上野殿御返事   弘安二年八月八日  五八歳

別名『財御書』

 

第一章 供養の品々の尊さを述べる

(★1379㌻)
 鵞目(がもく)一貫・しお(ひと)たわら・蹲鴟(いものかしら)一俵・はじかみ()少々、使者(つかい)をもて送り()び了んぬ。
 あつきには水を(たから)とす。さむきには火を財とす。けかち(飢渇)には米を財とす。いくさ()には兵杖を財とす。海には船を財とす。山には馬をたからとす。武蔵・下総には石を財とす。此の山中にはいゑのいも、海のしほを財とし候ぞ。竹の子・木の子等候へども、しほなければそのあぢ()わひつち()のごとし。又(こがね)と申すもの国王も財とし、民も財とす。たとへば米のごとし。一切衆生のいのちなり。ぜに()又かくのごとし。漢土(もろこし)に銅山と申す山あり。彼の山よりいでて候ぜに()なれば、一文も千文もみな三千里の海をわたりて来たるものなり。万人皆たま()とおもへり。此を法華経にまいらせさせ給ふ。
 
 鵞目一貫文、塩一俵・里芋一俵・薑(生姜)少々を使者を立てられて送っていただいた。
 暑い時には水を財とし、寒い時には火を財とする。飢饉には米を財とし、戦いには武器を財とする。海では船を財とし、山では馬を財とす。武蔵や下総では石を財とする。これらと同じように、この身延の山中では里芋や海の塩を財とするのである。筍や茸は沢山あっても、塩がなければその味は土をかむようなものである。
 また金というものは国王も財とし、民も財とする。たとえば米のようなものである。一切衆生の命である。銭もまた同様である。中国に銅山という山がある。この銅山で産出された銭であるならば、一文の銭もすべて三千里の海をわたって日本に来るのである。万人がこれを珠(宝)だと思って大事にしている。あなたはこの銭を法華経に供養されたのである。

 

第二章 法華経の功力を述べ信心を勧める

(★1380㌻)
 釈まなん(摩男)と申せし人のたな()心には石変じて珠となる。金ぞく()王は(いさご)(こがね)となせり。法華経は草木を仏となし給ふ。いわうや心あらん人をや。法華経は焼種(しょうしゅ)の二乗を仏となし給ふ。いわうや生種(しょうしゅ)の人をや。法華経は一闡提(いっせんだい)を仏となし給ふ。いわうや信ずるものをや。事々つくしがたく候。又々申すべし。恐々謹言。
  八月八日    日蓮 花押
 上野殿御返事
 
 昔、釈摩男という人は、手にとった石を珠に変え、金栗王は砂を金としたのである。法華経は心のない草木を仏とするのである。まして、心ある人間はなおさらのことである。
 また、法華経は仏となる種を焼いたとされている声聞・縁覚の二乗を仏とするのである。まして、生きた種をもつ人はなおさらのことである。法華経は不信の一闡提を仏とするのである。まして法華経を信ずる者はなおさらのことである。そのほか申し上げたいことがあるが、また、後日申し上げよう。恐恐謹言。
  八月八日    日蓮 花押
 上野殿御返事