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(★1513㌻) 日蓮之を記す 問うて云はく、十八円満の法門の出処如何。答へて云はく、源蓮の一字より起これるなり。問うて云はく、此の事所釈に之を見るや。答へて云はく、伝教大師修禅寺相伝の日記に之在り。此法門は当世天台宗の奥義なり。秘すべし秘すべし。 |
日蓮之を記す 問うて言う。十八円満の法門はどこから出ているのか。 答えて言う。その源は「蓮」の一字から起こったのである。 問うて言う。この法門を釈で見たことがあるのか。 答えて言う。伝教大師の「修禅寺相伝日記」のなかにある。この法門は現在の天台宗の奥義である。秘すべきことである。秘すべきことである。 |
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| 問うて云はく、十八円満の名目如何。答えて云はく、一に理性円満、二に修行円満、三に化用円満、四に果海円満、五に相即円満、六に諸教円満、七に一念円満、八に事理円満、九に功徳円満、十に諸位円満、十一に種子円満、十二に権実円満、十三に諸相円満、十四に俗諦円満、十五に内外円満、十六に観心円満・十七に寂照円満、十八に不思議円満已上。 |
問うて言う。十八円満の名称とはどのようなものか。 答えて言う。一に理性円満・二に修行円満・三に化用円満・四に果海円満・五に相即円満・六に諸教円満・七に一念円満・八に事理円満・九に功徳円満・十に諸位円満・十一に種子円満・十二に権実円満・十三に諸相円満・十四に俗諦円満・十五に内外円満・十六に観心円満・十七に寂照円満・十八に不思議円満、以上である。 |
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問うて云はく、意如何。答へて云はく、此の事伝教大師の釈に云はく「次に蓮の五重玄とは、蓮をば華因成果の義に名づく。蓮の名は十八円満の故に蓮と名づく。一に理性円満、謂はく万法悉く真如法性の実理に帰す。実性の理に万法円満す、故に理性を指して蓮と為す。二に修行円満、謂はく有相無相の二行を修して万法円満す、 (★1514㌻) 故に修行を蓮と為す。三に化用円満、謂はく心性の本理に諸法の因分有り。此の因分に由って化他の用を具す、故に蓮と名づく。四に果海円満とは、諸法の自性を尋ねて悉く本性を捨て無作の三身を成す。法として無作の三身に非ざること無し、故に蓮と名づく。五に相即円満、謂はく煩悩の自性全く菩提にして一体不二の故に蓮と為す。六に諸教円満とは諸仏の内証の本蓮に諸教を具足して更に欠減なきが故に。七に一念円満、謂はく根塵相対して一念の心起こるに三千世間を具するが故に。八に事理円満とは、一法の当体而二不二にして欠減無く具足するが故に。九に功徳円満、謂はく妙法蓮華経に万行の功徳を具して三力の勝能有るが故に。十に諸位円満とは、但一心を点ずるに六即円満なるが故に。十一に種子円満とは、一切衆生の心性に本より成仏の種子を具す。権教は種子円満無きが故に皆成仏道の旨を説かず。故に蓮の義無し。十二に権実円満、謂はく法華実証の時は実に即して而も権、権に即して而も実、権実相即して欠減無きが故に、円満の法にして既に三身を具するが故に、諸仏常に法を演説す。十三に諸相円満、謂はく一々の相の中に皆八相を具して一切の諸法常に八相を唱ふ。十四に俗諦円満、謂はく十界・百界乃至三千の本性常住不滅なり、本位を動ぜず当体即理の故に。十五に内外円満、謂はく非情の外器に内の六情を具す。有情数の中に亦非情を具す。余教は内外円満を説かず、故に草木成仏すること能はず。草木成仏するに非ざるが故に亦蓮と名づけず。十六に観心円満とは、六塵六作常に観心の相にして更に余義に非ざるが故に。十七に寂照円満とは、文に云はく、法性寂然なるを止と名づけ、寂にして而も常に照らすを観と名づくと。十八に不思議円満とは、謂はく細しく諸法の自性を尋ぬるに、非有非無にして諸の情量を絶し、亦三千三観並びに寂照等の相無く、大分の深義本来不思議なるが故に名づけて蓮と為すなり。 |
問うて言う。その意味はどのようなものであるのか。 答えて言う。このことは伝教大師の修禅寺相伝日記のなかに次のように述べられている。 「次に五重玄義とは、蓮を華因成果の義に名づける。蓮の名は十八円満のゆえに蓮と名づける。 一に理性円満とは、万法はことごとく真如法性の実理に帰するのである。実性の理に万法は円満しているゆえに理性をさして蓮というのである。 二に修行円満とは、有相・無相の二行を修行することによって万行が円満するゆえに修行をさして蓮とうのである。 三に化用円満とは、心性の本理に諸法の因分があり、この因分によって化他のはたらきを具するゆえに化用をさして蓮というのである。 四に果海円満とは、諸法の自性をたずねてことごとく本性を捨てて、無作の三身を成ずるのである。法として無作の三身ではないゆえに、果海をさして蓮というのである。 五に相即円満とは、煩悩の自性が全く菩提にして一体不二のゆえに、相即をさして蓮というのである。 六に諸教円満とは、諸仏の内証の本蓮に諸教を具足して更に欠けることがないゆえに、諸経をさして蓮というのである。 七に一念円満とは、根塵相対して、一念の心が起きてくるときに、三千世間を具するゆえに、一念をさして蓮というのである。 八に事理円満とは、一法の当体が而二不二にして欠けることがなく具足するゆえに、理ことをさして蓮というのである。 九に功徳円満とは、妙法蓮華経に万行の功徳を具足して法力・仏力・信力の三力の勝能があるゆえに功徳をさして蓮というのである。 十に諸位円満とは、ただ一心を読む時に六即が円満なるゆえに、諸位をさして蓮というのである。 十一に種子円満とは、一切衆生の心性に本より成仏の種子を具しているのである。権教は種子が円満でないゆえに「皆成仏道」の旨を説かないゆえに蓮の義がないのである。 十二に権実円満とは、法華経の義が実証されたときには、実に即して権・権に即してしかも実であり、権実相即して欠けることがないゆえに円満の法にして既に法報応の三身を具するゆえに諸仏は常に法を演説するのである。 十三に諸相円満とは、一々の相のなかに皆八相を具して一切の諸法は常に八相を示すのである。 十四に俗諦円満とは、十界・百界ないし三千の本性が常住不滅なのである。本位を動かすことなく、当体即理の故に、俗諦をさして蓮というのである。 十五に内外円満とは、非情の外器のうちに内の六情を具している。有情のなかにまた非情を具しているのである。余教は内外円満を説いていないゆえに草木が成仏することはできないのである。草木非成仏のゆえに、また蓮と名づけないのである。 十六に観心円満とは、六塵六作常において心相を観ずるのであり、全く余義によらないゆえに、観心を蓮というのである。 十七に寂照円満とは、摩訶止観みは『法性が寂然であることを止と名づけ、寂にしてしかも常に照らすことを観と名づけるのである』とある。 十八に不思議円満とは、詳しく諸法の自性をたずねてみれば非有非無にして諸の情量を絶して、また三千三観ならびに寂照等の相がなく、大分の深義が本来不思議なるゆえに蓮とするのである。 |
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此の十八円満の義を以て委しく経意を案ずるに、今経の勝能並びに観心の本義良に蓮の義に由る。二乗・悪人・草木等の成仏並びに久遠塵点等は、蓮の徳を離れては余義有ること無し。座主の伝に云はく、 (★1515㌻) 玄旨の正決を尋ぬるに十九円満を以て蓮と名づく。所謂当体円満を加ふ。当体円満とは当体の蓮華なり。謂はく、諸法は自性清浄にして染濁を離るゝを本より蓮と名づく。一経の説に依るに、一切衆生の心の間に八葉の蓮華有り。男子は上に向かひ、女人は下に向かふ。成仏の期に至れば設ひ女人なりと雖も心の間の蓮華速やかに還りて上に向かふ。然るに今の蓮、仏意に在るの時は本性清浄当体の蓮と成る。若し機情に就いては此の蓮華譬喩の蓮と成る。 |
この十八円満の義をもってくわしく経の意を案ずるに、法華経の勝能ならびに観心の本義はまことに蓮の義によるのである。二乗・悪人・草木等の成仏ならびに久遠五百塵点などは蓮の徳を離れては余義はないのである。 座主の伝には『玄明師の正決を尋ねてみると、十九円満を蓮と名づけている。いわゆる当体円満を加えているのである、と。当体円満とは当体蓮華のことである。諸法の自性が清浄にして染濁を離れているのを、本より蓮というのである。 ある経の説によると、一切衆生の心の間には八葉の蓮華がある。男子は上に向かい、女人は下に向かうという。成仏の時に至れば、たとえ女人であっても、心の間の蓮は速やかに返って、上に向かうのである。 しかるに、今の蓮は仏意にあるときは、本性が清浄の当体蓮華となり、もし機情についていえばこの蓮華は譬喩の蓮華となる』と。」と。 |
| 次に蓮の体とは、体に於て多種有り。一には徳体の蓮、謂はく本性の三諦を蓮の体と為す。二には本性の蓮体、三千の諸法本より已来当体不動なるを蓮の体と為す。三には果海真善の体、一切諸法は本是三身にして寂光土に住す。設い一法なりと雖も三身を離れざる故に三身の果を以て蓮の体と為す。四には大分真如の体、謂はく不変・随縁の二種の真如を並びに証分の真如と名づく。本迹寂照等の相を分かたず諸法の自性不可思議なるを蓮の体と為す。 | 次に蓮の体とは、体については多くの種類がある。一には徳体の蓮であり、本性の三諦を蓮の体とするのである。二には本性の蓮体であり、三千の諸法は本よりこのかた当体が不動であることを蓮の体とするのである。三には果海真善の体で、これは、一切諸法は、もとは法報応の三身であって寂光土に住むのである。たとえば一法であっても三身を離れることはないゆえに三身の果をもって蓮の体とするのである。四には大分真如の体である。これは不変真如・随縁真如の二種の真如をいずれも証分の真如と名づけるのに対し、本迹・寂照などの相を分けず、諸法の自性がそのまま不可思議であるのを蓮の体とするのである」と。 |
| 次に蓮の宗とは果海の上の因果なり。和尚の云はく、六即の次位は妙法蓮華経の五字の中には正しく蓮の字に在り。蓮門の五重玄の中には正しく蓮の宇より起こる。所以は何。理即は本性と名づく。本性の真如・果性円満の故に理即を蓮と名づく。果海本性の解行証の位に住するを果海の次位と名づく。智者大師、自解仏乗の内証を以て明らかに経旨を見たまふに蓮の義に於て六即の次位を建立したまへり。故に文に云はく、此の六即の義は一家より起これり。然るに始覚の理に依って在纏真如を指して理即と為し、妙覚証理を出纏真如と名づく。正しく出纏の為に諸の万行を修するが故に、法性の理の上の因果なるが故に亦蓮の宗と名づく。蓮に六の勝能有り。一には自性清浄にして泥濁に染まらず理即。二には華台実の三種具足して減すること無し名字即。諸法即ち是三諦と解了するが故に。三には初め種子より成実に至るまで華台実の三種相続して断ぜず観行即。念々相続して修し廃するなき故に。四には華葉の中に在りて未熟の実、真の実に似たり相似即。五には花開き蓮現ず分身即。六には花落ちて蓮成ず究竟即。此の義を以ての故に六即の深義は源蓮の字より出でたり。 | 「次に蓮の宗とは、果海のうえの因果のことである。和尚のいうのに『六即位は妙法蓮華経の五字のなかには、正しく蓮の字にある。蓮についての五重玄義の中では、まさしく蓮の宗から起こっているからである』と。それはなぜかといえば、理即は本性と名づけるのである。本性の真如は理性円満のゆえに理即を蓮と名づけ、果海本性の解行証の位に住するのを果海の位と名づけているのである。天台智者大師は自解仏乗の内証をもって明らかに経の主旨を見られるとき、蓮の義において六即の位を建立されたのである。それゆえに、文に『この六即の義は一家より起こっているのである』と。しかるに、始覚の理を拠りどころとしている在纒真如をさして理即とし、妙覚の証理にたつのを出纒真如と名づけるのである。まさしく出纒のために諸の万行を修行するがゆえに法性の理の上の因果なのである。ゆえに、また蓮の宗と名づけるのである。この蓮には六つの勝能がある。一には自性清浄にして泥濁に染またない。(理即にあたる)、二には華・台・実の三種が具足して欠けることがない(名字即にあたる。それは諸法が三諦であると解了するがゆえに)、三には初め種子から実を成ずるまで華・台・実の三種が続いて断ずることがない(観行即にあたる。念々が相続いて修し、念々が廃することがないゆえに)四には華葉の中にある未熟の実が真の実に似ている。(相似即にあたる)、五には花が開き蓮が現ずる(分真即にあたる)、六には花が落ちて蓮が成ずる(究竟即に当たる)この義をもってのゆえに六即の深義はその源は蓮の字から出ているのである」と。 |
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次に蓮の用とは、六即円満の徳に由って常に化用を施すが故に。次に蓮の教とは、 (★1516㌻) 本有の三身果海の蓮性に住して常に浄法を説き八相成道し四句成利す。和尚云はく証道の八相は無作三身の故に、四句の成道は蓮教の処に在り。只無作三身を指して本覚の蓮と為す。此の本蓮に住して常に八相を唱へ、常に四句の成道を作す故なり」已上。修禅寺相伝日記之を見るに、妙法蓮華経の五字に於て各々五重玄なり蓮の字の五重玄義此くの如し余は之を略す。日蓮案じて云はく、此の相伝の義の如くんば万法の根源一心三観・一念三千・三諦・六即・境智の円融・本迹の所詮、源蓮の一字より起こる者なり云云。 |
次に蓮の用とは、六即円満の徳によって常に化用を施すゆえにである。 次に蓮の教とは、本有の三身・果海の蓮性に住して常に浄法を説き、八相成道し、四句を成ず。和尚がいうには『証道の八相は無作三身のゆえに四句の成道は蓮の教の処にあり、ただ無作三身をさして本覚の蓮というのである。この本蓮に住して常に八相を唱え、常に四句の成道をなすゆえである』とある。修禅寺相伝の日記之をみるに妙法蓮華経の五字に於て各各五重玄なり蓮の字の修禅寺相伝の日記之をみるに、妙法蓮華経の五字においておのおの五重玄がある。(蓮の字の五重玄義は以上のとおりである。余はこれを略す)。 日蓮が案じていうには、この修禅寺相伝の義によるならば、万法の根源、一心三観、一念三千、三諦、六即、境智の円融、本迹の所詮は、源は蓮の一字から起こっているのである。 |
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問うて云はく、総説の五重玄とは如何。答へて云はく「総説の五重玄とは妙法蓮華経の五字即ち五重玄なり。妙は名、法は体、蓮は宗、華は用、経は教なり」と。又「総説の五重玄に二種有り。一には仏意の五重玄、二には機情の五重玄なり。 |
問うて言う。総説の五重玄とはどのようなものであろうか。 答えて言う。修禅寺相伝日記によれば「総説の五重玄とは妙法蓮華経の五字がそのまま五重玄であるということである。すなわち、妙は名・法は体・蓮は宗・華は用・経は教である。また総説の五重玄に二種がある。一には仏意の五重玄・二には機情の五重玄である」と。 |
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仏意の五重玄とは、諸仏の内証に五眼の体を具する即ち妙法蓮華経の五字なり。仏眼妙、法眼法、慧眼蓮、天眼華、肉眼経。妙は不思議に名づくるが故に真空冥寂は仏眼なり。法は分別に名づく、法眼は仮なり、分別の形なり。慧眼は空なり、果体は蓮なり。華は用なる故に天眼と名づく、神通は化用なり。経は破迷の義に在り、迷を以て所対と為す、故に肉眼と名づく。仏智の内証に五眼を具する即ち五字なり。五字又五重玄なり。故に仏意の五重玄と名づく。亦五眼即五智なり。法界体性智仏眼、大円鏡智法眼、平等性智慧眼、妙観察智天眼、成所作智肉眼なり。問ふ、一家には五智を立つるや。答ふ、既に九識を立つ故に五智を立つべし。前の五識は成所作智、第六識は妙観察智、第七識は平等性智、第八識は大円鏡智、第九識は法界体性智なり。 |
「仏意の五重玄とは諸仏の内証に五眼の体を具する。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。すなわち、仏眼は妙・法眼は法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経にあたる。 また妙は不可思議を妙名づけるゆえに仏眼にあたる。真実にして空、冥寂であるがゆえに仏眼である。法は分別を法と名づけるゆえに法眼は仮であり、分別の形である。慧眼は空にあたる。果の体は蓮なのである。華は用であるゆえに天眼と名づける。神通化用のゆえである。経は迷いを破す義がある。迷いを所対とするゆえに肉眼と名づけるのである。仏智の内証に五眼を具する。これがすなわち五字であり、五字はまた五重玄と名づけるのである。 また五眼即五智である。法界体性智は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智は肉眼にあたるのである。 問うて言う。天台一家には五智を立てるのか。 答えて言う。すでに九識を立てるゆえに五智も立てるのである。九識のうち最初の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智にあたるのである」と。 |
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次に機情の五重玄とは、機の為に説く所の妙法蓮華経は即ち是機情の五重玄なり。首題の五字に付いて五重の一心三観有り。伝に云はく、 妙 不思議の一心三観 天真独朗の故に不思議なり 法 円融の一心三観 理性の円融なり総じて九箇を成ず (★1517㌻) 蓮 得意の一心三観 果位なり 華 複疎の一心三観 本覚の修行なり 経 易解の一心三観 教談なり |
次に機情の五重玄とは、衆生のために説くところの妙法蓮華経はこれ機情の五重玄である。首題の五字について五重の一心三観がある。 伝にいうには、 妙 不思議の一心三観 天真独朗のゆえに不思議である。 法 円融の 一心三観 理性円融である。総じて九箇の一心三観となる。 蓮 得意の 一心三観 果位である。 華 複疎の 一心三観 本覚の修行である。 経 易解の 一心三観 教えを談ずることである。 |
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| 玄文の第二に此の五重を挙ぐ。文に随って解すべし。。不思議の一心三観とは、智者己証の法体、理非造作の本有の分なり、三諦の名相無き中に於て強ひて名相を以て説くを不思議と名づく。円融とは、理性法界の処に本より已来三諦の理有り、互ひに円融して九箇と成る。得意とは、不思議と円融との三観は凡心の及ぶ所に非ず、但聖智の自受用の徳を以て量知すべし、故に得意と名づく。複疎とは、無作の三諦は一切法に遍して本性常住なり、理性の円融に同じからず、故に複疎と名づく。易解とは、三諦円融等の義知り難き故に、且く次第に附して其の義を分別す、故に易解と名づく。此を附文の五重と名づく。次に本意に依って亦五重の三観有り。一に三観一心入寂門の機、二に一心三観入照門の機、三に住果還の一心三観なり。上の機有って知識の説を聞いて、一切の法は皆是仏法なりと、即ち聞いて真理を開す。入真已後、観を極めんが為に一心三観を修す。四に為果行因の一心三観、謂はく、果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種々の三観を修す。五に付法の一心三観、五時八教等の種々の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す、故に付法と名づく」と。山家の云はく塔中の言なり「亦立行相を授く。三千三観の妙行を修し、解行の精微に由って深く自証門に入る。我汝が証相を領するに、法性寂然なるを止と名づけ、寂にして常に照すを観と名づく」と。 |
法華玄義の第二にこの五重の一心三観が挙げられており、その文にしたがって明らかにしよう。 不思議の一心三観とは天台智者大師己証の法体、理非造作の本有の分である。三諦の名相はないが、しいて三諦の名相をもって説くのを不思議と名づけるのである。 円融の一心三観とは、理性法界のところに本来、三諦の理があり、それが互いに円融して九箇となる。 得意の一心三観とは不思議の一心三観と円融の一心三観とが凡夫の心の及ぶところではなく、ただ聖人の自受用の徳をもって初めて量知できるのであるゆえに得意と名づけるのである。 複疎の一心三観とは無作が一切法に遍して本性常住であり、理性の円融と同じではないということから複疎と名づけるのである。 次に本意の一心三観にはまた五重の一心三観がある。一には三観一心(入寂門の機根に配する)二に一心三観(入照門の機根に配する)三には住果還の一心三観、上の機根があって善知識の人が『一切の法は皆是れ仏法なり』と説くのを聞いて真理を開くのである。この入真以後の観を極めんがために一心三観を修するのである。 四には為果行因の一心三観とは果位究竟の妙果を聞いて、この果を得んがために種々の三観を修行するのである。 五に付法の一心三観。五時八教などの種々の教門を聞いてこの教義を心に入れて観を修行するゆえに付法と名づけるのである。 天台大師のいうには(塔中の言葉である)『また立行相を授けるのである。三千三観の妙行を修行して解行の精微によって深く自証門に入る、我、汝が証相を領するに法性が寂然であることを止と名づけ、寂にして常に照らすことを観と名づけるのである』とある。 |
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「問うて云はく、天真独朗の止観の時、一念三千・一心三観の義を立つるや。答へて云はく、両師の伝不同なり。座主の云はく、天真独朗とは一念三千の観是なり。山家師の云はく、一念三千而も指南と為す。一念三千とは、一心より三千を生ずるにも非ず、一心に三千を具するにも非ず、並立にも非ず、次第にも非ず。 (★1518㌻) 故に理非造作と名づく。和尚の云はく、天真独朗に於ても亦多種有り。乃至迹中に明かす所の不変真如も亦天真なり。但し大師本意の天真独朗とは、三千三観の相を亡し、一心一念の義を絶す。此の時は解無く行無し。教行証の三箇の次第を経るの時、行門に於て一念三千の観を建立す。故に十章第七の処に於て始めて観法を明かすは是因果階級の意なり○大師内証の伝の中に、第三の止観は伝転の義無しと云云。故に知んぬ、証分の止観は別法を伝へざるなり。今止観の始終に録する所の諸事は皆是教行の所摂にして実証の分に非ず。開元符州の玄旨の相伝に云はく、言を以て之を伝ふる時は行証共に教と成る。心を以て之を観ずる時は教証は行の体と成る。証を以て之を伝ふる時は教行亦不可思議なり。後学此の語に意を留めて更に忘失すること勿れ。宛も此の宗の本意、立教の元旨なり。和尚の貞元の本義、源此より出でたるなり」と。 |
問うて言う。天真独朗の止観の時、一念三千・一心三観の義を立てるのであろうか。 答えて言う。行満・道邃の両師の伝は同じではない、座主の言うには『天真独朗とは一念三千の観のことである。このことを妙楽大師は“一念三千を指南とする”といっている。一念三千とは一心から三千を生ずるものでなく、一心に三千を生ずるものでもなく、並立でもなく、次第でもなく、ゆえに理非造作と名けるのである』と。 和尚の言うには『天真独朗においもまた多種類がある(乃至)迹門のなかに明かすところの不変真如もまた天真独朗なのである。ただし天台大師の本意の天真独朗とは三千三観の相を滅し、一心一念の義を絶したところにある。このときは解もなく行もない。教行証の三箇の次第を経るとき、行門において一念三千の観を建立するのである。ゆえに摩訶止観の全十章のうち第七章のところにおいて初めて一念三千の観法を明かしたのである。これは因果のうえに階級を定めるという意からである』と」と。 天台大師の内証の伝のなかには『第三の止観には伝転の義はない』と言っている。ゆえに証分の止観には別法を伝えているわけではないことを知らなくてはならない。 今、摩訶止観に記されているのは、始めから終わりまで、皆、教行のうえのことであって、実証の分ではないのである。 開元符州の玄朗師の相伝のいうところでは『言葉をもって伝えるときは行証ともに教となり、心をもってこれを観ずるときは教証は行の体となる。証をもってこれを伝えるときは教行もまた不可思議である』とある。後学は、この語に意を留めて決して忘れてはならない。これこそ、この宗の本意であり、立教の元旨なのである。道邃和尚の貞元の本義の源はここから出たのである」と。 |
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問うて云はく、天真独朗の法、滅後に於て何れの時か流布せしむべきや。答へて云はく、像法に於て弘通すべきなり。問うて云はく、末法に於ける流布の法の名目如何。答へて云はく、日蓮の己心に相承せる秘法を此の答へに顕はすべきなり。所謂南無妙法蓮華経是なり。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、神力品に云はく「爾の時仏上行等の菩薩に告げたまはく、要を以て之を言はゞ乃至宣示顕説す」云云。天台大師云はく「爾時仏告上行より下は第三結要付嘱なり」と。又云はく「経中の要説・要は四事に在り」と。「総じて一経を結するに唯四ならくのみ。其の枢柄を撮って之を授与す」と。問うて云はく、今の文は上行菩薩等に授与するの文なり。汝何が故ぞ己心相承の秘法と云ふや。答へて云はく、上行菩薩の弘通し給ふべき秘法を日蓮先立ちて之を弘む。身に当たるの意に非ずや。上行菩薩の代官の一分なり。 |
問うて言う。天真独朗の法は、仏滅後においてはいずれの時に流布したらよいのであろうか。答えて言う。像法の代に流布すべきである。 問うて言う。末法において流布すべき名目はどうか。答えて言う。日蓮が己心に相承した秘法をこの答えで明らかにしよう。いわゆる南無妙法蓮華経のことである。 問うて言う。その証文はどのようなものであろうか。答えて言う。法華経如来神力品第二十一には「爾の時に仏は上行等の菩薩に告げられて、要をもってこれをいうならば(乃至)宣示顕説していくのである」と述べている。天台大師は法華文句巻十下で「『爾時仏告上行』から下の文は第三の結要付属をあらわしている」と釈している。また「法華経中の要説の要は四事に在るのである。総じて法華経はただ四事に在るのである。総じて法華経はただ四事に結ばれているのである。その根本をとって上行等に授与した」と言っている。 問うて言う。今の文は上行菩薩等に授与する文である。どうして汝が己心相承の秘法と云うのか。答えて言う。上行菩薩の弘通される秘法を日蓮が先立ってこれを弘めているのである。身に当たるというのはこの意である。日蓮は上行菩薩の代官の一分なのである。 |
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所詮末法に入って天真独朗の法門無益なり。助行には用ゆべきなり。正行には唯南無妙法蓮華経なり。伝教大師云はく「天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」と。 (★1519㌻) |
所詮、末法に入ったならば、天真独朗の法門は無益であり、ただ助行に用いるだけであって、正行にはただ南無妙法蓮華経を用いるべきである。伝教大師は法華秀句巻下で「天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて中国に弘め、比叡山のわが天台宗は天台大師に相承して法華宗を助けて日本に弘通している」と述べている。 | |
| 今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時、日本国に弘通す。是豈時国相応の仏法に非ずや。末法に入って天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は、必ず無間大城に墜ちんこと疑ひ無し。貴辺年来の権宗を捨てゝ日蓮が弟子と成り給ふ。真実、時国相応の智人なり。総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。所詮時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし。 |
いま日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時代に日本に弘通いている。これこそ時と国とに相応した仏法ではないか。末法に入って天真独朗の法を弘めて正行とする者は必ず無間大城に墜ちることは疑いない。 貴辺はこれまでの権宗を捨てて日蓮が弟子となられたことは真実の時国相応の智人である。総じて日蓮の弟子等は日蓮と同じく正理を修行すべきである。たとえ智者・学匠の身となっても、地獄に墜ちては何の役にもたたない。所詮、時々・念々に南無妙法蓮華経と唱えるべきである。 |
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上に挙ぐる所の法門は御存知たりと雖も書き進らせ候なり。十八円満等の法門能々案じ給ふべし。並びに当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門等、前々に書き進らせしが如し。委しくは修禅寺相伝日記の如し。天台宗の奥義之に過ぐべからざるか。一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出でず。敢へて忘失すること勿れ、敢て忘失すること勿れ。伝教大師云はく「和尚慈悲有って一心三観を一言に伝ふ」と。玄旨伝に云はく「一言の妙旨なり一教の玄義なり」云云。寿量品に云はく「毎に自ら是の念を作さく、何を以てか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと」云云。毎自作是念の念とは、一念三千生仏本有の一念なり。秘すべし秘すべし。恐々謹言。 弘安三年十一月三日 日蓮花押 最蓮房に之を送る |
上に挙げたところの法門はすでに御存知のことであるが、書いて差し上げたのである。十八円満等の法門をよくよく案じられるがよい。それとともに、当体蓮華の相承等日蓮が己証の法門等は前々に書きまいらせたとおりである。詳しいことは修禅寺相伝日記にあるとおりであり、天台宗の奥義はこれ以上のものはない。一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出ない。このことを決して忘れてはならない。決して忘れてはならない。伝教大師は「和尚は慈悲によって一心三観を一言で伝えた」といい、玄旨伝には「一言の妙旨である。一教の玄義である」と言っている。 法華経如来寿量品第十六には「何をもって、衆生を無上道に入らせ、速やかに仏身を成就することを得させようかと、仏は常に自ら念じているのである」と説いている「毎自作是念」の念とは一念三千であり衆生と仏に本有の一念である。秘すべきである、秘すべきである。恐恐謹言。 弘安三年十一月三日 日蓮花押 最蓮房に之を送る |