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(★1503㌻) 今月飛来の雁書に云はく、此の十月三日、母にて候もの十三年に相当たれり。銭二十貫文等云云。 夫外典三千余巻には忠孝の二字を骨とし、内典五千余巻には孝養を眼とせり。不孝の者をば日月も光ををしみ、地神も瞋りをなすと見へて候。或経に云はく、六道の一切衆生仏前に参り集まりたりしに、仏、彼等が身の上の事を一々に問ひ給ひし中に、仏、地神に汝大地より重きものありやと問ひ給ひしかば、地神敬んで申さく、大地より重き物候と申す。仏の曰く、いかに地神偏頗をば申すぞ、此の三千大千世界の建立は皆大地の上にそなわれり。所謂須弥山の高さは十六万八千由旬、横は三百三十六万里なり、大海は縦横八万四千由旬なり、其の外の一切衆生・草木等は皆大地の上にそなわれり。此を持てるが大地より重き物有らんや、と問ひ給ひしかば、地神答へて云はく、仏は知ろし食しながら人に知らせんとて問ひ給ふか。我地神となること二十九劫なり。其の間、大地を頂戴して候に頚も腰も痛むことなし。虚空を東西南北へ馳走するにも重きこと候はず。但不孝の者のすみ候所が身にあまりて重く候なり。頚もいたく、腰もおれぬべく、膝もたゆく、足もひかれず、眼もくれ、魂もぬけべく候。あはれ此の人の住所の大地をばなげすてばやと思ふ心たびたび出来し候へば、不孝の者の住所は常に大地ゆり候なり。されば教主釈尊の御いとこ提婆達多と申せし人は閻浮提第一の上臈、王種姓なり。然れども不孝の人なれば、我等彼の下の大地を持つことなくして、大地破れて無間地獄に入り給ひき。我等が力及ばざる故にて候と、かくの如く地神こまごまと仏に申し上げ候ひしかば、仏はげにもげにもと合点せさせ給ひき。又仏歎いて云はく、我が滅後の衆生の不孝ならん事、提婆にも過ぎ、瞿伽利にも超えたるべし等云云、取意。涅槃経に、 (★1504㌻) 末代悪世に不孝の者は大地微塵よりも多く、孝養の者は爪上の土よりもすくなからんと云云。 |
今月とどいた手紙には「この十月三日は亡くなった母の十三年忌にあたるので、銭二十貫文を御供養します。等とある。 外典三千余巻には忠孝の二字を骨髄としており、内典の五千余巻では孝養を眼目としている。故に不孝の者には、日月も光を惜しみ、地神も瞋いをなすと説かれている。 ある経にいうには、六道の一切衆生が仏前に来集した時、仏は彼らの身の上のことをおおいに問われた。その中に、仏が地神に「大地より重いものがあるのか」と問われたところ、地神がつつしんで「大地より重いものがあります」と答えた。これに対して仏は「地神よ、どうして偏頗ことをいうのか。この三千大千世界は皆大地の上に建立されている。いわゆる、須弥山の高さは十六万八千由旬で横は三百三十六万里であり、大海は縦横八万四千由旬である。また、その外の一切衆生も草木等も、みな大地の上に存在している。これらいっさいのものを持つ大地よりも重いものがあるであろうか」と問われたところ、地神がこたえていうには「仏はよくご存知でありながら、人々にそのことをしらせようとして問われるのであろうか。私は地神となってすでに二十九劫という長い時を経ており、その間ずっと大地をささげもっていたが、頸も腰も痛んだことはない。また、大地をささげもったまま、虚空を東西南北へ馳けまわっても重いことはない。ただ、不幸の者が住んでいるところは支えきれないほど重い、あまりの重さに頸は痛く。腰もおれそうで、膝も力がぬけ、足もひくことができず、眼もくらみ、魂もぬけてしまいそうである。ああ、こんな不孝者の住む大地を投げ捨ててしまおうと思う心が度々おこるので、これら不孝の者の住所は常に大地が揺れているのである。それゆえ教主釈尊の従弟、提婆達多という人は、世界第一の貴族・王族の生れである。しかしながら不孝の者なので、私たちは提婆の下にある大地を支えきれず、ついに大地が破れて無間地獄に堕ちてしまった。これは私たちの力が及ばなかったためである」と。このように、地神はこまごまと仏に申し上げたので、仏はなるほど、なるほどとうなずかれたのである。また、仏が歎いていわれるには「わが滅後の衆生の不孝の者であることは、提婆にも、瞿伽利にも超過するであろう」といわれた。涅槃経には「末代の濁悪の世には、不孝の者が大地微塵よりも多く、孝養の者は、爪の上にのる土よりもすくないであろう」と説かれている。 |
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今日蓮案じて云はく、此の経文は殊にさもやとをぼへ候。父母の御恩は今初めて事あらたに申すべきには候はねども、母の御恩の事、殊に心肝に染みて貴くをぼへ候。飛鳥の子をやしなひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目もあてられず、魂もきえぬべくをぼへ候。其れにつきても母の御恩忘れがたし。胎内に九月の間の苦しみ、腹は鼓のはれるが如く、頚は針をさげたるが如し。気は出ずるより外に入る事なく、色は枯れたる草の如し。臥せば腹もさけぬべし。坐すれば五体やすからず。かくの如くして産も既に近づきて、腰はやぶれてきれぬべく、眼はぬけて天に昇るかとをぼゆ。かゝる敵をうみ落としなば、大地にもふみつけ、腹をもさきて捨つべきぞかし。さはなくして、我が苦を忍びて急ぎいだきあげて血をねぶり、不浄をすゝぎて胸にかきつけ、懐きかゝへて三箇年が間慇懃に養ふ。母の乳をのむ事一百八十斛三升五合なり。此の乳のあたひは一合なりとも三千大千世界にかへぬべし。されば乳一升のあたひを検へて候へば、米に当たれば一万一千八百五十斛五升、稲には二万一千七百束に余り、布には三千三百七十段なり。何に況んや一百八十斛三升五合のあたひをや。他人の物は銭の一文・米一合なりとも盗みぬればろうのすもりとなり候ぞかし。而るを親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし。あたゝかなる夫をば懐きて臥せども、こゞへたる母の足をあたゝむる女房はなし。給狐独園の金鳥は子の為に火に入り、・尸迦夫人は夫の為に父を殺す。仏の云はく、父母は常に子を念へども、子は父母を念はず等云云。影現王の云はく、父は子を念ふといえども、子は父を念はず等是なり。設ひ又今生には父母に孝養をいたす様なれども、後生のゆくへまで問ふ人はなし。母の生きてをはせしには、心には思はねども一月に一度、一年に一度は問ひしかども、死し給ひてより後は初七日より二七日乃至第三年までは人目の事なれば形の如く問ひ訪ひ候へども、十三年・四千余日が間の程はかきたえ問ふ人はなし。 (★1505㌻) 生きてをはせし時は一日片時のわかれをば千万日とこそ思はれしかども、十三年四千余日の程はつやつやをとづれなし。如何にきかまほしくましますらん。夫外典の孝経には、唯今生の孝のみををしへて、後生のゆくへをしらず。身の病をいやして、心の歎きをやめざるが如し。内典五千余巻には人天・二乗の道に入れて、いまだ仏道へ引導する事なし。 |
今日蓮が思案してみるに、このじ経文は、ことに、その通りであろうと思われる、父母の恩がいかに大きいかは今さら事新しくいうまでもないが、母の恩については、殊に心肝にそめて貴く感じられる。飛ぶ鳥が子を養い、地を走る獣でさえ子を育てるのに苦心しているのは、直視するにたえず、あまりの痛ましさに気も遠くなりそうである。これらを見るにつけても、母の恩は忘れがたい。子が胎内にいる九ヵ月の間の苦しみは、腹は鼓をはったようである。頚は針をさげたようである。呼吸はなく一方で吸いこめず、顔色は悪く、枯れ草のようになる。臥せれば腹が裂けそうに思われ、坐れば身体中が苦しい。このようにして、お産が近ずけば、余りの痛さに腰は破れ切れてしまいそうであり、眼はぬけて天に昇るかと思われる。このように苦しい目にあわせる敵を産み落としたならば大地にふみつけ、腹をさいて捨ててもかまわないであろう。そうはせずに、自分の苦しみを忍んで、急いで抱き上げて、血をぬぐいとり、不浄のものを洗いおとし、胸にかきあげ懐きかかえて 三箇年の間、心を込めて養うのである。その間に、子が母の乳をのむその量は百八十斛、三升五合である。この乳の値はたとえ一合といえども三千大千世界に値するほど貴重なものである。そこで乳一升の値をかんがえてみるならば、米に当てはめれば、一万一千八百五十斛五升・稲ならば二万一千七百束よりも多く、布ならば三千三百七十段となる。ましてや一百八十斛、三升五合の値はあまりに膨大である。 他人の物は、たとえ銭の一文、米の一合であっても盗むならば牢に入れられるのである。ところが親は十人の子を養っても、子は一人の母を養ふうことはしない。また、嫁してあたたかな夫を懐いて寝るとも、凍えた母親のあたためる女房はいない。 昔、給孤独園の金鳥は子を助けようとして火の中に入り、キョウ尸迦夫人は、夫のために父を殺してしまった。仏は「父母は常に子供のことを念っているが、子供は父母のことを念わない」といわれている。また、影現王が「父は子を念っているが子は父のことを念わない」等と説いているのもこのことである。 たとえまた、今生では父母に孝養を尽くしているようであっても、後生の行方まで問う人はいない。母が生きている時には心にそれほど思いやることがなくても、一月に一度・一年に一度は母のもとを訪れるであろうが、亡くなってからは初七日から二七日、乃至は三年目までは人目もあることなので形式だけでもとぶらうであろうが、十三年・四千余日が間、いっこうに訪れる人もいない。亡き母はどれほど「生きている者はどうしているだろう」と聞きたく思っていらっしゃるであろう。 外典の孝経にはただ今生の孝養のみを教えて、後生の行方を説いていない。それは、身の病を癒しても、心の苦悩を癒さないようなものである。仏典の五千余巻には、人・天や声聞・縁覚の二乗の道には入れても、いまだ仏道へ導き入れないのであるから、真の孝養が説かれているとはいえない。 |
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夫目連尊者の父をば吉占師子、母をば青提女と申せしなり。母死して後餓鬼道に堕ちたり。しかれども凡夫の間は知る事なし。証果の二乗となりて天眼を開きて見しかば、母餓鬼道に堕ちたりき。あらあさましやといふ計りもなし。餓鬼道に行きて飯をまゐらせしかば、纔かに口に入るかと見えしが飯変じて炎となり、口はかなへの如く、飯は炭をおこせるが如し。身は灯炬の如くもえあがりしかば、神通を現じて水を出だして消す処に、水変じて炎となり、弥火炎のごとくもゑあがる。目連、自力には叶はざる間、仏の御前に走り参り申してありしかば、十方の聖僧を供養し、其の生飯を取りて纔かに母の餓鬼道の苦をば救ひ給へる計りなり。釈迦仏は御誕生の後、七日と申せしに母の摩耶夫人にをくれまいらせましましき。凡夫にてわたらせ給へば母の生処を知ろしめすことなし。三十の御年に仏にならせ給ひて、父浄飯王を現身に教化して証果の羅漢となし給ふ。母の御ためには、・利天に昇り給ひて、摩耶経を説き給ひて、父母を阿羅漢となしまいらせ給ひぬ。此等をば爾前の経々の人々は孝養の二乗、孝養の仏とこそ思ひ候へども、立ち還って見候へば、不孝の声聞、不孝の仏なり。目連尊者程の聖人が母を成仏の道に入れ給はず。釈迦仏程の大聖の、父母を二乗の道に入れ奉りて、永不成仏の歎きを深くなさせまゐらせ給ひしをば、孝養とや申すべき、不孝とや云ふべき。而るに浄名居士、目連を毀りて云はく、六師外道が弟子なり等云云。仏、自身を責めて云はく「我則ち慳貪に堕せん此の事は為めて不可なり」等云云。然らば目連は知らざれば科浅くもやあるらん。仏は法華経を知ろしめしながら、生きてをはする父に惜しみ、死してまします母に再び値ひ奉りて説かせ給はざりしかば、大慳貪の人をばこれより外に尋ぬべからず。 |
目連尊者の父を吉占師子、母をば青提女といった。母の青提女は死後餓鬼道に堕ちた。しかしながら、目連が凡夫の間はそのことを知らなかった。証果を得た二乗となって、天眼を開いて見たところが母は餓鬼道に堕ちていたのである。あまりのことに「ああなんと嘆かわしいことか」ということもできないほどである。 すぐに餓鬼道に行って飯を差し上げたところ、わずかに口に入れたかとみえたとたんに、飯は変じて炎となり、口は鉄がまのように、飯は炭をおこしたようであった。身は灯炬のように燃えだしたので、目連は神通を現じて、水を放出して消そうとしたところが、水は変じて炎とり、ますます火炎のように、燃え上がった。 目連は、自文の力ではとうてい及ばないので、仏の前に走っていってこのことを申し上げ、仏の教えにしたがって、十方の聖僧を供養し、その生飯を取って、わずかに母の餓鬼道の苦しみを救われただけであった。 釈迦仏は誕生されて七日目に母の摩耶夫人に先き立たれ、あとに残られた。その時釈迦仏は凡夫であられたので母の生まれかわられたところをご存知なかった。三十歳の時、仏になられて、父の浄飯王を現身のまま教化して、証果の阿羅漢となされた。母のためにはトウ利天に昇られて摩耶経を説かれ、父母をともに阿羅漢とされたのである。これらのことをもって、爾前の経々を信ずる人々は、目連を孝養の二乗といい、釈迦仏を孝養の仏と思っているが、本義に立ち還ってみるならば、不孝の声聞であり、不孝の仏である。なぜならば、目連尊者ほどの聖人が母を成仏の道に入れられず、また釈迦仏ほどの大聖が父母を二乗の道に入れ申し上げて永不成仏の歎きを深くなされるようにしたのを孝養というべきかは、はっきりしているからである。それについて、浄名居士は目連を謗って「六師外道の弟子である」といい、釈迦仏も自らを責めて「われ則ち慳貪の罪に堕ちるであろう。このことは全くよくない」等といっている。そうであるならば、目連は法華経を知らなかったので不孝の罪はまだ浅いといえよう。しかし釈迦は法華経を御存知でいながら、生きておられた父には惜しんでこれを説かず、また亡くなられた母に再び会われながら説かなかったので、これほどの大慳貪の人は、ほかには尋ねることができないのである。 |