| 今日蓮等の類聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至って即身成仏せしむ。廻向の文此より事起こるなり。 |
始めに「今日蓮等の類聖霊を訪ふ時」とあるなかの「聖霊」とは精霊、亡くなった方の霊魂、御霊のことで、これは死後の生命を指しております。また「訪ふ時」というのは、死者の霊を慰めて冥福を祈ることを言います。
この時は「法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至って即身成仏せしむ」と仰せでありますが、まさに題目の功徳力は広大無辺にして、下は無間地獄にまで至り、即身成仏せしめるとおっしゃっているのです。
この「即身成仏」というのは、衆生が凡夫の身そのままで仏に成ることであります。法華経以前の諸経におきましては、例えば悪人は善人に身を変じ、また女人は男子に生まれ変わった上で、長期の修行、これを歴劫修行と言いますけれども、長い長い間、仏道修行をして、ようやく三十二相・八十種好を具えた仏に成ると説かれていたのです。しかし、法華経では、そういった歴劫修行によらずして、妙法の功力によって、凡夫の肉身そのままの姿で成仏を得る、即身成仏ということが説かれるのであります。
例えば、法華経の提婆達多品では、八歳の竜女の即身成仏が明かされております。すなわち、伝教大師は『法華文句』には、
「仏の受けたもうこと疾きとは果を獲ること速かなるなり(中略)胎経に云く、魔梵釈女は皆身を捨てず身を受けずして、悉く現身に於て成仏することを得」(文句会本下66頁)
と示されております。このなかの「魔梵釈女」というのは。魔王・梵王・帝釈・女人のことで、これらは身を捨てずに、あるいは身を受けずに「現身」その身そのままで成仏することができると仰せられているのであります。
ですから、妙楽大師の『法華文句記』には、
「若し即身成仏せずんば、此の竜女の成仏及び胎経の偈如何が通ずるや」(同67頁)
とおっしゃっているのです。
つまり、この即身成仏の義は法華経によって立てられた、まことに大事な法門でありますが、この法華経の説くところの即身成仏は、まさしく妙法蓮華経の経力によるものです。この妙法蓮華経の経力によって、十界の衆生それぞれの者が、当体を改めずに成仏がかなえられると説いているわけであります。
これを今日的に言うならば、まさに本門戒壇の大御本尊を至心に信ずることによって、我々は、いかなる者であったとしても、必ず即身成仏がかなうのであります。だけれども、一つだけ条件があります。それは信心がなければ成仏はかないません。この信心が最も大事なところであります。
頭のなかでは解っていても、それが身体として動かなければだめなのです。例えば、朝夕の勤行が尊い、すばらしいと思っていても、実際に勤行しなければだめです。
折伏も同じです。折伏の功徳は極めて大きい。けれども、頭で考えていただけでは理の仏法であって、私達はそれを行ずることによって始めて、その大きな功徳を実際に頂戴することができるのです。
ですから、理と事の違いをしっかりと見極めて、朝夕の勤行、そして日々の折伏を行じていく、つまり自行化他の信心に励んでいくことが非常に大事なのです。
本門戒壇の大御本尊を至心に信じ、自行化他の仏道修行をすることによって、我々の即身成仏がかなうのです。このことは、一人ひとりがよくよく銘記しなければなりません。つまり、大聖人様の仏法は理の仏法ではなく、事の仏法であり、この事を事に行ずるところが事行の一念三千でありますから、これを行じていくところに大きな意味が存在するのであります。
次に「廻向の文此より事起こるなり」と仰せでありますから、そもそもこの「廻向」というのは、廻はめぐらす、向は差し向けるという意味です。つまり、自らが仏道修行をして得たところの功徳を回し転じて、衆生に向けて施し与えることをいうのであります。したがって、その元になる自らの仏道修行がなければ、これは回向にならないのです。要は、一人ひとりがしっかりとお題目を唱えて自らの功徳を積み、その功徳を回し向けることが大事であります。
これを具体的に言うならば、三大秘法の大御本尊を信じ、その功徳を父母、兄弟、先祖等の菩提に回し向けることであります。
したがって、旧訳の華厳経には、
「この菩薩摩訶薩は、一切の諸の善根を修得する時、彼の善根を以て、是くの如く回向し、此の善根功徳の力をして一切の処に至らしむ」
と説かれており、また天台大師の『摩訶止観』には、
「一切の賢聖の功徳広大なり。今我随喜す、福亦広大なり。衆生は善無し。我善を以て施す、衆生に施し已って正に菩提に向う。声を廻らして角に入るに、響き聞こゆること即ち遠きが如し」(止観会本下193頁)
とおっしゃっているのであります。つまり、衆善を修して回向をすれば、功徳が甚大であり、至誠が通ずるとの意であります。
この回向には色々な解釈がありますけれども、三種の回向ということがあります。さらに、それを分けた十種の回向ということもあるのですが、この三種の回向は『大乗義章』に説かれる菩提回向・衆生回向、実際回向の三つをいいます。
初めの菩提回向とは、自ら積んだ善根功徳を、自己の悟りに差し向けることであります。
二番目の衆生回向とは、積んだ善根功徳を他の者、つまり衆生の利益に差し向けることであります。
三番目の実際回向とは、回向そのものに執われないで、そこに平等真実の理を悟ることを言います。
この三種の回向はいずれも重要でありますが、基本的には、自ら積んだ善根功徳を他の衆生の利益に差し向けることが肝要であります。つまり、自分の功徳を回し向けるということでありますから、やはり自らの強盛な信心がなければならないのです。