八日講御書 弘安五年一月七日 六一歳

 

(★1586㌻)
 満月のごとくなるもちゐ()二十・かん()()のごとくなるせい()()つゝ()()び候ひ了んぬ。春のはじめの御悦びは月のみつ()るがごとく、しを()のさすがごとく、草のかこむが如く、雨のふるが如しと(おぼ)()すべし。
 
 満月のようなお供え餅二十、甘露のような清酒一筒いただきました。
 春のはじめの御悦びは、月が満ちるがごとく、潮がさすごとく、草木が茂るがごとく、雨が降るごとくめでたいものであると考えていきなさい。
 (そもそも)八日は各々の御父・釈迦仏の生まれさせ給ひ候ひし日なり。彼日に三十二のふしぎあり。一には一切の草木に花さきみなる。二には大地より一切の宝わきいづ。三には一切のでん()ばた()に雨ふらずして水わきいづ。四にはよるへんじてひるの如し。五には三千世界に歎きのこゑなし。是くの如く吉瑞の相のみにて候ひし。是より已来(このかた)今にいたるまで二千二百三十余年が間、吉事には八日をつかひ給ひ候なり。    そもそも、八日は、人々にとって御父である釈迦仏が御誕生なされた日である。その四月八日には三十二の不思議な現象があった。一には、一切の草木に花が咲き、果がなった。二には、大地から一切の宝が湧き出た。三には一切の田畠に雨が降らないで自然に水が湧き、四には、夜が昼のごとく明るくなり、五には、三千世界どこにも歎きの声はなかった。その他いずれもこのような吉瑞の相ばかりであった。それ以来今日に至るまで二千二百三十余年の間、吉事には八日が使われたのである。
 然るに日本国皆釈迦仏を捨てさせ給ひて候に、いかなる過去の善根にてや法華経と釈迦仏とを御信心ありて、各々あつまらせ給ひて八日をくやう申させ給ふのみならず、山中の日蓮に華かう()ををくらせ候やらん、たうとし、たうとし。恐々謹言。
  正月七日    日蓮花押
 人々御返事
   ところが今の日本国の人びとは皆釈迦仏を捨てているのに、あなたがたは、どういう過去の善根によって、法華経と釈迦仏とを信仰された、皆が集まって八日を供養されるばかりでなく、山中にいる日蓮にまで香華を供養されたのであろうか。まことに尊いことである。恐々謹言。
  正月七日    日蓮花押
 人々御返事