新池御書   弘安三年二月  五九歳

 

第一章 仏道への精進を勧む

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 うれしきかな末法流布に生まれあへる我等、かなしきかな今度此の経を信ぜざる人々。(そもそも)人界に生を受くるもの誰か無常を(まぬが)れん。さあらんに取っては何ぞ後世のつとめ()をいたさゞらんや。(つらつら)世間の(てい)を観ずれば、人皆口には此の経を信じ、手には経巻をにぎるといへども、経の心にそむく間、悪道を免れ難し。譬へば人に皆五臓あり。一臓も損ずれば其の臓より病出来して余の臓を破り、(つい)に命を失ふが如し。(ここ)を以て伝教大師は「法華経を讃すと雖も還って法華の心を(ころ)す」等云云。文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども、法華の心に背きぬれば、還って釈尊十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり。(たと)ひ世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども、此の経にあひ奉りぬれば、衆罪は(そう)()の如くに法華経の日輪に値ひ奉りて消ゆべし。然れども此の経の十四謗法の中に、一も二もをか()しぬれば其の罪消えがたし。所以は(いかん)、一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、(いか)でか一仏を殺す罪に及ばんや。法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失ふ罪なり。此のをきて()に背くを謗法の者とは申すなり。地獄おそるべし、炎を以て家とす。餓鬼悲しむべし、()(かち)にうへて子を食らふ。修羅は闘諍なり。畜生は残害とて互ひに殺しあふ。()(れん)地獄と申すはくれ()なゐのはちす()とよむ。其の故は余りに寒に()められてこゞむ間、()なか()われて肉の出でたるが紅の(はちす)に似たるなり。況んや大紅蓮をや。かゝる悪所にゆけば、王位将軍も物ならず、(ごく)(そつ)の呵責にあへる姿は猿をまは()すに異ならず。此の時は争でか名聞名利・我慢偏執有るべきや。
 
 なんとうれしいことか、末法の正法流布の時に生まれあえた我等は。なんと悲しいことか、このたびこの経を信じない人々は。そもそも人界に生を受けた者でだれが無常を免れることができようか。そのような者にとっては、どうして後世のための努力をつとめを・しないであられようか。よくよく世間のありさまを見てみると、人は皆、口にはこの経を信じ、手には経巻を握っているといっても、経の心に背いているので悪道を免れがたい。たとえば、人にみな五臓がある。一臓でも損なうときは、その臓より病が起きてきて他の臓を破壊し、ついに命をうしなうようなものである。このことをさして伝教大師は「法華経を讃嘆するといっても、かえって法華経の心を殺している」等といっている。この文の意味は、法華経を持ち読誦し讃嘆したとしても法華経の心に背いたときには、かえって釈尊や十方の諸仏を殺すことになってしまうという意である。世間の悪業や衆罪は須弥山のようであったとしても、この経に値ったときには、諸罪は霜や露のように法華経の太陽に値って消えるであろう。しかしながら、この経で説く十四謗法のうち一つでも二つでも犯したときにはその罪は消えがたい。理由はなぜか。一大三千界のあらゆる有情を殺したとしても、どうして一仏を殺す罪に及ぼうか。法華経の心に背いたときには、十方の仏の命を失う罪となる。この定めに背くのを謗法の者というのである。地獄は恐れるべきである。炎を家としている。餓鬼は悲しむべきである。飢渇に飢えて子供を食う。修羅は争い合う。畜生は残害といって互いに殺し合う。紅蓮地獄というのは紅の蓮と読む。その理由は、あまりに寒さに責められて屈むことにより、背中が割れて肉が露出したのが紅の蓮に似ているからである。ましてや大紅蓮においてはなさらである。そのような死後の苦悩の世界に行ったときには、王の位や将軍もものの数ではない。獄卒の責めにあっている姿は猿回しの猿と異なることがない。この時はどうして名聞名利や我慢偏執の心でいられようか。

 

第二章 最後まで成就することの大切さを示す

 (おぼ)()すべし、法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行くべからず。何に況んや、十度・二十度、乃至五年・十年・一()(しょう)の間供養せる功徳をば、仏の智慧にても知りがたし。
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   確信されるがよい。法華経を知る僧を不思議の志で一度であっても供養するならば悪道に行くことはない。
 ましてやべ十度・二十度ないし五年・十年・一生の間、供養する功徳は仏の智慧をもっても知りがたいほどである。
 此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億(すぐ)れたりと仏は説かせ給ひて候。此の経に()ひ奉りぬれば悦び身に余り、左右の眼に涙浮かびて釈尊の御恩報じ尽くしがたし。かやうに此の山まで度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。(いよいよ)はげませ給ふべし、(おこた)ることなかれ。皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは()く、僧をも()(ぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り(あゆ)みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば(なが)め候べき。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。    この経の行者を一度、供養する功徳は釈迦仏を直ちに八十億劫の間、無量の宝をもって供養する功徳に百千万億勝れていると仏は説かれている。この経にあったときには悦びは身に溢れ、左右の眼に涙が浮かんで、釈尊の御恩は報じ尽くしがたい。このようにこの山まで度々の御供養をされていることは、法華経並びに釈尊の御恩を報じられることになるであろう。いよいよ励まれるがよい。
 怠ってはなりません。皆、人がこの経を信じ始めるときは信心があるようにみえるけれども、中ほどになると信心も弱く、僧侶をも敬わず、供養をもせず、慢心を抱いて邪悪な考えを起こす。これは恐れるべきである。恐れるべきである。始めから終りまで、いよいよ信心を貫くべきである。そうでなければ後悔するであろう。
 たとえば鎌倉から京都へは十二日の道程である。それを十一日ほど歩いて、あと一日になって歩くのをやめてしまったならば、どうして都の月をながめることができようか。なんとしても、この此の経の心を知る僧に近づき、いよいよ仏法の道理を聞いて信心の歩みを運ぶべきである。

 

第三章 名聞名利の邪心戒め、三宝供養勧む

 (ああ)、過ぎにし方の程なきを以て知んぬ、我等が命今幾程(いくほど)もなき事を。春の(あした)に花をながめし時、とも()なひ遊びし人は、花と共に無常の嵐に散りはてゝ、名のみ残りて其の人はなし。花は散りぬといへども又こん春も(ひら)くべし。されども消えにし人は(また)いかならん世にか来たるべき。秋の暮れに月を(なが)めし時、(たわむ)れむつびし人も、月と共に有為(うい)の雲に入りて後、面影(おもかげ)ばかり身にそひて物いふことなし。月は西山に入るといへども亦こん秋も詠むべし。然れどもかく()れし人は今いづくにか住みぬらん、おぼつかなし。無常の虎のなく(こえ)は耳にちかづくといへども聞いて驚くことなし。()(しょ)の羊は今幾日か無常の道を歩みなん。雪山の寒苦鳥は寒苦に()められて、夜明けなば()つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生(むな)しく鳴くことを()。一切衆生も亦復(またまた)是くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす()からんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の(ともしび)は消えやすし。()(やく)の事には財宝を()くすに()しからず。
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 仏法僧にすこしの供養をなすには是をもの()()く思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきを()ふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。
   ああ、過ぎ去った時がまたたく間であることから知ることができる。私達の命がそれほど長くないことを。春の朝に花を眺めたとき一緒に遊んだ人は、花とともに無常の嵐に散り果てて名前だけ残ってその人はいない。花は散ったといっても、また来春も咲く。しかし、消えてしまった人は、またいかなる世に生れてくるであろうか。秋の暮れに月を詠んだとき戯れ親しんだ人も月とともに有為の雲に隠れてしまった後は面影ばかり身に添っているが物を言うことはない。月は西の山に入るといっても、また来秋も詠むことができる。しかしながら、隠れてしまった人は今どこに住んでいるであろう。はっきりしない。
 無常の虎の鳴く音は耳に近づくといっても聞いて驚くことがない。屠殺所の羊はあと幾日、無常の道を歩むことがあろ。雪山の寒苦鳥は寒苦に責められてせめられて「夜が明かたならば巣を造ろう」と鳴くけれども、日の出たときは朝日の暖かさにつられて眠って忘れてしまい、一生の間むなしく鳴くという。一切衆生もまた同様である。
 地獄に堕ちて炎にむせぶときは、願わくは今度人間に生れて諸事を差し置いて仏・法・僧の三宝を供養し、後世の悟りを得ようと願っても、たまたま人間に生れてきたときには名聞名利の風が激しく仏道修行の灯は消えやすい。
 無益の事には財宝を使うのを惜しまず、仏・法・僧に少しの供養をするのを面倒くさく思うことは、これただごとではない。
 地獄の使いが引っぱる力のほうが強いのである。寸善尺魔というのはこれである。
 其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味に()へて(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入り()はりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は(いたずら)に魔縁の(すみか)と成りぬ。国の(つい)え民の歎きにて、いらか()を並べたる計りなり。(これ)私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。    そのうえ、この国は謗法の国土であるので守護の善神は法味に飢えて社を捨てて天に上られたので、社には悪鬼が入り替わって多くの人を導いている。仏は化導をやめて寂光土へ帰られたので、堂塔や寺社はいたずらに魔のすみかとなってしまった。国費と民の労役によって、いらかを並べて建っているだけである。これは私の言ではない。経文にあることである。学びなさい。

 

第四章 謗法の供養を天はうけないことを述ぶ

 諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず、況んや人間としてこれを()くべきや。春日大明神の御託宣に云はく、飯に銅の炎をば食すとも心(けが)れたる人の物をうけじ。座に銅の(ほのお)には坐すとも、心汚れたる人の家にはいたらじ。草の(ほそどの)(かや)(のき)にはいたるべしと云へり。縦令(たとい)千日のしめを引くとも不信の所には至らじ。重服深厚の家なりとも有信の所には至るべし云云。是くの如く善神は此の謗法の国をばなげ()きて天に上らせ給ひて候。心けがれたると申すは法華経を持たざる人の事なり。此の経の五の巻に見えたり。謗法の供養をば銅の焔とこそおほせられたれ。神だにも是くの如し、況んや我等凡夫としてほむら()をば食すべしや。人の子として我が親を殺したらんものゝ、我に物を()させんに是を取るべきや。いかなる智者聖人も()(けん)地獄を(のが)るべからず。又それにも近づくべからず。与同罪恐るべし恐るべし。    諸仏も諸神も謗法の供養は決して受け取られない。まして人間として、これを受けることができようか。春日大明神の御託宣に「飯として銅の炎をば食べても、心が汚れた物は受けない。座として銅の炎に座っても、心の汚れた人の家には行かない。草の廊下や萱の軒にはいくであろう」といい「たとえ千日の注連なわを引いても、不信の者の所には行かない。重い忌の家であっても、信心のある者の所には行くであろう」といっている。このようにして善神はこの謗法の国を嘆いて天に上られたのである。心の汚れたというのは法華経を受持しない人のことである。この経の第五の巻に述べられている。謗法の供養よりも「銅の炎のほうがましだ」と仰せられている。神でさえこのようである。ましてや我ら凡夫の身で炎を食べることができようか。人の子として、自分の親を殺した者が自分に物を与えようとしたとき、これを受け取ることができようか。謗法を犯せばどのような智者や聖人でも無間地獄を逃れることはできない。また、それに近づいてもならない。与同罪を恐れるべきである。

 

第五章 正法の善知識を仏と仰ぐべきこと

 釈尊は一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父なり、主なり、師なり。此の釈尊を殺したらんに、(いか)でか諸天善神等うれしく(おぼ)()すべき。今此の国の一切の諸人は皆釈尊の御敵なり。在家の俗男俗女等よりも邪智心の法師ばらは(こと)の外の御敵なり。智慧に於ても正智あり邪智あり。智慧ありとも其の邪義には随ふべからず。貴僧高僧には依るべからず。(いや)しき者なりとも、此の経の(いわ)れを知りたらんものをば生身(しょうじん)の如来のごとくに礼拝供養すべし。(これ)経文なり。されば伝教大師は無智破戒の男女等も此の経を信ぜん者は、小乗二百五十戒の僧の上の座席に()えよ、末座にすべからず。況んや大乗の此の経の僧をやとあそ()ばされたり。
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   釈尊は一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父であり、主君であり、師匠である。この釈尊を殺そうとしているのを、どうして諸天善神等がうれしくお思いになることがあろうか。今この国の一切の人々はみな釈尊の御敵である。在家の俗男・俗女等よりも邪智心の僧達はとくに御敵である。智慧にも正智があり、邪智がある。智慧があっても、その邪義には随ってはならない。貴い僧とか高名な僧であるからということに依ってはならない。賎しい者であっても、この経の意味を知っている者を生身の仏のように礼拝供養すべきである。これは経文に説かれていることである。それゆえ、伝教大師は「無智破戒の男女等であっても、この経を信ずる者は、小乗の二百五十戒をたもった僧の上位の座席にすわらせなさい。末座にしてはならない。まして大乗教のこの経の僧はなおさらである」と仰せられている。
 今生身の如来の如くみえたる極楽寺の良観房よりも、此の経を信じたる男女は座席を高く()えよとこそ候へ。彼の二百五十戒の良観房も、日蓮に会ひぬれば腹をたて眼をいか()らす。是たゞごとにはあらず。智者の身に魔の入り()はればなり。譬へば本性よき人なれども、酒に酔ひぬれば()しき心出来し、人の為にあしきが如し。仏は法華以前の迦葉・舎利弗・目連等をば是を供養せん者は三悪道に堕つべし。彼等が心は犬・野干の心には劣れりと説き給ひて候なり。彼の四大声聞等は、二百五十戒を持つことは金剛の如し。三千の威儀具足する事は十五夜の月の如くなりしかども、法華経を持たざる時は是くの如く仰せられたり。何に況んや、それに劣れる今時の者共をや。    今、生身の仏のように見える極楽寺の良観よりも、この経を信じた男女は座席を高座に据えるべきである。かの二百五十戒をたもつという良観房も日蓮に会ったときは、腹を立てて眼をいからせる。これはただごとではない。智者の身に魔が入り替わっているからである。例えば本性はよい人であっても酒に酔ったときは悪い心が出てきて人に迷惑をかけるようなものである。仏は法華経を説く以前は迦葉・舎利弗・目連等について、これを供養する者は三悪道に堕ちるであろう。彼らの心は犬や狐の心に劣っている、と説かれた。かの四大声聞等は二百五十戒を持つことは金剛のようであり、三千の威儀を具えることは十五夜の月のようであるけれども、法華経を持たないときは、このように仰せられたのである。ましてやそれに劣る今の者たちはなおされである。
 建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の(くず)れたるが如く、威儀の放埒(ほうらつ)なることは猿に似たり。是を供養して後世(ごせ)を助からんと思ふは、はかなしはかなし。    建長寺や円覚寺の僧達が作法・戒文を破っていることは大山の崩れたようなものであり、威儀のふしだらなことは猿と変わらない。これを供養して後世を助かろうと思うのは、はかないことである、はかないことである。

 

第六章 善神去って悪鬼のすみかとなるを示す

 守護の善神此の国を捨つる事疑ひあることなし。昔釈尊の御前にして諸天・善神・菩薩・声聞、異口同音に誓ひをたてさせ給ひて、若し法華経の御敵の国あらば、或は六月に(しも)(あられ)と成りて国を飢饉せさせんと申し、或は小虫と成りて五穀を()み失はんと申し、或は旱魃(かんばつ)をなさん、或は大水と成りて田園をなが()さんと申し、或は大風と成りて人民を吹き殺さんと申し、或は悪鬼と成りてなや()まさんと面々に申させ給ひき。今の八幡大菩薩も其の座におはせしなり。争でか霊山の()(しょう)の破るゝをおそれ給はざらん。起請を破らせ給はゞ()(けん)地獄は疑ひなき者なり。恐れ給ふべし恐れ給ふべし。    守護の善神がこの国を捨て去ったことは疑いない。
 昔、釈尊の御前で諸天善神や菩薩や声聞が異口同音に誓いを立てられて、「もし法華経の御敵の国があれば、あるいは六月に霜や霰となって国を飢饉に陥られましょう」といい、あるいは「小虫となって五穀を食べてしまいましょう」といい、あるいは「旱魃を起こしましょう」といい、あるいは「悪鬼となって悩ましましょう」と、それぞれに申されている。
 今の八幡大菩薩もその座にいらっしゃったのである。
 どうして霊山の起請の破れるのを恐れられないことがあろう。起請を破られたならば無間地獄は疑いないところである。恐れられるべきである、恐れられるべきである。
 今までは正しく仏の御使ひ出世して此の経を弘めず、国主もあがち()に御敵にはならせ給はず、但いづれも貴しとのみ思ふ計りなり。    今までは正しく仏の御使いが世に出てこの経を弘めることなく、国主も一概に御敵にはなられず、ただどれも貴いと思うだけであった。
 今(それがし)、仏の御使ひとして此の経を弘むるに依りて、上一人より下万民に至るまで皆謗法と成り(おわ)んぬ。今までは此の国の者ども法華経の御敵には()さじと、一子のあや()にく()の如く捨てかねて()()せども、霊山の起請のおそろしさに社を焼き払ひて天に上らせ給ひぬ。
(★1460㌻)
 さはあれども身命を()しまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし。天照大神・八幡大菩薩天に上らせ給はゞ、其の余の諸神争でか社に留まるべき。(たと)ひ捨てじと(おぼ)()すとも、霊山のやくそく(約束)のまゝに某()(しゃく)し奉らば、一日もやはか()()すべき。譬へば盗人の候に、知れぬ時はかし()()やここに住み候へども、能く案内知りたる者の、是こそ盗人よとのゝ()しりどめけば、おもはぬ外に(すみか)を去るが如く、某にさゝへられて社をば捨て給ふ。然るに此の国思ひの外に悪鬼神の住家となれり。哀れなり哀れなり。
   しかるに今、私が仏の御使いとしてこの経を弘めることによって、上一人より下万民までが、みな謗法の者となってしまったのである。今までは、諸天も、この国の者達を法華経の御敵にはさせまいと、一人いる子供が思いに反して折り悪い場合のように捨てかねていたけれども、霊山の起請を破ることの恐ろしさに社を焼き払って天に上られてしまったのであろう。
 そうではあるけれども、身命を惜しまない法華経の行者がいるならば、その頭には住むであろう。天照太神や八幡大菩薩が 天に上られたならば、その他の諸神がどうして社に留まれるであろう。たとえ捨てまいとお思いになっても、霊山での約束のとおりに私が責めたならば、一日もいらっしゃることはできない。例えば盗人が世間に知られていない時にはあちこちに住んでいても、よく事情を知った者が「この者こそ盗人だ」と大声で騒ぎ立てたならば、不本意でもすみやかに去るように、諸天善神も、私に責められて社を捨てられたのである。こうして、この国は思いがけず悪鬼神のすみかとなってしまった。哀れなことである、哀れなことである。

第七章 即身成仏の道を示す

 又一代聖教を弘むる人は多くおはせども、是程の大事の法門をば伝教・天台もいまだ仰せられず。其れも道理なり。末法の始の五百年に上行菩薩の出世あて弘め給ふべき法門なるが故なり。相構へて、いかにしても此の度此の経を能く信じて、命終の時千仏の迎へに預かり、霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし。信心弱くして成仏の()びん時、某をうらみさせ給ふな。譬へば病者に良薬(ろうやく)を与ふるに、毒を好んでくひぬれば其の病()えがたき時、我がとが()とは思はず、還って医師を恨むるが如くなるべし。     また釈尊一代の聖教を弘める人は多くおられるけれども、これほどの大事な法門を伝教大師や天台大師もいまだ仰せられていない。それも道理である。末法の始めの五百年の間に上行菩薩が出現して弘められるべき法門であるがゆえである。心して、なんとしてもこの度この経をよく信じて臨終のときは千仏の迎えを受け、霊山浄土に速やかに参り自受法楽すべきである。信心弱くて成仏が延びたときに、私を恨んではならない。たとえば、病人に良薬を与えたのに、病人が毒を好んで食べていれば、その病は癒えがたい。そのくせ病人は自分の過ちとは思わずにかえって医師を恨むようなものである。 
 此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ。仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備ふるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。譬へば鳥の卵は始めは水なり、其の水の中より誰かなすともなけれども、(くちばし)よ目よと(かぎ)り出で来て虚空にかけるが如し。我等も無明の卵にしてあさましき身なれども、南無妙法蓮華経の唱への母にあたゝめられまいらせて、三十二相の觜出でて八十種好の(よろい)()()ひそろひて実相真如の虚空にかけるべし。(ここ)を以て経に云はく「一切衆生は無明の卵に処して智慧の口ばしなし。仏母の鳥は分段同居の(ふる)()に返りて、無明の卵をたゝき破りて一切衆生の鳥を()()てて、法性真如の大虚にとばしむ」と説けり取意    この経の信心というのは、少しも我見なく経文のとおりに、人の言を用いず法華経の一部に背くことがなければ仏に成るのである。仏に成るということは別のことではない。南無妙法蓮華経と他の事にとらわれることなく唱へていくときに自然と三十二相・八十種好を備えるのである。「我が如く等しくして異なることなし」といって釈尊のような仏に簡単に成るのである。たとえば、鳥の卵は始めは水である。その水の中から、だれかがしたということもないけれども、觜・目と身を荘厳することができて、やがて大空に飛翔するようなものである。私達も無明の卵で浅ましい身であるけれども、南無妙法蓮華経の唱目の母に暖められて三十二相の觜が出てきて八十種好の鎧毛が生え揃い、実相真如の虚空に飛翔することができるのである。このことを経には「一切衆生は無明の卵に身を置いて智慧の觜はない。仏母の鳥は分段・同居の古栖に帰って、無明の卵を叩き割って一切衆生の鳥を巣立てて、法性真如の大空に飛ばせる」と説いている。(取意)

 

第八章 成仏の要諦は「信」なるを明かす

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 有解(うげ)()(しん)とて法門をば(さと)りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解とて()はなくとも信心あるものは成仏すべし。皆此の経の意なり、私の言にはあらず。されば二の巻には「信を以て入ることを得、己が智分に非ず」とて、智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり。己が智慧にて仏にならずと説き給へり。舎利弗だにも智慧にては仏にならず。況んや我等衆生少分の法門を心得たりとも、信心なくば仏にならんことおぼつかなし。末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるが()せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし、争でか徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり。
 
 有解無信といって法門を理解しても信心のない者は、絶対に成仏することはできない。有信無解といって理解はなくても信心のある者は成仏できるのである。皆この経の説くところである。私の言ではない。それゆえ法華経の第二の巻譬喩品第三には「信をもって悟りに入ることができた。自分の智慧ではない」といって、智慧第一の舎利弗も、ただこの経を受持して信心を強盛にして仏に成ったのであり、自分の智慧によっては仏に成らなかった。ましてや我ら衆生が少しばかりの法門を心得たといっても、信心がなければ仏に成ることはおぼつかない。
 末法の時代の衆生は法門を少しばかり心得、僧を侮り、法をゆるがせにして悪道に堕ちるであろう、と説かれている。法を心得たしるしとしては、僧を敬い法を崇め仏を供養すべきである。今は仏がいらっしゃらない。仏法を解悟した善知識を仏として敬うべきである。そうすれば、どうして功徳がないことがあろうか。後世を願う者は名利名聞を捨てて、どんなに 賎しい者であっても法華経を説く僧を生身の仏のように敬うべきである。これまさしく経文に説くところである。

 

第九章 禅僧の天魔の振舞いを弾呵

 今時の禅宗は大段、仁・義・礼・智・信の五常に背けり。有智の高徳をおそれ、老いたるを敬ひ、幼きを愛するは内外典の法なり。然るを彼の僧家の者を見れば、昨日今日まで(でん)()()(じん)にして黒白を知らざる者も、()ちん()直綴(じきとつ)をだにも()つれば、うち慢じて天台真言の有智高徳の人をあなづり、礼をもせず其の上に居らんと思ふなり。是傍若(ぼうじゃく)()(じん)にして畜生に劣れり。(ここ)を以て伝教大師の御釈に云はく、川獺(せんだつ)祭魚のこゝろざし、(りん)()父祖の食を通ず、鳩鴿(きゅうごう)(さん)()の礼あり、行雁(こうがん)(つら)(みだ)らず、恙羊(こうよう)(うずくま)りて乳を飲む。賤しき畜生すら礼を知ること是くの如し、何ぞ人倫に於て其の礼なからんやとあそばされたり取意。彼等が法門に迷へる事道理なり。人倫にしてだにも知らず、是天魔波旬のふるまひにあらずや。    今の時代の禅宗は大体、仁・義・礼・智・信の五常に違背している。智慧のある高徳の人を畏敬し、老人を敬い、幼き者を愛せよというは、仏典でも外典でも説いている法である。ところが、かの僧家の者を見ると、昨日・今日まで粗末な田舎者で黒白を知らない者であっても、濃紺の直綴を着ただけで慢心して、天台宗や真言宗の智慧のある高徳の人を侮り、礼もしないで、その上位にいると思っている。これ傍若無人で畜生にも劣っている。この礼ということについて伝教大師の釈には「川獺は魚を供えて先祖を祭る志をもっている。林の中の烏は父や祖父に食べ物を運んで恩に報いる。鳩は親よりも三つ下の枝に止まる礼を心得ている。飛ぶ雁は列を乱さない。小羊は膝を屈めて乳を飲む。このように、賤しい畜生でさえ礼を知っているのである。どうして人間同士の間において、その礼がなくてよいのであろうか。(取意)」と仰せになっている。彼ら禅僧等が法に迷っていることは道理である。人の踏み行うべき道さえも知らないのである。これ天魔の振る舞いではないか。

 

第十章 いよいよの聴聞と深信を勧む

 是等の法門を能く能く明らめて、一部八巻廿八品を頭にいたゞき(おこた)らず行なひ給へ。又某を恋しくおはせん時は日々に日を拝ませ給へ、某は日に一度天の日に影をうつす者にて候。此の僧によませまひらせて聴聞あるべし。此の僧を解悟の智識と(たの)み給ひてつねに法門御たづね候べし。聞かずんば争でか迷闇の雲を払はん。    これらの法門をよくよく明らかに知って、法華経一部八巻二十八品を信じ敬い、怠らず修行しなさい。また私を恋しくなったときには日々に太陽を拝されるがよい。私は日に一度、天の太陽に影を映す者である。この僧に読ませられて聞きなさい。この僧を解悟の智識と頼みにされて、常に法門をお聞きなさい。聞かなければ、どうして迷いの雲と払えよう。
(★1462㌻)
 足なくして争でか千里の道を行かんや。返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし。事々面の()いでを()し候間委細には申し述べず候。穴賢穴賢。
  弘安三年二月 日          日蓮花押
 新池殿
 
 足がなくて、どうして千里の道を行けようか。
 かえすがえす、この書を常に読ませて、お聞きなさい。
 いろいろなことはお会いしたときと思って、詳しくは申し上げない。穴賢穴賢。
  弘安三年二月 日          日蓮花押
 新池殿