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(★1593㌻) 夫法華経の第七神力品に云はく「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」等云云。釈に云はく「経中の要説、要は四事に在り」等云云。 |
法華経の第七如来神力品第二十一に「要をもってこれを言えば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆この経において宣示顕説する」等とある。法華文句に「法華経中の要説の要は四事にある」等とある。 |
| 問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。 | 問う。説くところの要言の法とは何物であるのか。答えていう。釈尊が初めて成道して以来、四味三教から法華経の広開三顕一の席を立って、略開近顕遠を説かれた従地涌出品第十五まで秘せられた。諸法の実相を証得したその昔に修行されたところの寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である。 |
| 教主釈尊、此の秘法をば三世に隠れ無き普賢・文殊等にも譲り給はず。況んや其の以下をや。されば此の秘法を説かせ給ひし儀式は、四味三教並びに法華経の迹門十四品に異りき。所居の土は寂光本有の国土なり。能居の教主は本有無作の三身なり。所化以て同体なり。かゝる砌なれば久遠称揚の本眷属上行等の四菩薩を、寂光の大地の底よりはるばると召し出だして付嘱し給ふ。道暹律師云はく「法是久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云。 | 教主釈尊はこの三大秘法を過去・現在・未来の三世に隠れることのない普賢菩薩・文殊菩薩などの大菩薩にも譲られなかった。ましてそれ以下の菩薩においてはなおさらである。だからこの三大秘法を説かれた儀式は四味三教ならびに法華経の迹門十四品に異なっていた。舞台となった国土は寂光本有の国土である。そこにいる教主は本有無作の三身如来である。弟子もまた同体である。このような場合であるから久遠以来、仏とその久遠の妙法を誉め称えてきた本眷属である上行菩薩等の四菩薩を常寂光土の大地の底からはるばると呼び出して付嘱されたのである。道暹律師は「法はこれ久遠実成の法による故に久遠実成の本化の菩薩に付嘱する」等といっている。 |
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問ふ、其の所嘱の法門、仏の滅後に於ては何れの時に弘通し給ふべきや。答ふ、経の第七巻薬王品に云はく「後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云。謹んで経文を拝見し奉るに仏の滅後正像二千年過ぎて、第五の五百歳・闘諍堅固・白法隠没の時云云。 問ふ、夫諸仏の慈悲は天月の如し。機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給ふべき処に、正像末の三時の中に末法に限ると説き給ふは、教主釈尊の慈悲に於て偏頗あるに似たり、如何。答ふ、 (★1594㌻) 諸仏の和光利物の月影は九法界の闇を照すと雖も、謗法一闡提の濁水には影を移さず。正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶へり。像法一千年には法華経の迹門機感相応せり。末法の始めの五百年には法華経の本門前後十三品を置きて、只寿量の一品を弘通すべき時なり。機法相応せり。 |
問うて言う。その所嘱された法門は仏の滅後においては、いずれの時に弘通されるべきか。 答えて言う。法華経の第七巻薬王品第二十三に「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶させてはならない」等とある。謹んで経文を拝見すると、仏の滅後において正法千年・像法千年の二千年が過ぎて、第五の五百歳に当たり、闘いや諍いが盛んになり、釈尊の教法の功力が失われた時、とある。 問うて言う。もろもろの仏の慈悲は天月のようである。衆生の機根の水が澄むと、それを縁として利益の影をあまねくすべての機根の水に映されるはずである。それなのに正法・像法・末法の三時の中に末法に限ると説かれるのは、教主釈尊の慈悲に偏りがあるようであるが、どうであろうか。 答える。もろもろの仏の慈悲の光、衆生を利益する月影は九界の闇を照らすけれども、正法を謗り信じない者の濁った水には月影を映さない。正法時代一千年の衆生の機根の前にはただ小乗教や権大乗教が合致していた。像法時代の一千年には法華経の迹門が衆生の機根と仏の感応が相応している教えであった。末法の始の五百年には法華経の本門のうち、前後の十三品を差し置いてただ寿量品の一品を弘通すべき時である。衆生の機根と教法が相応しているからである。 |
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| 今此の本門寿量の一品は像法の後の五百歳、機尚堪えず。況んや始めの五百年をや。何かに況んや正法の機は迹門すら尚日浅し、増して本門をや。末法に入って爾前・迹門は全く出離生死の法にあらず。但専ら本門寿量の一品のみに限りて出離生死の要法なり。是を以て思ふに、諸仏の化導に於て全く偏頗無し等云云。 | 今、この法華経本門の寿量品の一品は、像法時代の後の五百歳の機根でさえ堪えることはできない。まして像法時代の始めの五百年はなおさらである。いかにいわんや正法時代の機根は法華経迹門になお日が浅く堪えられない。まして本門においてはなおさらである。末法時代に入って爾前経・法華経迹門は全く生死の苦しみから離れる法ではない。ただ専ら法華経本門の寿量品の一品だけが生死の苦しみから離れる肝要の法である。このことから思うと、もろもろの仏の化導に全く偏りはない。 | |
| 問ふ、仏の滅後正像末の三時に於て本化・迹化の各々の付嘱分明なり。但寿量の一品に限って末法濁悪の衆生の為なりといへる経文未だ分明ならず。慥かに経の現文を聞かんと欲す、如何。答ふ、汝強ちに之を問ふ、聞いて後に堅く信を取るべきなり。所謂寿量品に云はく「是の好き良薬を、今留めて此に在く、汝取って服すべし。差えじと憂ふること勿れ」等云云。 |
問う。仏の滅後、正法・像法・末法の三時において本化の菩薩と迹化菩薩へそれぞれの付嘱は明らかである。ただ寿量品の一品のみが末法の濁悪の衆生を利益するという経文は未だ明らかではない。確かに経に現えている文証を聞きたいと思うがどうか。 答える。あなたは強いてこれを問うなら聞いて後、堅く信ずるべきである。いわゆる法華経如来寿量品第十六に「この好き良薬を今留めてここに置く。汝取って服しなさい。病が治癒しないと憂いてはいけない」等とある。 |
| 問ふ、寿量品は専ら末法悪世に限る経文顕然なる上は私に難勢を加ふべからず。然りと雖も三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。汝が志無二なれば少し之を言はん。寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり。寿量品に云はく「如来秘密神通之力」等云云。疏の九に云はく「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す。又昔より説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す。仏三世に於て等しく三身有り、諸教の中に於て之を秘して伝へず」等云云。 |
問うて言う。寿量品は専ら末法の悪世に限るとの経文がはっきりしている以上は自分勝手な疑難を加えてはならないと思う。しかしながら三大秘法のその法体はどんなものか。 答えて言う。我が己心の大事はこれに及ぶものではない。あなたの志が無二であるので、少しこれを説こう。寿量品に建立するところの本尊は五百塵点の当初から、この土に有縁深厚ある本有無作の三身の教主釈尊がこれである。寿量品に「如来の秘密・神通の力」等とある。法華文句の巻九に「一身即三身であることを秘と名付け、三身即一身であることを密と名付ける。また昔から説かないところを秘と名付け、ただ仏のみ自ら知っているところを密と名付ける。仏は過去世・現在世・未来世の三世に等しく法報応の三身がある。もろもろの教えの中にこれを秘して伝えない」等とある。 |
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題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計りにして唱へてさて止みぬ。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。 (★1595㌻) 末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり。 |
題目とは二つの意義が有る。いわゆる正法・像法の題目と末法における題目である。正法時代には天親菩薩・竜樹菩薩が題目を唱えられたけれども自行ばかりであって、これで止まってしまった。像法時代には南岳大師・天台大師等がまた南無妙法蓮華経と唱えられたが自行のためであって、広く他人のために説かなかった。これは理行の題目である。 末法時代に入って今、日蓮が唱るところの題目は前の時代に異なって自行・化他両面にわたる南無妙法蓮華経である。この題目は名・体・宗・用・教の五重玄を具えた妙法蓮華経の五字である。 |
| 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。 | 戒壇とは王法が仏法に冥じ、仏法が王法に合して、王と臣が一同に本門の三大秘密の法を持って有徳王と覚徳比丘のその昔の事跡を末法時代の濁悪の未来に移し現そうとする時、勅宣ならびに御教書を申し下して、霊山浄土に似ている最も勝れた地を探し求めて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみである。事の戒法いうのはこれである。インド・中国・日本の三国ならびに一閻浮提の人が懺悔し滅罪する戒法だけでなく、大梵天王や帝釈等も来って踏まれるべき戒壇である。 |
| 此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山の座主始まって第三・第四の慈覚・智証、存外に本師伝教・義真に背きて、理同事勝の狂言を本として、我が山の戒法をあなづり、戯論と謗ぜし故に、思ひの外に延暦寺の戒、清浄無染の中道の妙戒なりしが、徒に土泥となりぬる事云ひても余りあり、歎きても何かはせん。彼の摩黎山の瓦礫となり、栴檀林の荆棘となるにも過ぎたるなるべし。夫一代聖教の邪正偏円を弁へたらん学者の人をして、今の延暦寺の戒壇を踏ましむべきや。此の法門は理を案じて義をつまびらかにせよ。 |
この戒法が立って後は、比叡山延暦寺の戒壇は迹門の理の戒法であるので、利益がなくなってしまうところに、比叡山延暦寺に座主が置かれ始めてから第三代の座主・慈覚と第四代の座主・智証が思いの外に本師の伝教大師と第一代座主・義真に背いて「法華と真言は理は同じであるが事において真言が勝っている」という狂った言説を根本として、自分の比叡山延暦寺の戒法を侮って戯れの論と笑った故に、思いの外に延暦寺の戒は清浄で汚れのない中道の妙戒であったのに、いたずらに土泥となってしまったことは、言っても言い尽くせず、歎いてもどうにもできないことである。あの摩黎山の瓦や石ころのような土となり、栴檀の林が茨となることよりも残念である。 釈尊の一代聖教の邪と正・偏と円を弁えている学者の人を今の延暦寺の戒壇を踏ませることができようか。この日蓮の法門は意味と道理を思案して意義を明白にしなさい。 |
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此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。 |
この三大秘法は二千余年前のその時の地涌の菩薩の上首・上行菩薩として日蓮が確かに教主大覚世尊の口から直接に相伝したのである。今、日蓮が修行し広めている法門は霊鷲山において相承した通り、少しばかりの相違もなく、色変わらない法華経本門寿量品文底の事の三大秘法である。 |
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問ふ、一念三千の正しき証文如何。答ふ、次に申し出だすべし。此に於て二種有り。方便品に云はく「諸法実相所謂諸法如是相乃至欲令衆生開仏知見」等云云。底下の凡夫理性所具の一念三千か。寿量品に云はく「然我実成仏已来無量無辺」等云云。大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり。今日蓮が時に感じ此の法門広宣流布するなり。予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間貴辺に対し書き遺し候。一見の後は秘して他見有るべからず、口外も詮無し。法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。 (★1596㌻) 秘すべし秘すべし。 弘安五年卯月八日 日蓮花押 大田金吾殿御返事 |
問う。一念三千の正しい経文の証拠はどうか。 答える。次に出し、説こう。これに二種がある。法華経第二方便品に「諸法の実相いわゆる諸法の如是相(乃至)衆生をして仏知見を開かせようとよ欲する」等とある。この文は機根の劣った凡夫の理として生命の本性に具えている一念三千を表している。法華経寿量品第十六に「しかるに善男子よ、我が実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫である」等とある。この文は釈尊が久遠に成仏した当初に証得した一念三千である。今、日蓮が末法の時に感じて、この法門を広宣流布するのである。私が久しい以前から自己の心に秘めてきたが、この三大秘法の法門を書き付けて留め置かなければ、我が門家の弟子らが必ず、日蓮は無慈悲であると悪口をいうであろう。その後はどのように悔いても及ばないことと思う故に、あなたに対し、この法門を書き送ったのである。一見した後、秘蔵して他人に見せてはならない。むやみに他人に話しても無益である。法華経を諸仏がこの世に出現した一大事と説かれるのは、この三大秘法を含めている経であるからである。秘密にすべきである。秘密にすべきである。 弘安五年卯月八日 日蓮花押 大田金吾殿御返事 |