上野殿御返事  弘安二年一一月六日  五八歳

別名『竜門御書』

 

第一章 成仏の難きを竜門の滝に譬える

(★1427㌻)
 唐土に竜門と申すたき()あり。たか()き事十丈、水の下ることがっ()ぴゃう()()いを(射落)とすよりもはや()し。このたきにをゝ()くのふな()あつ()まりてのぼ()らむと申す。ふなと申すいを()ののぼりぬれば、りう()となり候。百に一つ、千に一つ、万に一つ、十年廿年に一つものぼる事なし。或ははや()()にかへり、或いははし()たか()とび()ふくろう()にくらわれ、或は十丁のたきの左右に漁人(いおとるもの)どもつら()なりゐて、或はあみ()をかけ、或は()みとり、或いは()()るものもあり。いを()りう()となる事かくのごとし。
 
 中国に竜門という滝がある。滝の高さは十丈、落ちる水の早さは強い兵が矢を射落とすよりも早い。この滝のもとに多くの鮒が集まって登ろうとする。鮒という魚は滝を登れば竜になるからである。しかし百に一つ、千に一つ、万に一つ、あるいは、十年・二十年に一つも登ることができない。あるいは、滝の落ちるのが余りに急なので、川の瀬に返され、或いは鷲・鷹・鳶・梟などに食べられ、或は十丁の滝の幅の左右に漁人が並んで、或いは網をかけたり、すくいとったり、或いは射てとったりするからである。魚が竜となることは、このように難しいことなのである。

 

第二章 成仏の難きを地下の者の昇殿に譬う

 日本国の武士の中に源平二家と申して、王の(かど)(まも)りの犬二(ひき)候。二家ともに王を守りたてまつる事、やま()かつ()が八月十五夜のみね()より()づるをあい()するがごとし。てん(殿)じゃう()なん()にょ()のあそぶをみては、月と星とのひかり()()わせたるを、木の上にてさる()あい()するがごとし。    日本国の武士のなかに源平二家というのがあって天皇の御所の門守りの犬の役目を果たしていた。両家ともに天皇をお守りすること、ちょうど山人が八月十五夜の月が山の峰から出てくるのを愛するようであった。殿上の男女の遊ぶのを見ては、月と星が光をあわせてきらめいているのを、猿が木の上でうらやましく眺めているようなありさまであった。 
 かゝる身にてはあれども、いかんがして我等てん(殿)じゃう()まじ()わりをなさんとねがいし程に、平氏の中に貞盛(さだもり)と申せし者、将門(まさかど)を打ちてありしかども、昇でんをゆるされず、其の子正盛(まさもり)又かなわず。其の子忠盛(ただもり)が時、始めて昇でんをゆるさる。其の後清盛(きよもり)重盛(しげもり)等、てん(殿)じゃう()にあそぶのみならず、月をうみ、日をいだ()()となりにき。    このような地下の身分の者ではあったが、何と化して自分達も昇殿を許されて、殿上の交わりをしたいと願っていた。平氏のなかで貞盛という人は将門を討ったけれども昇殿は許されなかった。貞盛の子孫・正盛もまた叶わず、正盛の子で、貞盛から数えて六代目の忠盛の時に初めて昇殿を許されたのである。その後、清盛・重盛等は殿上で遊ぶだけではなく、月を生み(娘を天皇の妃にしたこと)、日を抱く(自分の娘の子が天皇になったこと)身分にまでなったのである。 
 仏になるみち()、これにをと()るべからず。いを()の竜門をのぼり、地下(じげ)の者のてん(殿)じゃう()へまいるがごとし。    凡夫が仏になる道は、これに劣るものではない。魚が竜門を登って竜となり、地下の者が殿上人となるようなものである。

 

第三章 信心退転の例を挙げ成仏の難きを述ぶ

 身子(しんし)と申せし人は、仏にならむとて六十劫が間菩薩の行を()てしかども、こら()へかねて二乗の道に入りにき。大通結縁(だいつうけちえん)の者は三千塵点劫(じんでんごう)久遠(くおん)下種(げしゅ)の人の五百塵点劫生死にしづ()みし、此等は法華経を行ぜし程に、第六天の魔王、国主等の身に入りて、とかうわづ()らわせしかばたい(退)して()てしゆへに、そこ()ばく()の劫に六道にはめぐ()りしぞかし。    舎利弗という人は仏になろうと誓願して、六十劫という長い間、菩薩の行を積み重ねたが、耐えられず退転して、二乗の道に堕ちたのである。大通智勝仏の第十六王子によって法華経の縁を結んだ者は、退転して三千塵点劫という長い間、また、久遠に法華経の下種を受けた者は五百塵点劫というきわめて長い間、生死の大海に沈んだのである。これらの者は、法華経を修行していた時に、第六天の魔王が国主等の身に入って、さまざまに障りをなしたので、退転して法華経を捨て、長い間、六道を輪廻したのである。

第四章 不惜身命の大願を起すよう勧める

(★1428㌻)
 かれ()は人の上とこそみしかども、今は我等が()にかゝれり。願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年(こぞ)去々(おと)(とし)やく()びゃう()に死にし人々のかずにも入らず、又当時蒙古(もうこ)()めにまぬ()かるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。其の時のなげ()きはたう()()のごとし。をなじくはかり()にも法華経のゆへに命をすてよ。つゆ()を大海にあつらへ、ちり()を大地に()づむとをもへ。法華経の第三に云はく「願はくは此の功徳を以て(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。恐々謹言。
  十一月六日    日蓮 花押 
 上野賢人殿御返事
 
 これらのことは、今まで他人の身の上のことであると思っていたけれども、今は我らの身にかかっているのである。願わくは、我が弟子等、大願を起こせ。去年や一作年の疫病で死んだ人々の数には入らなかったにしても、現在、蒙古が攻めてきた時、死を免れることができるとは思えない。ともかく、死は一定なのである。その時の嘆きは現在の迫害の苦しみと同じである。同じことなら、かりにも法華経のために命を捨てよ。これこそ、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものであると思いなさい。法華経第三巻の化城喩品第七に「願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」と説かれているとおりである。
  十一月六日    日蓮 花押
 上野賢人殿御返事

 

第五章 追伸

 此はあつ()わら()の事のありがたさに申す御返事なり。
   この手紙は、熱原法難で、あなたの活躍のありがたさに書いた返事である。