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(★1289㌻) 青鳧一貫文・干飯一斗・種々の物給び候ひ了んぬ。 仏に土の餅を供養せし徳勝童子は阿育大王と生まれたり。仏に漿をまひらせし老女は辟支仏と生まれたり。 |
銭一貫文・干飯一斗・種種の御供養の品を確かにいただきました。 昔、釈迦仏に土の餅を供養した徳勝童子は阿育大王と生まれた。釈迦仏に米のとぎ汁を差し上げた老女は辟支仏と生まれたのである。 |
| 法華経は十方三世の諸仏の御師なり。十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり。三世の仏と申すは過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏、乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列なり給へる一切の諸仏、尽十方世界の微塵数の菩薩等も、皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり。 | 法華経は十方三世の諸仏の師匠である。十方の仏というものは、東方の善徳仏・東南方の無憂徳仏・南方お栴檀徳仏・西南方の宝施仏・西方の無量明仏・西北方の華徳仏・北方の相徳仏.東北の方三乗行仏・上方の広衆徳仏・下方の明徳仏である。三世の仏というのは、過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏・乃至・華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経・小乗経・権経・実経・顕経・密経の諸経に列なっておられる一切の諸仏、また十方世界の微塵を尽くしたほどの多くの菩薩等も皆ことごとく法華経の妙の一字から出生されたのである。 | |
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故に法華経の結経たる普賢経に云はく「仏三種の身は方等より生ず」等云云。方等とは月氏の語、漢土には大乗と翻ず。大乗と申すは法華経の名なり。阿含経は外道の経に対すれば大乗経、華厳・般若・大日経等は阿含経に対すれば大乗経、法華経に対すれば小乗経なり。法華経に勝れたる経なき故に一大乗経なり。例せば南閻浮提八万四千の国々の王々は其の国々にては大王と云ふ。転輪聖王に対すれば小王と申す。乃至六欲四禅の王々は大小に渡る。色界の頂の大梵天王独り大王にして小の文字をつくる事なきが如し。 |
ゆえに法華経の結経である普賢経には「仏の三種の身は方等から生まれる」等とある。方等とはインドの言葉であり、中国では大乗と訳している。大乗というのは法華経の名である。阿含経は外道の経に対すれば大乗経である。華厳経・般若経・大日経等は阿含経に対すれば大乗経であり、法華経に対すれば小乗経である。法華経より勝れた経典がないゆえに、法華経は唯一の大乗経である。たとえば、南閻浮提にある八万四千の国々のそれぞれの王は、その国々においては大王という。しかし転輪聖王に対すれば小王という。乃至、六欲天・四禅のそれぞれの王は対所によって大王ともなり、小王ともなるが、色界の頂上に住する大梵天王独り大王であって小の文字を付けることがないようなものである。 |
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(★1290㌻) 仏は子なり、法華経は父母なり。譬へば一人の父母に千子有りて一人の父母を讃歎すれば千子悦びをなす。一人の父母を供養すれば千子を供養するになりぬ。 |
仏は子である。法華経は父母である。譬えば、一人の父母に千人の子がいて、一人の父母を讃歎すれば千人の子が悦ぶ。一人の父母を供養すれば、千人の子を供養することになる。 |
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| 又法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり。十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり。譬へば一つの師子に百子あり。彼の百子諸の禽獣に犯さるゝに、一つの師子王吼ゆれば百子力を得て、諸の禽獣皆頭七分にわる。法華経は師子王の如し、一切の獣の頂とす。法華経の師子王を持つ女人は、一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るゝ事なし。 | また法華経を供養する人の功徳は、十方の仏・菩薩を供養する功徳と同じである。十方の諸仏は妙の一字から生まれたからである。譬えば、一匹の師子に百匹の子がいる。その百匹の子が諸の禽獣に犯されようとするとき、一匹の師子王が吼えれば百匹の子は力を得て、諸の禽獣は皆頭が七分にわれるのである。法華経は師子王のようなものであり、一切の獣の頂なのである。法華経の師子王を持つ女人は、一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐れることはない。 | |
| 譬へば女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し。法華経の妙の一字は小火の如し。小火を衆草につきぬれば、衆草焼け亡ぶるのみならず、大木大石皆焼け失せぬ。妙の一字の智火以て此くの如し。諸罪消ゆるのみならず、衆罪かへりて功徳となる。毒薬変じて甘露となる是なり。譬へば黒漆に白き物を入れぬれば白色となる。女人の御罪は漆の如し。南無妙法蓮華経の文字は白き物の如し。 |
譬えば女人の一生の間の罪障は諸の乾草のようなものである。法華経の妙の一字は小火のようなものである。小火を多くの草につけるならば、多くの草が焼け亡びてしまうだけでなく、大木・大石も皆焼け失せてしまう。妙の一字の智火はこのようなものである。諸罪が消えるばかりでなく、多くの罪がかえって功徳となるのである。毒薬が変じて甘露となるとはこの事である。譬えば、漆におしろいを入れるならば、白色となる。女人の罪障は漆のようなものでる。南無妙法蓮華経の文字はおしろいのようなものである。 |
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| 人は臨終の時、地獄に墮つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、軟らかなる事兜羅綿の如し。 | 人は臨終の時に地獄に堕ちる者は色が黒くなるうえ、その身体の重いことは千引の石のようなものである。善人はたとえ七尺・八尺の女人であっても、色の黒い者であっても、臨終には色が変わって白くなる。また軽いことは鵞毛のようであり、やわらかなことは兜羅緜のようである。 |
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佐渡の国より此の国までは山海を隔てゝ千里に及び候に、女人の御身として法華経を志しましますによりて、年々に夫を使ひとして御訪ひあり。定めて法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏、其の御心をしろしめすらん。譬へば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども打てば須臾に聞こゆ。御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来たれり。仏に成る道も此くの如し。我等は穢土に候へども心は霊山に住むべし。御面を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐々謹言。 後十月十九日 日 蓮 花押 千日尼御前御返事 |
佐渡の国からこの国までは、山海を隔てて千里に及ぶのに、女人の御身として法華経を信仰していらっしゃるゆえに、年々に夫をお使いとして訪ねてくださっている。定めて法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏が、そのお心をよくご存知であろう。譬えば、天月は四万由旬離れているけれども、大地の池には即座に影が浮かび、雷門の鼓は千万里の遠くにあっても打てば即座に聞こえる。あなたは佐渡の国にいらっしゃるけれども、心はこの国に来られている。 仏に成る道もこのようなものである。我等は穢土に住いてはいるが、心は霊山浄土に住んでいるのである。お顔をみたからとてなにになろう。心こそ大切である。いつかいつか、釈迦仏のいらっしゃる霊山浄土に参りお会いしましょう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。 弘安元年後十月十九日 日蓮花押 千日尼御前御返事 |