八日講御書 弘安五年一月七日 六一歳
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満月のごとくなるもちゐ二十・かんろのごとくなるせいす一つゝ給び候ひ了んぬ。春のはじめの御悦びは月のみつるがごとく、しをのさすがごとく、草のかこむが如く、雨のふるが如しと思し食すべし。
抑八日は各々の御父・釈迦仏の生まれさせ給ひ候ひし日なり。彼日に三十二のふしぎあり。一には一切の草木に花さきみなる。二には大地より一切の宝わきいづ。三には一切のでんばたに雨ふらずして水わきいづ。四にはよるへんじてひるの如し。五には三千世界に歎きのこゑなし。是くの如く吉瑞の相のみにて候ひし。是より已来今にいたるまで二千二百三十余年が間、吉事には八日をつかひ給ひ候なり。然るに日本国皆釈迦仏を捨てさせ給ひて候に、いかなる過去の善根にてや法華経と釈迦仏とを御信心ありて、各々あつまらせ給ひて八日をくやう申させ給ふのみならず、山中の日蓮に華かうををくらせ候やらん、たうとし、たうとし。恐々謹言。
正月七日 日蓮 花押
人々御返事