大白法・令和7年11月1日刊(第1160号より転載)御書解説(283)―背景と大意
別名『与富木氏書』
一、御述作の由来
本抄は、弘安二(1279)年五月十七日、日蓮大聖人様が御年五十八歳の時、身延において認められ、、下総国葛飾郡八幡庄若宮(現在の千葉県市川市)の富木常忍に与えられた御書です。内容は、先に常忍から寄せられた質間や近況報告に対する返書で、御真蹟は現存しません。
『兵衛志殿御返事』(御書1295頁)などによれば、大聖人様は建治三(1277)年の末頃から下痢の病に悩まされていました。一時は四条金吾の投薬によって改善したものの、本抄末尾の記述から、いまだ御体調が優れないなか、無理を押して筆を執られたことがわかります。
また、本抄には太田乗明の周辺の者が抱いていた迹門無得道義(法華経述門では成仏できないとする考え)に言及されますが、四年前の建治元年に常忍と同じ下総の壇越・曾谷教信に宛てられた 『観心本尊得意抄』(御書914頁)でも、大聖人様は述門無得道の義を誡められており、本抄との関連がうかがえます。
二、本抄の大意
まず、常忍からの白小袖、薄墨の衣と袈裟、銭一貫文の御供養に対し、その志を賞讃されます。次いで、大きく三つの内容について述べられています。
一つ目には、本門久遠実成の教主釈尊の仏像と、その脇士としての地涌の四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)の像をいつ造立すればよいかという常忍からの質問に対して、大聖人様は、法華経の経文を拝見すれば、末法の闘諍堅固の時でなければ、それらの像を造ってはならないことは明らかであると仰せです。
このことから、仏滅後二千余年の間にインド・中国・日本のほか全世界においても、それらの像を造立して本尊とした寺はいまだーカ所もないと述べられます。そして、正法・像法時代の論師や人師がこのことに言及しなかったのは、霊鷲山における釈尊の禁めがあったからであると、その理由を明かされています。
しかし、今は末法の時代にあたり、釈尊の金言の通りであれば、本仏・本脇士を造るべき時であり、地涌の菩薩も、やがて出現されるであろうと示されます。
また、この時に法華経を弘める日蓮は、世間的に見れば日本第一の貧しい者であるけれども、仏法の上からは一閻浮提第一の富める者であると述べられています。
二つ目には、太田方の人々が、「末法では一向に本門のみに得道があって述門には得道がないと主張している」とのことに触れられ、破折を加えられています。
まず、本門と述門の勝劣は仏法流布の時と機根とによるのであり、仏の滅後、末法の始めは正には本門、傍には述門を用いるべき時であると、太田方の義を糾されています。
加えて、迹門の読誦を捨てて本門に限定する人々は、いまだ日蓮の本意の法門を知らないので無間地獄に堕してしまうと嘆かれつつ、総じて日蓮の弟子といって法華経を修行する人々は日蓮のようにしなさいと訓誠されています。
三つ目には、常忍の関係者と思われる日行房の死去の報に触れ、法華経による追善回向をなされることなどを述べられて、本抄を結ばれています。
三、拝読のポイント
末法出現の御本尊
富木常忍の仏像造立時期の質問は、文永十(1273)年に賜った『観心本尊抄』の、
「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、(中略)末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(御書654頁)
を受けたものと考えられます。
常忍はこの御文を「末法は釈尊や多宝仏に加えて、滅後の法華経弘通を釈尊より付嘱された上行等の四菩薩を脇士として造立することを書かれたもの」と誤解し、末法のいつ頃に造立すべきかを大聖人様に質問したのです。しかし「仏像出現」の御正意とは、総本山第二十六世日寛上人が『観心本尊抄文段』(御書文段243頁等)に御指南のように、外用は地涌上行菩薩の再誕、内証は久遠元初の自受用身・末法の御本仏であらせられる日蓮大聖人様の出現を明かされたものです。断じて画像や木像の仏像を建立せよ、という意ではありません。
ですから、本抄の、
「やがて地涌の菩薩が出現するであろうから、その時こそ四菩薩を建立すべきである(趣意)」
との御教示は、仏像造立に固執する常忍の見解を対機説法(人々の機根に応じて法を説くこと)の上から、一往肯定して当面の仏像造立を禁止されつつ、再往は、地涌の菩薩とは末法出現の大聖人様御自身であるから造像は必要ないとの御内意を示された御文と拝すべきなのです。
そもそも、末法の一切衆生が信受すべき御本尊とは、『経王殿御返事』に、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書685頁)
と仰せのように、御本仏大聖人様の御魂をそのまま書き顕わされた、人法一箇の南無妙法蓮華経の大漫茶羅に他なりません。それは、大聖人様御自らは一体の釈尊像すら造立されていない事実や、御所持されていた釈尊像を御入滅後は墓所の傍らに立て置けと御遺言(御書1866頁)されたことなどからも明らかです。
血脈相伝の大事
本抄を拝すると、常忍は数多くの重要な御書を与えられながらも、大聖人様を末法の御本仏であると理解するには至らなかったさまがうかがえます。その理由を総本山第六十七世日顕上人は、
「やはり人にはそれぞれのお役目があるのです。末法万年の一切衆生救済のために、『観心本尊抄』の真の意義の相伝を承ける方は日興上人様なのであります。また、むしろ、他の弟子には信解できない故に、大聖人様は日興上人以外には真の血脈を伝えることができなかったのです」(大日蓮569号)
と、常忍は『観心本尊抄』などの御書を後代に伝える役目こそ負ったものの、末法出現の御本尊の正意を信解できず、それができたのは大聖人様から唯授一人の相伝をお受けになられた第二祖日興上人ただ御一人であると御指南です。
相伝とは、『一代聖教大意』に、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書92頁)
と示されるように、教えを師から弟子へ正しく伝受することであり、相伝なくして仏法の正しい理解は得られません。
常忍のほか、日昭や日朗などの五老僧までもが大聖人滅後に己義・邪見を構えるようになったのは、ひとえに血脈相伝がなかったことによります。
対して、日興上人は血脈付法の大導師として、大聖人様の御法門を寸分も違えることなく、門下を教化・教導されました。それは大聖人様を末法の御本仏と拝すのはもちろんのこと、『富士一跡門徒存知事』(御書1872頁)では妙法蓮華経の五字を御本尊と仰ぎ、また『五人所破抄』(御書1881頁)には所破・借文の二義の上から迹門方便品を読論するよう御指南されていることからもわかります。
この、師から弟子への相伝の血脈は日興上人以降、御歴代上人を経て、現在では御法主日如上人貌下に一糸も乱れることなく、正しく受け継がれています。ゆえに、師弟相対して正しく伝持されてきた血脈相伝の仏法を尊信し、時の御法主上人の御指南を拝することで、大聖人の御法門を正しく学ぶことができるのです。
四、結 び
御法主日如上人狽下は、
「末法の一切衆生は、宗祖日蓮大聖人様を久遠元初の御本仏と仰ぎ奉り、大聖人様が御建立あそばされた人法一箇の大御本尊を帰命依止の本尊と崇め、至心に妙法を唱え、自行化他にわたる信心を行じていくところに、必ずや自らの幸せと多くの人及の幸せを実現し、真の世界平和を築くことができるのであります」(大白法1144号)
と御指南です。
他門日蓮宗などでは本抄を依拠として、一尊四士(久成釈尊と四菩薩)や二尊四士(釈尊・多宝仏と四菩薩)の仏像を拝みますが、このような本尊義は、大聖人様の御正意を曲解したものといえます。
私たちは大聖人様の甚深の御法門の内容を、一文・一端に固執して我見で判断するのではなく、血脈付法の御歴代上人の御指南を拠り所としてその御本意を正しく理解し、末法の現在では本門戒壇の大御本尊こそ帰命依止の御本尊であると心に刻み、自行化他にわたる信行に励んでいくことが何よりも肝要なのです。