上野殿御返事  弘安二年一二月二七日  五八歳

 

(★1436㌻)
 白米一()をくり()び了んぬ。
 一切の事は時による事に候か。春は花、秋は月と申す事も時なり。仏も世に()でさせ給ひし事は法華経のためにて候ひしかども、四十余年は()かせ給はず。其の故を経文にとかれて候には「説時(せつじ)未だ至らざる故なり」等云云。
 
 白米を一駄、お送りいただいた。
 一切の事は時によるのである。「春は花・秋は月」という事も、時をいっているのである。仏も世に出現されたのは法華経のためであったけれども、四十余年は説かれなかった。そのわけを法華経方便品には「説時未だ至らざるの故に」等と説かれている。
 なつ()あつ()わた(綿)()そで()、冬かたびら()()びて候は、うれしき事なれども、ふゆの()そで()、なつのかたびら()にはすぎず。()へて候時のこがね()かっ()せる時の()れう()はうれしき事なれども、はん()と水とには()ぎず。仏に土をまいらせて候(ひと)仏となり、玉をまいらせて地獄へゆくと申すことこれか。
   夏に厚綿の小袖、冬に帷をいただくことはうれしいことではあるが、冬の小袖、夏の帷にすぎることはない。飢えている時の金、渇している時の御料はうれしいことであるが、飢えた時の飯や、渇している時の水に過ぎることはない。土の餅を差し上げた童子は仏となり、玉を上げた人が地獄へ堕ちたというのは、この、時をわきまえなかったということである。
 日蓮は日本国に生まれて()ゝく()せず、
(★1437㌻)
ぬす()みせず、かたがたのとが()なし。末代の法師にはとが()うすき身なれども、文をこの()む王に武のすてられ、いろ()この()む人に正直物のにく()まるゝがごとく、念仏と禅と真言と律とを信ずる()()ひて法華経をひろむれば、王臣万民ににくまれて、結句は山中に候へば、天いかんが計らはせ給ふらむ。
   日蓮は日本国に生まれて、人を惑わしたことも、盗みをしたこともなく、世間の失は一切ない。末法の法師としては過失の少ない身であるのに、文を好む王の世には武は捨てられ、色好みの者には正直者が憎まれるように、念仏と禅と真言と律を信ずる時代に生まれあわせて、法華経を弘めたので、王臣や万民に憎まれ、あげくにこの山中の身となった。このうえは、諸天がどのようにはかられるのであろうか。
 五尺のゆき()ふりて本よりもかよ()わぬ山道ふさがり、()いくる人もなし。衣もうす()くてかん()ふせぎがたし。食()へて命すでにをは()りなんとす。かゝるきざ()みにいのち()さまたげの御()ぶらい、()つはよろ()こびかつはなげ()かし。一度にをも()い切って()()なんとあん()じ切って候ひつるに、わづ()かのとも()しび()あぶら()を入れそへられたるがごとし。あわれあわれたうと()くめでたき御心かな。釈迦仏法華経定めて御計らひ候はんか。恐々謹言。
  十二月廿七日    日蓮 花押 
 上野殿御返事
   (冬には)五尺(約1.5m)もの雪が積もり、もともと人の通わない山道は塞がり、訪ねてくる人もいない。衣服も薄くて寒さを防ぐこともできない。食物も絶えて生命もすでに尽きようとしている時に、生命(死)を妨げるご訪問、一たびは喜び、一たびは歎かわしく思う。食べる物も着る物もなく、いっそ、一度に思い切って飢えて死のうと覚悟をきめていた時に、白米をお送りいただいたことは、消えかけた灯に油を注がれたようなものである。なんと尊く、めでたい御志であろうか。法華経が定めて御はからい給われたのであろうか。恐恐謹言。
  十二月廿七日     日蓮 花押
 上野殿御返事