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(★1467㌻) 問うて云はく、法華経の第四 (★1468㌻) |
問うて云う。法華経の第四の巻、法師品第十に「難信難解」と説かれているのはどういうことか。 答えて云う。この経は仏が説かれてから二千余年を経ている。インドに一千二百余年、中国に二百余年を経てのち、日本に伝来してすでに七百余年になる。仏滅後にこの法華経の難信難解の句を読んだ人はただ三人だけである。インドの竜樹菩薩は大智度論に「譬えば大薬師が能く毒をもって薬とするようなものである」と述べている。これは竜樹菩薩の難信難解の四字を読んでいわれたものである。 |
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| 漢土には天台智者大師と申せし人読んで云はく「 |
中国では天台智者大師という人が読んで、法華玄義のなかで「法華経は已今当の三説の中において最も難信難解の経である」といわれている。日本国では伝教大師が読んで、法華秀句に「已に説いた四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解の法門である。なぜなら、それらは皆、随他意であるゆえに。この法華経は最も為信じ難く解し難い。それは随自意の教えであるから」とのべている。 |
| 問うて云はく、其の意如何。答へて云はく、易信易解は随他意の故なり。難信難解は随自意の故なり云云。弘法大師並びに日本国 |
問うて言う。その意はどういうことか。答えて言う。易信易解は、随他意のゆえであり、難信難解は、仏の随自意のゆえである。弘法大師や日本国の東寺の門人の思うには、法華経は顕教の内の難信難解であり、密教に相対すれば易信易解であると。慈覚・智証並びにその門家の思うには、法華経と大日経はともに難信難解であるが、ただし大日経と法華経とを相対してみると法華経は難信難解で、大日経は最も難信難解であると。これらの二義は日本一同に流布している。 |
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| 日蓮読んで云はく、外道の経は易信易解、小乗経は難信難解。小乗経は易信易解、大日経等は難信難解。大日経等は易信易解、般若経は難信難解なり。般若と華厳と、華厳と涅槃と、涅槃と法華と、迹門と本門と、重々の難易あり。 | しかるにいま日蓮が読むところは、外道の経は易信易解で小乗経は難信難解である。小乗経は易信易解で大日経等は難信難解である。大日経等は易信易解で般若経は難信難解である。般若経と華厳経・華厳経と涅槃経・涅槃経と法華経・法華経迹門と法華経本門と相対すれば、重々の難易があるのである。 |
| 問うて云はく、此の義を知りて何の詮か有る。答へて云はく、生死の長夜を照す大灯、 |
問うて云う。この法義を知ってどういう益があるのか。答えて云う。生死の長夜を照らす大燈明、衆生の元品の無明を断破する利剣はこの法門をおいて他にはない。随他意とは、真言宗・華厳宗等の教えは随他意の易信易解である。仏が九界の衆生の意楽に随って説いた経々を随他意という。譬えば、賢父が愚子に随うようなものである。 | |
| 仏、仏界に随って説く所の経を随自意という。譬へば |
仏が仏界に随って説いた経を随自意という。譬えば、聖父が愚子を随わせているようなものである。いま日蓮が、この随自意・随他意の義の上から大日経・華厳経・涅槃経等を勘えてみるに、みな随他意の経々である。 |
| 問うて云はく、其の随他意の証拠如何。答へて云はく、 |
問うて言う。それらの諸経が随他意の経であるという証拠はどうか。答えて云う。勝鬘経に「非法のみを行ずる衆生には、人間や天上にうまれる善根を説き、声聞を求める者には声聞の法を設き、縁覚を求める者には縁覚の法を説き、菩薩を求める者には菩薩の法で教え導く」とある。これは衆生の機根に応じて法を説く随他意の法門であるから易信易解である。華厳経・大日経・般若経・涅槃経等もまた同じである。 | |
| 「爾の時に世尊、薬王菩薩に (★1469㌻) |
また、法華経法師品第十に「爾の時に世尊が薬王菩薩に因せて八万の菩薩に告げていわれるのに、是の大衆の中の無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆、あるいは声聞乗を求める者、あるいは縁覚乗を求める者、るいは仏道を求める者等、これら一切の者咸く仏前に於て一仏乗たる妙法蓮華経の一偈一句を聞いて、ほんの一念でも随喜する者には我成仏の記を与え、平等に無上正覚の境界に入らしめるであろう」と説かれている。 | |
| 諸経の如くんば、人には五戒、天には |
諸経のように人間界には五戒・天上界には十善・梵王には慈悲喜捨・魔王には一無遮・比丘は二百五十戒・比丘尼は五百戒・声聞には四諦・縁覚には十二因縁・菩薩には六度というように、そのおのおのの機根に随って各別の法を説くことは、ちょうど水が器の方円に随い、象が敵に随って力を出すようなものである。法華経はそうではない。八部・四衆皆一同に法華経を説くのであって、それはたとえば定木が曲りをけずり、師子王が相手の剛弱にかかわらず大力を出すようなものである。 |
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| 此の明鏡を以て一切経を見聞するに、大日の三部・浄土の三部等隠れ無し。 | この法華経の明鏡をもって一切経を見聞してみるに、大日等の真言三部経、浄土の三部経などは皆随他意の法門であることは明瞭である。 |
| 五月廿六日 日蓮花押 富木殿御返事 |
それなのに、どうしたわけか弘法・慈覚・智証の義を根本にしてしまったから、日本では法華経最勝の義が隠れてしまい、すでに四百余年がたった。これはちょうど、珠を石に替え、栴檀の香木を凡木に替えて売るようなものである。仏法がこのように次第次第に顛倒したので、世間もまた濁り乱れてしまった。仏法は体であり世間はその影のようなものである。体が曲がれば影は斜めになる。幸に我が一門は仏の御本意に随って自然に涅槃の海に入ることができるが、世間の学者達は随他意の経を信じて苦海に沈むことになる。くわしくは、またまた申すことにする。恐恐謹言。 五月二十六日 日蓮花押 富木殿御返事 |