南条殿御返事  弘安三年一二月一五日  五九歳

百箇日御書

 

(★1522㌻)
 麞牙(しらげごめ)二石・並びに鷷鵄(いも)(いち)()故五郎殿百ケ日等云云。法華経の第七に云はく「川流江河の諸水の中に、海()れ第一なるが如く、此の法華経も亦復(またまた)()くの如し」等云云。此の経文は法華経をば大海に譬へられて候。大海と申すはふかき事八万四千由旬(ゆじゅん)、広きこと又かくのごとし。此の大海の中にはなになにのすみ候と申し候へば、阿修羅王(あしゅらおう)□□□□□□□□□字百千万の字あつまて法花経とならせ給ひて候へば、大海に譬へられて候。又大海の一滴(いってい)は江河の(しずく)(すこ)しくは同じといへども、其の義はるかにかわれり。
 
 麞牙(白米)二石と鷷鵄(里芋)一駄を故五郎殿の百箇日法要の御供養として受け取った。
 法華経の第七巻薬王菩薩本事品第二十三に「川流・江河・諸水の中にあっては海は第一である。この法華経も、また同様である。」とある。この経文は、法華経を大海にたとえられている。大海というのは、深さは八万四千由旬もあり、広さもまた同様である。この大海の中には何が棲んでいるかといえば、阿修羅王(以下、断簡)………字百千万の文字があつまって法華経となったので、大海に譬へられているのである。また、大海の一滴は江河の滞と同じように小さいけれども、その意義ははるかに異なっている。
  江河の一滴は但一水なり、一雨なり。大海の一滴は四天下の水あつまて一滴をつくれり。一河の一滴は一の金のごとし、大海の一滴は如意(にょい)宝珠(ほうじゅ)のごとし。一河の一滴は一のあぢわい、大海の一滴は五味のあぢわい、江河の一滴は一つの薬なり。大海の一滴は万種の一丸のごとし。南無阿弥陀仏は一河の一滴、南無妙法蓮華経は大海の一滴。阿弥陀経は小河の一てい()、法華経の一字は大海の一てい。    江河の一滴はただの一水であり一雨である。大海の一滴は、四州天下の水があつまって一滞をつくっている。一河の一滴は一の金のようであり、大海の一滴は如意宝珠のようなものである。
 一河の一滞は一の味があり、大海の一滴には五味の味がある。江河の一滴は一つの薬であり、大海の一滴は万種の一丸のようなものである。
 南無阿弥陀仏と称えるのは河の水の一滴であり、南無妙法蓮華経と唱えるのは大海の一滴である。阿弥陀経は小河の一滴であり、南無妙法蓮華経は大海の一滴である。
 故五郎殿の十六年が間の罪は江河の一てい、須臾(しゅゆ)の間の南無妙法蓮華経は大海の一てい等云云。(それ)(おもんみ)れば花はつぼみさいて(このみ)なる。をや()は死にて子にになわる。これ次第なり。譬へ    故五郎殿の十六年が間の罪は江河の一滴のようなものであり、少しの間、南無妙法蓮華経と唱えられたのは大海の一滴のようなものである。花は蕾が咲いて菓となり、親は先に死んで子に背負われる。これが順序である。(七郎五郎殿は、それが逆になり大変かなしい)