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(★1471㌻) 八月分の八木一石給び候ひ了んぬ。 即身成仏と申す法門は、諸大乗経並びに大日経等の経文に分明に候ぞ。爾らばとて彼の経々の人々の即身成仏と申すは、二つの増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり。記の九に云はく「然るに二つの上慢深浅無きにあらず、如と謂ふは乃ち大無慙の人と成る」等云云。諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は、いみじくをぞたかきやうなれども、此はあえて即身成仏の法門にはあらず。其の心は二乗と申す者は鹿苑にして見思を断じて、いまだ塵沙・無明をば断ぜざる者が、我は已に煩悩を尽くしたり。無余に入って灰身滅智の者となれり。灰身なれば即身にあらず。滅智なれば成仏の義なし。されば凡夫は煩悩・業もあり、苦果の依身も失ふ事なければ、煩悩・業を種として報身・応身ともなりなん。苦果あれば生死即涅槃とて法身如来ともなりなんと、二乗をこそ弾呵せさせ給ひしか。さればとて煩悩・業・苦が三身の種とはなり候はず。今法華経にして、有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出だして即身成仏と説き給ふ時、二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり。此の法門をだにも、くはしく案じほどかせ給わば、華厳・真言等の人々の即身成仏と申し候は、依経に文は候へども、其の義はあへてなき事なり。僻事の起こり此なり。 |
八月分の供養米として、米一石を頂戴しました。 即身成仏という法門は、諸々の大乗経や大日経等に明らかにされています。そうだからといっても、その実義は法華経で初めて明かされるのであって、諸大乗教や大日経の人々が即身成仏できるというのは、二種の増上慢に堕ち、必ず無間地獄へ入ってしまうのです。 法華文句記の巻九には「そうであるならば二種の増上慢には深浅がないわけではない。仏と衆生が一如であるという者は、自身を省みる心のない大恥しらずの人となる」とあります。 もろもろの大乗経にある煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は非常に勝れて尊いようであるけれども、これはあえて即身成仏の法門ではありません。そのわけは二乗と呼ばれる者は鹿野苑で仏の教えを聞いて、見惑・思惑の煩悩を断じただけで、いまだ塵沙・無明を断じていず、自分ではすでに煩悩を断じ尽したと思って無余涅槃に入って灰身滅智の者となってしまいました。 身を灰とするのですから凡夫そのままの即身成仏ではなく、心智を滅するのですから成仏の義はありません。 これに対して、凡夫は煩悩も業もあり、前生に作った業による苦果の現身を失うことがないので、煩悩。業を種として報身・応身となることができ、苦果の現身があるから、生死即涅槃と、そのまま法身如来となることができると説いて、二乗を叱り戒めたのです。 そうであるからといって、煩悩・業・苦が法身・報身・応身の種にはなりえないのです。 今、法華経において、有余涅槃・無余涅槃の二乗がなくした煩悩・業・苦を取り出して、即身成仏すると説かれた時、二乗が即身成仏しただけでなく凡夫も即身成仏したのです。 この法門さえ詳しく考えを巡らせれば、華厳宗・真言宗などの人々がいう即身成仏は、その依経に文字はあっても、その実義はまったくありません。ここにこれらの宗の間違いの起こりがあるのです。 |
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弘法・慈覚・智証等は此の法門に迷惑せる人なりとみ候。何に況んや其の已下の古徳・先徳等は言ふにたらず。但し、天台の第四十六の座主東陽の忠尋と申す人こそ、此の法門はすこしあやぶまれて候事は候へ。然れども天台の座主慈覚の末をうくる人なれば、いつわりをろかにて、さてはてぬるか。其の上日本国に生を受くる人は、いかでか心にはをもうとも、 (★1472㌻) 言に出だし候べき。しかれども釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとをぼしめされて候ぞ。我が弟子等は此の事ををもひ出にせさせ給へ。 |
弘法・慈覚・智証などは、この法門に迷った人であると私は見ています。ましてや、それより以下の古徳・先徳などはいうまでもありません。ただ天台宗の第四十六の座主である東陽の忠尋という人だけは、この法門を少し疑われたこともありましたが、それでも天台宗の座主・慈覚の末流の人なので、誤りから抜けきれないまま、生涯を終わってしまったのです。そのうえ日本国に生まれた人は、心には誤りではないかと思っても、どうして口に出していうことができるでしょう。 しかし釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の菩薩・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は即身成仏は法華経に限ると考えられていました。我が弟子等はこの事を後々までの思い出すべきです。 |
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妙法蓮華経の五字の中に、諸論師・諸人師の釈まちまちに |
妙法蓮華経の五字の妙の字について、多くの論師・人師がさまざまな解釈をしていますが、すべて法華経以前の諸経の域をでません。ただ竜樹菩薩が大智度論という書に「たとえていえば大薬師が毒をもって薬とするようなものである」といわれた解釈がこの一字を心得られているように思います。 毒というのは苦集の二諦であり、生死の因果は毒の中の毒です。この毒を生死即涅槃・煩悩即菩提とするのを妙の至極というのです。良薬というのは毒が変じて薬となったからです。 この竜樹菩薩は大智度論という文の第百巻に、華厳経や般若経等は妙ではない、法華経こそが妙であると釈されました。この大智度論は竜樹菩薩の論であり、羅什三蔵が中国へ伝えたものです。天台大師はこの法門を御覧になって南地・北地の十派の人師を破折されたのです。 |
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而るを漢土の唐の中、日本の弘仁已後の人々の誤りの出来し候ひける事は、唐の第九の代宗皇帝の御宇、不空三蔵と申す人の天竺より渡して候論あり、菩提心論と申す。此の論は竜樹の論となづけて候。此の論に云はく「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是三摩地の法を説く。諸教の中に於て欠きて書せず」と申す文あり。此の釈にばかされて、弘法・慈覚・智証等の法門はさんざんの事にては候なり。但し大論は竜樹の論たる事は自他あらそう事なし。菩提心論は竜樹の論、不空の論と申すあらそい有り。此はいかにも候へ、さてをき候ひぬ。但し不審なる事は、大論の心ならば即身成仏は法華経に限るべし。文と申し、道理きわまれり。菩提心論が竜樹の論とは申すとも、大論にそむいて真言の即身成仏を立つる上、唯の一字は強しと見へて候。何れの経文に依って唯の一字をば置いて法華経をば破し候ひけるぞ。証文尋ぬべし。竜樹菩薩の十住毘婆沙論に云はく「経に依らざる法門をば黒論」と云云。自語相違あるべからず。大論の一百に云はく「而も法華等の阿羅漢の授決作仏、乃至譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。此の釈こそ即身成仏の道理はかゝれて候へ。 (★1473㌻) 但し、菩提心論と大論とは同じ竜樹大聖の論にて候が、水火の異なりをばいかんがせんと見候に、此は竜樹の異説にはあらず、訳者の所為なり。羅什は舌やけず、不空は舌やけぬ。妄語はやけ、実語はやけぬ事顕然なり。月支より漢土へ経論わたす人、一百七十六人なり。其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ。一百七十五人の中、羅什より先後一百六十四人は羅什の智をもって知り候べし。羅什来たらせ給ひて前後一百六十四人が誤りも顕はれ、新訳の十一人が誤りも顕はれ、又少ざかしくなりて候も羅什の故なり。此私の義にはあらず。感通伝に云はく「絶後光前」と云云。光前と申すは後漢より後秦までの訳者。絶後と申すは羅什已後、善無畏・金剛智・不空等も羅什の智をうけて、すこしこざかしく候なり。感通伝に云はく「已下の諸人並びに皆俊なり」云云。されば此の菩提心論の唯の文字は、設ひ竜樹の論なりとも不空の私の言なり。何に況んや次ぎ下に「諸教の中に於て欠きて書せず」とかゝれて候。存外のあやまりなり。 |
ところが、中国では唐代の中ごろ、日本では弘仁以後の人々に誤りがでてきたのは、唐の第九代、代宗皇帝の時代に、不空三蔵という人がインドから伝えた論があり、それを菩提心論といいました。 この論は竜樹の論といわれています。この論には「ただ真言法の中においてのみ即身成仏するので三摩地の法を説いたものである。他の諸教には欠けて書かれていないものである」という文があります。 この釈にだまされて、弘法・慈覚・智証等の法門はひどいものとなったのです。ただ大論は竜樹の論であることはだれもあらそいませんが、菩提心論については竜樹の論であるとするのと不空の論であるとするのとのあらそいがあります。これはいずれにしても、いまは言及しないことにします。 ただ不審に思うことがあります。それは大論の精神からいえば、即身成仏は法華経に限ります。これは文にも明白で、道理も尽くされています。菩提心論が竜樹の論であったとしても、それならば大論に背いて真言でも即身成仏できるとしていることになるうえ、菩提心論にある「唯」の一字、つまり真言だけが即身成仏の法というのは強引な説にみえます。どの経文によって「唯」の一字を真言において、法華経の即身成仏を破しているのか、その証文を尋ねるべきです。 竜樹菩薩の十住毘婆娑論には「経文によらない法門は邪義」とあります。自語相違はあってはならないのです。また大論の百の巻には「法華等で阿羅漢の記別を授けられたことは(乃至)たとえていうと、大薬師がよく毒をもって薬とするようなものである」等とあります。この釈こそ法華経の即身成仏の道理が書かれたものです。 ただし菩提心論と大論は、同じ竜樹菩薩の論であるとすれば、水火のような違いはどう考えたらよいのだろうと思って、よく見ると、これは竜樹が異なる説をといたのではなく、訳者のせいなのです。 羅什の舌は焼けませんでしたが、不空の舌は焼けてしまいました。うその訳者の舌は焼け、真実を伝えた舌は焼けなかったということは明らかです。 インドより中国に経論を訳出して伝えた人は百七十六人いました。羅什一人だけが教主釈尊の経文に自分の考えを入れなかった人でした。残りの百七十五人の中で羅什の先後の旧訳の百六十四人は羅什の智をもつて推しはかることができます。 羅什が来たことによってその前後、旧訳の百六十四人の誤りがあらわれ、新訳の十一人の誤りもあらわれました。また訳者が利口げになってきたのも羅什の存在があったゆえです。 これは私の説ではなく感通伝に「羅什のような訳者は後代に絶えてなく、前代を光り輝かす」とあります。前代を光らすとは後漢から後秦までの訳者のことで、後代に絶えないとは羅什以後の善無畏・金剛智・不空などが、羅什の智を受けて、少しばかり訳が巧みになったということです。感通伝には「羅什以後の訳者は、皆、羅什を拠りどころにした」とあります。 それゆえ、この菩提心論はたとえ竜樹の論であっても「唯」の文字は不空が勝手に加えた私の言葉です。ましてや、その次の文に「真言以外の諸教には即身成仏の義が欠けて書かれていない」とのべているのは、とんでもない誤りなのです。 |
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即身成仏の手本たる法華経をば指しをいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、剰へ唯の一字ををかるゝ条、天下第一の僻見なり。此偏に修羅根性の法門なり。天台智者大師の文句の九に、寿量品の心を釈して云はく「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之を秘して伝へず」とかゝれて候。此こそ即身成仏の明文にては候へ。不空三蔵此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是の三摩地の法を説く。諸経の中に於て欠きて書せず」とかゝれて候なり。されば此の論の次ぎ下に、即身成仏をかゝれて候が、あへて即身成仏にはあらず。生身得忍に似て候。此の人は即身成仏はめづらしき法門とはきかれて候へども、即身成仏の義はあへてうかゞわぬ人々なり。いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給ふ経にあるべき事なり。天台大師の「於諸経中秘之不伝」の釈は千旦千旦。恐々。 |
即身成仏の手本である法華経をさしおいて、その片鱗すら明かしていない真言に即身成仏を立て、そればかりか「唯」の一字を置いたことは、天下第一の誤った考えです。これは、ひとえに修羅根性から出た法門なのです。 天台智者大師の法華文句の九の巻に法華経寿量品の真意を釈して「仏は三世において等しく三身を具えているが、諸教には、これを隠して伝えていない」と書かれています。これこそ法華経に即身成仏が説かれているという明らかな文なのです。不空三蔵はこの釈を打ち消すために、竜樹にことよせて「唯真言の法の中にのみ即身成仏できるが故にこの三摩地の法を説いた。他の諸教の中には書かれていない」と記したのです。 したがって、この論の次に即身成仏のことを書いていますが、まったく即身成仏ではなく、華厳経の菩薩の「生身得忍」に似たものにすぎません。 不空菩薩は即身成仏が尊い法門であるとは聞いていましたが、即身成仏の実義はまったくうかがいしることのない人だったのです。まことに、即身成仏は、二乗の成仏と、久遠実成を説かれている法華経だけにあるべきことなのです。天台大師の「諸教の中には隠して伝えない」との釈がありますが、法華経の即身成仏は栴檀の香りのように他に抜きん出た勝れた法門なのです。 |
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外典三千余巻は、政道の相違せるに依って代は濁ると明かし、内典五千・七千余巻は、 (★1474㌻) 仏法の僻見に依って代濁るべしとあかされて候。今の代は外典にも相違し、内典にも違背せるかのゆへに、二つの大科一国に起こりて、已に亡国とならむとし候か。不便不便。 七月二日 日蓮花押 大田殿女房御返事 |
儒教等の三千余巻の書籍には政道に相違すれば世の中が濁ると明かし、仏教の五千・七千余巻の経典には、仏法の誤った考えによって、世の中が濁ると明かされています。今の世は儒教等の教えにも相違し仏教の経典にも違背しているが故に、大きな罪が一国に起こって、すでに国が亡びようとしているのです。まことに不憫なことです。 七月二日 日蓮花押 太田殿女房御返事 |