四条金吾殿御返事 弘安元年一〇月 五七歳

別名『所領書』

第一章 所領の加増を喜ぶ

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 鵞目一貫文給び候ひ(おわ)んぬ。
 御所領(かみ)より()ばらせ給ひて候なる事、まことゝも覚へず候。夢かとあまりに不思議に覚へ候。御返事なんどもいかやうに申すべしとも覚へず候。其の故はとの(殿)ゝ御身は日蓮が法門の御ゆへに日本国並びにかまくら(鎌倉)中、御内の人々、きうだち(公達)までうけず、ふしぎ(不思議)にをもはれて候へば、其の御内にをは(御座)せむだにも不思議に候に御恩をかうほらせ給へば、うちかへし又うちかへしせさせ給へば、いかばかり同れい()どもゝふしぎとをもひ、(かみ)もあまりなりとをぼすらむ。さればこのたび(此度)はいかんが有るべかるらんとうたが()ひ思ひ候ひつる(うえ)、御内の数十人の人々うった()へて候へば、さればこそいか(如何)にもかな()がた()かるべし。あまりなる事なりと疑ひ候ひつる上、兄弟にも()てられてをは(御座)するに、かゝる御をん()面目申すばかりなし。かの処はとのをか(殿岡)の三倍とあそばして候上、さど(佐渡)の国のもの()ゝこれに候が、よくよく其の処を()りて候が申し候は、三箇郷の内にいかだと申すは第一の処なり。田畠
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すく()なく候へども、とく()はかり()なしと申し候ぞ。二所は()ねんぐ(年貢)千貫、一所は三百貫と云云。かゝる処なりと承はる。なにとなくとも、どうれい(同僚)()した()しき人々と申し、()てはてられてわら()ひよろこびつるに、とのをか(殿岡)をと()りて候処なりとも、御下し(ぶみ)は給びたく候ひつるぞかし。まして三倍の処なりと候。いかにわろ()くともわろ()きよし人にも又(かみ)へも申させ給ふべからず候。()ところ()よきところと申し給はゞ、又かさねて()ばらせ給ふべし。わろき処徳分なしなんど()候はゞ天にも人にもすてられ給ひ候はむずるに候ぞ。御心へあるべし。

第二章 成仏への信心を示す

 ()(じゃ)()王は賢人なりしが、父をころ()せしかば、即時に天にも()てられ、大地もやぶ()れて入りぬべかりしかども、殺されし父の王一日に五百りゃう()、五百りゃう数年が(あいだ)仏を供養しまいらせたりし功徳と、後に法華経の檀那となるべき功徳によりて、天もすてがたし、地もわれず、ついに地獄に()ちずして仏になり給ひき。との(殿)も又かくのごとし。兄弟にもすてられ、同れい()にもあだ()まれ、きうだち(公達)にもそば()められ、日本国の人にもにく()まれ給ひつれども、去ぬる文永八年の九月十二日の()(うし)の時、日蓮が御(かん)()かほ()りし時、馬の口にとりつきて鎌倉を出でて、さがみ(相模)えち(依智)に御とも()ありしが、一(えん)()(だい)第一の法華経の御かたうど(方人)にて有りしかば、梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか。仏にならせ給はん事もかくのごとし。いかなる大科ありとも、法華経をそむ()かせ給はず候ひし御ともの御ほうこう(奉公)にて仏にならせ給ふべし。例せば有徳国王の覚徳比丘の(いのち)()はりて釈迦仏とならせ給ひしがごとし。法華経はいの()りとはなり候ひけるぞ。あなかしこあなかしこ。いよいよ道心堅固にして今度仏になり給え。

第三章 煩悩即菩提の原理を明かす

 御一門の御房たち又俗人等にもかゝるうれ()しき事候はず。かう申せば今生のよく()とをぼすか。それも凡夫にて候へばさも候べき上、欲をもはな()れずして仏になり候ひける道の候ひけるぞ。()(げん)経に法華経の肝心を説きて候「煩悩を断ぜず五欲を離れず」等云云。天台大師の摩訶止(まかし)(かん)に云く「煩悩即(ぼんのうそく)()(だい)(しょう)()(そく)()(はん)」等云云。竜樹菩薩
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の大論に法華経の一代にすぐれていみじきやうを釈して云く「譬へば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」等云云。「小薬師は薬を以て病を治す、大医は大毒をもって大重病を治す」等云云。

日蓮 花押

 四条金吾殿御返事