寂日房御書  弘安二年九月一六日  五八歳

 

第一章 上行菩薩の確信を述べる

(★1393㌻)
 是まで御をとづれかたじけなく候。
 夫人身をうくる事はまれなり。已にまれなる人身をうけたり。又あひがたきは仏法、是又あへり。同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる。結句題目の行者となれり。まことにまことに過去十万億の諸仏供養の者なり。
 
 身延の山中まで使いを遣わされて、お便りをうださり、かたじけなく思う。およそ人身を受けることはまれなのである。すでにまれ人身を受けている。また、ありがたきは仏法であるが、これもまたあうことができた。同じ仏法のなかでも法華経の題目にあいたてまつり、結局、南無妙法蓮華経の題目の行者となった。まことにまことに過去世で十万億の諸仏を供養した方であろう。
 日蓮は日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり。八十万億那由他の菩薩は口には宣べたれども修行したる人一人もなし。不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり。父母となり其の子となるも必ず宿習なり。若し日蓮が法華経・釈迦如来の御使ひならば父母あに其の故なからんや。例せば妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の如し。釈迦・多宝の二仏、日蓮が父母と変じ給ふか。然らずんば八十万億の菩薩の生まれかわり給ふか。又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か。不思議に覚え候。    日蓮は日本第一の法華経の行者である。法華経勧持品の二十行の偈の文はすでに日本国のなかでは日蓮一人が読んだのである。八十万億那由佗の菩薩は、口ではこの偈を宣べたけれども修行した人は一人もいない。このような不思議の日蓮を産んだ父母は日本国の一切衆生の中では大果報の人である。父母となりその子となるのも必ず宿習なのである。もし日蓮が法華経と釈迦如来の御使ならば、父母にもどうして深い宿縁がないことがあろうか。
 例えば妙荘厳王・浄徳夫人と浄蔵・浄眼のようなものである。釈迦・多宝の二仏が、日蓮が父母と変じられたのであろうか。そうでなければ八十万億の菩薩が生まれ変わられたのであろうか。また、上行菩薩等の四菩薩のなかの垂迹であろうか。不思議に覚えるのである。
 
 一切の物にわたりて名の大切なるなり。さてこそ天台大師、五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし。かやうに申せば利口げに聞こえたれども、道理のさすところさもやあらん。経に云はく「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ。「斯人行世間」の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。
 
 およそ一切の物にわたって名は大切なものである。だからこそ天台大師は五重玄義の初めに名玄義を解釈されている。私が日蓮と名乗ることは自解仏乗ともいうべきである。このようにいえば利口げに聞こえるけれども、道理の指すところそういうこともあるであろう。法華経如来神力品第二十一に「日月の光明が能く諸の幽冥を除くように、斯の人は世間に行じて能く衆生の闇を滅する」とある。この文をよくよく考えなさい。「斯人行世間」の五つの文字は、上行菩薩が末法の初めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字七字の光明をさしいだし、無明煩悩の闇をてらすであろうということである。 
 日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、
(★1394㌻)
日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり。此の山にしてもをこたらず候なり。今の経文の次下に説いて云はく「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」云云。
   日蓮はこの上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経を受け持つようにと勧めてきたのはこのことである。
 この身延の山に入っても怠ってはいない。
 この経文の次下には「我が滅度の後においてまさに此の経を受持すべきである。この人は仏道において必ず成仏することは疑いない」と説かれている。

 

第二章 門下の弘通を勧む

 かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事不祥なり。まぬかれがたき身なり。彼のはんくわい・ちゃうりゃう・まさかど・すみともといはれたる者は、名ををしむ故に、はぢを思ふ故に、ついに臆したることはなし。同じはぢなれども今生のはぢはものゝかずならず。たゞ後生のはぢこそ大切なれ。獄卒だつえば・懸衣翁が三途の河のはたにて、いしゃうをはがん時を思し食して法華経の道場へまいり給ふべし。
   このような日蓮の弟子檀那となった人々は宿縁が深いと思って、日蓮と同じように法華経を弘めるべきである。法華経の行者といわれていることは、(様々な難に遭うと予証されるから)めでたくないことであるが、まぬかれ難い身である。
 あの樊噲や張良、平将門、藤原純友などは名声を惜しみ恥を思うために最後まで臆病な振舞いをしたことはなかった。同じ恥であっても今生の恥はたいしたことではない。ただ後生の恥こそ大切なのである。獄卒や奪衣婆が懸衣翁に三途の河のほとりで衣装をはがされる時の恥を思い合わせて、法華経の道場に参られるべきである。
 法華経は後生のはぢをかくす衣なり。経に云はく「裸者の衣を得たるが如し」云云。此の御本尊こそ冥途のいしゃうなれ。よくよく信じ給ふべし。をとこのはだへをかくさゞる女あるべしや。子のさむさをあわれまざるをやあるべしや。釈迦仏・法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ。日蓮をたすけ給ふ事、今生の恥をかくし給ふ人なり。後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし。    法華経は後生の恥をかくす衣である。法華経薬王菩薩本事品第二十三に「裸者の衣を得たようなものである」とある。この御本尊こそ、冥途の恥をかくす衣装であるからよくよく信心されるべきである。
 夫の膚をかくそうとしない妻がいるだろうか。子供の寒さをあわれと思わない親がるだろうか。釈迦仏・法華経は妻と親のようなものなのである。日蓮に供養し、身をたすけてくださることは、私の今生の恥をかくしてくださる人であるから、後生は日蓮があなたの恥をお隠しするだろう。
 昨日は人の上、今日は我が身の上なり。花さけばこのみなり、よめのしうとめになる事候ぞ。信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱へ給ふべし。度々の御音信申しつくしがたく候ぞ。此の事寂日房くわしくかたり給へ。
 九月十六日                     日蓮花押
   昨日は人の上、今日は我が身の上である。花が咲けば必ず実がなり、嫁はやがて姑になることは疑いないことである。信心を怠らず南無妙法蓮華経とお唱えなさい。たびたびのお便りをくださり、いい尽くせない思いです。このことについて寂日房に詳しく語ってあげなさい。
 九月十六日          日蓮花押