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(★1520㌻) 小袖一つ・直垂三具・同じく腰三具等云云。小袖は七貫、直垂並びに腰は十貫、已上十七貫文に当たれり。 夫以れば天台大師の御位を章安大師顕はして云はく、止観の第一に序の文を引いて云はく「安禅として化す、位五品に居したまへり。故に経に云はく、四百万億那由他の国の人に施すに一々に皆七宝を与へ、又化して六通を得せしむるすら、初随喜の人に如かざること百千万倍せり、況んや五品をや。文に云はく、即ち如来の使ひなり。如来の所遣として如来の事を行ず」等云云。伝教大師、天台大師を釈して云はく「今吾が天台大師は法華経を説き法華経を釈し群に特秀し唐に独歩す」云云。又云はく「明らかに知んぬ、如来の使ひなり。讃めん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開く」云云。如来は且く之を置く。滅後の一日より正像末二千二百余年が間、仏の御使ひは二十四人なり。所謂第一は大迦葉、第二は阿難、第三は末田地、第四は商那和修、第五は毱多、 (★1521㌻) 第六は提多迦、第七は弥遮迦、第八は仏駄難提、第九は仏駄密多、第十は脇比丘、第十一は富那奢、第十二は馬鳴、第十三は毘羅、第十四は竜樹、第十五は提婆、第十六は羅睺、第十七は僧佉難提・第十八は僧佉耶奢、第十九は鳩摩羅駄、第二十は闍夜那、第二十一は盤駄、第二十二は摩奴羅、第二十三は鶴勒夜奢、第二十四は獅子尊者なり。此の二十四人は金口の記す所の付法蔵経に載せたり。但し小乗・権大乗経の御使ひなり、いまだ法華経の御使ひにはあらず。三論宗の云はく、道朗・吉蔵は仏の使ひなりと。法相宗の云はく、玄奘・慈恩は仏の使ひなりと。華厳宗の云はく、法蔵・澄観は仏の使ひなりと。真言宗の云はく、善無畏・金剛智・不空・恵果・弘法等は仏の使ひなりと。 |
小袖一つ、直垂の袴の上下腰三具等たしかに受けとりました。小袖は金子七貫文、直垂と袴の三具は十貫文であるから、以上合わせて十七貫目に相当するものです。 よくよく考えてみるに、天台大師の位を章安大師が顕わしていうには「止観第一に序文に引いていわく『天台大師は安祥として禅定に入って遷化された。その位は法華経分別功徳品に説かれている五品の位に居られる。故に法華経分別功徳品には、四百万億那由佗の国の佗人に施すのに、一人一人に皆七宝を与え、またこれを教化して六神通を得せしめるとしても、なお末だ五品中第一の初隨喜の人には及ばないこと百千万倍である。况んや五品の位に達している人に及ぶわけがないと。また法華経法師品には、即ち如来の事を行ずるのである』」といっている。 伝教大師は天台大師について「今、我が天台大師は、法華経を説き、法華経を釈し、特に群を抜きんでて、中国中に独歩して並ぶ者がいない」と。又いわく「天台大師が如来の使いであることは明らかに知ることができる。讃めたたえる者は須弥山の如き大いなる福を積み、謗る者は無間地獄に堕ちる罪を得る」といっている。このことはしばらく置く。 仏滅後第一日から正像二千余年の間に仏の御使いは二十四人である。いわゆる第一は大迦葉、第二は阿難、第三は未田地、第四は商那和修、第五は毱多、第六は提多迦、第七は弥遮迦、第八は仏駄難提、第九は仏駄密多、第十は脇比丘、第十一は富那奢、第十二は馬鳴、第十三は毘羅、第十四は竜樹、第十五は提婆、第十六は羅睺、第十七は僧佉難提、第十八は僧佉耶奢、第十九は鳩摩羅駄、第二十は闍夜那、第二十一は盤駄、第二十二は摩奴羅、第二十三は鶴勒夜奢、第二十四は師子尊者である。この二十四人は釈尊の記すところの「付法蔵経」に載せられている。ただし、これらの人々は小乗経や権大乗経を弘める御使いであって、いまだ法華経を弘める御使いではない。 しかるに三論宗がゆうには「道朗・吉蔵は仏の使いである」と。また法相宗がいうには「玄奘・慈恩は仏の使いである」と。華厳宗がいうには「法蔵・澄観は仏の使いである」と。また真言宗の云うには「善無畏・金剛智・不空・慧果・弘法等は仏の使いである」と。 |
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日蓮之を勘へて云はく、全く仏の使ひに非ず、全く大・小乗の使ひにも非ず。之を供養せば災を招き之を謗ぜば福を至さん。問ふ、汝の自義か。答へて云はく、設ひ自義為りと雖も有文・有義ならば何の科あらん。然りと雖も釈せる有り。伝教大師の云はく「ぞ福を捨て罪を慕ふ者あらんや」と云云。福を捨つるとは天台大師を捨つる人なり。罪を慕ふとは上に挙ぐる所の法相・三論・華厳・真言の元祖等なり。彼の諸師を捨て一向に天台大師を供養する人の其の福を今申すべし。 三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく。百億の須弥山・四洲等を小千と云ひ、小千の千を中千と云ひ、中千の千を大千と申す。此の三千大千世界を一つにして四百万億那由他の国の六道の衆生を八十年やしなひ、法華経より外の已今当の一切経を一々の衆生に読誦せさせて、三明六通の阿羅漢、辟支仏・等覚の菩薩となせる一人の檀那と、世間・出世の財を一分も施さぬ人の法華経計りを一字一句一偈持つ人と相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事百千万億倍なり。天台大師此に勝れたる事五倍なり。かゝる人を供養すれば福を須弥山につみ給ふなりと、伝教大師ことはらせ給ひて候。 (★1522㌻) 此の由を女房には申させ給へ。恐々謹言。 日蓮花押 大夫志殿御返事 |
日蓮がこれを勘えてみるに、このうち三論、法相、真言等の人々は全く仏の使いではない。また大乗・小乗の使いでもない。このような人々を供養すれば、かえって災いを招き、逆にこれを謗ずれば福を得るのである。 問う、それは自義なのか。答える、たとえ自義であっても、文があり、道理があるならば、何の科があろうか。しかりといえども、自義ではなく、これについて釈がある。伝教大師は「誰が福を捨てて、罪を慕うものがあろうか」といっている。この「福を捨てる」とは、伝教大師のいわんとする心によれば、天台大師を捨てることであり、「罪を慕う」とは、上に挙げたところの法相・三論・華厳・真言の元祖等を慕うことである。これらの諸師を捨てて一向に天台大師を供養する人の受ける福について、今からのべてみる。三千大千世界というのは東西南北、一の須弥山・六欲天・梵天を合わせて一つの四天下と名づけ、百億の須弥山・百億の四州すなわち四天下を集めたものを小千世界といい。この小千世界を千集めたものを中千世界、そして中千世界を千集めたものを大千世界といい、または三千大千世界という。 この三全世界を一つにして、四百万億那由佗もの国の六道の衆生を80年間養い、法華経以外の已に説き、今説き、当に説かんとする一切経を、一人一人の衆生に読誦させ、三明智六神力を得た阿羅漢や辟支仏や等覚の菩薩となした一人の檀那と、このような世間・出世間にわたる財の施を少しも施さず、法華経計りを一字でも、一句・一偈を持つ人の功徳が勝れていること百千万億倍である。 しかも天台大師はこれより勝れていること五倍である。したがって、このような天台大師を供養すれば福を須弥山のごとく積むことになるのであると、伝教大師がはっきりといわれているのである。この仏法の道理をあなたの奥さんにも話してあげなさい。 大夫志殿御返事 日蓮花押 |
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