衆生身心御書   弘安元年春  五七歳

 

第一章 爾前は随他意、法華は随自意なるを明かす

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 衆生の身心を()かせ給ふ。其の衆生の心にのむとて()かせ給へば、人の説なれども衆生の心をいでず。かるがゆへに随他意の経となづけたり。譬へばさけ()この()まぬをやの、きわめてさけをこのむいとをし(最愛)き子あり。()つはいとをしみ、かつは心をとらんがために、かれにさけをすゝ()めんがために、父母も酒をこのむよしをするなり。しかるをはかなき子は父母も酒をこのみ給ふとをもへり。(だい)()経と申す経は人天の事をとけり。阿含経と申す経は二乗の事をとかせ給ふ。華厳経と申す経は菩薩のことなり。方等・般若経等は或は阿含経・提謂経に()たり、或は華厳経にも()たり。此等の経々は末代の凡夫これを()み候へば、仏の御心に叶ふらんとは行者はをも()へども、くはし()くこれをろむ()ずれば(おの)が心をよむなり。己が心は本よりつたな()き心なれば、はかばかしき事なし。法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給ふ。仏の御心はよき心なるゆへに、たと()()()らざる人も此の経をよみたてまつれば利益はか()りなし。麻の中のよもぎ()つゝ()の中のくちな()は・よき人にむつ()ぶもの、なにとなけれども心もふるま(振舞)ひも言もなを()しくなるなり。法華経もかくのごとし。なにとなけれどもこの経を信じぬる人をば仏のよき物とをぼ()すなり。
 
 法華経以前の諸経は衆生の身と心とを説かれたものである。衆生の心に随おうとして説かれたのであるから、仏の説であっても衆生の心を出ていない。それゆえに随他意の経と名づけているのである。譬えば酒が好きでない親に極めて酒好きの愛おしい子がいたとする。親は子をかわいがり、子の心を引きつけるために酒を勧め、自分達も酒を好きなふりをするのである。それを、愚かな子は父母も酒を好んでいると思っているようなものである。
 提謂経という経は人界と天界のことを説いている。阿含経という経は声聞と縁覚のことを説いている。華厳経という経は菩薩のことを説いている。方等経・般若経等は、あるいは阿含経・提謂経に似ており、あるいは華厳経にも似ている。
 末代の凡夫はこれらの経々を読めば仏の御心に叶うであろうと思っても、よく考えてみれば己れの心を読んでいるのである。凡夫の心は、もとよりつたないものであるから、何の功徳もないのである。
 法華経という経は随自意といって、仏の御心を説かれたものである。仏の御心はもとより素晴らしい心であるから、たとえ法華経の理を知らない人であっても、この経を読み奉れば利益は計り知れない。たとえば、麻の中に生えた蓬、筒の中に入った蛇が真っすぐになり、善人と親しくなる者がおのずと心も行いも真っすぐになるようなものである。法華経もまたこのようなものである。他に特別なことはなくても、この経を信じている人を、仏は善い者だと思われるのである。

  

第二章 如来の使いに三種あるを示す

 此の法華経にをひ()て、又機により、時により、国により、ひろ()むる人により、
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やうやう(様々)にかわりて候をば、等覚の菩薩までも()あわひ()をばしらせ給わずとみへて候。まして末代の凡夫はいかでかはからひをゝ()せ候べき。しかれども人のつかひに三人あり。一人はきわめてこざかしき。一人ははかなく(果無)もなし、又こざかしからず。一人はきわめてはかなくたしかなる。此の三人に第一はあやま()ちなし。第二は第一ほどこそなけれども、すこしこざかしきゆへに、主の御ことばに私の言を()うるゆへに、第一のわる()つか(使)いとなる。第三はきわめてはかなくあるゆへに、私の(ことば)まじ()へず。きわめて正直なるゆへに主の言をたがへず。第二よりもよき事にて候。あやまって第一にもすぐれて候なり。第一をば月支の四依にたと()う。第二をば漢土の人師にたとう。第三をば末代の凡夫の中に愚癡(ぐち)にして正直なる物にたとう。
   この法華経も人々の機根により、時により、国により、弘める人により、さまざまに変わっているのを等覚の菩薩でもこのことを知らないと思われる。まして、末代の凡夫がどうして知ることができようか。

 しかし、たとえば人の使いにも三種の人がいる。一人は非常に賢しく、一人は愚かでもないがまた賢くもなく、一人は極めて愚かであるが確かである。この三種の使いのうち、第一の使いは過ちがない。第二の使いは第一の使いほどではないが少し賢しいので、主人の言葉に自分の言葉を添えるから最も悪い使いとなる。第三の使いは極めて愚かであるゆえに、自分の言葉を交えず、極めて正直であるから主人の言葉を違えず、第二の使いよりもよい使いとなり、どうかすると第一の使いよりも勝れた使いとなるのである。
 第一の使いをインドの四依にたとえ、第二の使いを中国の人師にたとえ、第三の使いを末代の凡夫のなかでも、愚癡であるが正直の者にたとえるのである。

 

第三章 正法時の論師を挙げる

 仏在世はしばらく此を()く。仏の御入滅の次の日より一千年をば正法と申す。この正法一千年を二つに()かつ。前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給ふ。ひろめし人々は迦葉・阿難等なり。後の五百年は馬鳴・竜樹・無著・天親等、権大乗経を弘通せさせ給ふ。法華経をばかたはし(片端)計りかける論師もあり、又つやつや申し()ださぬ人もあり。正法一千年より後の論師の中には、少分は仏説に()たれども、多分をあやま()りあり。あやまりなくして而も()らざるは迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等なり。    仏の御在世はしばらくおく。仏の御入滅の次の日から一千年の間を正法時代という。この正法一千年を二つに分ける。前半の五百年の間は小乗経が弘まり、これを弘めた人は迦葉・阿難等であった。後半の五百年は馬鳴・竜樹・無著・天親等が権大乗経を弘通されたのである。
 これらの人々のうちには、法華経を片端ばかり書いた論師もあり、また、まったく言い出さなかった人もあった。正法一千年より後に出た論師の中には、少しは仏説に似せて述べているが、多くの誤りがある。誤りがないが不十分なのが迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等である。

 

第四章 像法の諍論の様相を述べる

 像法に入りて一千年、漢土に仏法わたりしかば、始めは儒家と相論せしゆへに、いとまなきかのゆへに、仏教の内の大小権実の沙汰なし。やうや()く仏法流布せし上、月支よりかさねがさね仏法わたり来るほどに、前の人々はかしこ()きやうなれども後にわたる経論をもってみればはかなき事も出来す。又はかなくをも()ひし人々もかしこくみゆる事もありき。結句は十流になりて千万の義ありしかば、愚者はいづ()れにつくべしともみへず、智者とをぼしき人は偏執かぎりなし。而れども最極は一同の義あり。所謂一代第一は華厳経・第二は涅槃経・第三は法華経なり。此の義は上一人より下万民にいたるまで異義なし。大聖とあうぎ()し法雲法師・智蔵法師等の十師の義一同なりしゆへなり。    次の像法時代の一千年に、仏法は中国に渡ったが、はじめは儒教の学者と議論を戦わせていたので、ゆとりがなかったゆえに、仏教の内の大乗と小乗、権教と実教といった論議はなかった。
 だんだん仏法が流布したところへ、インドから次々と仏法が渡来したため、これまでは前の人達が賢明なように思われたが、後に渡った経論から見れば誤りであったということもあり、また、愚かと思っていた人々が賢く見えるようなこともあったのである。結局、仏法は十派に分かれ、千万の義があったので、愚かな者はどれについたらよいのかわからず、智者と思われる人はどこまでも偏執を強めていった。
 しかしそうであっても、いずれも一致した義があった。いわゆる、一代聖教の第一は華厳経、第二は涅槃経、第三は法華経ということであった。この義は上一人より下万民にいたるまで異論がなかった。それは、大聖と仰がれていた法雲法師・智蔵法師等の十師の意見が一致したものであったからである。

 

五章 天台大師の出現と公場対決を述べる

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 而るを像法の中の陳・隋の代に智顗(ちぎ)と申す小僧あり。後には智者大師とがうす。法門多しといへども、詮ずるところ法華・涅槃・華厳経の勝劣の一つ計りなり。智・法師の云はく、仏法さかさまなり云云。陳主此の事をただ()さんがために、南北の十師の最頂たる慧恆(えごう)僧上・慧曠(えこう)僧都・慧栄(ええい)・法歳法師等の百有余人を召し合はせられし時、法華経の中には「諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云。又云はく「()今当(こんとう)の説は最も()難信(なんしん)(なん)()なり」等云云。已とは無量義経に云はく「摩訶(まか)般若(はんにゃ)()(ごん)海空」等云云。当とは涅槃経に云はく「般若波羅蜜より大涅槃を出だす」等云云。此の経文は華厳経・涅槃経には法華経勝ると見る事赫々(かくかく)たり明々たり、御会通あるべしと()めしかば、或は口を()ぢ、或は悪口を()き、或は色をへん()じなんどせしかども、陳主立ちて三拝し、百官掌を()わせしかば、力及ばず()けにき。
 
 ところが像法時代の中の陳隋の時代に、智顗という小僧があり、後に天台智者大師と号された。大師の説かれた法門は数多いが、詮ずるところ、仏法の勝劣は法華経・涅槃教・華厳経の順でありこれ以外にはないということであった。
 智顕法師いわく「今の仏法の次第は逆である」と。陳朝の天子はこの是非を明らかにするため、南三北七の大師の上首である恵僧上・恵光僧都・恵栄・法歳法師等の百余人の学者を召し集めて天台大師と対論させられたのである。
 この時、天台大師は「法華経のなかに安楽行品第十四には『諸経の中に於いて、最も其の上に在り』とある。また法師品第十には『已今当説・最為難信難解』とある。この文にある已とは、無量義経に『摩訶般若・華厳海空』とある。当とは、涅槃経巻十四に『般若波羅蜜より大涅槃を出だす』とある。これらの経文に華厳経・涅槃経よりも法華経が勝れるとあることは赫赫であり、明明である。この仏説に意義があるなら回答されたい」と責められたところ、学者達は或いは口を閉じ、或いは悪口を吐き、或いは顔色を変えたりしたが、陳主が起って天台大師を三拝し、百官も合掌したので、力及ばず破れてしまったのである。

 

第六章 天台大師以後の仏法混乱の相を明かす

 一代の中には第一法華経にてありしほどに、像法の後の五百に新訳の経論重ねてわたる。太宗皇帝の貞観三年に玄奘と申す人あり。月支に入りて十七年、五天の仏法を習ひきわめて、貞観十九年に漢土へわたりしが、深密経・瑜伽論・唯識論・法相宗をわたす。玄奘の云はく「月支に宗々多しといへども、此の宗第一なり」と。太宗皇帝は又漢土第一の賢王なり。玄奘を師とす。此の宗の所詮に云はく「或は三乗方便・一乗真実、或は一乗方便・三乗真実」と。又云はく「五性は各別なり、決定性と無性の有性は永く仏に成らず」等云云。此の義は天台宗と水火なり。而も天台大師と章安大師は御入滅なりぬ。其の已下の人々は人非人なり。すでに天台宗破れて()へしなり。其の後則天皇后の御世に華厳宗立つ。前に天台大師に()められし六十巻の華厳経をばさしをきて、後に日照三蔵のわたせる新訳の華厳経八十巻をもって立てたり。此の宗のせん()にいわく、華厳経は根本法輪、法華経は枝末法輪等云云。則天皇后は尼にてをはせしが内外典にこざかしき人なり。慢心たか()くして天台宗をさげ()をぼ()してありしなり。法相といゐ、華厳宗といゐ、二重に法華経かくれさせ給ふ。其の後玄宗皇帝の御宇に月支より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしっじ)経と申す三経をわたす。
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此の三人は人がらといゐ、法門といゐ、前々の漢土の人師には対すべくもなき人々なり。而も前になかりし印と真言とをわたす。ゆへに仏法は已前には此の国になかりけりとをぼせしなり。此の人々の云はく、天台宗は華厳・法相・三論には勝れたり。しかれども此の真言経には及ばずと云云。其の後妙楽大師は天台大師のせめ給はざる法相宗・華厳宗・真言宗をせめ給ひて候へども、天台大師のごとく公場にてせめ給はざれば、たゞ闇夜のにしき()のごとし。法華経になき印と真言と現前なるゆへに、皆人一同に真言まさりにて有りしなり。
  一代聖教の中では法華経第一が確定していたのに、像法の後の500年に新訳の経論が次々と渡ってきた。唐の大宗皇帝の治世、貞観3年(0629)に玄奘という人がインドに入って17年間、五天竺の仏法を習い究めて貞観19年(0645)に中国に帰り、深密経、瑜伽論・唯識論、法相宗を中国へ伝えた。
 玄奘いわく「インドに宗派はたくさんあるが法相宗が第一である」と。太宗皇帝は又中国第一の賢王であるが、玄奘を師とされたのである。この宗の所詮は「三乗方便・一乗真実」、或いは「一乗方便・三乗真実」、或いは「五性は各別なり。決定性と無性の有情は永く仏にならず」と。この義は天台宗とは水と火のように相容れない。しかも、天台大師と章安大師はすでに御入滅になっており、その後の人達は人らしい人もなかったので天台宗も破れてしまったように見えたのである。
 その後、則天皇后の治世に華厳宗が成立した。すでに天台大師に責められた六十巻の旧訳の華厳経をさしおいて、後に日照三蔵が伝えた新訳の八十巻の華厳経に依って立てたのである。この宗の所詮は「華厳経は根本法輪、法華経は枝末法輪」ということである。則天皇后は尼であったが、仏典と外典について少々知識があったため、慢心を起こして天台宗をさげすんでいたのである。こうして法相宗と、華厳宗とによって、二重に法華経はかくれてしまったのである。
 その後、玄宗皇帝の治世に、インドから善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵が大日経・金剛頂経・蘇悉地経という三つの経を伝えた。
 この三人は人柄といい法門といい、それまでの中国の人師とは比べものにならないほどの人々であった。しかも、これまでになかった印と真言とを伝えたので、真実の仏法は以前には中国になかったものであると思っていたのである。この人々のいわく「天台宗は華厳宗・法相宗・三論宗には勝れているが、この真言経には及ばない」と。
 その後、妙楽大師は天台大師が責められなかった法相宗・華厳宗・真言宗を責められたが、天台大師のように公場での対決ではなかったために、ちょうど闇夜の錦のように人々には見えず、法華経にない印と真言とが目の前にあるので、人々は一同に真言宗が天台宗より勝れていると思ってしまったのである。

 

第七章 仏教の日本伝来と伝教大師の事跡を述べる

 像法の中に日本国に仏法わたり、所謂欽明天皇六年なり。欽明より桓武にいたるまで二百余年が間は三論・成実・法相・倶舍・華厳・律の六宗弘通せり。真言宗は人王四十四代元正天皇の御宇にわたる。天台宗は人王第四十五代聖武天皇の御宇にわたる。しかれどもひろまる事なし。桓武の御代に最澄法師、後には伝教大師とがう()す。入唐已前に六宗を習ひきわむる上、十五年が間天台・真言の二宗を山にこもりゐて御覧ありき。入唐已前に天台宗をもって六宗をせめしかば七大寺皆せめられて最澄の弟子となりぬ。六宗の義やぶ()れぬ。後延暦廿三年に御入唐、同じき廿四年御帰朝、天台・真言の宗を日本国にひろめたり。但し勝劣の事は内心に此を存じて人に向かって()かざるか。    同じ像法の時代に日本に仏法が渡ってきた。いわゆる欽明天皇の6年のことである。この欽明天皇から桓武天皇に至るまでの二百余年の間は、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗の六宗が弘通された。真言宗は人王第四十四代の元正天皇の治世に渡来し、天台宗は人王第45代の聖武天皇の治世に渡来した。しかし弘まることはなかったのである。
 桓武天皇の治世に最澄といって、後には伝教大師と号された人が、入唐以前に六宗を習い究めた上に、15年もの間、天台・真言の二宗を比叡山に籠もって研究されていた。入唐以前に天台宗をもって六宗を責めたところ、南都七大寺の高僧達は、皆責め落とされて最澄法師の弟子となった。六宗の義は破れてしまったのである。その後、延暦23年(0804)に入唐、同じ延暦25年(0805)に帰朝され、天台・真言の二宗を日本国に弘めたのである。しかし、二宗の勝劣はただ御自身の胸の中では知っておられたが、人に向かっては説かなかったのであろうか。

 

第八章 弘法・慈覚・智証の邪義出来の相を示す

 同じき代に空海という人あり、後には弘法大師とがうす。延暦廿三年に御入唐、大同三年御帰朝、但真言の一宗を習ひわたす。此の人の義に云はく、法華経は尚華厳経に及ばず。何に況んや真言にをひてをや。伝教大師の御弟子に円仁という人あり。後に慈覚大師とがうす。去ぬる承和五年の御入唐、同じき十四年に御帰朝、十年が間真言・天台の二宗をがくす。日本国にて伝教大師・義真・円澄に天台・真言の二宗を習ひきわめたる上、漢土にわたりて十年が間八箇の大徳にあひて真言を習ひ、宗叡・志遠等に値ひ給ひて天台宗を習ふ。日本に帰朝して云はく、天台宗と真言宗とは同じく醍醐なり。倶に深秘なり等云云。宣旨を申してこれにそう。其の後円珍と申す人あり。後には智証大師とがうす。入唐已前には義真和尚の御弟子なり。日本国にして義真・円澄・
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円仁等の人々に天台・真言の二宗を習ひきわめたり。其の上去ぬる仁寿二年に御入唐、貞観元年に御帰朝、七年が間天台・真言の二宗を法全・良等の人々に習ひきわむ。天台・真言の二宗の勝劣鏡をかけたり。後代に一定あらそひありなん、定むべしと云ひて、天台・真言の二宗は譬へば人の両の目・鳥の二の翼のごとし。此の外異義を存ぜん人々をば祖師伝教大師にそむく人なり、山に住むべからずと宣旨を申しそへて弘通せさせ給ひき。されば漢土日本に智者多しというとも此の義をやぶる人はあるべからず。此の義まことならば習ふ人々は必ず仏にならせ給ひぬらん。あがめさせ給ふ国王等は必ず世安穏にありぬらんとをぼゆ。
   伝教大師と同じ時代に空海という人があり、後に弘法大師と号した。延暦二十三(0804)年に入唐、大同三(0808)年に帰朝した。ただ真言の一宗だけを習い伝えた。この人の義にいわく「法華経は華厳経にさえ及ばない。いわんや大日経はなおさらである」と。
 伝教大師の御弟子に円仁という人があり、後に慈覚大師と号した。承和五(0838)年に入唐し、同じく承和十四(0847)年に帰朝した。この10年の間、真言・天台の二宗を学んだのである。日本にいる時は伝教大師・義真・円澄などから天台・真言の二宗を習い究めたうえ、中国に渡って10年の間に8人の学者にあって真言を学び、宗叡・志遠等に値って天台宗を学んだ。日本に帰朝していわく「天台宗と真言宗とは同じく醍醐味の経であり、ともに深秘の経である」と、朝廷からの宣旨をこれに添えられたのである。

 その後、円珍という人があり、後には智証大師と号した。入唐する以前は義真和尚の御弟子であった。日本にいる時は義真・円澄・円仁等の人々から天台・真言の二宗を習い究めたのである。そのうえに仁嘉3年(0853)に入唐、貞観元年(0859)に帰朝された。七年間、天台・真言の二宗を法全・良諝等の人々に習い究められたのである。天台・真言の二宗の勝劣は鏡に映したように明らかであるが、後の代には必ず諍いがあるだろう。それを防ぐために勝劣を定めておくと言って「天台・真言の二宗は譬えば人の二つの目・鳥の二つの翼のようなもので勝劣はない。この外に異義を立てる者は祖師伝教大師に背く人であり、この山に住んではならない」と、朝廷からの宣旨を添えて国中に弘められたのである。
 それゆえ、中国、日本に智者が多いといっても、この義を破る人はいるはずがない。この義が真実であるなら、習学する人々は必ず成仏するであろう。崇められる国王等は必ず安穏であると思われるのである。

第九章 道理・文証を尽くすべきを説く

 但し予が愚案は人に申せども、御もちゐあるべからざる上、身のあだとなるべし。又きかせ給ふ弟子檀那も安穏なるべからずとをもひし上、其の義又たがわず。但此の事は一定仏意には叶わでもやあるらんとをぼへ候。法華経一部八巻二十八品には此の経に勝れたる経をはせば、此の法華経は十方の仏あつまりて大妄語をあつめさせ給へるなるべし。随って華厳・涅槃・般若・大日経・深密等の経々を見るに「於諸経中最在其上」の明文をやぶりたる文なし。随って善無畏等・玄奘等、弘法・慈覚・智証等種々のたくみあれども、法華経を大日経に対してやぶりたる経文はいだし給わず。但印と真言計りの有無をゆへとせるなるべし。数百巻のふみをつくり、漢土日本に往復して無尽のたばかりをなし、宣旨を申しそへて人ををどされんよりは、経文分明ならばたれか疑ひをなすべき。つゆつもりて河となる、河つもりて大海となる、塵つもりて山となる、山かさなりて須弥山となれり。小事のつもりて大事となる。何に況んや此の事は最大事なり。疏をつくられけるにも両方の道理文証をつくさるべかりけるか。又宣旨も両方を尋ね極めて分明の証文をかきのせていましめあるべかりけるか。    ただし日蓮の考えは全くこれと異なっており、これを人に言っても用いられないばかりか、この身の災いとなるであろう。また、このことを聴いた弟子・檀那も安穏ではないだろうと思ったが、その通りに少しも違わない。ただ、この慈覚・智証の説は仏意に叶っていないと思われる。
 法華経一部八巻二十八品を拝せば、この法華経より勝れた経があるなら、この法華経は十方の仏が集まって大妄語を集められたことになるのである。したがって、華厳経・涅槃経・般若経・大日経・深密経等の経々を見るのに「諸経の中に於いて、最も其の上に在り」の法華経第一の明文を破った文はない。
 それゆえ、善無畏等、玄奘等、弘法・慈覚・智証等はさまざまに巧みな義を立てたが、法華経は大日経より劣っているとする経文は出せず、ただ印と真言の有無を根拠としたのであろう。数百巻の書物を造り、中国・日本を往来し、無数の謀計をなし、朝廷の宣旨まで添えて人を威そうとするよりも、経文が分明であれば、誰が疑いをなすことができようか。
 露が集まって河となり、河が集まって大海となるように、塵が積もって山となり、山が重なって須弥山となるように、小事がつもって大事となるのである。いわんや、このことは最も大事なことなのである。経論の注釈書をつくるにしても、法華経と真言との道理・文証を十分にあげるべきであった。また朝廷の宣旨も、これら両方を十分に究明して、明らかな文書を書き載せて教誡されるべきであった。

 

第十章 「已今当」の経文破り難きを宣す

 已今当の経文は仏すらやぶりがたし。何に況んや論師・人師・国王の威徳をもってやぶるべしや。已今当の経文をば梵王・帝釈・日月・四天等聴聞して各々の宮殿にかきとゞめてをはするなり。まことに已今当の経文を知らぬ人の有る時は、
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先の人々の邪義はひろまりて失なきやうにてはありとも、此の経文をつよく立てゝ退転せざるこわ物出来しなば大事出来すべし。いやしみて或はのり、或は打ち、或はながし、或は命をたゝんほどに、梵王・帝釈・日月・四天をこりあひて此の行者のかたうどをせんほどに、存の外に天のせめ来たって民もほろび国もやぶれんか。法華経の行者はいやしけれども守護する天こわし。例せば修羅が日月をのめば頭七分にわる、犬が師子をほゆればはらわたくさる。今予みるに日本国かくのごとし。又此を供養せん人々は法華経供養の功徳あるべし。伝教大師釈して云はく「讃めん者は福を安明に積み謗ぜん者は罪を無間に開かん」等云云。ひへのはんを辟支仏に供養せし人は普明如来となる。つちのもちゐを仏に供養せしかば閻浮提の王となれり。設ひこうをいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪とはなれども善とならず。設ひ心をろかにすこしきの物なれども、まことの人に供養すればこう大なり。何に況んや心ざしありてまことの法を供養せん人々をや。其の上当世は世みだれて民の力よわし。いとまなき時なれども心ざしのゆくところ、山中の法華経へまうそうがたかんなををくらせ給ふ。福田によきたねを下させ給ふか。なみだもとゞまらず。
   「已今当」の経文は仏でさえ破ることができない。まして、論師・人師・国王の威徳でこれを破ることができるわけがない。「已今当」の経文は、梵天・帝釈・日月天・四天等が聴聞して、それぞれの宮殿に書き留められているものである。この「已今当」の経文を知らない人のある間は、先の人々の邪義が弘まって何の失もないようであっても、この経文を強く立て、不退転で訴える者が出てくると大事が出来するのである。そして、この者を卑しんで、或いは罵詈し、或いは打擲し、或いは流罪し、或いは命を断とうとしたので、梵王・帝釈・日月・四天が怒って、この行者の味方をするので、思いがけない天の責めが下って、民も亡び国も破れてしまおうとしているのであろうか。
 法華経の行者は卑しいけれども、守護する諸天は強い。たとえば、修羅が日月を呑むと頭が七分にわれ、犬が師子を吠えればかえって腸がくさるように、今日蓮が世を見るのに、日本国はその通りとなっている。
 また、法華経の行者を供養する人々は、法華経供養の功徳があるのである。伝教大師の釈にいわく「讚めん者は福を安明に積み、謗せん者は罪を無間に開かん」等と。
 稗の飯を辟支仏に供養した人は普明如来となり、土の餅を仏に供養した人は閻浮提の王となったのである。たとえ功徳を積んでも真実でない人を供養すれば大悪とはなっても善とはならない。たとえ心が愚かで、少しの物の供養であっても真実の人に供養すれば功徳は大きい。まして厚い志をもって、真実の法を供養する人人の功徳はどれほど大きいか計り知れない。
 そのうえ、今の世は乱れて民の生活も楽でない。それも暇もない時節に、日蓮の身を案じて身延の山中の法華経へ、孟宗の筍を送られたのは、福田にすばらしい善根の種を蒔かれたのか。厚い志に涙もとどまらないのである。