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(★1456㌻) うれしきかな末法流布に生まれあへる我等、かなしきかな今度此の経を信ぜざる人々。 |
なんとうれしいことか、末法の正法流布の時に生まれあえた我等は。なんと悲しいことか、このたびこの経を信じない人々は。そもそも人界に生を受けた者でだれが無常を免れることができようか。そのような者にとっては、どうして後世のための努力をつとめを・しないであられようか。よくよく世間のありさまを見てみると、人は皆、口にはこの経を信じ、手には経巻を握っているといっても、経の心に背いているので悪道を免れがたい。たとえば、人にみな五臓がある。一臓でも損なうときは、その臓より病が起きてきて他の臓を破壊し、ついに命をうしなうようなものである。このことをさして伝教大師は「法華経を讃嘆するといっても、かえって法華経の心を殺している」等といっている。この文の意味は、法華経を持ち読誦し讃嘆したとしても法華経の心に背いたときには、かえって釈尊や十方の諸仏を殺すことになってしまうという意である。世間の悪業や衆罪は須弥山のようであったとしても、この経に値ったときには、諸罪は霜や露のように法華経の太陽に値って消えるであろう。しかしながら、この経で説く十四謗法のうち一つでも二つでも犯したときにはその罪は消えがたい。理由はなぜか。一大三千界のあらゆる有情を殺したとしても、どうして一仏を殺す罪に及ぼうか。法華経の心に背いたときには、十方の仏の命を失う罪となる。この定めに背くのを謗法の者というのである。地獄は恐れるべきである。炎を家としている。餓鬼は悲しむべきである。飢渇に飢えて子供を食う。修羅は争い合う。畜生は残害といって互いに殺し合う。紅蓮地獄というのは紅の蓮と読む。その理由は、あまりに寒さに責められて屈むことにより、背中が割れて肉が露出したのが紅の蓮に似ているからである。ましてや大紅蓮においてはなさらである。そのような死後の苦悩の世界に行ったときには、王の位や将軍もものの数ではない。獄卒の責めにあっている姿は猿回しの猿と異なることがない。この時はどうして名聞名利や我慢偏執の心でいられようか。 |
| (★1458㌻) 仏法僧にすこしの供養をなすには是を |
ああ、過ぎ去った時がまたたく間であることから知ることができる。私達の命がそれほど長くないことを。春の朝に花を眺めたとき一緒に遊んだ人は、花とともに無常の嵐に散り果てて名前だけ残ってその人はいない。花は散ったといっても、また来春も咲く。しかし、消えてしまった人は、またいかなる世に生れてくるであろうか。秋の暮れに月を詠んだとき戯れ親しんだ人も月とともに有為の雲に隠れてしまった後は面影ばかり身に添っているが物を言うことはない。月は西の山に入るといっても、また来秋も詠むことができる。しかしながら、隠れてしまった人は今どこに住んでいるであろう。はっきりしない。 無常の虎の鳴く音は耳に近づくといっても聞いて驚くことがない。屠殺所の羊はあと幾日、無常の道を歩むことがあろ。雪山の寒苦鳥は寒苦に責められてせめられて「夜が明かたならば巣を造ろう」と鳴くけれども、日の出たときは朝日の暖かさにつられて眠って忘れてしまい、一生の間むなしく鳴くという。一切衆生もまた同様である。 地獄に堕ちて炎にむせぶときは、願わくは今度人間に生れて諸事を差し置いて仏・法・僧の三宝を供養し、後世の悟りを得ようと願っても、たまたま人間に生れてきたときには名聞名利の風が激しく仏道修行の灯は消えやすい。 無益の事には財宝を使うのを惜しまず、仏・法・僧に少しの供養をするのを面倒くさく思うことは、これただごとではない。 地獄の使いが引っぱる力のほうが強いのである。寸善尺魔というのはこれである。 |
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| 其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味に |
そのうえ、この国は謗法の国土であるので守護の善神は法味に飢えて社を捨てて天に上られたので、社には悪鬼が入り替わって多くの人を導いている。仏は化導をやめて寂光土へ帰られたので、堂塔や寺社はいたずらに魔のすみかとなってしまった。国費と民の労役によって、いらかを並べて建っているだけである。これは私の言ではない。経文にあることである。学びなさい。 |
| 諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず、況んや人間としてこれを |
諸仏も諸神も謗法の供養は決して受け取られない。まして人間として、これを受けることができようか。春日大明神の御託宣に「飯として銅の炎をば食べても、心が汚れた物は受けない。座として銅の炎に座っても、心の汚れた人の家には行かない。草の廊下や萱の軒にはいくであろう」といい「たとえ千日の注連なわを引いても、不信の者の所には行かない。重い忌の家であっても、信心のある者の所には行くであろう」といっている。このようにして善神はこの謗法の国を嘆いて天に上られたのである。心の汚れたというのは法華経を受持しない人のことである。この経の第五の巻に述べられている。謗法の供養よりも「銅の炎のほうがましだ」と仰せられている。神でさえこのようである。ましてや我ら凡夫の身で炎を食べることができようか。人の子として、自分の親を殺した者が自分に物を与えようとしたとき、これを受け取ることができようか。謗法を犯せばどのような智者や聖人でも無間地獄を逃れることはできない。また、それに近づいてもならない。与同罪を恐れるべきである。 |
| 釈尊は一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父なり、主なり、師なり。此の釈尊を殺したらんに、 (★1459㌻) |
釈尊は一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父であり、主君であり、師匠である。この釈尊を殺そうとしているのを、どうして諸天善神等がうれしくお思いになることがあろうか。今この国の一切の人々はみな釈尊の御敵である。在家の俗男・俗女等よりも邪智心の僧達はとくに御敵である。智慧にも正智があり、邪智がある。智慧があっても、その邪義には随ってはならない。貴い僧とか高名な僧であるからということに依ってはならない。賎しい者であっても、この経の意味を知っている者を生身の仏のように礼拝供養すべきである。これは経文に説かれていることである。それゆえ、伝教大師は「無智破戒の男女等であっても、この経を信ずる者は、小乗の二百五十戒をたもった僧の上位の座席にすわらせなさい。末座にしてはならない。まして大乗教のこの経の僧はなおさらである」と仰せられている。 | |
| 今生身の如来の如くみえたる極楽寺の良観房よりも、此の経を信じたる男女は座席を高く |
今、生身の仏のように見える極楽寺の良観よりも、この経を信じた男女は座席を高座に据えるべきである。かの二百五十戒をたもつという良観房も日蓮に会ったときは、腹を立てて眼をいからせる。これはただごとではない。智者の身に魔が入り替わっているからである。例えば本性はよい人であっても酒に酔ったときは悪い心が出てきて人に迷惑をかけるようなものである。仏は法華経を説く以前は迦葉・舎利弗・目連等について、これを供養する者は三悪道に堕ちるであろう。彼らの心は犬や狐の心に劣っている、と説かれた。かの四大声聞等は二百五十戒を持つことは金剛のようであり、三千の威儀を具えることは十五夜の月のようであるけれども、法華経を持たないときは、このように仰せられたのである。ましてやそれに劣る今の者たちはなおされである。 | |
| 建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の |
建長寺や円覚寺の僧達が作法・戒文を破っていることは大山の崩れたようなものであり、威儀のふしだらなことは猿と変わらない。これを供養して後世を助かろうと思うのは、はかないことである、はかないことである。 |
| 守護の善神此の国を捨つる事疑ひあることなし。昔釈尊の御前にして諸天・善神・菩薩・声聞、異口同音に誓ひをたてさせ給ひて、若し法華経の御敵の国あらば、或は六月に |
守護の善神がこの国を捨て去ったことは疑いない。 昔、釈尊の御前で諸天善神や菩薩や声聞が異口同音に誓いを立てられて、「もし法華経の御敵の国があれば、あるいは六月に霜や霰となって国を飢饉に陥られましょう」といい、あるいは「小虫となって五穀を食べてしまいましょう」といい、あるいは「旱魃を起こしましょう」といい、あるいは「悪鬼となって悩ましましょう」と、それぞれに申されている。 今の八幡大菩薩もその座にいらっしゃったのである。 どうして霊山の起請の破れるのを恐れられないことがあろう。起請を破られたならば無間地獄は疑いないところである。恐れられるべきである、恐れられるべきである。 |
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| 今までは正しく仏の御使ひ出世して此の経を弘めず、国主も |
今までは正しく仏の御使いが世に出てこの経を弘めることなく、国主も一概に御敵にはなられず、ただどれも貴いと思うだけであった。 | |
| 今 (★1460㌻) さはあれども身命を |
しかるに今、私が仏の御使いとしてこの経を弘めることによって、上一人より下万民までが、みな謗法の者となってしまったのである。今までは、諸天も、この国の者達を法華経の御敵にはさせまいと、一人いる子供が思いに反して折り悪い場合のように捨てかねていたけれども、霊山の起請を破ることの恐ろしさに社を焼き払って天に上られてしまったのであろう。 そうではあるけれども、身命を惜しまない法華経の行者がいるならば、その頭には住むであろう。天照太神や八幡大菩薩が 天に上られたならば、その他の諸神がどうして社に留まれるであろう。たとえ捨てまいとお思いになっても、霊山での約束のとおりに私が責めたならば、一日もいらっしゃることはできない。例えば盗人が世間に知られていない時にはあちこちに住んでいても、よく事情を知った者が「この者こそ盗人だ」と大声で騒ぎ立てたならば、不本意でもすみやかに去るように、諸天善神も、私に責められて社を捨てられたのである。こうして、この国は思いがけず悪鬼神のすみかとなってしまった。哀れなことである、哀れなことである。 |
| 又一代聖教を弘むる人は多くおはせども、是程の大事の法門をば伝教・天台もいまだ仰せられず。其れも道理なり。末法の始の五百年に上行菩薩の出世あて弘め給ふべき法門なるが故なり。相構へて、いかにしても此の度此の経を能く信じて、命終の時千仏の迎へに預かり、霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし。信心弱くして成仏の |
また釈尊一代の聖教を弘める人は多くおられるけれども、これほどの大事な法門を伝教大師や天台大師もいまだ仰せられていない。それも道理である。末法の始めの五百年の間に上行菩薩が出現して弘められるべき法門であるがゆえである。心して、なんとしてもこの度この経をよく信じて臨終のときは千仏の迎えを受け、霊山浄土に速やかに参り自受法楽すべきである。信心弱くて成仏が延びたときに、私を恨んではならない。たとえば、病人に良薬を与えたのに、病人が毒を好んで食べていれば、その病は癒えがたい。そのくせ病人は自分の過ちとは思わずにかえって医師を恨むようなものである。 | |
| 此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ。仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備ふるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。譬へば鳥の卵は始めは水なり、其の水の中より誰かなすともなけれども、 |
この経の信心というのは、少しも我見なく経文のとおりに、人の言を用いず法華経の一部に背くことがなければ仏に成るのである。仏に成るということは別のことではない。南無妙法蓮華経と他の事にとらわれることなく唱へていくときに自然と三十二相・八十種好を備えるのである。「我が如く等しくして異なることなし」といって釈尊のような仏に簡単に成るのである。たとえば、鳥の卵は始めは水である。その水の中から、だれかがしたということもないけれども、觜・目と身を荘厳することができて、やがて大空に飛翔するようなものである。私達も無明の卵で浅ましい身であるけれども、南無妙法蓮華経の唱目の母に暖められて三十二相の觜が出てきて八十種好の鎧毛が生え揃い、実相真如の虚空に飛翔することができるのである。このことを経には「一切衆生は無明の卵に身を置いて智慧の觜はない。仏母の鳥は分段・同居の古栖に帰って、無明の卵を叩き割って一切衆生の鳥を巣立てて、法性真如の大空に飛ばせる」と説いている。(取意) |
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(★1461㌻) |
有解無信といって法門を理解しても信心のない者は、絶対に成仏することはできない。有信無解といって理解はなくても信心のある者は成仏できるのである。皆この経の説くところである。私の言ではない。それゆえ法華経の第二の巻譬喩品第三には「信をもって悟りに入ることができた。自分の智慧ではない」といって、智慧第一の舎利弗も、ただこの経を受持して信心を強盛にして仏に成ったのであり、自分の智慧によっては仏に成らなかった。ましてや我ら衆生が少しばかりの法門を心得たといっても、信心がなければ仏に成ることはおぼつかない。 末法の時代の衆生は法門を少しばかり心得、僧を侮り、法をゆるがせにして悪道に堕ちるであろう、と説かれている。法を心得たしるしとしては、僧を敬い法を崇め仏を供養すべきである。今は仏がいらっしゃらない。仏法を解悟した善知識を仏として敬うべきである。そうすれば、どうして功徳がないことがあろうか。後世を願う者は名利名聞を捨てて、どんなに 賎しい者であっても法華経を説く僧を生身の仏のように敬うべきである。これまさしく経文に説くところである。 |
| 今時の禅宗は大段、仁・義・礼・智・信の五常に背けり。有智の高徳をおそれ、老いたるを敬ひ、幼きを愛するは内外典の法なり。然るを彼の僧家の者を見れば、昨日今日まで |
今の時代の禅宗は大体、仁・義・礼・智・信の五常に違背している。智慧のある高徳の人を畏敬し、老人を敬い、幼き者を愛せよというは、仏典でも外典でも説いている法である。ところが、かの僧家の者を見ると、昨日・今日まで粗末な田舎者で黒白を知らない者であっても、濃紺の直綴を着ただけで慢心して、天台宗や真言宗の智慧のある高徳の人を侮り、礼もしないで、その上位にいると思っている。これ傍若無人で畜生にも劣っている。この礼ということについて伝教大師の釈には「川獺は魚を供えて先祖を祭る志をもっている。林の中の烏は父や祖父に食べ物を運んで恩に報いる。鳩は親よりも三つ下の枝に止まる礼を心得ている。飛ぶ雁は列を乱さない。小羊は膝を屈めて乳を飲む。このように、賤しい畜生でさえ礼を知っているのである。どうして人間同士の間において、その礼がなくてよいのであろうか。(取意)」と仰せになっている。彼ら禅僧等が法に迷っていることは道理である。人の踏み行うべき道さえも知らないのである。これ天魔の振る舞いではないか。 |
| 是等の法門を能く能く明らめて、一部八巻廿八品を頭にいたゞき |
これらの法門をよくよく明らかに知って、法華経一部八巻二十八品を信じ敬い、怠らず修行しなさい。また私を恋しくなったときには日々に太陽を拝されるがよい。私は日に一度、天の太陽に影を映す者である。この僧に読ませられて聞きなさい。この僧を解悟の智識と頼みにされて、常に法門をお聞きなさい。聞かなければ、どうして迷いの雲と払えよう。 | |
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(★1462㌻) 足なくして争でか千里の道を行かんや。返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし。事々面の 弘安三年二月 日 日蓮花押 新池殿 |
足がなくて、どうして千里の道を行けようか。 かえすがえす、この書を常に読ませて、お聞きなさい。 いろいろなことはお会いしたときと思って、詳しくは申し上げない。穴賢穴賢。 弘安三年二月 日 日蓮花押 新池殿 |