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当月十八日の御状、同じき二十三日の午の刻計りに到来、軈て拝見仕り候ひ畢んぬ。御状の如く、御布施鳥目十貫文・太刀一・五明一本・焼香二十両給び候。抑専ら御状に云はく、某今年は五十七に罷り成り候へば大厄の年かと覚へ候。なにやらんして正月の下旬の此より卯月の此の比に至り候まで身心に苦労多く出来候。
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本より人身を受くる者は必ず身心に諸病相続して五体に苦労あるべしと申しながら、更に云云。
此の事最第一の歎き事なり。十二因縁と申す法門あり。意は我等が身は諸苦を以て体となす。されば先世に業を造る故に諸苦を受け、先世の集煩悩が諸苦を招き集め候。過去の二因現在の五果、現在の三因未来の両果とて、三世次第して一切の苦果を感ずるなり。在世の二乗が此等の諸苦を失はんとて空理に沈み、灰身滅智して菩薩の勤行精進の志を忘れ、空理を証得せん事を真極と思ふなり。仏方等の時、此等の心地を弾呵し給ひしなり。然るに生を此の三界に受けたる者苦を離るゝ者あらんや。羅漢の応供すら猶此くの如し。況んや底下の凡夫をや。さてこそいそぎ生死を離るべしと勧め申し候へ。
此等体の法門はさて置きぬ。御辺は今年は大厄と云云。昔伏義の御宇に、黄河と申す河より亀と申す魚、八卦と申す文を甲に負ひて浮き出でたり。時の人此の文を取り挙げて見れば、人の生年より老年の終はりまで厄の様を明かしたり。厄年の人の危ふき事は、少水に住む魚を鴟・鵲なんどが伺ひ、灯の辺に住める夏の虫の火中に入らんとするが如くあやうし。鬼神やゝもすれば此の人の神を伺ひなやまさんとす。神内と申す時は諸の神、身に在りて万事心に叶ふ。神外と申す時は諸の神、識の家を出でて万事を見聞するなり。当年は、御辺は神外と申して、諸神他国へ遊行すれば慎んで除災得楽を祈り給ふべし。又木性の人にて渡らせ給へば、今年は大厄なりとも春夏の程は何事か渡らせ給ふべき。至門性経に云はく「木は金に遇ふて抑揚し、火は水を得て光り滅し、土は木に値ひて時に痩せ、金は火に入りて消え失せ、水は土に遇ふて行かず」等云云。指して引き申すべき経文にはあらざれども、予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか。
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又云はく「現世は安穏にして後生には善処ならん」等云云。又云はく「諸余の
此の方便品と申すは迹門の肝心なり。此の品には仏、十如実相の法門を説きて十界の衆生の成仏を明かし給へば、舎利弗等は此を聞きて無明の惑を断じ真因の位に叶ふのみならず、未来華光如来と成りて、成仏の覚月を離垢世界の暁の空に詠ぜり。十界の衆生の成仏の始めは是なり。当時の念仏者・真言師の人々、成仏は我が依経に限れりと深く執するは、此等の法門を習学せずして、未顕真実の経に説く所の名字計りなる授記を執する故なり。貴辺は日来は此等の法門に迷ひ給ひしかども、日蓮が法門を聞きて、賢者なれば本執を忽ちに翻し給ひて、法華経を持ち給ふのみならず、結句は身命よりも此の経を大事と思し食す事、不思議が中の不思議なり。是は偏に今の事に非ず。過去の宿縁開発せるにこそ、かくは思し食すらめ。有り難し有り難し。
次に寿量品と申すは本門の肝心なり。又此の品は一部の肝心、一代の聖教の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。教主釈尊、寿量品の一念三千の法門を証得し給ふ事は三世の諸仏と内証等しきが故なり。但し此の法門は釈尊一仏の已証のみに非ず、諸仏も亦然なり。我等衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今教主釈尊の所説の法華経に値ひ奉る事は、乃往過去に此の寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり。有り難き法門なり。
華厳・真言の元祖、法蔵・澄観・善無畏・金剛智・不空等が、釈尊一代聖教の肝心なる寿量品の一念三千の法門を盗み取りて、本より自らの依経に説かざる華厳経・大日経に一念三千ありと云ひて取り入るゝ程の盜人にばかされて、末学深く此の見を執す。墓無し墓無し。結句は真言の人師云はく「争ひて醍醐を盜み各自宗に名づく」云云。
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又云はく「法華経の二乗作仏・久遠実成は無明の辺域、大日経に説く所の法門は明の分位」等云云。華厳の人師云はく「法華経に説く所の一念三千の法門は枝葉、華厳経の法門は根本の一念三千なり」云云。是跡形もなき僻見なり。真言・華厳経に一念三千を説きたらばこそ、一念三千と云ふ名目をばつかはめ。おかしおかし。亀毛兎角の法門なり。
正しく久遠実成の一念三千の法門は、前四味並びに法華経の迹門十四品まで秘めさせ給ひてありしが、本門正宗に至りて寿量品に説き顕はし給へり。此の一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入れて、末代貧窮の我等衆生の為に残し置かせ給ひしなり。正法・像法に出でさせ給ひし論師・人師の中に此の大事を知らず。唯竜樹・天親こそ心の底に知らせ給ひしかども色にも出ださせ給はず。天台大師は玄・文・止観に秘せんと思し召ししかども、末代の為にや止観十章第七正観の章に至りて粗書かせ給ひたりしかども、薄葉に釈を設けてさて止み給ひぬ。但理観の一分を示して事の三千をば斟酌し給ふ。彼の天台大師は迹化の衆なり。此の日蓮は本化の一分なれば盛んに本門の事の分を弘むべし。
然るに是くの如き大事の義理の篭らせ給ふ御経を書きて進らせ候へば、弥信を取らせ給ふべし。勧発品に云はく「当に起ちて遠く迎へて当に仏を敬ふが如くすべし」等云云。安楽行品に云はく「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す。乃至天の諸の童子以て給使を為さん」等云云。譬喩品に云はく「其の中の衆生は悉く是吾が子なり」等云云。法華経の持者は教主釈尊の御子なれば、争でか梵天・帝釈・日月・衆星も昼夜朝暮に守らせ給はざるべきや。厄の年災難を払はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな。
さては鎌倉に候ひし時は細々申し承はり候ひしかども、今は遠国に居住候に依りて面謁を期する事更になし。されば心中に含みたる事も使者玉章にあらざれば申すに及ばず。歎かし歎かし。当年の大厄をば日蓮に任させ給へ。
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釈迦・多宝・十方分身の諸仏の法華経の御約束の実不実は是にて量るべきなり。又々申すべく候。
四月二十三日 日蓮 花押
太田左衞門尉殿御返事