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(★1430㌻) 鵞目一貫文送り給び候ひ了んぬ。妙法蓮華経の御宝前に申し上げ候ひ了んぬ。 抑日本国と申す国は須弥山よりは南、一閻浮提の内縦広七千由旬なり。其の内に八万四千の国あり。所謂五天竺十六の大国、五百の中国、十千の小国、無量の粟散国、微塵の島々あり。此等の国々は皆大海の中にあり。たとへば池にこのはのちれるが如し。此の日本国は大海の中の小島なり。しほみてば見へず、ひればすこしみゆるかの程にて候ひしを、神のつき出ださせ給ひて後、人王のはじめ神武天皇と申せし大王をはしましき。それよりこのかた三十余代は仏と経と僧とはましまさず。たゞ人と神とばかりなり。仏法をはしまさねば地獄もしらず、浄土もねがはず。父母兄弟のわかれありしかども、いかんがなるらん。たゞ露のきゆるやうに、日月のかくれさせ給ふやうに、うちをもいてありけるか。然るに人王第三十代欽明天皇と申す大王の御宇に、此の国より戌亥の角に当たりて百済国と申す国あり。彼の国よりせいめい王と申せし王、金銅の釈迦仏と、此の仏の説かせ給へる一切経と申すふみと、此をよむ僧をわたしてありしかば、 (★1431㌻) 仏と申す物もいきたる物にもあらず、経と申す物も外典の文にもにず、僧と申す物も物はいへども道理もきこへず、形も男女にもにざりしかば、かたがたあやしみをどろきて、左右の大臣、大王の御前にしてとかう僉議ありしかども、多分はもちうまじきにてありしかば、仏はすてられ、僧はいましめられて候ひしほどに、用明天皇の御子聖徳太子と申せし人、びだつの三年二月十五日、東に向かひて南無釈迦牟尼仏と唱へて御舎利を御手より出だし給ひて、同六年に法華経を読誦し給ふ。 |
鵞目一貫文お送りいただきました。あなたの御供養の御志を妙法蓮華経の御宝前に申し上げました。 さて、この日本という国は、須弥山の南方、一閻浮提の中にある。一閻浮提はその広さが縦横七千由旬であり、その中には八万四千の国がある。それらは、いわゆる五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・更には、無量の粟散国・微塵の島々がある。これらの国々は皆、大海の中にあって、その様をたとえていえば、池に木の葉が散って水面に浮かんでいるようなものである。 この日本国は、大海の中の小島である。それも、潮が満ちてくれば見えなくなり、潮がひいた時に、ようやく少し見えるといった程度の小さな島であったのを伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神が築き出された国土である。その後、人王の初めに神武天皇と申し上げる大王がおたれた。この王より以降三十数代にわたる王の間には、仏と経と僧の三宝はなく、ただ人と神とばかりの世の中であった。 仏法がなかったので、人々は地獄も知らず、浄土を願うこともなかった。父母兄弟等の死別に際しても、死後どうなっちくものともわからず、同じように、露が消えるのとおなじように、また、太陽や月が隠れるのとおなじように、考えていたのであろう。 ところが、人王第三十代・欽明天皇という大王の御治世に、日本の北西の方角に百済国という国があるが、その百済国の聖明王という王が、金銅の釈迦仏像と、この仏の説かれた一切経という経典と、この経を読誦する僧とを送ってきた。 だが、仏といっても生きているものではないし、経というものも外典の書物とは趣を異にしている。僧というものも、物はいうがその道理は理解できず、姿や服装も男とも女ともつかず異様であった。こうしたことから人々はいぶかり、驚いて左右の大臣が天皇の御前において、あれやこれやと論議したが「仏は尊崇すべきではない」との意見が大半を占めた。その結果、仏像は捨てられ、僧は拘禁されたのであった。 このよおうな折りに、用明天王の皇子で聖徳太子と申し上げる方が、敏達天皇二年の二月十五日に、東方に向かって「南無釈迦牟尼仏」と唱え、御手を開いて握っていた仏舎利をお出しになった。そして六年には、法華経を読誦されたのである。 |
| それよりこのかた七百余年、王は六十余代に及ぶまで、やうやく仏法ひろまり候ひて、日本六十六箇国二つの島にいたらぬ国もなし。国々・郡々・郷々・里々・村々に堂塔と申し、寺々と申し、仏法の住所すでに十七万一千三十七所なり。日月の如くあきらかなる智者代々に仏法をひろめ、衆星のごとくかゞやくけんじん国々に充満せり。 | それ以来現在に至る七百余年、天皇も六十余代に及ぶ間に、仏法は次第次第に弘まっていき、日本六十六ヵ国、・二つの島に到るまで仏法のいきわたらぬ所はないまでになった。国々・郡々・郷々・里々・村々と、あらゆる所に堂や塔、寺院が建立され、仏法の住所は、すでに十七万一千三十七ヵ所にのぼっている。更に、日月のように明らかな智者が何代にもわたって現われて仏法を弘め、きら星のように輝く賢人が数多く出現して、諸国に満ちあふれている。 | |
| かの人々は自行には或は真言を行じ、或は般若、或は仁王、或は阿弥陀仏の名号、或は観音、或は地蔵、或は三千仏、或は法華経読誦しをるとは申せども、無智の道俗をすゝむるには、たゞ南無阿弥陀仏と申すべし。譬へば女人の幼子をまうけたるに、或はほり、或はかわ、或はひとりなるには、母よ母よと申せば、きゝつけぬれば、かならず他事をすてゝたすくる習ひなり。阿弥陀仏も又是くの如し。我等は幼子なり。阿弥陀仏は母なり。地獄のあな、餓鬼のほりなんどにをち入りぬれば、南無阿弥陀仏と申せば音と響きとの如く、必ず来たりてすくひ給ふなりと、一切の智人ども教へ給ひしかば、我が日本国かく申しならはして年ひさしくなり候。 | これらの智者・賢人達は、自行としては、ある者は真言を行じ、あるいは般若経、あるいは仁王経、あるいは阿弥陀仏の名号を称え、あるいは観世音菩薩あるいは地蔵菩薩、三千仏などを信仰し、または法華経を読誦しているのである。だが化他行として仏法の道理に暗い道俗に修行を勧める時には「ただひたすらに南無阿弥陀仏と称えなさい。譬えば女人に子供ができて、その子が堀や河におちておぼれかかっている時、または独りで寂しい時に、『お母さん、お母さん』と泣き叫ぶ声を聞きつけたならば、必ず他事を捨て置いて子を助けるのが常である。阿弥陀仏もこれと全く同じである。我等衆生は幼児であり、阿弥陀仏は母である。我らが地獄の穴や餓鬼などに落ち込んで苦しんでいる時、南無阿弥陀仏と、称えれば、ちょうど音と響きが伴うように、阿弥陀仏が必ず来て我らをお救いくださるのだ」と。あらゆる智者・賢人達が教えたので、日本国ではそう言い習わし、念仏が弘まって年久しくなったのである。 |
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然るに日蓮は中国・都の者にもあらず、辺国の将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民が子にて候ひしかば、日本国七百余年に、一人もいまだ唱へまいらせ候はぬ南無妙法蓮華経と唱へ候のみならず、皆人の父母のごとく、日月の如く、主君の如く、わたりに船の如く、渇して水のごとく、うえて飯の如く思ひて候南無阿弥陀仏を、無間地獄の業なりと申し候ゆへに、食に石をたひたる様に、がんせきに馬のはねたるやうに、渡りに大風の吹き来たるやうに、じゆらくに大火のつきたるやうに、俄かにかたきのよせたるやうに、とわりのきさきになるやうに、をどろきそねみねたみ候ゆへに、去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間、退転なく申しつより候事、月のみつるがごとく、しほのさすがごとく、はじめは日蓮只一人唱へ候ひしほどに、見る人、 (★1432㌻) 値ふ人、聞く人耳をふさぎ、眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎり、はをかみ、父母・兄弟・師匠・ぜんうもかたきとなる。 |
ところで日蓮は、中央の都の者でもなければ、辺境の将軍等の子息でもない。都から遠く離れた国の、一庶民の子である。そんな賤しい身分の日蓮が、日本国七百余年もの間ただの一人も唱え奉ることのなかった南無妙法蓮華経の題目を唱えるばかりでなく、一切の人々が父母のように慕い、日月のうように崇め、主君のように敬い、渡りに船を得たように頼り、渇きに水を得たように喜び、飢えて食物を得たように思っている南無阿弥陀仏の称名を「無間地獄に堕ちるものだ」と破したのである。 それゆえ、食物に石を混ぜて炊いたように、岩石につまずいて馬が跳びはねたように、渡航中に大風が吹いてきたように、集落に大火事が起こったように、急に敵軍が攻め寄せてきたように、遊女が貴人の妻となったように、人々は日蓮の言説に驚き、うらみ、憎んだのである。 だが建長五年四月二十八日の立宗よ以来、今日の弘安二年十一月に至る二十七年間というもの、退転なく、年を経るごとにより強盛に南無妙法蓮華経の弘通に努めてきたことは、月が夜毎に満月に近くなっているごとく、潮が次第に満ちていくごとくであった。 はじめは日蓮ただ一人、題目を唱えていたが、見る人、会う人、聞く人いずれも耳をふさぎ、眼をいからし、口をゆがめ、手を握りしめ、歯がみするなどして、父母・兄弟・師匠・善友等、近しい人達までもが敵対した。 |
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| 後には所の地頭・領家かたきとなる。後には一国さはぎ、後には万人をどろくほどに、或は人の口まねをして南無妙法蓮華経ととなへ、或は悪口のためにとなへ、或は信ずるに似て唱へ、或はそしるに似て唱へなんどする程に、すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経、のこりの九分は或は両方、或はうたがひ、或は一向念仏者なる者は、父母のかたき、主君のかたき、宿世のかたきのやうにのゝしる。村主・郷主・国主等は謀叛の者のごとくあだまれたり。 | 後には、生国の地頭や領家も日蓮に敵対し、ついには一国をげて騒ぎ、万民が驚動するありさまとなった。そうしたなかで、人の口まねをして南無妙法蓮華経と唱える者がいたり、あるいは悪口するために唱えたり、信ずるに似て唱え、あるいは誹謗に似て唱える者がいたりして、すでに日本国の十分が一は、一向に南無妙法蓮華経となったのである。残りの九分のうちには、あるいは念仏と題目の両方を行じ、あるいはどちらにつくべきか迷い、あるいは一途に念仏を行ずる者は、日蓮をまるで父母のかたき、主君のかたき、宿世のかたきででもあるかのようにして罵る。村主・郷主・国主等は謀叛人のように怨んでいるのである。 |
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かくの如く申す程に、大海の浮木の風に随ひて定めなきが如く、軽毛の虚空にのぼりて上下するが如く、日本国ををはれあるく程に、或時はうたれ、或時はいましめられ、或時は疵をかほふり、或時は遠流、或時は弟子をころされ、或時はうちをはれなんどする程に、去ぬる文永八年九月十二日には御かんきをかほりて、北国佐渡の島にうつされて候ひしなり。世間には一分のとがもなかりし身なれども、故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を地獄に墜ちたりと申す法師なれば、謀叛の者にもすぎたりとて、相州鎌倉竜口と申す処にて頚を切らんとし候ひしが、科は大科なれども、法華経の行者なれば左右なくうしなひなば、いかんがとやをもはれけん。又遠国の島にすてをきたるならば、いかにもなれかし。 |
このように南無妙法蓮華経を唱えるうちに、大海の浮木が風の吹くにまかせてどこへともなくながされていくように、軽い毛が空中に舞い上がって上下するように、日蓮も日本国を追われ歩くうちに、ある時は打たれ、ある時は捕縛され、ある時は傷をつけられ、ある時は島流し、ある時は弟子を時は弟子を殺され、ある時は追放されるなど、度重なる難を受けてきたが、去る文永八年九月十二日には御勘気を蒙り、北国佐渡の島に配流されたのである。 もちろん、日蓮は世間の上では一点の罪科のない身ではあるが、故最明寺入道殿や極楽寺入道殿を地獄に堕ちたというほどの法師であるから、謀叛の者にもすぎた罪人であるとして、相州国鎌倉の竜口という刑場において、日蓮を斬首しようとしたのであった。しかし、罪は大きいが、法華経の行者であるから、この法師を軽々しく殺しては、どんな災いがあるかも知れぬと思われたのであろうか。また、直接手を下さずとも、遠国の島に放置しておけばなんとかなるであろう。 |
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上ににくまれたる上、万民も父母のかたきのやうにおもひたれば、道にても又国にても、若しはころすか、若しはかつえしぬるかにならんずらんとあてがはれて有りしに、法華経十羅刹の御めぐみにやありけん、或は天とがなきよしを御らんずるにやありけん。島にてあだむ者は多かりしかども、中興の次郎入道と申せし老人ありき。彼の人は年ふりたる上、心かしこく身もたのしくて、国の人にも人とをもはれたりし人の、此の御房はゆへある人にやと申しけるかのゆへに、子息等もいたうもにくまず。其の已下の者どもたいし彼等の人々の下人にてありしかば、内々あやまつ事もなく、唯上の御計らひのまゝにてありし程に、水は濁れども又すみ、 (★1433㌻) 月は雲かくせども又はるゝことはりなれば、科なき事すでにあらわれて、いゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計らひばかりにて、ついにゆり候ひてのぼりぬ。 |
幕府に憎まれているうえ、日本国の人々も、父母のかたきのように思っているのであるから、佐渡の道中にでも、佐渡の国においてでも、殺されるか餓死するかであろう、と佐渡流罪の判決が下されたのである。ところが法華経・十羅刹の御加護によるものであろうか、佐渡の島では憎むものは多かったけれども、中興の次郎入道という老人があった。 この人は、年配者であるうえに、心は賢く、身は壮健で、佐渡の人々からも尊敬を集めている人であった。この次郎入道が「日蓮という僧は、何かいわれのある人にちがいあるまい」といったからであろうか。彼の子息等も日蓮をひどく憎むということはなかった。それ以下の者達も、大体は中興一族に仕える人々の下人であったから、主君の意向が浸透して、内々に日蓮が害に加えるということもなく、ただ幕府の指示通りにしていた。 そうするうちに、水は濁っても再び澄み、月は雲に隠れてもまた晴れるのが自然の道理であるように、日蓮に罪科のないことはもはや明白となり、自界叛逆難・他国侵逼難など、かねて言っていたことも外れなかったからであろうか。北条氏一門や御家人の有力者達は「日蓮の罪を許すきではない」と強硬に主張したにもかかわらず、北条時宗の御裁決によって、ついに流罪を解かれて鎌倉にのぼったのであった。 |
| たゞし日蓮は日本国には第一の忠の者なり。肩をならぶる人は先代にもあるべからず、後代にもあるべしとも覚えず。 | ただし日蓮は日本国にあっては第一の忠の者である。日蓮に肩を並べる人は、先代にもないであろう。後代にもあらわれると思われない。 | |
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其の故は去ぬる正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其の故をうらなひしかども、なにのゆへ、いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに、真言・禅宗・念仏・律等の権小の人々をもつて法華経をかろしめたてまつる故に、梵天・帝釈の御とがめにて、西なる国に仰せ付けて、日本国をせむべしとかんがへて、故最明寺入道殿にまいらせ候ひき。此の事を諸道の者をこずきわらひし程に、九箇年すぎて去ぬる文永五年に、大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状わたりぬ。此の事のあふ故に、念仏者・真言師等はあだみて失はんとせしなり。例せば、漢土に玄宗皇帝と申せし御門の御后に、上陽人と申せし美人あり。天下第一の美人にてありしかば、楊貴妃と申すきさきの御らんじて、此の人、王へまいるならば我がをぼへをとりなんとて、宣旨なりと申しかすめて、父母兄弟をば或はながし、或は殺し、上陽人をばろうに入れて四十年までせめたりしなり。此もそれににて候。日蓮が勘文あらわれて、大蒙古国を調伏し、日本国かつならば、此の法師は日本第一の僧となりなん。我等が威徳をとろうべしと思ふかのゆへに、讒言をなすをばしろしめさずして、彼等がことばを用ひて国を亡ぼさんとせらるゝなり。例せば、二世王は趙高が讒言によりて李斯を失ひ、かへりて趙高が為に身をほろぼされ、延喜の御門はじへいのをとゞの讒言によりて、菅丞相を失ひて地獄におち給ひぬ。此も又かくの如し。法華経のかたきたる真言師・禅宗・律僧・持斎・念仏者等が申す事を御用ひありて、日蓮をあだみ給ふゆへに、日蓮はいやしけれども、所持の法華経を釈迦・多宝・十方の諸仏・梵天・帝釈・日月・四天・竜神・天照太神・八幡大菩薩、人の眼をおしむがごとく、諸天の帝釈をうやまうがごとく、 (★1434㌻) 母の子を愛するがごとく、まぼりおもんじ給ふゆへに、法華経の行者をあだむ人を罰し給ふ事、父母のかたきよりも、朝敵よりも重く大科に行なひ給ふなり。 |
そのわけは、去る正嘉年間の大地震や文永元年の大長星の時、内道外道それぞれの智人達が、こうした変事の起きるわけを占ったが、なぜこうしたことが起きるのか、これから先、どようなことになっていくのか、ということがわからなかった。そのとき日蓮は、一切経蔵に入り、仏の所説の上から、変事の原因と未来を考察したところ、「今の世の人々が、真言・禅宗・念仏・律等の権大乗・小乗教の僧を尊重し、法華経を軽んじ奉っているが故に、梵天・帝釈の御咎めとして、西方の国に命じて日本国を攻めさせるであろう」との結論を得た。そこで、この旨を記して、故最明寺入道殿に進上したのである。諸宗諸道の者達は、はじめこれを嘲笑していたのだが、安国論提出から九ヵ年が経過して、去る文永五年に大蒙古国から日本国を襲うであろうとの牒状が届いた この予言が的中した故に念仏者や真言師等は日蓮を憎み、殺害しようと企てたのである。それは、例えば中国に、玄宗皇帝という御門の後宮に上陽人という美人がいた。この人は天下第一の美人であったので、楊貴妃という皇帝の后が上陽人の美しさを見て「この人が王のそば近くに仕えたならば、きっと私への寵愛を奪われてしまうに違いない」と考えた。そこで楊貴妃は、皇帝の宣旨であるといつわってにせの命令書を発して上陽人の父母・兄弟を流罪、殺害するなどして、上陽人自身を四十年の長きにわたって牢に閉じ込めて苦しめたのである。 日蓮に対する仕打ちも、今挙げた例に似ている。諸宗の僧達は「日蓮が勘文が世に知られ幕府に用いられて、大蒙古国を調伏し、日本国が勝つことにでもなれば、この法師は日本第一の僧として遇されるにちがいない。そうなれば、我々の権威は地に堕ちて、尊敬を受けることもなくなってしまう」と恐れたが故に、日蓮を讒言したのである。だが、執権は彼等の動機を見抜くことができずにその言葉を信用してしまい、日本の国を滅ぼそうとされているのである。 これは例を挙げれば、秦の二世王が、趙高が讒言を用いて李斯を死なせ、かえって趙高によって身を滅ぼされてしまったようなものである。また日本でも、延喜の御門は、左大臣藤原時平の讒言を用いて、丞相菅原道真を失い、その過ちの故に地獄に堕ちられた。 今の執権の場合もこれと全く同様である。法華経のかたきである真言師・禅宗・律僧・持斎・念仏者等のいうことを御信用になって、日蓮をあだまれているのである。日蓮自身は身分の賤しい者であっても、持つところの法華経は釈迦・多宝・十方の諸仏・梵天・帝釈・日月・四天・竜神・天照太神・八幡大菩薩等の諸仏・諸天善神が、あたかも人が眼を最も大切にするように、諸天が帝釈を敬うように、母がわが子を愛するようにして守護し、重んじられる経である。したがって、法華経の行者を憎み迫害を加える者に対しては、諸仏・諸天が父母のかたきよりも、朝敵よりも重い罪を科して、厳しく処罰されるのである。 |
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然るに貴辺は故次郎入道殿の御子にてをはするなり。御前は又よめなり。いみじく心かしこかりし人の子とよめとにをはすればや、故入道殿のあとをつぎ、国主も御用ひなき法華経を御用ひあるのみならず、法華経の行者をやしなはせ給ひて、としどしに千里の道をおくりむかへ、去りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてゝ、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生まれん。況んやかのそとばに随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つゞみをうてばひゞきのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云。此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ。 弘安二年己卯十一月卅日 身延山 日蓮花押 中興入道殿女房 |
ところであなたは、亡き次郎入道殿の御子息であられる。御前は又その嫁である。非常に賢明であった方の御子息と嫁であられるであろうか。故入道殿の御志を継いで、国主も用いていない法華経を信仰されるのみならず、法華経の行者である日蓮を養われて、毎年毎年千里の道を行き来して御供養を届けられている。 幼くして亡くなられた娘御前の十三年忌には、一丈六尺の卒塔婆を建立し、その表面に南無妙法蓮華経の七文字を書き顕わして追善供養された。北風が吹けば、その南の海の魚類はその風にあたって大海の苦悩を離れ、東風が来れば西の山の鳥や鹿は、その風を身に触れて畜生道をまぬかれて、都率の内院に生まれるであろう。畜生ですらこのようであるから、まして、この卒塔婆の建立を喜び、手を触れて眼に見る人々の功徳がどれほど偉大であることか。 亡き父母もこの卒塔婆の功徳によって、天の日月のように、浄土への道を明るく照らされているであろう。また、孝養の人にあたるあなた自身並びに妻子は現世には百二十年までも長生きして、後生には父母と共に霊山浄土に行かれるであろことは、水が澄めば月が映り、鼓を打てば響きが伴うように間違いのないことだと確信しなさい。これより後々の卒塔婆にも法華経の題目を書き顕しなさい。 弘安二年己卯十一月卅 日身延山 日蓮花押 中興入道殿女房是 |