあらわすのである。衆生所遊楽とは衆生世間をあらわすのである。また宝樹多華菓とは五陰世間をあらわすのである。これすなわち一念三千を分明に説かれたのである。 またいわく、この経文には厳然と十界が説かれている。大火所焼時の大火とは地獄界である。諸天撃天鼓の天鼓とは畜生界である。天人常充満の人と天は、人界と天界の二界をいう。すなわち、天と人とが常に充満するのである。雨曼荼羅華とは声聞界のことである。園林諸堂閣の園林とは、縁覚界のことである。菩薩とは散仏及大衆の及の一字が菩薩界をあらわしている。仏界とは、散仏の文がこれをあらわしている。修羅界と餓鬼界とは、憂怖諸苦悩如是悉充満の句に摂するのである。これらの苦悩の衆生をば「是の諸の罪の衆生」と説かれたのである。しかしながら、この内証の寿量品たる大御本尊が顕わされてからは、則皆見我身とあるがごとく、わが身が一念三千の当体とあらわれるのである。いま、日蓮大聖人ならびに南無妙法蓮華経と唱え奉る弟子檀那のことなのである。 |
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御義口伝に云はく、我とは釈尊、一切衆生の父なり。 主師親に於て仏に約し経に約す。仏に約すとは、 (★1771㌻) 迹門の仏の三徳は今此三界の文是なり。本門の仏の主師親の三徳は、主の徳は我此土安穏の文なり。師の徳は常説法教化の文なり。親の徳とは我亦為世父の文是なり。妙楽大師は寿量品の文を知らざる者は不知恩の畜生と釈し玉へり。経に約すれば諸経中王は主の徳なり、能救一切衆生は師の徳なり、又如大梵天王 一切衆生之父の文は父の徳なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一切衆生の父なり。無間地獄の苦を救ふ故なり云云。涅槃経に云はく「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」云云。日蓮が云はく、一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるべし。 |
我亦為世父の我とは、釈尊、すなわち仏自身のことであり、一切衆生の父なのである。主師信の三徳において、仏に約し、経に約して法華経は説かれている。 まず仏に約すということについていえば、迹門の仏の三徳は、譬喩品第三の「今此三界」の文がこれにあたるのである。 すなわち「皆是我有」は主の徳、「悉是吾子」は親の徳、「唯我一人能為救護」は師の徳である。 本門の主・師・親の三徳の文は、主の徳は寿量品第十六の「我此土安穏」の文であり、師の徳とは「常説法教化」の文であり、親の徳が、この「我亦為世父」の文なのである。 妙楽大師は、寿量品の文を知らない者は、主師親を知らず、不知恩の畜生であると釈したのである。 経に約して主師親をいえば、薬王品第二十三の「諸経中王」の文は主の徳、同じく次下にある「能救一切衆生」は師の徳、また同じく薬王品第二十三の「又如大梵天王一切衆生之父」の文は親の徳である。 さて、今日において、誰人が一切衆生の父であるのか。それは日蓮大聖人こそ、その一切衆生の父であられるのでる。そのゆえは、大聖人こそ、全民衆の無間地獄の苦を救うがゆえである。総じては、南無妙法蓮華経と唱える弟子檀那も、一切衆生の父とあらわれるのである。 涅槃経にいわく「一切衆生が、それぞれの因縁や果報にしたがって種々にさまざまな苦しみを受ける。その苦しみは、ことごとく仏唯一の苦しみである」と。日蓮大聖人の立ち場でいわく「一切衆生の種々さまざまな一切の苦悩は、ことごとく日蓮大聖人唯お一人の苦である」と。 |
| 御義口伝に云はく、放逸著とは謗法の名なり、入阿鼻獄疑ひ無き者なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は此の経文を免離せり云云。 |
寿量品第十六の「放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん」の文について、御義口伝に次のように仰せである。 放逸とは謗法の名である。入阿鼻極疑いなき者である。いま、日蓮大聖人および、その門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、この経文からまぬかれているのである。 |
| 御義口伝に云はく、十界の衆生の事を説くなり。行道は四聖、不行道は六道なり。又云はく、行道は修羅人天、不行道は三悪道なり。所詮末法に入っては法華の行者は行道なり、謗法の者は不行道なり、道とは法華経なり。天台の云はく「仏道とは別して今の経を指す」と。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは行道なり、唱へざるは不行道なり云云。 |
寿量品第十六の「道を行じ道を行ぜざるを知って」の文について御義口伝にいわく。 これは十界の衆生のことを説いているのである。行道は、声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖であり、不行道は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道である。 またいわく、さらに六道を行道、不行道に立て分ければ、行道は修羅、人、天であり、不行道は地獄、餓鬼、畜生の三悪道である。だが、所詮、末法に入って、大聖人の立ち場からいえば、法華経の行者は行道であり、謗法の者が不行道になるのである。行道・不行道の道ということは、結局、法華経すなわち末法においては大御本尊のことなのである。その証拠に天台は「仏道とは別して法華経を指すのである」と。 いま、日蓮大聖人および南無妙法蓮華経と唱え奉る弟子檀那は行道であり、唱えない者は不行道になるのである。 |
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御義口伝に云はく、毎とは三世なり、自とは別しては釈尊、総じては十界なり、是念とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念なり、作とは此の作は有作の作に非ず無作本有の作なり云云。広く十界本有に約して云はゞ、自とは万法己々の当体なり、是念とは地獄の呵責の音、其の外一切衆生の念々皆自受用報身の智なり。 (★1772㌻) 是を念とは云ふなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る念は大慈悲の念なり云云。 |
寿量品第十六の「毎に自ら是の念を作さく」の文について、御義口伝には次のように仰せである。 毎とは常の意で三世常住をあらわす。自とは別しては釈尊、すなわち仏界をあらわし、総じては十界己己の生命をあらわすのである。是念とは、無作本有の南無妙法蓮華経の一念である。すなわち、日蓮大聖人の御一念である。また作とは、この作は有作の作ではなく無作本有の作であり、大聖人の御振舞いそれ自体である。 以上、仏の一念、振舞いの上で論じたものであるが、 広く、十界全体の本有の姿に約して論ずるならば、自とは宇宙の森羅万象の己己の当体をいうのである。 また是念とは、地獄の獄卒が罪人を責めるのも、そのほか一切衆生の心に思う念念も、皆、自受用身の智にほかならない。これを念というのである。 いま、日蓮大聖人およびその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念である。 |
| 御義口伝に云はく、無上道とは寿量品の無作の三身なり。此の外に成就仏身之無し。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は成就仏身疑ひ無きなり云云。 |
寿量品第十六の「無上道に入り、速かに仏身を成就することを得せしめん」の文についての御義口伝にいわく。 無常上とは、内証の寿量品で説く無作三身である。これ以外に成就仏身はないのである。いま、日蓮大聖人こそ無作三身の仏であり、南無妙法蓮華経と唱え奉る大聖人の門下もまた成就仏身は疑いないのである。 |
| 御義口伝に云はく、自とは九界なり、我とは仏身なり、偈とはことはるなり、本有とことはりたる偈頌なり。深く之を案ずべし。偈様とは南無妙法蓮華経なり云云。 |
自我偈について、御義口伝には次のように仰せである。 自とは九界であり、我とは仏身である。すなわち、九界即仏界の生命である。偈とは「ことわる」という意味であり、妙法の哲理をば、これこそ道理なりと述べたことをいうのである。すなわち、この九界即仏界、十界互具の生命は、久遠元初以来、無始無終であることを道理として説き明かしたのがこの偈頌なのである。このことを深く思索していくべきである。 このように道理として説き明かした究極の実体は何かといえば、それは南無妙法蓮華経なのである。 |
| 御義口伝に云はく、自とは始めなり、速成就仏身の身とは終はりなり、始終自身なり。中の文字は受用なり。仍って自我偈は自受用身なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云ふ事無し。自受用身とは一念三千なり。伝教の云はく、一念三千即自受用身、自受用身とは尊形を出でたる仏と。出尊形仏とは無作の三身と云ふ事なり云云。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり云云。 |
自我偈全体についての御義口伝にいわく。 自我得仏来の自が自我偈の始めの文字であり、速成就仏身の身が終わりの文字である。したがって始めと終わりの文字を合して自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれ、総じては信心修行する者の自身の生命のことをあらわしている。始めの自と終わり身を除いた、その中間の文字は、受用、すなわち活動を意味し、法報応の三身如来の所作なのである。したがって、自我偈は、自受用身となるのである。 法界、すなわち大宇宙を自身と開覚するならば、法界はすべて自受用身となる。したがって自受用身即自我偈であるがゆえに、大宇宙はことごとく自我偈となるのである。 自受用身とは一念三千なのである。伝教大師は、その著「秘密荘厳論」に「一念三千は即自受用身であり、自受用身とは、色相荘厳の仏ではない。尊形を超出した凡夫相の仏である。しかして出尊形仏とは無作三身のことなのである」と。いま、日蓮大聖人こそ、この文のとおり無作三身の仏であり、事の一念三千の当体なのである。また、われわれ弟子もまた南無妙法蓮華経と唱えることによって無作三身の仏と開覚し、事の一念三千の当体としての確固たる自己を築くことができるのである。 |
| 御義口伝に云はく、此の品の所詮は久遠実成なり。久遠とははたらかさず、つくろはず、もとの儘と云ふ義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、是動かさゞるなり。三十二相八十種好を具足せず、是繕はざるなり。本有常住の仏なれば本の儘なり。是を久遠と云ふなり。久遠とは南無妙法蓮華経なり。実成、無作と開けたるなり云云。 |
久遠ということについて、御義口伝には次のように仰せである。 寿量品第十六の所詮は、久遠実成である。この久遠実成は、文底より見れば、五百塵点劫の成道ではなく、久遠元初の成道なのである。 久遠とは、その真実の意味は、働かさず、繕わず、本の儘であり、久遠元初の仏の姿、また生命の本質をあらわすのである。 無作三身であるがゆえに、ある時に初めて成道したというような、作られた仏ではない。これを働かずというのである。 応化の仏のごとく三十二相八十種好を具足せず、そのままの姿であるがゆえに、繕わずというのである。 また本有常住の仏であるがゆえに本の儘というのである。この働かさず、繕わず、本の儘のことを久遠というのである。したがって久遠とは、究極は、南無妙法蓮華経そのものなのである。 以上が久遠ということであるが、さらに久遠実成の実成とは「まことにひらけたり」と読むのである。すなわち、無作と開けたことをいうのである。 所詮、久遠実成とは、久遠元初において、わが身が無作三身の当体蓮華仏であると開覚したことである。 |
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御義口伝に云はく、当品流布の国土とは日本国なり、総じては南閻浮提なり、所化とは日本国の一切衆生なり、 (★1773㌻) 修行とは無疑曰信の信心の事なり、授与の人とは本化地涌の菩薩なり云云。 |
内証の寿量品の所化と国土と修行について、御義口伝には次のように仰せである。 当品すなわち内証の寿量品たる南無妙法蓮華経流布の国土とは、日本国である。総じては南閻浮題である。日本国にまず広宣流布はなされ、次に世界広布がなされていくのである。 所化、すなわちこの内証の寿量品によって救われる者とは、日本国の一切衆生のことである。 修業とは「疑い無きを信と曰う」との絶対の信心に立つことである。この内証の寿量品を授与すべき人とは、本化地涌の菩薩に限るのである。 |
| 御義口伝に云はく、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。 |
内証の寿量品を建立するところの御本尊について、御義口伝には次のように仰せである。 この本尊の依文になっているのは、寿量品第十六の如来秘密神通之力の文が、これなのである。戒定慧の三学は、その究極は、内証の寿量品に説かれる事の三大秘法がその実体なのである。日蓮大聖人は、三大秘法をたしかに霊鷲山において面授口決を受け、いま大聖人の一身に持っているのである。したがって、本尊とは、末法の法華経の行者、すなわち御本仏日蓮大聖人の一身の当体なのである。 |
| 御義口伝に云はく、経文は弥勒菩薩なり。然りと雖も滅後を本とする故に日本国の一切衆生なり。中にも日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり。弥勒とは末法法華の行者の事なり。弥勒をば慈氏と云ふ、法華の行者を指すなり。章安大師の云はく「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」と。是豈弥勒菩薩に非ずや云云。 |
寿量品第十六が誰のために説かれたのか、すなわち対告衆について、御義口伝には、次のように仰せである。 この寿量品は、文上においては弥勒菩薩がその対告衆になっている。 しかしながら、寿量品は一往は在世の衆生のためである。だが再往は、滅後末法を正意とするがゆえに、対告衆は日本国の一切衆生になる。日本国の一切衆生の中でも、日蓮大聖人のために寿量品は説かれたのである。総じては、われわれ日蓮大聖人の仏法を信じ、南無妙法蓮華経と唱える者が対告衆である。 再往、弥勒菩薩について論ずるならば、弥勒とは、末法の法華経の行者、御本仏をさす。 弥勒は慈氏と訳すのである。その意味からすれば、末法の法華経の行者、御本仏日蓮大聖人が、大慈悲をもって一切衆生を救われることをさすのである。 章安大師は、涅槃経疏に「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」と述べている。すなわち、一切衆生の謗法の悪を除き、幸福を与えていくことが、真実の親の振舞いであり、慈悲の活動、慈氏すなわち弥勒菩薩になるのである。 |
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御義口伝に云はく、尊形とは十界本有の形像なり、三摩耶とは十界所持の物なり、種子とは信の一字なり。所謂南無妙法蓮華経是なり。種とは妙法なり、子とは三世の諸仏なり、広くは十界の衆生なり、尊形とは本有の体を改めざるを云ふなり。三摩耶とは合掌なり、秘すべし云云。 |
無作三身とはどういうことかを説くにあたり、その仏になる種子、またその尊形、および三摩耶について、御義口伝にいわく。 尊形とは、何も特別な仏の姿ではなく、十界の生命に本来そなわった姿、形、このままが尊形なのである。三摩耶とは、仏とか菩薩が持っている特別なものではなく、十界の生命に本然的にそなわっているものである。種子とは信の一字である。この無作三身の仏になる種子、尊形、三摩耶というのは、すべて南無妙法蓮華経そのままをいうのである。 また、三摩耶というのは、合掌のことを意味する。これはまことに重大であり、秘すべきである。 |