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(★1496㌻) 南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生まれて死する |
南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は皆、生まれては死ぬのが習いとは、智者も愚者も上下一同に承知していることであるから、今はじめて嘆いたり、驚いたりすることではないと、自分も思い、人にも教えてきたが、さて、いよいよその時にあたってみれば夢か幻か、未だに判断がつきかねるほどである。ましてや母はいかばかり嘆かれていることであろうか。父母にも兄弟にも先立たれて、最愛の夫にも死に別れたが、子どもが多くおられたので心が慰められておられたであろうに…。 |
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| 九月六日 日蓮 花押 上野殿御返事 |
可愛い末の子で、しかも男の子、容貌も人に優れ、心もしっかりして見え、よその人々も爽やかな感じをもって見ていたのに、はかなく亡くなってしまったことは、花のつぼみが風にしぼみ、満月が突然になくなってしまったようなものである。ほんとうとも思えないので、励ましの言葉も書きようがない。又々申し上げる。恐々謹言。 九月六日 日蓮 花押 上野殿御返事 |
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| 追申。此の六月十五日に見奉り候ひしに、あはれ肝ある者かな、男なり男なりと見候ひしに、又見候はざらん事こそ |
追伸。この六月十五日にお会いしたときには、あっぱれ肝のある者だな、すばらしい男だな、と拝見していたのに、再びお会いすることが出来ないとは、何とも悲しいことである。しかし、また(南条七郎五郎殿は)釈迦仏、法華経を深く信仰されていたから、臨終も立派だったのである。心はきっと父君と一諸に霊山浄土に参り、ともに手をとり頭を合はせて喜ばれていることであろう。あっぱれである。あっぱれである。 |