大白法・平成10(1998)年1月1日刊(第492号より転載)御書解説(057)―背景と大意

春初御消息(1588頁)

 

 一、御述作の由来

 本抄は、南条時光殿が新春のお祝いを申し上げるために身延にお住まいになられる大聖人様のもとへ、御供養の品をお届けしたことに対する御返事です。弘安五(1282)年正月二十日に認められたとされており、御真筆は現存しません。

対告衆

 富士大石寺の開基大檀那である南条時光殿は、駿河国富士郡上野の地頭であり、南条兵衛七郎の次男として、正元元(1259)年に生まれました。本抄に認められた「故殿」とは父の兵衛七郎、「故五郎殿」とは弟の七郎五郎のことです。
 時光殿は幼少のときより、文永二(1265)年三月に亡くなった父の信仰と地頭職を継ぎ、母である上野尼の訓育によって成長を遂げるとともに、日興上人の駿河弘教に際しては、富士一帯の中心者として活躍し、熱原法難にも同信の僧俗を、身を挺して外護しました。そのために鎌倉幕府の圧迫を受け、過分の租税や、人足を割り当てられ、自ら乗る馬さえなく、妻子は着る物にも事欠くという苦労が続いたのです。
 そうした苦難の最中にも、大聖人様への御供養を続け、その純真なる信仰を愛でられ、特に熱原法難の功によって大聖人様から「上野賢人殿」と称賛されています。
 大聖人様御入滅の後は日興上人に仕え、身延離山の際には、進んで自領の上野にお迎えし、本門戒壇建立の最勝の地たる大石が原を寄進し、総本山大石寺の基礎を築いたのです。
 後に時光殿は入道して(しゃ)()大行(だいぎょう)と称し、元弘二(1332)年五月一日、七十四歳の生涯を閉じました。

背景

 大聖人様は、弘安四(1281)年五月の『八幡宮造営事』に、
 「今年は正月より其の()(ぶん)出来して、既に一期をわりになりぬべし。其の上(よわい)既に六十にみちぬ。たとひ十に一つ今年はすぎ候とも、一二をばいかでかすぎ候べき」(御書1556頁)
と仰せられ、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊を御建立あそばされ、また後継者に日興上人を得られて、御自身の入滅の近づいていることを予期され、寿命もあと一、二年であると仰せになられています。
 また、同年十二月八日の『上野殿母尼御前御返事』には、
 「さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候ひて今年十二月八日にいたるまで、此の山出づる事一歩も候はず。たゞし八年が間やせやまいと申し、とし()と申し、としどし(歳歳)に身ゆわく、心をぼ()れ候(中略)この十余日はすでに食もほとを()とゞ()まりて候上、ゆき()はかさなり、かん()はせめ候。身の()ゆる事石のごとし、胸のつめたき事氷のごとし」(御書1579頁)
と仰せられて、身延に入って八年間は身の変調に責められ、またその間一歩も身延を出ることもなかったと述懐され、今、厳寒の冬を迎え、長年の心身の疲れによって弱まりゆく老いの身には、ひとしお寒さが身にこたえると記されています。
 このような状況のなかで、正月を迎えられた大聖人様のもとに時光殿から届けられた御供養への御返事が本抄なのです。

 二、本抄の大意

 本抄のはじめに、
 「()はき()殿かきて候事よろこびいりて候
とあり、また追伸にも、
 「返す返す()はき()殿一々によみきかせまいらせ候へ
とあるのは、御供養などにおいても日興上人が大聖人様に御報告のお手紙を書かれたことを喜ばれ、また大聖人様からの返書も日興上人を通じて聴聞することを(きょう)(かい)なされたものと拝せられます。
 本抄は、まず新年の(よろこ)びを表され、米・塩・十字(むしもち)(いも)などといった御供養の品々を受け取られた旨を述べられます。
 この弘安五年の正月は、身延は特に大雪に見舞われた模様で、一丈(約三メートル)に及ぶ積雪に閉じこめられた山中の様子と御生活の一端に触れられています。というのも、鳥や鹿は庵室(あんしつ)に来るが、(しょう)(ぼく)(きこりや牧畜を営む人)は山に入らないことや、衣類や食糧も乏しく、厳冬の身延山の夜ともなれば、その寒さは(かん)()(ちょう)にでもなったように言語を絶するものがあり、昼になれば、あまりの厳しさに里へ逃れたいという気持ちに駆られると仰せです。
 そして、このように大雪のために人の往き来も絶え、食も心細くなっていたゆえに読経の声も絶え、観念の心も薄くなってしまい、今生は退転して、未来に三千塵点劫、五百塵点劫ほどの間、苦しまなければならないと嘆いていたところであったが、そこへ時光殿から種々の御供養がもたらされ、これによって命を長らえ、時光殿にも再び会える希望が湧いてきたと仰せです。
 さらに、過去の仏は凡夫であらせられたとき、()(じょく)乱漫(らんまん)の世に、このように飢えていた法華経の行者を供養して仏になられたと仰せられ、今、時光殿が大聖人様に御供養申し上げたことは、法華経が真実ならば、この功徳によって、過去の慈父・兵衛七郎殿が成仏することは疑いないと断言されています。
 最後に、故五郎殿も今は霊山浄土に参り合わせて、父君とお会いして父君に頭をなでられていることであろうと思いやると、涙をおさえることができないと哀悼(あいとう)の心情を吐露され、本抄を結ばれています。

 三、拝読のポイント

 本抄は、酷寒の身延山中で厳しい御生活をされる大聖人様に、変わらぬ御供養の誠を示す時光殿の信心を称賛され、その功徳によって亡き父、亡き弟の成仏は疑いないことを述べられています。すなわち純真な御供養の功徳を示され、その功徳において亡き家族の霊に回向されていくことを述べられていることが第一のポイントです。
 第二のポイントとしては、退転への誡めということです。第六十五世日淳上人の本抄の御講義(日淳上人全集上巻六一三頁)には、
 「(こん)(じょう)退転して未来三五を()ん事をなげき候ひつるところに
の御文を拝されて、妙法の信仰を退転すれば、三千塵点、五百塵点の長い間、苦しまなければならいことを教えられています。つまり、私どもの弱き心を見抜かれて誡められているのです。
 また、苦難に遭遇して一度退転してしまうと、再び大聖人様の仏法に巡り値うことはなかなかできません。しかも、退転することによって苦難が除かれるかと言えば、かえって重くなるのです。一凡夫が退転してしまうのは、大聖人様の仏法が最勝、最正であるということが判らないからです。
 この最勝の仏法に催いながら、なお苦しみが除けないのであれば、その原因となる我が身の過去の業障を思うべきです。その過去世の謗法罪障には軽重があります。何れにせよ、最勝にして最正の仏法によってのみ破り除くことができるのです。
 私たちは、新年の初頭に心を新たに御書を拝して、今年こそはと勇猛心を奮い起こすことが肝要です。また、今生に苦難がある人は、大聖人様の困苦を偲び奉って身を持することが大切なのです。

 四、結  び

 本年「革進の年」は、御法主上人猊下の御命題である立宗七百五十年の三十万総登山を見事に達成するために信行学をさらに深め、改革・前進する年であり、三月末には待望の新客殿の落慶を寿ぐ、十万名記念法要登山が挙行される年でもあります。
 昨年末、謗法厳誡の精神のもと、宗規改正によって、日蓮正宗以外の他の宗教団体に籍を置く者は本宗信徒としての資格を喪失するとの処置がとられました。
 しかしながら、これは未だに池田創価学会の陰謀に踊らされ、地獄への道を突き進んでいる学会員等を根本的に救うためであることを忘れてはなりません。私たち法華講の使命の大なることを自覚して、さらに折伏を敢然と行ってまいりましょう。
 輝かしき年頭にあたり、本年の決意も新たに、唱題・折伏・教学研鑚の目標を掲げ、さらにその達成に向けて日々努力を重ね、御命題の実現に向けて、それぞれの信心の改革こ前進を図ってまいろうではありませんか。