慈覚大師事  弘安三年一月二七日  五九歳

 

第一章 法華経に出あえた悦びを述べる

(★1454㌻)
 鵞眼三貫・絹袈裟一帖給び了んぬ。法門の事は秋元太郎兵衛尉殿御返事に少々注して候。御覧有るべく候。
 なによりも受け難き人身、値ひ難き仏法に値ひて候に、五尺の身に一尺の面あり。其の面の中に三寸の眼二つあり。一歳より六十に及んで多くの物を見る中に、悦ばしき事は法華最第一の経文なり。
 
 銭三貫文および絹の袈裟一帖をいただいた。法門のことは秋元太郎兵衛尉殿の御返事に少々記しておいた。御覧いただきたい。
 なによりも受けるのが難しい人身を受け、あうのが難しい仏法にあった。五尺の身に一尺の顔がある。その顔のなかに三寸の眼が二つある。一歳から六十歳に及んで多くの物を見るなかで、悦ばしいことは法華最第一の経文である。

 

第二章 慈覚の誤謬を挙げて破折す

 あさましき事は、慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云はく「言ふ所の頂とは、諸の大乗の法の中に於て最勝にして過上無き故に、頂を以て之に名づく。乃至人の身の頂最も為れ勝るゝが如し。乃至法華に云はく、是法住法位と。今正しく此の秘密の理を顕説す。故に金剛頂と云ふなり」云云。又云はく「金剛は宝の中の宝なるが如く此の経も亦爾なり。
(★1455㌻)
諸の経法の中に最も為れ第一にして三世の如来の髻の中の宝なる故に」等云云。此の釈の心は法華最第一の経文を奪ひ取りて金剛頂経に付くるのみならず「如人之身頂最為勝」の釈の心は法華経の頭を切りて真言経の頂とせり。此即ち鶴の頚を切って蝦の頚に付けゝるか。真言の蟆も死しぬ、法華経の鶴の御頚も切れぬと見へ候。此こそ人身うけたる眼の不思議にては候へ。三千年に一度花開くなる優曇花は転輪聖王此をみる。
   あさましいことは慈覚大師が金剛頂経の頂の一字を解釈していった次の言葉である。「いうところの頂とは、諸の大乗の法の中において最勝にして、この上にも超えるものがない故に、頂をもってこれに名付ける。(乃至)人の身の頭頂が最も勝れているようなものである。(乃至)法華に『是の法は法位に住して世間の相常住なり』と、今、正しくこの秘密の理を顕わしている。故に金剛頂というのである」と。また「金剛は宝の中の宝であるように、この経もまたそうである。諸の経法の中に最も第一であって三世の如来の髻の束の中の宝である故に」等とある。
 この釈の意味「法華経が最も第一である」という経文を奪い取って金剛頂経に付与するということだけでなく、さらに金剛頂経の頂の一字は、「人の身の頭頂が最も勝れているようなものである」との解釈の意味は、法華経の頭を切って、真言経の頂しているということになる。これは鶴の首を切って蝦の首にすげかえているようなもので、真言経の蟆も死んでしまい、また法華経の鶴の御首も切れてしまったと見える。 
 この慈覚大師の謗法の釈こそ人身うけた者の凡夫の眼には奇妙に見える。三千年に一度だけ花が開くという優曇花は、転輪聖王だけが見分ることができる。
 究竟円満の仏にならざらんより外は法華経の御敵は見しらさんなり。一乗のかたき夢のごとく勘へ出だして候。慈覚大師の御はかはいづれのところに有りと申す事きこへず候。世間に云ふ、御頭は出羽国立石寺に有り云云。いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか。明雲座主は義仲に頭を切られたり。    究竟の円満の仏にならない限りは、法華経の御敵は見分けることはできない。しかるに日蓮は一乗の法華経の敵を、夢のように見分けたのである。
 そのことについていうと、慈覚大師の御墓は、どこそこにあるということを聞いたためしがない。世間でいっているところによると御首は出羽の国の立石寺にある。そうだとすると、このことは頭と身とは別の場所に有るということか。延暦寺五十五代・五十七代座主・明雲は木曽義仲に首を切られた。

 

第三章 叡山の歴代座主の正邪を検証す

 天台座主を見候へば、伝教大師はさてをきまいらせ候ひぬ。第一義真・第二円澄、此の両人は法華経を正とし、真言を傍とせり。第三の座主慈覚大師は真言を正とし、法華経を傍とせり。其の已後代々の座主は相論にて思ひ定むる事無し。第五十五並びに第五十七の二代は明雲大僧正座主なり。此の座主は安元三年五月日、院勘を蒙りて伊豆国え配流、山僧大津にて奪ひ取る。後、治承三年十一月に座主となりて源右将軍頼朝を調伏せし程に、寿永二年十一月十九日義仲に打たれさせ給ふ。此の人生けると死ぬと二度大難に値へり。生の難は仏法の定例、聖賢の御繁盛の花なり。死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人の招くわざわいなり。所謂大慢ばら門・須利等なり。    代々の天台座主を見ると、伝教大師は明らかであるから、さて置くとしよう。第一代座主・義真と第二代座主・円澄のこの二人は法華経を正とし真言を傍とした。第三代の座主・慈覚大師は、真言経を正とし法華経を傍とした。それ以後、代々の座主は両方の論議があって、どちらとも定めなかった。
 第五十五ならびに五十七の二代の座主は明雲大僧正である。この座主は安元三年五月某日、後白河法皇のお咎めを受けて伊豆の国へ配流されるところ、比叡山の僧たちが大津において奪い返して後、治承三年十一月十九日に再び座主になって、源の右将軍頼朝を調伏した故に、寿永二年十一月十九日、木曽義仲に打たれた。
 この人は生きている時死んだ後と二度、大難にあっている。生きている時の難は仏法の定まった習わしであり、聖人・賢人の活気に満ちた盛んな証拠の花である。しかし死んだ後の恥を受ける難は悪人や愚人、また正法を誹謗した人が招く不幸な出来事である。いわゆる大慢婆羅門や須利などとよく似ている。
 粗此を勘へたるに、明雲より一向に真言の座主となりて後、今に三十余代一百余年が間、一向真言座主にて法華経の所領を奪へるなり。    ほぼこのことを考えると、明雲から一向に真言の座主となりはてて後、今まで三十余代にわたる百余年の間、一向に真言の座主であって法華経から所領を奪い取ってしまった。

 

第四章 台密の謗法を結び正法護持を勧める

 しかれば此等の人々は釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵、梵釈・日月・四天・天照太神・正八幡大菩薩の御讐敵なりと見えて候ぞ。我が弟子等此の旨を存じて法門を案じ給ふべし。恐々謹言。
  正月廿七日                     日蓮花押    
 大田入道殿御返事
   だからこそ、これらの人々は釈迦・多宝・十方の諸仏に対して大怨敵であり、梵天・帝釈・日天・月天・四天王・天照太神・正八幡大菩薩の諸天善神の御敵と見える。我が弟子たちよ、この趣旨を銘記して法門を考えなさい。恐恐。
  正月二十七日          日蓮花押
 太田入道殿御返事