九郎太郎殿御返事  弘安元年一一月一日  五七歳

 

第一章 身延での御生活の窮状を述べる

(★1292㌻)
 これにつけても、()うえ()()どの(殿)の事こそをも()()でられ候へ。
 いも()一駄・くり・やきごめ・はじかみ(生姜)()び候ひぬ。さてはふかき山にはいも()つくる人もなし。くり()もならず、
 
 この御供養につけても、故上野殿のことが思い出されてならない。
 芋一駄、栗、焼米、薑(生姜)を頂戴した。
こうした深い山中には芋を作る人はいない。
(★1293㌻)
 はじかみ(生姜)()ひず。ましてやき()ごめ()みへ候はず。たといくり()なりたりとも、さる()のこ()すべからず。いえのいもはつくる人なし。たといつくりたりとも人にく()みて()び候はず。いかにしてか、かゝるたか()き山へはきたり候べき。
 
 栗もならない。生姜も生えない。まして焼米は見ることもできない。たとえ栗がなったとしても、猿が残すことはない。里芋は作る人がいない。たとえ作ったとしても、人は憎んで、くれようとしない。どうしてこのような高い山の中に来なければならなかったのであろうか。

 

第二章 題目の七字こそ仏種なるを明かす

 それ山を()候へばたかきよりしだいにしも()えくだれり。うみ()()候へばあさきより()だひ()にふかし。代をみ候へば三十年・二十年・十年・五年・四・三・二・一と次第にをとろ()へたり。人の心もかくのごとし。これは()すへ()になり候へば、山にはまがれる()のみとゞまり、()にはひき()くさ()のみ()ひたり。()にはかしこき人はすくなく、はかなきものはをほ()し。牛馬のちゝ()をしらず、()(よう)の母をわきまえざるがごとし。    さて、山を見れば、高い頂から次第に下へ降っていき、海を見れば、浅い所から次第に深くなる。世の中を見れば、三十年、二十年、五年、四年、三年、二年、一年と次第に衰えている。人の心もまた同じである。
 これは、世が末になれば、山は曲がった木だけが残り、野には低い草だけが生え、世の中は賢い人は少なくなり、愚かな者は多くなる。牛や馬が父を知らず、兎や羊が母を見分けることができないようなものである。
 仏御入滅ありては二千二百二十余年なり。代すへ()になりて智人次第にかくれて、山のくだれるごとく、くさのひき()ゝににたり。念仏を申し、かい()たも()ちなんどする人はをゝ()けれども、法華経をたの()む人はすくなし。星は多けれども大海をてらさず。草は多けれども大内の柱とはならず。念仏は多けれども仏と成る道にはあらず。戒は持てども浄土へまひ()る種とは成らず。(ただ)南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ。    仏が御入滅になってから二千二百二十余年になる。世は末になって、智人は次第に亡くなり、それは、山を降っていくようであり、草が低くなるのに似ている。念仏を称え、戒を持つ人は多くいるけれども、法華経を信ずる人は少ない。星は多くても、大海は照らせない。草は多くても、御殿の柱とはならない。このように、念仏を多く称えても、仏になる道とはならない。戒を持っていても、浄土へ参る種とはならない。ただ南無妙法蓮華経の七字だけが仏になる種なのである。

 

第三章 供養の功徳の大なるを明かす

 此を申せば人はそね()みて用ひざりしを、故上野殿信じ給ひしによりて仏に成らせ給ひぬ。各々は其の末にて此の御志をとげ給ふか。竜馬につきぬるだには千里をとぶ。松にかゝれるつた()は千尋をよづ()と申すは是か。各々主の御心なり。つちのもちゐ()を仏に供養せし人は王となりき。法華経は仏にまさらせ給ふ法なれば、供養せさせ給ひて、いかでか今生にも利生にあづかり、後生にも仏にならせ給はざるべき。    このことをいえば、人は妬んで用いなかったものを、故上野殿は信じられたことによって仏になられたのである。あなた方は、その一族であって、この御志を果たされるであろう。竜馬にとりついた蜱は千里を飛び、松に懸った蔦は千尋を攀登るというのはこのことであろう。あなたがたは、故上野殿と同心である。土の餅を供養した人は王となった。法華経は仏より勝れた法であるから、この法華経に供養された人が、どうして今生で利益を蒙り、後生に仏になれぬはずがあろうか。
 その上()ひん()にして()にん()なし。山河わづら()ひあり。たとひ心ざしありともあらはしがたきに、いまいろ()をあらわさせ給ふにしりぬ、をぼろげならぬ事なり。さだめて法華経の十羅刹まぼ()らせ給ひぬらんとたの()もしくこそ候へ。事つくしがたし。恐々謹言。
 十一月一日               日 蓮 花押
九郎太郎殿御返事
   そのうえ、貧しい身であるから下人もいない。山河を超えるのに苦労が多い。たとえ志はあっても、行為にあらわすことは難しい。しかしながら、今、貴殿が志をあらわされたのを見ても、その信心がなみなみでないことがわかる。必ず法華経の十羅刹女が守られるであろうと頼もしく思っている。申し上げたいことは多くあるが、尽くし難いのでこれで止めておく。恐恐謹言。
 十一月一日     日 蓮 花押
九郎太郎殿御返事