上野殿御返事 弘安四年三月一八日 六〇歳
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蹲鴟一俵給び了んぬ。又かうぬしのもとに候御乳塩一疋、並びに口付一人候。
さては故五郎殿の事は、そのなげきふりずとおもへども、御げざんははるかなるやうにこそおぼえ候へ。なをもなをも法華経をあだむ事はたえつとも見へ候はねば、これよりのちもいかなる事か候はんずらめども、いまゝでこらへさせ給へる事まことしからず候。仏説いての給はく、火に入りてやけぬ者はありとも、大水に入りてぬれぬ者はありとも、大山は空へとぶとも、大海は天へあがるとも、末代悪世に入れば須臾の間も法華経は信じがたき事にて候ぞ。
微宗皇帝は漢土の主、蒙古国にからめとられさせ給ひぬ。隠岐の法王は日本国のあるじ、右京の権の大夫殿にせめられさせ給ひて、島にてはてさせ給ひぬ。法華経のゆへにてだにもあるならば、即身に仏にもならせ給ひなん。わづかの事には身をやぶり命をすつれども、法華経の御ゆへにあやしのとがにあたらんとおもふ人は候はぬぞ。身にて心みさせ給ひ候ひぬらん。たうとしたうとし。恐々謹言。
三月十八日 日蓮 花押
上野殿御返事