諸経と法華経と難易の事  弘安三年五月二六日  五九歳

難信難解法門

 

第一章 法師品の「難信難解」の意を明かす

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 問うて云はく、法華経の第四法師品(ほっしほん)に云はく「難信難解(なんしんなんげ)」云云。いかなる事ぞや。答へて云はく、此の経は仏説き給ひて後、二千余年にまかりなり候。月氏(がっし)に一千二百余年、漢土(かんど)に二百余年を経て後、日本国に渡りてすでに七百余年なり。仏滅後に此の法華経の此の句を読みたる人但三人なり。所謂(いわゆる)月氏には竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)大論(だいろん)に云はく「(たと)へば大薬師の()く毒を以て薬と為すが如し」等云云。此は竜樹菩薩の難信難解の四字を読み給ひしなり。
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 問うて云う。法華経の第四の巻、法師品第十に「難信難解」と説かれているのはどういうことか。
 答えて云う。この経は仏が説かれてから二千余年を経ている。インドに一千二百余年、中国に二百余年を経てのち、日本に伝来してすでに七百余年になる。仏滅後にこの法華経の難信難解の句を読んだ人はただ三人だけである。インドの竜樹菩薩は大智度論に「譬えば大薬師が能く毒をもって薬とするようなものである」と述べている。これは竜樹菩薩の難信難解の四字を読んでいわれたものである。
 漢土には天台智者大師と申せし人読んで云はく「已今当(いこんとう)の説最も()れ難信難解」云云。日本国には伝教大師読んで云はく「已説の四時の経、今説の無量義(むりょうぎ)経、当説の涅槃(ねはん)経は易信易解(いしんいげ)なり、随他意(ずいたい)の故に。此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に」等云云。    中国では天台智者大師という人が読んで、法華玄義のなかで「法華経は已今当の三説の中において最も難信難解の経である」といわれている。日本国では伝教大師が読んで、法華秀句に「已に説いた四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解の法門である。なぜなら、それらは皆、随他意であるゆえに。この法華経は最も為信じ難く解し難い。それは随自意の教えであるから」とのべている。

 

第二章 易信易解と難信難解の理由を示す

 問うて云はく、其の意如何。答へて云はく、易信易解は随他意の故なり。難信難解は随自意の故なり云云。弘法大師並びに日本国東寺(とうじ)の門人をも()わく、法華経は顕教(けんきょう)の内の難信難解にて、密教に相対すれば易信易解なり云云。慈覚(じかく)智証(ちしょう)並びに門家の思ふやう、法華経と大日経は(とも)に難信難解なり。但し大日経と法華経と相対せば法華経は難信難解、大日経は最も()れ難信難解なり云云。此の二義は日本一同なり。    問うて言う。その意はどういうことか。答えて言う。易信易解は、随他意のゆえであり、難信難解は、仏の随自意のゆえである。弘法大師や日本国の東寺の門人の思うには、法華経は顕教の内の難信難解であり、密教に相対すれば易信易解であると。慈覚・智証並びにその門家の思うには、法華経と大日経はともに難信難解であるが、ただし大日経と法華経とを相対してみると法華経は難信難解で、大日経は最も難信難解であると。これらの二義は日本一同に流布している。

 日蓮読んで云はく、外道の経は易信易解、小乗経は難信難解。小乗経は易信易解、大日経等は難信難解。大日経等は易信易解、般若経は難信難解なり。般若と華厳と、華厳と涅槃と、涅槃と法華と、迹門と本門と、重々の難易あり。    しかるにいま日蓮が読むところは、外道の経は易信易解で小乗経は難信難解である。小乗経は易信易解で大日経等は難信難解である。大日経等は易信易解で般若経は難信難解である。般若経と華厳経・華厳経と涅槃経・涅槃経と法華経・法華経迹門と法華経本門と相対すれば、重々の難易があるのである。

 

第三章 随自意・随他意を知る重要性示す

 問うて云はく、此の義を知りて何の詮か有る。答へて云はく、生死の長夜を照す大灯、元品(がんぽん)無明(むみょう)を切る利剣(りけん)は此の法門には過ぎざるか。随他意とは、真言宗・華厳宗等は随他意・易信易解なり。仏、九界(くかい)の衆生の意楽(いぎょう)に随って説く所の経々を随他意という。(たと)へば賢父(けんぶ)愚子(ぐし)に随ふが如し。    問うて云う。この法義を知ってどういう益があるのか。答えて云う。生死の長夜を照らす大燈明、衆生の元品の無明を断破する利剣はこの法門をおいて他にはない。随他意とは、真言宗・華厳宗等の教えは随他意の易信易解である。仏が九界の衆生の意楽に随って説いた経々を随他意という。譬えば、賢父が愚子に随うようなものである。
 仏、仏界に随って説く所の経を随自意という。譬へば聖父(せいふ)が愚子を随へたるが如し。日蓮此の義に付いて大日経・華厳経・涅槃経等を(かんが)へ見候に、皆随他意の経々なり。    仏が仏界に随って説いた経を随自意という。譬えば、聖父が愚子を随わせているようなものである。いま日蓮が、この随自意・随他意の義の上から大日経・華厳経・涅槃経等を勘えてみるに、みな随他意の経々である。

 

第四章 諸経が随他意である証文

 問うて云はく、其の随他意の証拠如何。答へて云はく、勝鬘(しょうまん)経に云はく「非法を聞くこと無き衆生には人天(にんでん)の善根を以て之を成熟(じょうじゅく)す。声聞(しょうもん)を求むる者には声聞乗を授け、縁覚(えんがく)を求むる者には縁覚乗を授け、大乗を求むる者には授くるに大乗を以てす」云云。易信易解の心是なり。華厳・大日・般若・涅槃等又是くの如し。    問うて言う。それらの諸経が随他意の経であるという証拠はどうか。答えて云う。勝鬘経に「非法のみを行ずる衆生には、人間や天上にうまれる善根を説き、声聞を求める者には声聞の法を設き、縁覚を求める者には縁覚の法を説き、菩薩を求める者には菩薩の法で教え導く」とある。これは衆生の機根に応じて法を説く随他意の法門であるから易信易解である。華厳経・大日経・般若経・涅槃経等もまた同じである。
「爾の時に世尊、薬王菩薩に()せて八万の大士に告げたまはく、薬王、(なんじ)是の大乗の中の無量の諸天・竜王・夜叉(やしゃ)乾闥婆(けんだつば)
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阿修羅(あしゅら)迦樓羅(かるら)緊那羅(きんなら)摩睺羅伽(まごらが)・人と非人と及び比丘(びく)比丘尼(びくに)優婆塞(うばそく)優婆夷(うばい)の声聞を求むる者、辟支仏(びゃくしぶつ)を求むる者、仏道を求むる者を見るや。是くの如き等類(たぐい)(ことごと)く仏前に於て妙法華経の一偈(いちげ)一句を聞いて、一念も随喜(ずいき)する者には我皆()を与へ授く、当に阿○菩提(ぼだい)を得べし」文。
   また、法華経法師品第十に「爾の時に世尊が薬王菩薩に因せて八万の菩薩に告げていわれるのに、是の大衆の中の無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆、あるいは声聞乗を求める者、あるいは縁覚乗を求める者、るいは仏道を求める者等、これら一切の者咸く仏前に於て一仏乗たる妙法蓮華経の一偈一句を聞いて、ほんの一念でも随喜する者には我成仏の記を与え、平等に無上正覚の境界に入らしめるであろう」と説かれている。
諸経の如くんば、人には五戒、天には十善(じゅうぜん)(ぼん)には慈悲(じひ)喜捨(きしゃ)、魔王には一無遮(むしゃ)、比丘には二百五十、比丘尼には五百戒、声聞には四諦(したい)、縁覚には十二因縁、菩薩には六度なり。譬へば水の(うつわ)方円(ほうえん)に随ひ象の敵に随って力を出すがごとし。法華経は(しか)らず。八部・四(しゅ)皆一同に法華経を演説す。譬へば定木(じょうぎ)の曲がりを削り、師子王の剛弱を嫌はずして大力を()だすがごとし。
   諸経のように人間界には五戒・天上界には十善・梵王には慈悲喜捨・魔王には一無遮・比丘は二百五十戒・比丘尼は五百戒・声聞には四諦・縁覚には十二因縁・菩薩には六度というように、そのおのおのの機根に随って各別の法を説くことは、ちょうど水が器の方円に随い、象が敵に随って力を出すようなものである。法華経はそうではない。八部・四衆皆一同に法華経を説くのであって、それはたとえば定木が曲りをけずり、師子王が相手の剛弱にかかわらず大力を出すようなものである。
 此の明鏡を以て一切経を見聞するに、大日の三部・浄土の三部等隠れ無し。    この法華経の明鏡をもって一切経を見聞してみるに、大日等の真言三部経、浄土の三部経などは皆随他意の法門であることは明瞭である。

 

第五章 法華経を根本とすべきを明かす

 (しか)るをいかにやしけん、弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に、此の義すでに日本国に隠没(おんもつ)して四百余年なり。(たま)をもって石にかへ、栴檀(せんだん)凡木(ぼんぼく)にうれり。仏法やうやく顚倒(てんどう)しければ世間も又濁乱(じょくらん)せり。仏法は(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。幸ひなるは我が一門、仏意(ぶっち)に随って自然に薩般(さば)若海(にゃかい)に流入す。苦しきは世間の学者、随他意を信じて苦海に沈まん。委細の旨又々申すべく候。恐々謹言。
  五月廿六日        日蓮花押
 富木殿御返事
   それなのに、どうしたわけか弘法・慈覚・智証の義を根本にしてしまったから、日本では法華経最勝の義が隠れてしまい、すでに四百余年がたった。これはちょうど、珠を石に替え、栴檀の香木を凡木に替えて売るようなものである。仏法がこのように次第次第に顛倒したので、世間もまた濁り乱れてしまった。仏法は体であり世間はその影のようなものである。体が曲がれば影は斜めになる。幸に我が一門は仏の御本意に随って自然に涅槃の海に入ることができるが、世間の学者達は随他意の経を信じて苦海に沈むことになる。くわしくは、またまた申すことにする。恐恐謹言。
  五月二十六日        日蓮花押
 富木殿御返事