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(★1522㌻) |
麞牙(白米)二石と鷷鵄(里芋)一駄を故五郎殿の百箇日法要の御供養として受け取った。 法華経の第七巻薬王菩薩本事品第二十三に「川流・江河・諸水の中にあっては海は第一である。この法華経も、また同様である。」とある。この経文は、法華経を大海にたとえられている。大海というのは、深さは八万四千由旬もあり、広さもまた同様である。この大海の中には何が棲んでいるかといえば、阿修羅王(以下、断簡)………字百千万の文字があつまって法華経となったので、大海に譬へられているのである。また、大海の一滴は江河の滞と同じように小さいけれども、その意義ははるかに異なっている。 |
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江河の一滴は但一水なり、一雨なり。大海の一滴は四天下の水あつまて一滴をつくれり。一河の一滴は一の金のごとし、大海の一滴は |
江河の一滴はただの一水であり一雨である。大海の一滴は、四州天下の水があつまって一滞をつくっている。一河の一滴は一の金のようであり、大海の一滴は如意宝珠のようなものである。 一河の一滞は一の味があり、大海の一滴には五味の味がある。江河の一滴は一つの薬であり、大海の一滴は万種の一丸のようなものである。 南無阿弥陀仏と称えるのは河の水の一滴であり、南無妙法蓮華経と唱えるのは大海の一滴である。阿弥陀経は小河の一滴であり、南無妙法蓮華経は大海の一滴である。 |
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故五郎殿の十六年が間の罪は江河の一てい、 |
故五郎殿の十六年が間の罪は江河の一滴のようなものであり、少しの間、南無妙法蓮華経と唱えられたのは大海の一滴のようなものである。花は蕾が咲いて菓となり、親は先に死んで子に背負われる。これが順序である。(七郎五郎殿は、それが逆になり大変かなしい) |