種々物御消息  弘安元年七月七日  五七歳

 

第一章 謗法こそ堕獄の業因と明かす

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 しなじなのもの()をく()り給びて法華経にまい()らせて候。
 (そもそも)日本国の人を皆()しないて候よりも、父母一人やしないて候は功徳まさり候。日本国の皆人をころして候は七大地獄に堕ち候。父母をころせる人は第八の無間地獄と申す地獄に堕ち候。人ありて父母をころし、釈迦仏の御身より()をいだして候人は、父母をころすつみ()にては無間地獄に堕ちず、仏の御身より()をいだすつみ()にて無間地獄には堕ち候なり。
 
 種々の物を、お送りいただき、法華経の御宝前にお供えした。
 さて、日本国の人々を皆養うよりも、父母一人を養うほうが功徳は優れている。日本国のすべての人を殺しても、七大地獄に堕ちるだけであるが、父母を殺す人は第八の無間地獄という地獄に堕ちる。父母を殺し、釈迦仏の御身に傷をつけ、血を出させた人は、父母を殺した罪では無間地獄に堕ちないが、仏の御身より血を出させた罪で無間地獄に堕ちるのである。
 又十悪・五逆をつくり、十方三世の仏の身よりちをいだせる人の法華経の御かたきとなれるは、
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十悪・五逆、十方の仏の御身よりちをいだせるつみにては阿鼻(あび)地獄へは入る事なし。たゞ法華経不信の大罪によりて無間地獄へは堕ち候なり。
  また、十悪・五逆罪を作り、十方・三世の仏の身から血を出させた人が、法華経の敵となった場合、十悪・五逆罪や十方の仏の身から血を出させた罪では阿鼻地獄に入ることはない。ただ法華経不信の大罪によって無間地獄に堕ちるのである。
 又十悪・五逆を日々につくり十方の諸仏を月々にばうずる人と、十悪・五逆を日々につくらず十方の諸仏を月々にばう()せず候人、此の二人は善悪はる()かにかわりて候へども、法華経を一字一点もあひそむ()きぬれば、かならずおなじやうに無間地獄へ入り候なり。    また、十悪・五逆罪を日日に作り、十方の諸仏を月月に謗ずる人と、十悪・五逆を日日に作らず、十方の諸仏を月月に謗じない人とではその善悪は大いに異なっているけれども、法華経に一字一点も背くならば、必ず同じように無間地獄に入るのである。

 

第二章 諸宗の人師の堕獄を述べる

 しかればいま()の代の海人(あま)山人(やまがつ)日々に魚鹿等をころし、源家・平家等の兵士等のとしどし(年々)に合戦をなす人々は、父母をころさねばよも無間地獄には入り候はじ。便(べん)()候はゞ法華経を信じて、たまたま仏になる人も候らん。今の天台座主(ざす)(とう)()()(むろ)・七大寺の検校(けんぎょう)園城(おんじょう)()(ちょう)()等の真言師並びに禅宗・念仏者・律僧等は、眼前には法華経を信じよむ()にた()れども、其の根本をたづぬれば弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等が弟子なり。    そこで、今の世の漁師や狩人で、日々に魚や鹿等を殺している人や、源家・平家等の武士等で、年々にの合戦をしている人々は、父母を殺さないので、おそらく無間地獄には入らないであろう。機会があれば、法華経を信じて仏になる人もいるであろう。それに対し、今の天台宗延暦寺の座主・東寺・仁和寺・七大寺の検校・三井寺の長吏等の真言師・ならびに禅宗・念仏者・律宗等の人は、表面的には法華経を信じ、読誦しているようであっても、その根本を究めるならば、弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等の弟子である。 
 源にご()りぬれば流れきよ()からず。天くも()れば地くら()し。父母()(ほん)をおこせば妻子ほろぶ。山くづるれば草木たふ()なら()ひなれば、日本六十六箇国の比丘・比丘尼等の善人等、皆無間地獄に堕つべきなり。されば今の代に地獄に堕つるものは悪人よりも善人、善人よりも僧尼、僧尼よりも持戒にて智慧かしこき人々の阿鼻地獄へは堕ち候なり。    源が濁れば流れは清くない。天が曇れば地は暗い。父母が謀反をおこせば、妻子は亡ぶ。山が崩れれば草木は倒れる道理であるから、日本六十六ヵ国の比丘・比丘尼等の善人等は、皆無間地獄に堕ちるであろう。だから、今の世に地獄に堕ちる者は、悪人よりも善人・善人よりも僧尼・僧尼よりも持戒で智慧のある人々が阿鼻地獄へ堕ちるのである。

 

第三章 未曾有の大難にあうを示す

 此の法門は当世日本国に一人も()りて候人なし。たゞ日蓮一人計りにて候へば、此を知って申さずば日蓮無間地獄に堕ちてうかぶ()なかるべし。譬へば謀反のものをしりながら国主へ申さぬとが()あり。申せばかたき()雨のごとし、風のごとし、()ほん()のものゝごとし。海賊・山賊のものゝごとし、かたがたしのび()がたき事なり。例せば()(おん)王仏(のうぶつ)の末の不軽菩薩のごとし、歓喜仏のすえの覚徳(かくとく)比丘(びく)のごとし、天台のごとし、伝教のごとし、又かの人々よりもかたきすぎたり。かの人々は諸人ににく()まれたりしかども、いまだ国主にはあだ()まれず。これは諸人よりは国主にあだまるゝ事父母のかたきよりも、すぎ()たるをみよ。    この法門は、今の日本国では一人も知っている人はいない。ただ日蓮一人ばかりであるので、これを知って言わなければ、日蓮は無間地獄に堕ちて浮かぶ時もないであろう。たとえば、謀反の者を知りながら国主へ言わなければ罪となるようなものである。これを言うならば敵は雨のように風のように襲ってくる。謀叛の者のように、海賊・山賊の者のように憎まれる。いずれにしても忍び難いことである。例えば、威音王仏の末の不軽菩薩のようであり、歓喜仏の末の覚徳比丘のようである。天台大師、伝教大師のようである。また、これらの人々よりも敵ははるかに勝っている。これらの人々は、諸人に憎まれたけれども、まだ国主に怨まれてはいない。日蓮は、諸人よりは国主に怨まれること、父母の敵にも過ぎているのは、見られるとおりである。

 

第四章 御供養の功徳を讃える

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 かゝるふしぎ(不思議)の者を()びん(便)とて御()やう()候は、日蓮が過去の父母か、又先世の宿習(しゅくじゅう)か、おぼろげの事にはあらじ。其の上雨ふり、かぜ()ふき、人のせい()するにこそ心ざしはあらわれ候へ。此も又かくのごとし。たゞなる時だにも、するが(駿河)かい(甲斐)とのさかい()は山たか()く、河はふか()く、石をゝ()く、みち()せば()し。いわうやたうじ(当時)あめ()しの()をたてゝ三月にをよび、かわ()はまさりて九十日、やま()くづ()れ、みち()ふさ()がり、人もかよはず、かつ()てもたへ()て、いのち()かうにて候ひつるに、このすゞ(種種)の物たまわりて法華経の御こへ()をもつぎ、釈迦仏の御いのちをもたす()けまいらせさせ給ひぬる御功徳、たゞをし()はか()らせ給ふべし。くはしくは又々申すべし。恐々謹言。
 七月七日              日 蓮 花押
御返事
 
 このような不思議な者を不憫と思って御供養くだされた貴殿は、日蓮の過去の父母であろうか。または過去世からの因縁であろうか。いずれにしても、浅い因縁ではないであろう。
 そのうえ、雨が降り、風が吹き、人が制止する時にこそ、志はあらわれるものである。今、貴殿が種々の物をお送りくださったこともまた同じである。平穏な時でさえ、駿河と甲斐との境は、山が高く、河は深く、石は多く、道は狭い。まして、今は、豪雨が三ヵ月も降り続き、河は増水して九十日、山は崩れ、道は塞がり、人も通わず、食糧も絶えて、命もこれまでというときに、この種々の物をお送りくださり、法華経の御声も継ぎ、釈迦仏の御命をも助けられたのである。その功徳は計り知れないものがある。くわしくはまた申し上げよう。恐恐謹言。
 七月七日     日 蓮 花押
御返事