四条金吾殿御返事  弘安元年閏一〇月二二日  五七歳

別名『必仮心固神守則強書』

 

第一章 御供養への礼を述べる

(★1291㌻)
 今月二十二日、信濃より贈られ候ひし物の日記、銭三貫文・白米の米俵一つ・餅五十枚・酒大筒一つ小筒一つ・串柿(くしがき)()(ざく)()十。
 (それ)王は民を食とし、民は王を食とす。衣は寒温をふせぎ、食は身命をたすく。譬へば油の火を()ぎ水の魚を助くるが如し。鳥は人の害せん事を恐れて()(ずえ)に巣くふ。然れども食のために地に()りてわな()にかゝる。魚は淵の底に住みて、浅き事を悲しみて穴を水の底に掘りて()めども、()()かされて(はり)をのむ。飲食と衣薬とに過ぎたる人の宝や候べき。而るに日蓮は他人にことなる上、山林の(すみか)、就中今年は疫癘(えきれい)()(かち)に春夏は過越(すご)し、秋冬は又前にも過ぎたり。又身に当たりて所労大事になりて候ひつるを、かたがたの御薬と申し、小袖、彼のしな()じな()の御治法にやう()やう(しるし)候ひて、今所労(へい)()し本よりもいさぎ()よくなりて候。()(ろく)菩薩の瑜伽(ゆが)論、竜樹菩薩の大論を見候へば、定業(じょうごう)の者は薬変じて毒となる。法華経は毒変じて薬となると見えて候。日蓮不肖の身に法華経を弘めんとし候へば、天魔競ひて食をうば()はんとするかと思ひて歎かず候ひつるに、今度の命たすかり候は、(ひとえ)に釈迦仏の貴辺の身に入り替はらせ給ひて御たすけ候か。是はさてをきぬ。
 
 今月二十二日、信濃から贈られた御供養の品の目録と銭三貫文、白米一俵、餅五十枚、酒大筒一つ小筒一つ、串柿五把、柘榴十箇、寿量しました。
 さて国王は民に依って立ち、民は国王に依って立つのである。衣は寒さ暑さをふせぎ、食物は命をたすける。たとえば油が燈火をつぎ、水が魚を助けるのと同じ原理である。鳥は人間が害をなすのを恐れて梢に巣を作るが餌をあさるために地上に下りてわなにかかる。魚は淵の底に住み、底の浅いことを悲しんで穴を水底に掘って住むのだが、餌にばかされて針を呑むのである。これからみても、飲食と衣薬に勝る人間の宝はないのである。
 しかも日蓮は他の人より健康が勝れず、さらに山林に住む身である。中にも今年はことさら春から夏にかけて疫病や飢饉、旱魃が襲い、秋となり冬となってもそれは激しくなるばかりである。また、身にあたって病気が重くなっていたところに、さまざまな薬といい、小袖など、いろいろな治療によってようやく快方に向かって、いまは病気もなおり、以前より以上壮健になった。
 彼の弥勒菩薩の瑜伽論や竜樹菩薩の大論をみると、定業の者にとっては薬も変じて毒となるが、法華経は毒変じて薬となるとある。
 日蓮は不肖の身で法華経を弘めようとしているので、天魔が競って衣食を奪おうとしているものと思い、歎きはしなかったが、今度、命が助かったことは、ひとえに、釈迦仏が、あなたの身に入り替って加護されたものと思っている。
このことはひとまずおく。

 

第二章 道中の安否を気遣う

 今度の御返りは(たましい)を失ひて歎き候ひつるに、事故(ことゆえ)なく鎌倉に御帰り候事、悦びいくそばくぞ。余りの覚束(おぼつか)なさに鎌倉より来たる者ごとに問ひ候ひつれば、或人は()(もと)にて行き合はせ給ふと云ひ、或人はこふづ(国府津)にと、或人は鎌倉にと申し候ひしにこそ心落ち居て候へ。是より後はおぼろげならずば御渡りあるべからず。大事の御事候はゞ御使ひにて承り候べし。返す返す今度の道はあまりにおぼつかなく候ひつるなり。
(★1292㌻)
 敵と申す者は()すれさせてねら()ふものなり。是より後に()しやの御旅には御馬をおしませ給ふべからず。よき馬に()らせ給へ。又供の者ども()んにあひぬべからんもの、又どうまろ(胴丸)もちあげぬべからん御馬にのり給ふべし。
   この度の帰りの道中のことは大変心配しておりましたが、無事鎌倉につかれたと聞いて、どんなに喜んだことであろう。あまりに心配であったから鎌倉から来る人ごとにたずねたところ、ある人は湯本で行き逢ったといい、又ある人は国府津で、ある人は鎌倉の地で逢ったといいましたので、ようやく安心したところである。これから後は、よくよくのことがなければお越しなさらないほうがよい。大事な事があった時はお使によってうかがいましょう。返す返すも今度の帰り道はあまりにも心配でした。
 およそ敵というものは、その存在を忘れさせて狙うものである。今後もし旅に出られる際は、馬を惜しんではなりません。よい馬にお乗りなさい。またお供には万一の場合に備えて役に立つものを連れ、馬は甲冑をつけても堪えられる馬におのりなさい。

 

第三章 李広将軍の故事に学ぶ

 魔訶(まか)()(かん)第八に云はく、弘決第八に云はく「必ず心の固きに()って神の守り則ち強し」云云。神の護ると申すも人の心つ()きによるとみえて候。法華経は()つるぎ()なれども、つかう人によりて物をきり候か。されば末法に此の経をひろめん人々、(しゃ)()(ほつ)()(しょう)と観音と妙音と文殊(もんじゅ)と薬王と、此等程の人やは候べき。二乗は見思を断じて六道を出でて候。菩薩は四十一品の無明を断じて十四夜の月の如し。然れども此等の人々にはゆづり給はずして地涌の菩薩に譲り給へり。されば能く能く心をきた()はせ給ふにや。()(こう)将軍と申せしつはものは、虎に母を食らはれて虎に似たる石を射しかば、其の()(はね)ぶくらまでせめぬ。後に石と見ては立つ事なし。後には(せっ)()将軍と申しき。貴辺も又かくのごとく、敵はねら()ふらめども法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か。是につけても能く能く御信心あるべし。(くわ)しく紙には尽くしがたし。恐々謹言。
 (のちの)十月二十二日            日 蓮 花押
四条左衛門殿御返事
   摩訶止観の第八、それを注釈した妙楽の弘決に「必ず心が堅固であってこそ神の守護も厚い」とある。これは神の守護といっても、人の心が強いこととに依るということである。法華経はよい剣であるが、その切れ味は使う人によるのである。
 それ故、末法にこの法華経を弘める人々としては、舎利弗と迦葉と観音と妙音と文殊と薬王と、これほど適任の人はいるであろうか。舎利弗と迦葉の二乗は見思の惑を断じて六道を出ている。また観音等の菩薩は四十二品中四十一品の無明を断じて十四夜の月のようでもある。けれども仏はこれ等の人々には譲られないで、地湧の菩薩に譲られたのである。してみると、これらの地涌の菩薩はよくよく心を鍛えられた菩薩なのであろう。
 昔、中国の李広将軍は、虎に母を殺されて、虎に似た石を射るとその矢は羽ぶくまで通った。しかしそれが石と知ってからは、射ても矢はとおらなかったということである。そのことから後世に人々は李広将軍のことを石虎将軍とよぶようになった。あなたもまたこの故事のように、敵はねらっているだろうが、法華経への信心が強盛であるので大難も事の起こる前にきえたのであろうか。これにつけても、よくよく御本尊を信じていきなさい。くわしくは手紙に書きつくすことはできません。恐恐謹言。
  弘安元年戊寅後十月二十二日        日蓮花押
 四条左衛門殿御返事