松野殿女房御返事 弘安三年九月一日 五九歳

 

(★1495㌻)
 白米一斗・芋一駄・梨子一篭・茗荷・はじかみ・枝大豆・ゑびね、旁の物給び候ひぬ。濁れる水には月住まず。枯れたる木には鳥なし。心なき女人の身には仏住み給はず。法華経を持つ女人は澄める水の如し。釈迦仏の月宿らせ給ふ。譬へば女人の懐み始めたるには、吾が身には覚えねども、月漸く重なり、日も・過ぐれば、初めにはさかと疑ひ、後には一定と思ふ。心ある女人はをのこゞをんなをも知るなり。法華経の法門も亦かくの如し。南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給ふ。始めはしらねども、漸く月重なれば心の仏夢に見え、悦ばしき心漸く出来し候べし。法門多しといへども止め候。
 
 白米一斗・芋一駄・梨子一篭・茗荷・生姜・枝豆・わさびなどいろいろの物をちょうだいしました。
 濁っている水には月影が映らない。また、枯れた木には鳥は巣を作らない。同じように、信心のない女性の身には仏は住まわれないのです。法華経を持つ女人は澄んだ水のようであり、釈迦仏という月影を映すのです。譬えば女性が懐妊したばかりでは、始めは自分自身でも気づかないが、月が次第に重なって、日も次第に経過すると、初めはそうであろうか疑っていたが、後には間違いないと思う。また、心得のある女性は胎児が男の子か女の子かも予知するのです。法華経の法門もまたそれと同じようなものです。南無妙法蓮華経を心に深く信じるならば、その心を宿として釈迦仏は宿られるのです。それも、始めは気づかないが、だんだんと月が重なれば、心中に宿った仏が夢のように見えるようになり喜悦の心が次第に出てくるのです。法門は多いが、ここで止めておきます。
 法華経は、初めは信ずる様なれども後遂ぐる事かたし。譬へば水の風にうごき、花の色の露に移るが如し。何として今までは持たせ給ふぞ。是偏に前生の功力の上、釈迦仏の護り給ふか。たのもしゝ、たのもしゝ。委しくは甲斐殿申すべし。
  九月一日        日蓮花押
 松野殿女房御返事
   法華経は初めは信ずるようであっても、最後まで信心を貫きとおすことは難しい。譬えば、水が風によって動き、花の色は露によって移るようなものです。このように全てが移ろいやすいのにあなたはどのようにして今日まで持ちつづけられたのであろうか。これはひとえに前生において積まれた功徳の上に、釈迦仏があなたを護られているからでありましょうか。まことにたのもしいことです、たのもしいことです。委しくは日持に申しておきますのでお聞きなさい。
  九月一日        日蓮花押
 松野殿女房御返事