九郎太郎殿御返事  弘安元年一一月一日  五七歳

 

第一章 身延での御生活の窮状を述べる

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 これにつけても、()うえ()()どの(殿)の事こそをも()()でられ候へ。
 いも()一駄・くり・やきごめ・はじかみ(生姜)()び候ひぬ。さてはふかき山にはいも()つくる人もなし。くり()もならず、
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はじかみ(生姜)()ひず。ましてやき()ごめ()みへ候はず。たといくり()なりたりとも、さる()のこ()すべからず。いえのいもはつくる人なし。たといつくりたりとも人にく()みて()び候はず。いかにしてか、かゝるたか()き山へはきたり候べき。

第二章 題目の七字こそ仏種なるを明かす

 それ山を()候へばたかきよりしだいにしも()えくだれり。うみ()()候へばあさきより()だひ()にふかし。代をみ候へば三十年・二十年・十年・五年・四・三・二・一と次第にをとろ()へたり。人の心もかくのごとし。これは()すへ()になり候へば、山にはまがれる()のみとゞまり、()にはひき()くさ()のみ()ひたり。()にはかしこき人はすくなく、はかなきものはをほ()し。牛馬のちゝ()をしらず、()(よう)の母をわきまえざるがごとし。
 仏御入滅ありては二千二百二十余年なり。代すへ()になりて智人次第にかくれて、山のくだれるごとく、くさのひき()ゝににたり。念仏を申し、かい()たも()ちなんどする人はをゝ()けれども、法華経をたの()む人はすくなし。星は多けれども大海をてらさず。草は多けれども大内の柱とはならず。念仏は多けれども仏と成る道にはあらず。戒は持てども浄土へまひ()る種とは成らず。(ただ)南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ。

第三章 供養の功徳の大なるを明かす

 此を申せば人はそね()みて用ひざりしを、故上野殿信じ給ひしによりて仏に成らせ給ひぬ。各々は其の末にて此の御志をとげ給ふか。竜馬につきぬるだには千里をとぶ。松にかゝれるつた()は千尋をよづ()と申すは是か。各々主の御心なり。つちのもちゐ()を仏に供養せし人は王となりき。法華経は仏にまさらせ給ふ法なれば、供養せさせ給ひて、いかでか今生にも利生にあづかり、後生にも仏にならせ給はざるべき。その上()ひん()にして()にん()なし。山河わづら()ひあり。たとひ心ざしありともあらはしがたきに、いまいろ()をあらわさせ給ふにしりぬ、をぼろげならぬ事なり。さだめて法華経の十羅刹まぼ()らせ給ひぬらんとたの()もしくこそ候へ。事つくしがたし。恐々謹言。
  十一月一日    日蓮 花押
 九郎太郎殿御返事