(★1286㌻)
鵞目一貫文給び候ひ畢んぬ。
御所領上より給ばらせ給ひて候なる事、まことゝも覚へず候。夢かとあまりに不思議に覚へ候。御返事なんどもいかやうに申すべしとも覚へず候。 |
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銭を一貫文受領しました。
さて、主君から御所領をあらたに給わったとのお知らせ、まこととも思えぬほどである。夢かと本当に不思議に思い御返事もどのように申しあげようかと思ったほどである。 |
| 其の故はとのゝ御身は日蓮が法門の御ゆへに日本国並びにかまくら中、御内の人々、きうだちまでうけず、ふしぎにをもはれて候へば、其の御内にをはせむだにも不思議に候に御恩をかうほらせ給へば、うちかへし又うちかへしせさせ給へば、いかばかり同れいどもゝふしぎとをもひ、上もあまりなりとをぼすらむ。 |
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其の故はあなたの身は日蓮の法門を信じたために、日本の国ならびに鎌倉の人々、江間氏の身内の人々や公達までから快く思われず、普通では考えられないことと思われていたから、その御内に無事にいるのさえも不可思議である。そのうえ、主君からの御恩を蒙ると、その都度、打ち返し打ち返しされてきた(所領を給わっても、いわば左遷の形なのでいつも返上してきた)のであるから、どれほど同僚たちも不思議と思い、主君もあまりの事とおぼしめされていたのであろう。 |
さればこのたびはいかんが有るべかるらんとうたがひ思ひ候ひつる上、御内の数十人の人々うったへて候へば、さればこそいかにもかなひがたかるべし。あまりなる事なりと疑ひ候ひつる上、兄弟にもすてられてをはするに、かゝる御をん面目申すばかりなし。
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ゆえに、今度はどうなることだろうと私も案じていたところ、江間家の内の人々数十人が訴えて讒言したので、必ず無事には済むまい、とても所領をうけることはかなわないと思っていたのである。あまりのことであるとどうなるかと疑っていたところ、そのうえ兄弟にまでも捨てられている身なのに、このようなご恩に浴するとは面目この上ないことである。
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かの処はとのをかの三倍とあそばして候上、さどの国のものゝこれに候が、よくよく其の処をしりて候が申し候は、三箇郷の内にいかだと申すは第一の処なり。
(★1287㌻)
田畠はすくなく候へども、とくははかりなしと申し候ぞ。二所はみねんぐ千貫、一所は三百貫と云云。かゝる処なりと承はる。 |
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新しい領地は、これまでの殿岡の三倍もあるという上に、佐渡の国の者で、この身延に来ていて、よくその土地を知っている者の話によると、三箇郷のうち、いかだというところは第一のところであって、田畑は少ないけれども、その徳分は量りなく多いということである。二か所は年貢が千貫、一か所は三百貫と、このような所と聞いている。 |
| なにとなくとも、どうれいといひしたしき人々と申し、すてはてられてわらひよろこびつるに、とのをかにをとりて候処なりとも、御下し文は給びたく候ひつるぞかし。まして三倍の処なりと候。いかにわろくともわろきよし人にも又上へも申させ給ふべからず候。よきところよきところと申し給はゞ、又かさねて給ばらせ給ふべし。わろき処徳分なしなんど候はゞ天にも人にもすてられ給ひ候はむずるに候ぞ。御心へあるべし。 |
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ともかく今は、同僚にも親しい人々にも捨てられ、嘲笑されていたのだから、たとえ殿岡に劣っている所であっても、ご恩を給わりたい時である。いわんや三倍の所であるという。たとえどんなに悪い土地であろうとも、悪いということを、他人やまた主君にいってはならない。良い所、良い所といっていれば、また重ねて給わることもあろう。それを悪い所だ、徳分のないなどといえば、天にも人にも見捨てられてしまうであろう。深く心得るべきである。 |
| 阿闍世王は賢人なりしが、父をころせしかば、即時に天にもすてられ、大地もやぶれて入りぬべかりしかども、殺されし父の王一日に五百りゃう、五百りゃう数年が間仏を供養しまいらせたりし功徳と、後に法華経の檀那となるべき功徳によりて、天もすてがたし、地もわれず、ついに地獄にをちずして仏になり給ひき。 |
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阿闍世王は賢人であったが、父を殺したのであるから、即座に天に捨てられ、大地がわれて地獄に堕ちるべきところであったが、殺された王が生前に一日五百輌ずつ、数年間にわたって、仏を供養した功徳と、阿闍世王自身、後に法華経外護の檀那となる功徳によって、天も捨てがたく、地もわれず、ついに地獄にも堕ちないで仏になったのである。 |
| とのも又かくのごとし。兄弟にもすてられ、同れいにもあだまれ、きうだちにもそばめられ、日本国の人にもにくまれ給ひつれども、去ぬる文永八年の九月十二日の子丑の時、日蓮が御勘気をかほりし時、馬の口にとりつきて鎌倉を出でて、さがみのえちに御ともありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有りしかば、梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか。 |
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あなたもまたその通りであって、兄弟にも捨てられ、同僚にもにくまれ、公達にも迫害され、日本国中の人にもにくまれたけれども、去る文永八年九月十二日の子丑の時、日蓮が御勘気を蒙った際に、馬の口に取り付いて鎌倉を出て依知まで供してこられたことは、一閻浮提第一の法華経の味方であるから、梵天・帝釈も捨てられなかったのであろう。 |
仏にならせ給はん事もかくのごとし。いかなる大科ありとも、法華経をそむかせ給はず候ひし御ともの御ほうこうにて仏にならせ給ふべし。例せば有徳国王の覚徳比丘の命にかはりて釈迦仏とならせ給ひしがごとし。法華経はいのりとはなり候ひけるぞ。あなかしこあなかしこ。いよいよ道心堅固にして今度仏になり給え。
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仏になることもこれと同じである。どのような大罪があったとしても、法華経に対して背かれずに、御供の御奉公をされたのであるから、仏になることは疑いない。
例えば涅槃経に説かれているところの、有徳王が正法護持の覚徳比丘の命を捨てて護った功徳によって、釈迦仏となられたごとくである。法華経を信ずるのは成仏の祈りとなるものである。あなかしこあなかしこ。いよいよ信心を強盛にして今生に成仏を期していきなさい。 |