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(★1571㌻) 今月十四日の御札同じき十七日到来、又去ぬる後の七月十五日の御消息同じき二十比到来せり。其の外度々の貴札を賜ふと雖も、老病たるの上又不食気に候間、未だ返報を奉らず候条、其の恐れ少なからず候。 |
今月十四日の御手紙は十七日に到着、またさる閏七月十五日の御手紙も同じく二十日ごろに到着した。そのほかたびたび御手紙をいただいたが、老病の身の上であり、また食事が進まないので、まだ返事をさしあげていないことを恐縮に思っている。 |
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| 何よりも去ぬる後七月の御状の内に云はく、鎮西には大風吹き候ひて浦々島々に破損の船充満の間、乃至京都には思円上人。又云はく、理豈然らんや等云云。此の事別しては此の一門の大事なり。総じて日本国の凶事なり。仍って病を忍んで一端是を申し候はん。 | それらのなかで、なによりも閏七月の御手紙のなかに「鎮西には大風が吹いて、浦々・島々に破損の船が充満している」、また「京都で思円上人の調伏の祈禱によって蒙古が破れたといわれている。またそのような道理があるのでしょうか」等とあった。このことは、別しては日蓮一門の大事である。総じては日本国の凶事である。そのため、病苦を忍んでそのことについて一端を申しあげよう。 | |
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是偏に日蓮を失はんとして無かろう事を造り出ださん事兼ねて知れり。其の故は、日本国の真言宗等の七宗八宗の人々の大科今に始めざる事なり。然りと雖も且く一を挙げて万を知らしめ奉らん。 |
思円の祈禱によって蒙古を調伏したなどということは、ただ、日蓮を葬ってしまおうとして、ないことを造り出したこととかねてから知っている。それは日本国の真言宗等の七宗・八宗の人々の大悪事の謀は今に始まったことではない。しかし、ここで一例を挙げてすべてをお知らせしよう。 |
| 去ぬる承久年中に隠岐の法皇、義時を失はしめんが為の調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けらる。仍って同じき三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失はしめ畢んぬ。 | 去る承久三(1221)年に隠岐法皇(後鳥羽上皇)が北条義時を除くために、義時調伏を比叡山の座主・東寺・仁和寺・七寺・園城寺に命ぜられ、同じ三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を京都の六波羅で殺害させたのである。 | |
| 然る間、同じき十九日廿日鎌倉中に騒ぎて、同じき廿一日山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す。同じき六月十三日、其の夜の戌亥の時より青天俄かに陰りて震動雷電して、武士共首の上に鳴り懸かり鳴り懸かりし上、車軸の如き雨は篠を立つるが如し。 | そうする間に同じ五月十九日、二十日にその報が届き、鎌倉中が大騒ぎとなって、北条義時は、同二十一日・東山道・東海道・北陸道の三道から十九万騎の兵を京都に向けて出発させた。同じく六月十三日、その夜の戌亥の時(午後八時から十時の間)から青天たちまちに曇って雷電が鳴りわたって、武士達の頭の上に懸ったうえ、車軸のような激しい雨は篠を立てたようであった。 | |
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爰に十九万騎の兵者等、遠き道は登りたり、兵乱に米は尽きぬ、馬は疲れたり、在家の人は皆隠れ失せぬ、冑は雨に打たれて綿の如し。武士共宇治勢田に打ち寄せて見ければ、常には三丁四丁の河なれども既に六丁七丁十丁に及ぶ。然る間、一丈二丈の大石は枯葉の如く浮かび、五丈六丈の大木流れ塞がること間無し。昔利綱・高綱等が度せし時には似るべくも無し。武士之を見て皆臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過ごさば皆心を翻して堕ちぬべし。去る故に馬筏を作りて之を度す処に、 (★1572㌻) 或は百騎或は千万騎、此くの如く皆我も我もと度ると雖も、或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も、彼の岸に付く者は一人も無し。然る間、緋綴赤綴等の冑、其の外弓箭・兵杖・白星の甲等の河中に流れ浮かぶ事は、猶長月神無月の紅葉の吉野・立田の河に浮かぶが如くなり。 |
十九万騎の兵達は、遠い道を行軍して、兵乱のために米は尽き、馬は疲れていた。付近の住民は皆逃げ隠れてしまった。冑は雨に打たれ綿のようだった。武士達が宇治・瀬田に押し寄せてみると、いつもなら三丁(一丁は約109m)・四丁の幅の川なのが、大雨のため六丁・七丁・十丁の川幅になっている。しかも、一丈(一丈は3.03m)・二丈もある大石が枯葉のように浮かび、五丈・六丈の大木によって、流れが塞がれることも間がない。昔、足利利綱と佐々木高綱等が渡った時とは比べることもできなかった。武士はこれを見て、皆臆したようにみえたが、今日を過ごしてしまうと、皆心を飜して京都方に堕ちてしまうだろう。そのために馬筏を作って向こう岸に渡ろうとしたところ、あるいは百騎・あるいは千騎・万騎と、そのようにして皆われもわれもと川を渡ったのだが、あるいは一丁、あるいは二丁・三丁と渡りかけても、向こう岸に着く者は一人もいない。 こうして緋綴・赤綴等の甲、そのほか弓や箭や刀や薙刀、白星の冑等の川の中に浮かぶ姿は、まるで九月十月ころの紅葉が吉野・立田の川に浮かぶようであった。 |
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| 爰に叡山・東寺・七寺・園城等の高僧等之を聞くことを得て、真言の秘法大法の験とこそ悦び給ひける。内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室、五壇十五壇の法を弥盛んに行なはれければ法皇の御叡感極まり無く、玉の厳りを地に付け大法師等の御足を御手にて摩で給ひしかば、大臣公等は庭の上へ走り落ち五体を地に付けて高僧等を敬ひ奉る。 |
このことを聞いた比叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等は、真言の秘法・大法の験と喜んだのである。 宮中の紫宸殿では比叡山の座主・東寺・仁和寺の高僧が、真言密教の五壇・十五壇の修法をいよいよ盛んに行じたので、後鳥羽院上皇は感嘆されることこの上もなく、玉の飾りを地につけ、修法の大法師等の足をその手で摩でられたので、そのほかの大臣・公卿等は庭の上へ走り落ちて五体を地につけ、高僧等を敬った。 |
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| 又宇治勢田にむかへたる公・殿上人は甲を震ひ挙げて大音声を放って云はく、義時所従の毛人等慥かに承れ。昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや。狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く、修羅が日月を射るに其の箭還りて其の眼に中らざること無し。遠き例は且く之を置く。近くは我が朝に代始まって人王八十余代の間、大山の皇子・大石の小丸を始めとして廿余人に、王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし。皆頚を獄門に懸けられ、骸を山野に曝す。関東の武士等、或は源平或は高家等、先祖相伝の君を捨て奉り、伊豆の国の民たる義時が下知に随ふ故にかゝる災難は出で来たるなり。王法に背き奉り民の下知に随ふ者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し。今生の恥之を何如。急ぎ急ぎ甲を脱ぎ弓弦をはづして、参れ参れと招きける程に、 | また宇治・瀬田に出陣した公卿・殿上人は関東武士に対して冑を震いあげて大声を放っていった。「義時が家来のいなかもの達よ、心して聞け。昔より今に至るまで王法(朝廷)に敵対した者が安穏であった者がいるか。犬が師子を吼えてその腹が破れなかったことがなく、修羅が日月を射てかえってその箭が自らの眼にあたらなかったことはなかった。遠い外国の例はしばらくおいて、近くは日本はじまって以来、人王八十余代の間の例を挙げれば、大山の皇子・大石の小丸をはじめとして二十余人が王法に敵対したが、誰一人として謀叛の目的を達した者はいない。皆獄門に頚を獄門に懸けられ、骸を山野に曝した。今や関東の武士等、あるいは源氏と平氏、あるいは家柄の良い家々が先祖から相伝えた大君を捨てて、伊豆の国の民である北条義時の命令に随うために、このような災難が起こったのである。王法に背き民の命令に随う者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北に駈けまわっているようなものである。これこそ一生の恥であり、これをどうするのか。急ぎ急ぎ冑を脱ぎ、弓弦をはづして降参せよ、降参せよ」と招いた。 | |
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何に有りけん、申酉の時にも成りしかば、関東の武士等河を馳せ度り、勝ちかゝりて責めし間、京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るゝの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ、又高僧・御師・御房達は或は住房を追はれ或は恥辱に値ひ給ひて、今に六十年の間いまだそのはぢをすゝがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達御祈承られて候げに候あひだ、いつもの事なれば、秋風に纔かの水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生け取りたりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候なり。 |
ところがどうしたことか。申酉の時にもなると、関東の武士達は川をかけ渡り、勝ちほこって攻撃したので、京都方の武者達は、一人のこらず山林に逃げ隠れてしまった。そこで、関東の武士達は四人の王を四つの島へ流罪してしまい、また高僧・御師・御房達は、あるいは住む寺を追われ、あるいはさまざまな恥辱にあって、それから今まで六十年の間、いまだにその恥をすすいでいないと思われているのに、今また、それらの祈禱を修した高僧の弟子達が祈禱を仰せつけられたようである。そして、いつも祈禱を吹く秋風によるわずかの波浪で蒙古の船が破損したのを、蒙古の大将軍を生け取りにしたなどといい、祈りが成就したなどと吹聴しているのである。 | |
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又蒙古の大王の頚の参りて候かと問ひ給ふべし。 (★1573㌻) 其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。御存知のためにあらあら申し候なり。乃至此の一門の人々にも相触れ給ふべし。 |
また、祈りが叶ったというならば蒙古の大王の頸がとどいたのかと反問すべきである。 そのほかのことはどのように言っても、返事をしてはならない。知っておかれたほうがよいと思うので、あらあら申したのである。なおこの一門の人々にも伝えておきなさい。 |
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又必ずしいぢの四郎が事は承り候ひ畢んぬ。予既に六十に及び候へば、天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだ、みぐるしげに候房をひきつくろい候ときに、さくれうにおろして候なり。錢四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし。恐々謹言。 十月廿二日 日蓮花押 進上 富城入道殿御返事 |
また、椎地四郎のことは承知した。 日蓮はすでに齢六十にもなったので、天台大師の御恩を報じようと思って、見苦しくなっている房を修繕、改築する費用に御供養の銭を下して使用した。 銭四貫文を供養して、一閻浮提第一の法華堂を造ったと、霊山浄土に行かれた時にはもうしあげるがよい。恐恐謹言。 十月二十二日 日蓮花押 進上 富城入道殿御返事 |