上野殿御返事 弘安元年四月一日 五七歳
別名『法要書』
第一章 石河の姫御前の死去を悼む
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白米一斗・いも一駄・こんにゃく五枚・わざと送り給び候ひ了んぬ。
なによりも石河の兵衞入道殿のひめ御前の度々御ふみをつかはしたりしが、三月の十四・五のやげにて候ひしやらむ、御ふみありき。この世の中をみ候に、病なき人もこねんなんどをすぐべしともみえ候はぬ上へ、もとより
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病ものにて候が、すでにきうになりて候、さいごの御ふみ也とかゝれて候ひしが、さればつゐにはかなくならせ給ひぬるか。
第二章 念仏・真言・禅が仏説に背くを明かす
臨終に南無阿弥陀仏と申しあはせて候人は、仏の金言なれば一定の往生とこそ人も我も存じ候へ。しかれどもいかなる事にてや候ひけん。仏のくひかへさせ給ひて、未顕真実正直捨方便ととかせ給ひて候があさましく候ぞ。此を日蓮が申し候へば、そら事うわのそらなりと日本国にはいかられ候。此のみならず、仏の小乗経には十方に仏なし、一切衆生に仏性なしととかれて候へども、大乗経には十方に仏まします、一切衆生に仏性ありととかれて候へば、たれか小乗経を用ひ候。皆大乗経をこそ信じ候へ。此のみならず、ふかしぎのちがひめども候ぞかし。法華経は釈迦仏、已今当の経々を皆くひかへしうちやぶりて、此の経のみ真実なりととかせ給ひて候ひしかば、御弟子等用うる事なし。爾の時多宝仏証明をくわへ、十方の諸仏舌を梵天につけ給ひき。さて多宝仏はとびらをたて、十方の諸仏は本土にかへらせ給ひて後は、いかなる経々ありて法華経を釈迦仏やぶらせ給ふとも、他人わゑになりてやぶりがたし。しかれば法華経已後の経々、普賢経・涅槃経等には法華経をばほむる事はあれどもそしる事なし。而るを真言宗の善無畏等、禅宗の祖師等此をやぶり、日本国皆此の事を信じぬ。例せば将門・貞任なんどにかたらはれし人々のごとし。日本国すでに釈迦・多宝・十方の仏の大怨敵となりて数年になり候へば、やうやくやぶれゆくほどに、又、かう申す者を御あだみあり、わざわひにわざわひのならべるゆえに、此の国土すでに天のせめをかほり候はんずるぞ。
第三章 姫御前の臨終正念を讃える
此の人の先世の宿業か、いかなる事ぞ臨終に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひける事は、一眼のかめの浮木の穴に入り、天より下すいとの大地のはりの穴に入るがごとし。あらふしぎあらふしぎ。又念仏は無間地獄に堕つると申す事をば、経文に分明なるをばしらずして、皆人日蓮が口より出でたりとおもへり。天はまつげのごとしと
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申すはこれなり。虚空の遠きと、まつげの近きと人みなみる事なきなり。此の尼御前は日蓮が法門だにひが事に候はゞ、よも臨終には正念には住し候はじ。
第四章 末法の要法を示し信心を勧める
又日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候。南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神のごとし。此れにものをならぶれば、きさきのならべて二王をおとことし、乃至きさきの大臣已下になひなひとつぐがごとし。わざわひのみなもとなり。正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候もわたくしの計らひにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計らひなり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゝしきひが事なり。日出でぬればとぼしびせんなし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべきか。良薬に又薬を加へぬる事なし。此の女人はなにとなけれども、自然に此の義にあたりてしをゝせぬるなり。たうとしたうとし。恐々謹言。
弘安元年四月一日 日 蓮 花押
上野殿御返事