神国王御書   弘安元年  五七歳

 

第一章 仏教渡来以前の日本国の相を述る

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 夫以れば日本国を亦水穂の国と云ひ、亦野馬台、又秋津島、又扶桑等云云。六十六国・二島、已上六十八箇国。東西三千余里、南北は不定なり。此の国に五畿七道あり。五畿と申すは山城・大和・河内・和泉・摂津等なり。七道と申すは東海道十五箇国・東山道八箇国・北陸道七箇国・山陰道八箇国・山陽道□□国・南海道六箇国、西海道十一箇国、亦鎮西と云ひ、又太宰府云云。已上此は国なり。
 
 つらつら考えてみると、日本国をまた水穂の国といい、また野馬台、また秋津島、また扶桑等という。六十六ヵ国と壱岐・対馬の二島をあわせて六十八ヵ国であり、東西は三千余里、南北は定まっていない。
 この日本国に五畿七道がある。五畿というのは山城(京都南部)・大和(奈良)・河内(大阪)・和泉(大阪南部)摂津(大阪の一部と兵庫の一部)等の国である。七道というのは東海道十五ヵ国・東山道八ヵ国・北陸道七ヵ国・山陰道八ヵ国・山陽道八ヵ国・南海道六ヵ国・西海道十一ヵ国・西海道はまた鎮西ともいい、また太宰府ともいう。以上は国である。
 国主をたづぬれば神世十二代、天神七代地神五代なり。天神七代の第一は国常立尊、乃至第七は伊奘諾尊男なり、伊奘冊尊妻なり。地神五代の第一は天照大神、伊勢大神宮日の神是なりいざなぎ・いざなみの御女なり。乃至第五は彦波瀲武草葺不合尊此の神は第四のひこほの御子なり。母は竜女なり。 已上地神五代。已上十二代は神世なり。    国主についてみれば、神世十二代は天神七代・地神五代である。天神七代の第一代は国常立尊であり、第七代は伊奘諾尊と妻の伊奘册尊である。地神五代の第一代は天照太神である。伊勢太神宮の日の神がこれである。伊奘諾尊と伊奘册尊の娘である。第五代彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊であり、この神は第四代の彦火出見尊の御子である。母は海神の娘の豊玉姫である。以上が地神五代であり、これらの十二代は神世であった。
 人王は大体百代なるべきか。其の第一の王は神武天皇、此はひこなぎさの御子なり。乃至第十四は仲哀天皇八幡御父なり、第十五は神功皇后八幡御母なり、第十六は応神天皇、仲哀と神功の御子にして今の八幡大菩薩なり。乃至第二十九代は宣化天皇なり。此の時までは月氏漢土には仏法ありしかども、日本国にはいまだわたらず。    人王についてみれば、今上天皇までおよそ百代といえようか。人王第一代の王は神武天皇である。この王は第五代の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の御子である。第十四代は仲哀天皇で八幡大菩薩父である。第十五は神功皇后で八幡大菩薩の母である。第十六代は応神天皇で仲哀と神功の御子であり今の八幡大菩薩である。第二十九代は宣化天皇である。この天皇の時代までインド・中国に仏法はあったけれども、日本国には、まだ伝わっていなかった。

 

第二章 仏教渡来の経緯を示す

 第三十代は欽明天皇、此の皇は第廿七代の継体の御嫡子なり。治卅二年、此の皇の治十三年壬申十月十三日辛酉、百済国の聖明皇、□□の釈迦仏を渡し奉る。今日本国の上下万人一同に阿弥陀仏と申す此なり。其の表文に云はく「臣聞く、万法の中には仏法最も善し、世間の道にも仏法最も上なり。天皇陛下亦応に修行あるべし。故に敬って仏像・経教・法師を捧げて使ひに附して貢献す。宣しく信行あるべき者なり」已上。然りといへども欽明・敏達・用明の三代三十余年は崇め給ふ事なし。其の間の事さまざまなりといへども、
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其の時の天変地夭は今の代にこそにて候へども、今は亦其の代にはにるべくもなき変夭なり。
   第三十代は欽明天皇である。この天皇は第二十七代の継体天皇の皇太子である。治世は三十二年に及んだ。この天皇の治世の十三年年十月十三日に、百済国の聖明皇から金銅の釈迦仏が送られてきた。今の日本国の上下万人が阿弥陀仏といっているのがこの釈迦像である。
 その上表文に「私が聞くには、万法のなかでは仏法は最善の法であり、世間の道でも仏法が最上の道であります。天皇陛下もこの仏法を修行なさるべきであります。それゆえにつつしんで仏像・経文・僧侶を使いに託して献上致します。宜しく仏法を信仰していただきたいと思います」。
 しかし欽明・敏達・用明天皇の三代・三十余年は尊崇されることはなかった。
 その間さまざまなことがあったが、その時の天変・地夭は今の時代に似てはいたが、今の天変・地夭はその時のものと比べることができないほど大きな災いなのである。
 第卅三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて、第卅四代推古天皇の御宇に盛んにひろまり給ひき。此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡りて候ひき。此の三論宗は月氏にても漢土にても日本にても大乗の宗の始めなり。故に宗の母とも、宗の父とも申す。人王三十六代に皇極天皇の御宇に禅宗わたる。人王四十代天武の御宇に法相宗わたる。人王四十四代元正天皇の御宇に大日経わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給ふ。人王四十六代孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる。しかりといへども、唯律宗計りを弘めて、天台法華宗は弘通なし。    第三十三代の崇峻天皇の治世から仏法は我が国に尊崇されて、第三十四代の推古天皇の治世に盛んに弘まった。
 この時三論宗と成実宗という宗が初めて我が国に渡来した。この三論宗はインドにあっても中国にあっても日本にあっても大乗宗の初めである。ゆえに宗の母とも宗の父ともいう。
 人王三十六代・皇極天皇の治世に禅宗が渡った。人王四十代・天武天皇の治世に法相宗が渡った。人王四十四代・元正天皇の治世に大日経が渡った。人王四十五代に聖武天皇の治世に華厳宗を弘通された。人王四十六代・孝謙天皇の治世に律宗と法華宗とが渡ったが、律宗ばかりを弘めて天台法華宗の弘通はなかった。 

 

第三章 伝教大師の弘通を述べる

 人王第五十代に最澄と申す聖人あり。法華宗を我と見出だして、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗等の六宗をせめをとし給ふのみならず、漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり。同じき御宇に漢土にわたりて四宗をならいわたし給ふ。所謂法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗なり。しかりといへども法華宗と律宗とをば弘通ありて禅宗をば弘め給はず。真言宗をば宗の字をけづり、たゞ七大寺等の諸僧に灌頂を許し給ふ。然れども世間の人々はいかなる故という事をしらず。当時の人々の云はく、此の人は漢土にて法華宗をば委細にならいて、真言宗をばくはしく知ろし食さざりけるかとすいし申すなり。    人王第五十代桓武天皇の治世に最澄という聖人があらわれた。法華宗を自ら見い出だし、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗等の六宗を責め落とされたばかりでなく、中国に大日宗という宗があることを知っておられた。同じ桓武天皇の治世に中国に渡って四宗を修学して日本に伝えられた。法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗がこれである。
 しかし、法華宗と律宗とは弘通されたが、禅宗は弘められなかった。真言宗については宗としては立てず、七大寺等の僧達に潅頂を許されたのである。
 しかし、世間の人々は伝教大師がどうしてそのようにされたかを知らず、今の人々は「この人は中国で法華経については詳しく修学したが、真言宗は余り詳しく学ばれなかったのであろうか」と推測している。

 

第四章 真言伝来の経緯を述べる

 同じき御宇に空海と申す人漢土にわたりて真言宗をならう。しかりといへどもいまだ此の御代には帰朝なし。人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり。五十二代嵯峨の天皇の御宇に弘仁十四年癸卯正月十九日に、真言宗の住処東寺を給ひて護国教王院とがうす。伝教大師御入滅の一年の後なり。    同じ桓武天皇の治世に空海という人が中国に渡って真言宗を修学した。しかし、桓武帝の治世には帰国しなかった。人王第五十一代の平城天皇の治世に帰朝した。そして五十二代の嵯峨天皇の治世の弘仁十四年癸卯正月十九日に、真言宗の道場として東寺を下賜され、護国教王院と号した。伝教大師御入滅の一年後ことである。
 人王五十四代仁明天皇の御宇に円仁和尚漢土にわたりて、重ねて法華真言の二宗をならいわたす。人王五十五代文徳天皇の御宇に仁寿と斉衡とに、金剛頂経の疏、蘇悉地経の疏已上十四巻を造りて、大日経の義釈に並べて真言宗の三部とがうし、比叡山の内に総持院を建立し、真言宗を弘通する事此の時なり。
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叡山に真言宗を許されしかば、座主両方を兼ねたり。しかれども法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとくといゝしかば、諸人等は真言宗はすこし勝れたりとをもいけり。しかれども座主は両方を兼ねて兼学し給ひけり。大衆も又かくのごとし。
   人王五十四代の仁明天皇の治世に円仁和尚が中国に渡って再び法華宗・真言宗の二宗を修学して伝えた。
 人王五十五代・文徳天皇の治世の仁寿と斉衝年間に金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経の疏七巻の合わせて十四巻の疏を造って大日経の義釈に並あわせて真言宗の三部と号し、また比叡山のなかに総持院を建立して真言宗を弘通し始めたのはこの時からである。
 比叡山で真言宗が許されたので、座主は法華・真言の両方を兼ねた。
 しかし「法華宗は月のようであり、真言宗は太陽のようである」といったので、人々は真言宗は法華宗より少し勝れていると思ったのである。それでも座主が法華・真言を兼学していたので比叡山の大衆も同じようにした。
 同じき御宇に円珍和尚と申す人御入唐、漢土にして法華・真言の両宗をならう。同じき御代に天安二年に帰朝。此の人は本朝にしては叡山第一の座主義真・第二の座主円澄・別当光定・第三の座主円仁等に法華・真言の両宗をならいきわめ給ふのみならず、又東寺の真言をも習ひ給へり。其の後に漢土にわたりて法華・真言の両宗をみがき給ふ。今の三井寺の□華・真言の元祖智証大師此なり。已上四大師なり。    同じ文徳天皇の治世に円珍和尚という人が中国に渡って、法華・真言の二宗を修学し、同じ治世の天安二年に帰朝した。
この円珍和尚は、日本国では比叡山第一の座主義真・第二の座主円澄・また別当光定・第三の座主円仁等から法華・真言の二宗を習い究めたばかりでなく、さらに東寺の真言をも習学したのである。その後に中国に渡って法華・真言の二宗をさらに研究した。それが今の三井寺の法華・真言の元祖である智証大師なのである。以上が世にいう四大師である。
 総じて日本国には真言宗に又八家あり。東寺に五家、弘法大師を本とす。天台に三家、慈覚大師を本とす。    およそ日本国には真言宗に八家がある。東寺に五家は弘法大師を祖とし、天台に三家は慈覚大師を祖とする。

 

第五章 「真言亡国」の現証を示す

 人王八十一代をば安徳天皇と申す。父は高倉院の長子、母は太政入道の女建礼門院なり。此の王は元暦元年乙巳三月廿四日八島にして海中に崩じ給ひき。此の王は源頼朝将軍にせめられて海中のいろくづの食となり給ふ。人王八十二代は隠岐法皇と申す。高倉の第三王子、文治元年丙午御即位。八十三代には阿波院、隠岐法皇の長子、建仁二年に位に継き給ふ。八十四代には佐渡院、隠岐法皇の第二王子、承久三年辛巳二月廿六日に王位につき給ひ、同じき七月に佐渡のしまへうつされ給ふ。此の二・三・四の三王は父子なり。鎌倉の右大将の家人義時にせめられさせ給へるなり。    人王八十一代を安徳天皇という。父は高倉天皇でその長男であり、母は太政入道の平清盛の娘の建礼門院である。安徳天皇は元暦元年三月二十四日、八島で海中に崩じられた。安徳天皇は将軍の源頼朝に追われて、海の魚の餌食となられてしまったのである。
 人王八十二代は隠岐の法皇という。高倉天皇の三男での文治元年に即位された。
 人王八十三代は阿波の院である。隠岐法皇の長男で、建仁二年に王位を継がれた。
 人王八十四代は佐渡の院で、隠岐の法皇の二男である。承久三年二月二十六日に王位につかれた。同じ年の七月に佐渡の島に移された。この八十二・三・四の三人の王は父と子である。鎌倉の右大将の家人・北条義時に攻められ、それぞれの島に送られたのである。

 

第六章 仏神尊崇の在り方を問う

 此に日蓮大いに疑って云はく、仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり。三界の諸王は皆此の釈迦仏より分かち給ひて、諸国の総領・別領等の主となし給へり。故に梵釈等は此の仏を或は木像、或は画像等にあがめ給ふ。須臾も相背かば梵王の高台もくづれ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかほり落ち給ふべし。神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとくあがめ給う。
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此又国王・国人のための父母なり、主君なり、師匠なり。片時もそむかば国安穏なるべからず。此を崇むれば国は三災を消し七難を払ひ、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給ふべし。
   ここに日蓮大いに疑って言う。
 仏というのは三界の国主であり、大梵天王・第六天の魔王・帝釈天王・日月天・四天王・転輪聖王および諸王の師であり主であり親である。三界の諸王はみなこの釈迦仏から分けてもらって諸国の総領・別領等の主君となったのである。それゆえに梵天・帝釈等は釈尊をあるいは木像に刻み、あるいは画像等に画いて尊崇されるのである。もしわずかでも釈尊に背くならば、梵天王の高台も崩れ、帝釈の喜見城も破れ、天輪聖王の王冠も地に落ちるであろう。
 また神というものは、国々の国主等が崩去されたのを生身のように尊崇しているものである。
 神もまた国王や国の人々にとっての父母であり、主君であり、師匠なのである。もしわずかでも神に背くならば国が安穏であるはずがない。神を尊崇するならば、国は三災を消滅し七難を打ち払い、人々は病なく長寿を持ち、後生には人天・三乗・仏となるであろう。

 

第七章 仏神の守護のない理由を糺す

 しかるに我が日本国は一閻浮提の内、月氏漢土にもすぐれ、八万の国にも超えたる国ぞかし。其の故は月氏の仏法は西域等に載せられて候、但七十余箇国なり。其の余は皆外道の国なり。漢土の寺は十万八千四十所なり。我が朝の山寺は十七万一千三十七所。此の国は月氏漢土に対すれば、日本国に伊豆の大島を対せるがごとし。寺をかずうれば漢土月氏にも雲泥にすぎたり。かれは又大乗の国・小乗の国、大乗も権大乗の国なり。此は寺ごとに八宗十宗をならい、家々宅々に大乗を読誦す。彼の月氏漢土等は仏法を用ゆる人は千人に一人なり。此の日本国は外道一人もなし。其の上神は又第一天照太神・第二八幡大菩薩・第三は山王等三千余社、昼夜に我が国をまぼり、朝夕に国家を見そなわし給ふ。其の上天照太神は内侍所と申す明鏡にかげをうかべ、内裏にあがめられ給ひ、八幡大菩薩は宝殿をすてゝ主上の頂を栖とし給ふと申す。仏の加護と申し、神の守護と申し、いかなれば彼の安徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は相伝の所従等にせめられて、或は殺され、或は島に放たれ、或は鬼となり、或は大地獄には堕ち給ひしぞ。    我が日本国は、一閻浮提において、インド、中国にもすぐれ、八万の無量の国々にも超過している国である。
 その理由は、インドで仏法が弘まったのは、西域記等に記載されているところによると、七十余国のみであり、それ以外はみな外道の国である。
 中国の寺院は十万八千四十か寺であり、我が国の山寺は十七万一千三十七か寺である。その国土の広さは日本をインド・中国に対すれば日本国に伊豆の大島を対するように、日本ははるかに小さい、それなのに寺の数においては、中国・インドを上回ること雲泥の差である。しかも、インド・中国は大乗の国・小乗の国が混在しており、その大乗も権大乗の国である。日本国は寺々で八宗・十宗を修学し、家々・宅々で大乗を読誦している。インド・中国等では仏法を用いる人は千人に一人である。この日本国には外道は一人もいない。
 そのうえ神についていえば、第一に天照太神、第二に八幡大菩薩、第三に山王権現等の三千余社の神々が、昼夜に我が国を守護し、朝夕に国家を見守られているのである。そのうえ天照太神は内侍所安置されている八咫鏡という明鏡に影を浮かべて尊崇され、八幡大菩薩は宝殿を出て天皇の頂を栖としているという。
 仏の加護といい、神の守護といい、このように篤いのに、どうして安徳天皇と隠岐の法王を阿波の院・佐渡の院等の天皇は代々仕えてきた臣下に攻められて、あるいは殺され、あるいは島に流され、あるいは鬼となり、あるいは大地獄に堕ちたのであろうか。

 

第八章 王位を追われた所以を問う

 日本国の叡山・七寺・東寺・園城等の十七万一千三十七所の山々寺々に、いさゝかの御仏事を行なふには皆天長地久・玉体安穏とこそいのり給ひ候へ。其の上八幡大菩薩は殊に天王守護の大願あり。人王第四十八代に高野天皇の玉体に入り給ひて云はく、我が国家開闢以来臣を以て君と為すこと未だ有らざる事なり。天之日嗣は必ず皇緒を立つ等云云。又大神、行教に付して云はく、我に百王守護の誓ひ有り等云云。    日本国の比叡山・南都七寺・東寺・園城寺等の十七万一千三十七の諸山・諸寺では、わずかな仏事を修するのにも、すべて「天長地久玉体安穏」を祈念している。それのみならず八幡大菩薩は、とくに天皇守護の大願を立てられている。人王第四十八代の高野天皇の玉体に入られて「我が国家開闢以来、一度として臣下を主君としたことはない。皇位には必ず皇統を立てねばならない」といい、また天照太神が行教に「我には百王守護の誓願がある」と御託宣になられているのである。
  されば神武天皇より已来百王にいたるまではいかなる事有りとも玉体はつゝがあるべからず、王位を傾くる者も有るべからず、一生補処の菩薩は中夭なし、聖人は横死せずと申す。いかにとして彼々の四王は王位ををいをとされ、国をうばわるゝのみならず、命を海にすて、身を島々に入れ給ひけるやらむ。
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天照大神は玉体に入りかわり給はざりけるか。八幡大菩薩の百王の誓ひはいかにとなりぬるぞ。
   したがって、神武天皇から百代の天皇にいたるまではどのようなことがあろうとも玉体に災いがあるはずがなく、王位を危うくする者もあるはずがない。一生補処の菩薩は中途で死ぬことはない。また聖人は横死することがないという。それなのに、どうして四人の天皇は王位を追い落され、国を奪われたのみでなく、命を海中に落とされ、身を島々に移されたのであろうか。
 天照太神は玉体に入り代わられなかったのか。
 八幡大菩薩の百王守護の誓願はどうなってしまったのであろうか。

 

第九章 王威の没落せる所以を問う

 其の上安徳天皇の御宇には、明雲座主御師となり、太上入道并びに一門怠状を捧げて云はく「彼の興福寺を以て藤氏の氏寺と為し、春日の社を以て藤氏の氏神と為せしが如く、延暦寺を以て平氏の氏寺と号し、日吉の社を以て平氏の氏神と号す」云云。叡山には明雲座主を始めとして三千人の大衆五壇の大法を行なひ、大臣以下家々に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺諸山には奉幣し、大法秘法を尽くさずという事なし。    そのうえ、安徳天皇の治世には、比叡山の明雲座主が御師となり、太上入道清盛ならびに平氏一門が願書を捧げた。そこには「かの興福寺を藤氏の氏寺とし、春日神社を藤氏の氏神としたように、延暦寺を平氏の氏寺とし、日吉神社を平氏の氏神とする」と述べている。比叡山には明雲座主をはじめ三千人の大衆が五壇の大法を行い、大臣以下の人々は家ごとに尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺・諸山には幣物を奉って、ありとあらゆる大法・秘法の祈禱を行ったのである。
 又承久の合戦の御時は天台座主慈円・仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催し、日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行なわれ給ふ。所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行なはる。天台座主は一字金輪法等。五月二日は仁和寺の御室、如法愛染明王法を紫宸殿にて行なひ給ふ。又六月八日御室、守護経法を行なひ給ふ。已上四十一人の高僧十五壇の大法。此の法を行なふ事は日本に第二度なり。権大夫殿は此の事を知り給ふ事なければ御調伏も行なひ給はず。又いかに行なひ給ふとも彼の法々彼の人々にはすぐべからず。仏法の御力と申し、王法の威力と申し、彼は国主なり、三界の諸王守護し給ふ。此は日本国の民なり、わづかに小鬼ぞまぼりけん。代々の所従、重々の家人なり。譬へば王威を用ひて民をせめば鷹の雉をとり、猫のねずみを食らひ、蛇がかへるをのみ、師子王の兎を殺すにてこそ有るべけれ。なにしにか、かろがろしく天神地には申すべき。仏菩薩をばをどろかし奉るべき。師子王が兎をとらむに精進をすべきか。たかがきじを食らはんにいのり有るべしや。いかにいのらずとも、大王の身として民を失はんには、大水の小火をけし、大風の小雲を巻くにてこそ有るべけれ。其の上大火に枯木を加ふるがごとく、大河に大雨を下すがごとく、王法の力に大法を行なひ合はせて、頼朝と義時との本命と元神とをば梵王と帝釈等に抜き取らせ給ふ。譬へば古酒に酔へる者のごとし、蛇の蝦の魂を奪ふがごとし。頼朝と義時との御魂・御名・御姓をばかきつけて諸尊諸神等の御足の下にふませまいらせていのりしかば、
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いかにもこらうべしともみへざりしに、いかにとして一年・一月も延びずして、わづかに二日・一日にはほろび給ひけるやらむ。仏法を流布の国の主とならむ人々は能く能く御案ありて、後生をも定め、御いのりも有るべきか。
   また承久の合戦の時は、天台の座主・慈円、仁和寺の御室の道助法親王、三井等の高僧を招き集めて、日本国に渡来した大法・秘法を残らず行われたのである。いわゆる承久三年四月十九日には十五壇の大修法が行われた。そのなかで天台の座主は一字金輪法等を行い、また五月二日は仁和寺の御室が如法愛染明王法を紫宸殿で行ったのである。また六月八日にも御室が守護経法を行ったのである。以上の四十一人の高僧等が、十五壇の大法を修したことは日本では二度目のことであった。
 権大夫北条義時は、この修法のことを知らなかったので、とくに調伏の修法も行わなかった。また、かりに行ったとしても、義時には、朝廷方が集めたほどの高僧、朝廷方が修したほどの大法・秘法を超えることはできるはずもなかった。
 仏法の力といい、王法の威力といい、朝廷方は国主であり、三界の諸王が守護されている。他方の義時は日本国の民にすぎず、わずかに小鬼神が守護しているのみである。代々、天皇の臣下であり、義時は天皇の臣下たる頼朝の家来なのである。たとえば、国王の威力で民を攻めるならば鷹が雉をとり、猫が鼠を食い殺し、蛇が蛙を呑み、師子王の兎を殺すようなものであって、どうして軽々しく天神・地祇に祈り、仏・菩薩を煩わす必要があろうか。師子王が兎を捕えるのに精進が必要であろうか。鷹が雉を食うのに何の祈りが必要であろう。どのような祈りがなくとも、国王の身として、民を罰するのは大水が小火を消し、大風が小雲を吹き払うようなものであるはずである。
 そのうえ、大火にさらに枯木を加えて火力を熾んにするように、大河にさらに大雨が降って水量が増すように、王法の力にさらに真言の大法を修して頼朝と義時との命と魂とを梵王・帝釈等に抜き取らせようとしたのである。たとえば古酒に酔った者の命を奪うようなものであり、蛇の蝦の魂を奪うようなものである。頼朝と義時との御魂・名・姓を書きつけて、諸仏・諸菩薩・諸神の足に踏ませて調伏を祈ったのであるから、ひとたまりもなく亡びるはずであったが、かえって朝廷方が一年・一月ももたにばかりか、わずか二日か一日で亡びてしまわれたのはどういうわけであろうか。
 仏法の流布する国の国主となられる人々はよくよく考えられて、後生に対する安心を定められ、祈念もあるべきである。

 

第十章 経文に照らし諸天の治罰を教える

 而るに日蓮此の事を疑ひしゆへに、幼少の比より随分に顕密二道并びに諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と開き見し勘へ見て候へば、故の候ひけるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開き見奉り候に、仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付きて国もほろび、人の寿も短かかるべしとみへて候。譬へば水は能く舟をたすけ、水は能く舟をやぶる。五穀は人をやしない、人を損ず。小波小風は大船を損ずる事かたし。大波大風には小舟やぶれやすし。王法の曲がるは小波小風のごとし。大国と大人をば失ひがたし。仏法の失あるは大風大波の小舟をやぶるがごとし。国のやぶるゝ事疑ひなし。仏記に云はく、我が滅後末代には悪法悪人の国をほろぼし仏法を失はんには失すべからず。譬へば三千大千世界の草木を薪として、須弥山をやくにやけず。劫火の時、須弥山の根より大豆計りの火出でて須弥山やくが如く、我が法も又此くの如し。悪人・外道・天魔・波旬・五通等にはやぶられず。仏のごとく六通の羅漢のごとく、三衣を皮のごとく身に紆ひ、一鉢を両眼にあてたらむ持戒の僧等と、大風の草木をなびかすがごとくなる高僧等、我が正法を失ふべし。其の時梵釈日月四天いかりをなし、其の国に大天変大地夭等を発こしていさめむに、いさめられずば、其の国の内に七難ををこし、父母・兄弟・王臣・万民互ひに大怨敵となり、梟鳥が母を食らひ、破鏡が父をがいするがごとく、自国をやぶらせて、結句は他国より其の国をせめさすべしとみへて候。    日蓮この事に疑問を持ったために、幼少のころから顕密二教をはじめ、諸宗の一切の経教を懸命になって、あるいは人に学び、あるいは自分一人で開いて見て勘えたところ、その理由があることを知ったのである。自分の顔を見ようとするなら明鏡によるべきであり、国土の盛衰を計ることは仏法の鏡より優れたものはない。
 仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開き見るのに、信ずる仏法によって国も栄え、人の寿命も長くなり、また仏法によって国も亡び、人の寿命も短くなると説かれている。たとえば水はよく船を浮かべるが、またよく船を破るのである。五穀は人の命を養うが、人を損することもある。
 小さい波、小さな風は大船を損ずる事は難かしいが、大きい波、大きな風に小船は容易に破られる。王法の曲がっているのは、小さな波、小さな風のようなもので、大国と大人を滅ぼすことはできない。仏法に誤りがあるのは、大きな風、大きな波が小船を破るようなもので、国が滅亡することは疑いないのである。
 仏記には「釈尊が滅度した後、末代には悪法や悪人は、国を滅法させるが仏法を滅ぼそうとしても滅ぼすことはできない。たとえば三千大千世界の草木をすべて薪として須弥山を焼いても焼けないが、この世界が滅びようとして劫火の起こる時は、須弥山の麓から大豆ぐらいの火が点じてみるみる須弥山を焼くように、我が法も同じである。悪人・外道・天魔波旬・五通等には破られないが、仏のように六通の羅漢のように、また三衣を皮のように身にまとい、鉄鉢をうやうやしく捧げて托鉢を行ずる持戒の僧等と、大風の草木を靡かすような高僧等が、我が正法を滅亡させるであろう。その時、梵天・帝釈・日月・四天が怒って、その国に対して大天変・大地夭等を起こして誡めてもそれを聞き入れなければ、その国のなかに七難を起こし父母・兄弟・王臣・万民等が互いに大怨敵となって争い、梟鳥が母を食い、破鏡が父を殺害するように、自らの国を破滅させ、ついにはその国を他国から攻めさせるのである」と説かれている。

 

第十一章 法華経の明鏡に浮かべ勘う

 今日蓮一代聖教の明鏡をもって日本国を浮かべ見候に、此の鏡に浮かんで候人々は国敵仏敵たる事疑ひなし。
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 一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮かぶるのみならず心をもうかべ給へり。心を浮かぶるのみならず先業をも末来をも鑑み給ふ事くもりなし。法華経の第七の巻を見候へば「如来の滅後に於て仏の所説の経の因縁及び次第を知り義に随って実の如く説かん。日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。文の心は此の法華経を一字も一句も説く人は、必ず一代聖教の浅深と次第とを能く能く弁へたらむ人の説くべき事に候。譬へば暦の三百六十日をかんがうるに一日も相違せば万日倶に反逆すべし。三十一字を連ねたる一句一字も相違せば三十一字共に歌にて有るべからず。設ひ一経を読誦すとも始め寂滅道場より終はり双林最後にいたるまで次第と浅深とに迷惑せば、其の人は我が身も五逆を作らずして無間地獄に入り、此を帰依せん檀那も阿鼻大城に堕つべし。何に況んや智人一人出現して一代聖教の浅深勝劣を弁えん時、元祖が迷惑を相伝せる諸僧等、或は国師となり或は諸家の師となりなんどせる人々、自らのきず顕はるゝ上、人にかろしめられん事をなげきて、上に拳ぐる一人の智人を、或は国主に訴へ或は万人にそしらせん。其の時守護の天神等の国をやぶらん事は、芭蕉の葉を大風のさき、小舟を大波のやぶらむがごとしと見へて候。
   今日蓮が一代聖教の明鏡に照らして日本国の現状をみるのに、この鏡に映っている人々が国敵・仏敵であることはる疑いない。
 一代聖教のなかでも法華経は明鏡のなかの神鏡である。銅鏡等は人の姿を映すが、心を映すことはない。法華経は人の姿映すだけでなく、心をも映すのである。現在の心を映すだけでなく、過去の業や未来の果報までありありと映し出すのである。
 法華経の第七の巻如来神力第二十一をみれば「如来の滅後において、仏の所説の経の、因縁及び次第を知って、義に随って実の如く説かん。日月の光明の、能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて、能く衆生の闇を滅す」と説かれている。この文の心は、この法華経を一字・一句でも説く人は、必ず一代聖教の浅深・次第にわきまえた人でなくてはならないというのである。たとえば一年三百六十日の暦を考えてみても、一日でも数え間違えば、すべての日が狂ってしまう。三十一字を連ねる和歌も、一句・一字を誤ったなら三十一字がすべて歌とならなくなってしまうようなものである。
 それと同じで、たとえ一経を読誦したとしても、最初に寂滅道場で説かれた華厳経から、最後沙羅双樹の下で説かれた涅槃経に至るまでの一切経の次第と浅深とに迷ったならば、その人は我が身に五逆罪を作らなくても無間地獄に堕ち、その人に帰依する檀那も阿鼻大城に堕ちるのである。
 まして智人が、ただ一人世に出現して一代聖教の浅深・勝劣を正しくわきまえている時に、自分の宗祖の誤った教えを相伝した僧侶等で、あるいはは国師となり、あるいは諸家の師となっている人々が、自分の疵が顕われるうえ、人に軽蔑されることを恐れて、上に挙げた一人の智者をあるいは国主に讒訴し、あるいは万人に謗せられたりするであろう。その時、仏法守護の諸天善神等が国を滅ぼすことは、大風が芭蕉の葉をさき、大波が小舟を覆すようであると説かれている。
 無量義経は始め寂滅道場より終はり般若経にいたるまでの一切経を、或は名を挙げ或は年紀を限りて未顕真実と定めぬ。涅槃経と申すは仏最後の御物語に、初め初成道より五十年の説教の御物語、四十余年をば無量義経のごとく邪見の経と定め、法華経をば我が主君と号し給ふ。中に法華経ましまして已今当の勅宣を下し給ひしかば、多宝・十方の諸仏加判ありて各々本土にかへり給ひしを、月氏の付法蔵の二十四人は但小乗・権大乗を弘通して法華経の実義を宣べ給ふ事なし。譬へば日本国の行基菩薩と鑑真和尚との法華経の義を知り給ひて弘通なかりしがごとし。漢土の南北の十師は内にも仏法の勝劣を弁へず、外にも浅深に迷惑せり。又三論宗の吉蔵・
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華厳宗の澄観・法相宗の慈恩、此等の人々は内にも迷ひ、外にも知らざりしかども、道心堅固の人々なれば名聞をすてゝ天台の義に付きにき。知らず、されば此の人々は懺悔の力に依りて生死やはなれけむ。将又謗法の罪は重く、懺悔の力は弱くして、阿闍世王・無垢論師等のごとく地獄にや堕ちにけん。
   無量義経には仏の成道の最初の経である華厳経から般若経に至るまでの一切の経を、あるいは経名を挙げ、あるいは四十余年と年限をあげ「未顕真実」と定めている。
 涅槃経というのは、仏が最後に説かれた経であり、三十歳の初成道から五十年間に説かれた説教のうち、四十余年の経典を無量義経と同じく邪見の経と定め、法華経を我が主君といっている。
 この無量義経と涅槃経との間に法華経がましますが、釈尊自ら「已今当の中で最も勝れている」と勅宣を下されたところ多宝仏・十方の諸仏は、仏の所説はことごとく真実であると証明して、それぞれの国土へ還られたのである。
 だが、インドの付法蔵の二十四人はただ小乗・権大乗を弘通して法華経の実義を宣べられることはなかった。たとえば日本国の行基菩薩と鑒真和尚とが法華経の義を知っていながら弘通されなかったようなものである。
 中国の南北の十師は内心にも仏法の勝劣をわきまえず、外にも経教の浅深に迷っていた。また三論宗の吉蔵・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩等、これらの人々は内心でも仏法に迷い、経教の浅深も知らなかったが、道心堅固の人々であったから、名聞名利を捨てて天台大師の説に従ったのである。これらの人々は懺悔の力によって生死の苦を離れたか、それとも謗法の罪は重く、懺悔の力は弱いため、阿闍世王・無垢論師等のように地獄に堕ちたか、それは知らない。

第十二章 真言師の邪義を破す

 善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等の三三蔵は一切の真言師の申すは大日如来より五代六代の人々、即身成仏の根本なり等云云。日蓮勘へて云はく、法偸みの元師なり、盗人の根本なり。此等の人々は月氏よりは大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を齎し来たる。此の経々は華厳・般若・涅槃経等に及ばざる上、法華経に対すれば七重の下劣なり。経文に見へて赫々たり明々たり。而るを漢土に来たりて天台大師の止観等の三十巻を見て、舌をふるい心をまどわして、此に及ばずば我が経弘通しがたし、勝れたりといはんとすれば妄語眼前なり、いかんがせんと案ぜし程に、一つの深き大妄語を案じ出だし給ふ。    一切の真言師がいうには、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等の三三蔵は、大日如来から五代・六代の人々であり、即身成仏の根本である。と。
 日蓮が勘えていうには、三三蔵は法偸みの元祖であり、盗人の根本である。これらの人々は、インドから大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を中国にもたらした。これらの経教は華厳経・般若経・涅槃経等に及ばないうえ、法華経に対すれば七重の劣なのである。
このことは経文に赫々であり明々である。しかるに、善無畏三蔵は中国に来て天台大師の摩訶止観等の法華三大部三十巻を見るに及んで、舌を巻いて驚き「我が義がこれに及ばなければ大日経等を弘通することはおぼつかない。法華経より勝れているといえば妄語であることは明白である。どのようにしようか」と思案の末、一つの大妄語を考え出したのである。
 所謂大日経の三十一品を法華経二十八品并びに無量義経に腹あわせに合はせて、三密の中の意密をば法華経に同じ、其の上に印と真言とを加へて、法華経は略なり、大日経は広なり。已にも入れず、今にも入れず、当にもはづれぬ。法華経をかたうどとして三説の難を脱れ、結句は印と真言とを用ひて法華経を打ち落として真言宗を立てゝ候。譬へば三女が后と成りて三王を喪せしがごとし。法華経の流通の涅槃経の第九に、我れ滅して後悪比丘等我が正法を滅すべし、譬へば女人のごとしと記し給へるは是なり。    いわゆる大日経の三十一品を法華経二十八品と無量義経の三品に引き合わせて身口意の三密のうち意密は法華経と同じであるとして、その上に印と真言とを加えて、法華経には印と真言は説かれていないので法華経は略説であり大日経は広説であるとした。そして、法華経は已今当の三説に超過した経であるが、大日経は已説にも入らず、今説にも入らず、当説にもはずれていると称して、法華経を味方にして已今当の三説をのがれ、そのあげく、印と真言とを用いて法華経を打ち落して真言宗を立てたのである。たとえば妹喜・姐己・褒姒の三女が后となって傑・紂・幽の三王を滅ぼしたようなものである。法華経の流通分である涅槃経の第九に「我が滅後に悪比丘が我が正法を滅ぼすであろう。たとえば女人のようなものである」と記されているのはこのことである。 
 されば善無畏三蔵は閻魔王にせめられて、鉄の縄七脈つけられて、からくして蘇りたれども、又死する時は黒皮隠々として骨其れ露ると申して無間地獄の前相其の死骨に顕はし給ひぬ。人死して後色の黒きは地獄に堕つとは一代聖教に定むる所なり。金剛智・不空等も又此をもて知んぬべし。此の人々は改悔は有りと見へて候へども、強盛の懺悔のなかりけるか。今の真言師は又あへて知る事なし。玄宗皇帝の御代の喪ひし事も不審はれて候。    それゆえに善無畏三蔵は閻魔王に責められ、七脉の鉄の縄で縛られるのを、かろうじて蘇生したけれども、死んだ時は「全身の皮は黒色となり骨はごつごつと露れる」というように、無間地獄に堕ちる前相が顕れた。人が死んで後に色が黒くなるものは地獄に堕ちるとは、一代聖教に定める所である。金剛智・不空等もこれをもって推し量れよう。これらの人々は晩年には改悔したようであったが、強盛の懺悔がなかったからであろうか。今の真言師は全くそのことを知らないでいる。かれらを信じた玄宗皇帝の代が滅びた疑問も晴れたのである。

 

第十三章 日本国の謗法となる過程を述べる

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 日本国は又弘法・慈覚・智証、此の謗法を習ひ伝へて自身も知ろしめさず、人は又をもいもよらず。且くは法華宗の人々諍論有りしかども、終には天台宗やうやく衰へて五十五代の座主明雲、人王八十一代の安徳天皇より已来は叡山一向に真言宗となりぬ。第六十一代の座主顕真権僧正は天台座主の名を得て真言宗に遷るのみならず、然る後法華真言をすてゝ一向謗法の法然が弟子となりぬ。承久調伏の上衆、慈円僧正は第六十二代并びに五・九・七十一代の四代の座主、隠岐法皇の御師なり。
 
 日本国においては弘法・慈覚・智証が、この善無畏等の教えを習い伝えたが、それが謗法であることを自らも知らず、まして人々は思いもよらない。
 しばらくの間は天台法華宗の人々は論争を交えたが、しまいには天台法華宗もだんだんに衰微し、比叡山延暦寺第五十五代の座主の明雲、人王八十一代の安徳天皇の治世からは、比叡山は一山ことごとく真言宗になってしまったのである。
 第六十一代の座主・顕真権僧正は、天台座主の立場でありながら真言宗に遷ったばかりでなく、さらに後には、法華も真言も捨てて、全くの謗法である法然の弟子となったのである。
 承久の合戦で北条氏調伏の祈禱をした高僧の慈円僧正は第六十二代ならびに六十五・六十九・七十一代の四代の座主となった人で、隠岐の法皇の御師である。 
 此等の人々は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・慈覚・智証等の真言をば器はかわれども一の智水なり。其の上天台宗の座主の名を盗みて法華経の御領を知行して三千の頭となり、一国の法の師と仰がれて、大日経を本として七重くだれる真言を用ひて八重勝れりとをもへるは、天を地とをもい、民を王とあやまち、石を珠とあやまつのみならず、珠を石という人なり。教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の御怨敵たるのみならず、一切衆生の眼目を奪ひ取り、三善道の門を閉ぢ、三悪道の道を開く。梵・釈・日月・四天等の諸天善神いかでか此の人を罰せさせ給はざらむ。いかでか此の人を仰ぐ檀那をば守護し給ふべき。天照太神の内待所も八幡大菩薩の百王守護の御ちかいも、いかでか叶はせ給ふべき。    これらの人々は善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・慈覚・智証等の真言の法を、器はかわっても同じ智水であるように、そのまま伝えた。そのうえで、天台宗の座主の名を盗んで法華経へ供養された比叡山の領地を知行して三千の大衆の棟梁となり、一国の法の師と仰がれて、大日経を根本として法華経より七重劣る真言を用いて、それを八重勝れると考えているのは、天を地と思い、民を王と誤り、石を宝珠と誤るだけでなく、宝珠をただの石というと同じである。
 この人々は教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の怨敵であるだけでなく、一切衆生の眼目を奪い取り、三善道の門を閉じて三悪道の道を開く人である。どうして梵天・帝釈・日月・四天等の諸天善神がこの人を罰しないわけがあろうか。どうしてこのような人を仰ぐ檀那をば守護することがあろうか。天照太神の内侍所に魂を宿し、八幡大菩薩の百代の王を守護するという誓いも、どうして叶うであろうか。

 

第十四章 法華経の行者を怨めば亡国となるを示す

 余此の由を且つ知りしより已来、一分の慈悲に催されて粗随分の弟子にあらあら申せし程に、次第に増長して国主まで聞こえぬ。国主は理を親とし非を敵とすべき人にてをはすべきが、いかんがしたりけん、諸人の讒言ををさめて一人の余をすて給ふ。彼の天台大師は南北の諸人あだみしかども、陳隋二代の帝、重んじ給ひしかば諸人の怨もうすかりき。此の伝教大師は南都七大寺讒言せしかども、桓武・平城・嵯峨の三皇用ひ給ひしかば、怨敵もをかしがたし。今日蓮は日本国十七万一千三十七所の諸僧等のあだするのみならず、国主用ひ給はざれば、万民あだをなす事父母の敵にも超え、宿世のかたきにもすぐれたり。結句は二度の遠流、一度の頭に及ぶ。彼の大荘厳仏の末法の四比丘并びに六百八十万億那由他の諸人が普事比丘一人をあだみしにも超え、
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師子音王仏の末の勝意比丘・無量の弟子等が喜根比丘をせめしにも勝れり。覚徳比丘がせめられし、不軽菩薩が杖木をかをほりしも、限りあれば此にはよもすぎじとぞをぼへ候。
   日蓮はこのことを知ってから、一分の慈悲にほだされて、しかるべき弟子達にあらあら言い聞かせたところ、次第にひろがって国主までも聞こえたのである。
 国主というのは道理を親とし非道を敵とする人であるのべきなのに、どうしたことか人々の讒言を受け入れて、ただ一人の日蓮を斥けられた。
 中国の天台大師を南三北七の人々が憎んだけれども、陳の後主叙宝や隋の煬帝等の天子が重用されたので、人人の怨嫉もうすかった。日本の伝教大師を南都七大寺の僧等が讒言したけれども、桓武・平城・嵯峨の三天皇が重用されたので怨嫉した人々も大師を犯すことはできなかった。
 いま日蓮に対しては、日本国十七万一千三十七ヵ寺の僧達が憎むばかりでなく、国主が日蓮を用いないので、万民が日蓮を怨むことは父母の敵・宿世の敵よりもまさっている。そのあげく二度の遠流の罪に処せられ、一度の頭を斬られようとしたのである。
 これは大荘厳仏の末法に四比丘や六百八十万億那由佗の人々が普事比丘一人を怨んだことにも超え、師子音王仏の滅後に勝意比丘や無量の弟子等が喜根比丘を誹謗したことにも勝っている。覚徳比丘が謗法の徒に攻められたことも、不軽菩薩が杖木瓦石を蒙ったことも限りがあることであるから、日蓮の迫害に過ぎるとは思われない。
 若し百千にも一つ日蓮法華経の行者にて候ならば、日本国の諸人後生の無間地獄はしばらくをく。現身には国を失ひ他国に取られん事、彼の・宗・欽宗のごとく優陀延王・訖利多王等のごとくならむ。又其の外は或は其の身は白癩黒癩、或は諸悪重病疑ひなかるべきか。もし其の義なくば又日蓮法華経の行者にあらじ。此の身現身には白癩黒癩等の諸悪重病を受け取り、後生には提婆・瞿伽利等がごとく無間大城に堕つべし。日月を射奉る修羅は其の矢還って我が眼に立ち、師子王を吼ゆる狗犬は我が腹をやぶる。釈子を殺せし波琉璃王は水中の中の大火に入り、仏の御身より血を出だせし提婆達多は現身に阿鼻の炎を感ぜり。金銅の釈尊をやきし守屋は四天王の矢にあたり、東大寺・興福寺を焼きし清盛入道は現身に其の身もうる病をうけにき。彼等は皆大事なれども日蓮が事に合はすれば小事なり。小事すら猶しるしあり、大事いかでか現罰なからむ。    もし百千に一つでも日蓮が法華経の行者であるならば、日本国の人々は後生の無間地獄に堕ちることは当然として、現身に国を滅ぼされ他国に侵略されることは、中国の徽宗・欽宗のようであり、インドの優陀延王・訖利多王等についていわれているようになるであろう。また、その外の人々は白癩・黒癩あるいは諸の悪重病になることは疑いないことである。
 もし、そのとおりにならなければ日蓮は法華経の行者ではないであろう。この身は現身には白癩・黒癩等の諸の悪重病に罹り、後生には提婆達多・瞿伽利等のように無間大城に堕ちるであろう。
 日月を矢で射た修羅は還ってその矢が、わが眼に当たり、師子王を吼える狗犬は還って腹が割ける。釈尊の一族を殺害した波琉璃王は川のうえで火につつまれて焼死し、釈尊の御身から血を出した提婆達多は現身に阿鼻大城の炎熱を感じた。金銅の釈尊像を焼いた物部守屋は四天王の矢にあたって死に、東大寺・興福寺を焼き払った清盛入道は現身に身体が燃えるほどの熱病になったのである。これらのことはみな大事にちがいないが、日蓮のことに比べれば小事である。小事ですらこのような現罰があったのである。ましてこの迫害の大悪事に現罰がないわけがあろうか。

 

第十五章 法華経の行者への迫害を明かす

 悦ばしい哉、経文に任せて五五百歳広宣流布をまつ。悲しい哉、闘諍堅固の時に当たって此の国修羅道となるべし。清盛入道と頼朝とは源平両家、本より狗犬と猿猴とのごとし。小人小福の頼朝をあだみしゆへに、宿敵たる入道の一門はほろびし上、科なき主上の西海に沈み給ひし事は不便の事なり。此は教主釈尊・多宝・十方の仏の御使ひとして世間には一分の失なき者を、一国の諸人にあだまするのみならず、両度の流罪に当てゝ、日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし。其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて、仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候ひしをとりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ。此の事如何なる宿意もなし、当座の科もなし、たゞ法華経を弘通する計りの大科なり。    悦ばしいことは、日蓮は経文に任せて五五百歳・広宣流布を待つのである。悲しいことは闘諍堅固の時にあたって、日本国が修羅道と化すことである。
 清盛入道と源頼朝とは源平の両家であり、もともと犬と猿の間柄である。位も低く徳の薄い頼朝を攻めたために、宿敵である清盛入道の一門が滅びたうえ、何の罪もない安徳天皇まで檀ノ浦に沈められたのは、まことに不憫なことである。
 日蓮は教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の御使いとして、世間の罪は一分も作っていないのに、その日蓮を日本国中の人々に憎ませたばかりか、二度の流罪に処し、朝敵のように日中に鎌倉の小路を引き回したのである。
 そのほか、釈尊を本尊とし、一切経を安置していた小庵を打ち壊して、仏像・経巻を人々に踏みつけさせただけでなく、糞泥の中に投げこませ、日蓮が懐中に入れておいた法華経を取り出して、日蓮の頭をさんざんに打ちすえたのである。このことは、日蓮が何かの恨みをもっていたからでもなく、現在の罪のために起きたことでもない。ただ法華経を弘通したという大科なのである。

 

第十六章 諸天に仏前の誓いを果たすよう促す

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 日蓮天に向かひ声をあげて申さく、法華経の序品を拝見し奉れば、梵釈と日月と四天と竜王と阿修羅と二界八番の衆と無量の国土の諸神と集会し給ひたりし時、已今当に第一の説を聞きし時、我とも雪山童子の如く身を供養し、薬王菩薩の如く臂をもやかんとをもいしに、教主釈尊、多宝・十方の諸仏の御前にして「今仏前に於て自ら誓言を説け」と諌暁し給ひしかば、幸ひに順風を得て「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と二処三会の衆一同に大音声を放ちて誓ひ給ひしはいかんが有るべき。唯仏前にては是くの如く申して多宝・十方の諸仏は本土にかへり給ふ。釈尊は御入滅ならせ給ひてほど久しくなりぬれば、末代辺国に法華経の行者有りとも、梵釈・日月等御誓ひをうちわすれて守護し給ふ事なくば、日蓮がためには一旦のなげきなり。無始已来鷹の前のきじ、蛇の前のかへる、猫の前のねずみ、犬の前のさると有りし時もありき。ゆめの代なれば仏菩薩・諸天にすかされまいらせたりける者にてこそ候わめ。
 
 日蓮は天に向かって声をあげていうには、法華経の序品を拝見すると、梵天・帝釈・日月・四天・竜王・阿修羅・欲界・色界の八部衆と無量の国土の諸神が集まり、已今当の三説に超過して法華経が最勝であるとの説教を聞いた時、我らもまた雪山童子のように身を供養し、薬王菩薩のように仏のために臂をも焼こうと思ったところ、教主釈尊が多宝仏・十方の諸仏の御前に於いて「今仏前に於いて、自ら誓言を説け」と諌暁されたので、追い風を得た思いで「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし」と二処三会の儀式に集った大衆が一同に大音声を放って誓われたことはどうなったのであろう。ただ、仏前ではこのように誓ったが、多宝仏・十方の諸仏は本土に還られ、釈尊が御入滅になられて年久しくなったので、末代辺国の日本に法華経の行者があっても、梵天・帝釈・日月等は、この仏前での御誓いを忘れて守護されないのであろうか。
 もしそうとすれば日蓮にとっては一時の嘆きである。それは無始已来・鷹の前の雉・蛇の前の蛙・猫の前の鼠・犬の前の猿のような苦しみを味わってきたことでもあった。この世は夢の世であるから、仏・菩薩・諸天に欺かれた者なのであろう。
 なによりもなげかしき事は、梵と帝と日月と四天等の、南無妙法蓮華経の法華経の行者の大難に値ふをすてさせ給ひて、現身に天の果報も尽きて、花の大風に散るがごとく雨の空より下るごとく「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と無間大城に堕ち給はん事こそあわれにはをぼへ候へ。設ひ彼の人々三世十方の諸仏をかたうどとして知らぬよしのべ申し給ふとも、日蓮は其の人々には強きかたきなり。若し仏のへんぱをはせずば梵釈・日月・四天をば無間大城には必ずつけたてまつるべし。日蓮が眼と□とをそろしくば、いそぎいそぎ仏前の誓ひをはたし給へ。日蓮が口    しかし何よりも嘆かわしいことは、梵天と帝釈と日月と四天等が、南無妙法蓮華経と法華経の行者が大難に値っているのを見捨てて、現身に天の果報も尽き、花が大風によって散るように、雨の空から降るように「其の人命終入阿鼻獄」との経文にあるとおり、無間大城に堕ちることである。これこそあわれなことである。
 たとえ、かの諸天善神は三世十方の諸仏を味方として、そのようなことは知らないといっても、日蓮はそうした諸天を敵とみるであろう。もし、仏に偏頗がなければ、梵天・帝釈・日月・四天は必ず無間大城に堕ちるであろう。日蓮が眼をおそろしく思われるなら、急ぎ急ぎ仏前の誓言を果されるがよい。日蓮の口、(欠落)