四条金吾殿御返事 弘安三年一〇月八日 五九歳

別名『殿岡書』

第一章 過去を顧慮し金吾の信心を賞嘆す

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 殿岡(とのおか)より米送り()び候。今年七月の盂蘭盆供の僧膳(そうぜん)にして候。自恣(じし)の僧・霊山の聴衆・仏陀・神明(しんめい)も納受随喜し給ふらん。尽きせぬ志、連々の御(とぶら)ひ、言を以て尽しがたし。何となくとも殿の事は後生菩提疑ひなし。何事よりも文永八年の御勘気の時、既に相模の国竜口(たつのくち)にて頚切られんとせし時にも、殿は馬の口に付きて足歩赤(かちは)(だし)にて泣き悲しみ給ひ、事(まこと)になれば腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思ひ忘るべき。それのみならず、佐渡の島に放たれ、北海の雪の下に(うず)もれ、北山の嶺の山下風(やまおろし)に命助かるべしともをぼへず。年来(としごろ)の同朋にも捨てられ、故郷へ帰らん事は、大海の底の()びき()の石の思ひして、さすがに凡夫なれば古郷の人々も恋しきに、在俗の宮仕(みやづか)(ひま)なき身に、此の経を信ずる事こそ希有(けう)なるに、山河を(しの)蒼海(そうかい)()て、(はる)かに尋ね来たり給ひし志、香城(こうじょう)に骨を(くだ)き、雪嶺に身を投げし人々にも(いか)でか劣り給ふべき。

 又、我が身はこれ程に浮び(がた)かりしが、いかなりける事にてや、同じき十一年の春の(ころ)赦免(しゃめん)せられて鎌倉に帰り(のぼ)りけむ。

第二章 御本仏の確信を述べ信心を勧む

 (つらつら)事の(こころ)を案ずるに、今は我が身に(あやま)ちあらじ。或は命に及ばんとし、弘長には伊豆の国、文永には佐渡の島、諫暁(かんぎょう)再三に及べば留難(るなん)重畳(ちょうじょう)せり。仏法中怨の誡責(かいしゃく)をも身にははや()免れぬらん。然るに今山林に世を(のが)れ、道を進まんと思ひしに、人々の(ことば)様々(さまざま)なりしかども、(かたがた)存ずる旨ありしに依りて、当国当山に入りて已に七年の春秋を送る。

 又、身の智分をば且く置きぬ。法華経の方人(かたうど)として難を忍び(きず)を蒙る事は漢土(かんど)の天台大師にも越え、日域(にちいき)の伝教大師にも勝れたり。是は時の然らしむる故なり。我が身法華経の行者ならば、霊山の教主釈迦、宝浄世界の
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多宝如来、十方分身の諸仏、本化の大士、迹化の大菩薩、梵・釈・竜神・十羅(じゅうら)刹女(せつにょ)も、定めて此の(みぎり)におはしますらん。水あれば魚すむ、林あれば鳥来る、蓬萊山(ほうらいさん)には玉多く、摩黎(まり)(せん)には栴檀(せんだん)生ず。麗水(れいすい)の山には金あり。今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給ふ()徳聚(どくじゅ)(みぎり)なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。(いよいよ)はげむべし、はげむべし。

  十月八日    日蓮 花押
 四条中務(なかつかさ)三郎左衛門殿御返事