始聞仏乗義  建治四年二月二八日 五七歳

 

第一章 二種開会の名目と意義を明かす

(★1207㌻)
 青鳧(せいふ)(ゆい)下州より甲州に送らる。其の御志悲母(ひも)の第三年に(あい)当たる御孝養なり。
 
 銭七結、下総より甲斐の身延に送られたそのお志は、悲母の三回忌の追善供養のためである。
 問ふ、止観(しかん)明静(みょうじょう)前代未聞の心如何。答ふ、円頓(えんどん)止観(しかん)なり。問ふ、円頓止観の意(いかん)。答ふ、法華三昧(さんまい)の異名なり。問ふ、法華三(まい)の心如何。答ふ、(それ)末代の凡夫法華経を修行する意に二有り。一には就類種(じゅるいしゅ)開会(かいえ)、二には相対種(そうたいしゅ)の開会なり。    問う。「止観の明静なることは前代に未だかって聞かない」と章安大師が讃めた意味はどういうことか。答う。円頓止観の法門を讃めたのである。 問う。円頓止観とはどういう意味か。答う。法華三昧の異名である。 問う。法華三昧とはどういう意味か。答う。末代の凡夫が法華経を修行する方法であり、それには二つある。一には就類種の開会、二には相対種の開会である。 
 問ふ、此の名は何より出でたるや。答ふ、法華経の第三薬草喩品に云へる「種相体性」の四字なり。其の四字の中に第一の種の一字に二あり。一には就類種、二には相対種なり。    問う。この名目はどこから出たのか。答う。法華経巻三薬草喩品第五にいう「種・相・体・性」の四字である。その四字の中の第一の「種」の一字に二意あり、一には就類種二には相対種である。
 其の就類種とは釈に云はく「(およ)そ心有らん者は是正因(しょういん)の種なり。随聞一句は是了因(りょういん)の種なり。低頭(ていず)挙手(こしゅ)は是縁因(えんいん)の種なり」等云云。其の相対種とは、煩悩と業と苦との三道、其の当体を押さへて法身(ほっしん)般若(はんにゃ)解脱(げだつ)と称する是なり。    その就類種の開会とは、法華経玄義巻九下に「およそ心のある者は、皆正因の仏種である。随って経文の一句でも聞くのは了因の仏種である。頭を低く垂れ手を挙げて拝むのは縁因の仏種である」と解釈している。その相対種の開会とは煩悩と業と苦との三道を、その体をそのまま法身と般若と解脱と称することである。
 其の中に就類種の一法は、宗は法華経に有りと雖も少分は又爾前の経々にも通ず。妙楽云はく「別教には唯就類の種有って而も相対無し」云云。
(★1208㌻)
 此の釈に別教と云ふは本の別教には非ず、爾前の円或は他師の円なり。又法華経の迹門の中、供養舍利(しゃり)已下二十余行の法門も大体(だいたい)就類種の開会なり。
   その中に就類種の開会の一法は、根本の法華経に有るのであるが、少分はまだ爾前の経々にも通じている。妙楽大師は法華文句記巻七下に「別教はただ就類の種はあるが相対種はない」と釈している。
 この釈の別教というは、もとのままの別教のことではなく、爾前経に説かれた円教、あるいは天台家以外の他師の立てた円教のことである。また法華経の迹門の中、方便品第二の「舎利を供養する者」已下の二十余行に説かれた法門も、だいたい就類種の開会である。
 問ふ、其の相対種の心は如何。答ふ、止観に云はく「云何(いか)なるか円の法を聞く。生死(しょうじ)即法身(そくほっしん)なり、煩悩即般若(ぼんのうそくはんにゃ)なり、結業(けつごう)(そく)解脱(げだつ)なりと聞くなり。三の名有りと雖も而も三の体無し。是一体なりと雖も而も三の名を立つ。是の三即ち一相にして其れ実には異なり有ること無し。法身究竟(くきょう)すれば般若解脱も(また)究竟す。般若清浄なれば余も亦清浄なり。解脱自在なれば余も亦自在なり。一切の法を聞くも亦是くの如し。皆仏法を具して減少する所無し。是を聞円(もんえん)と名づく」等云云。此の釈は即ち相対種の手本なり。    問う。その相対種の開会とはどういう法門か。答う摩訶止観巻一上に「どのようなことが円教の法門を聞くということなのか。それは、この生死の身がそのまま仏の法身常住の身体となり、煩悩がそのまま仏の般若の智慧となり、悪業がそのまま仏の解脱の徳となると聞くことである。三つの名があるけれども、三つの体があるのではない。本来は一体であるものを、三つの名を立てたのである。この三つはすなわち一相であり、その本体は別々ではない。法身が究竟すれば、般若も解脱もまた究竟する。般若が清浄であれば、余の二つもまた清浄である。解脱が自在であれば、余のふたつもまた自在である。一切の法を聞くことはまたこのようなものである。皆仏法を具えて減少するところがない。これを円教を聞くと名づけるのである」と解釈されている。この釈は、すなわち相対種の手本である。 

 其の意如何。答ふ、生死とは我等が苦果の依身なり。所謂五(おん)・十二入・十八界なり。煩悩とは見思(けんじ)塵沙(じんじゃ)無明(むみょう)の三惑なり。結業とは五逆・十悪・四重等なり。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我等衆生無始(むし)曠劫(こうごう)より已来此の三道を具足し、今法華経に()ひて三道即三徳となるなり。    その意味はどういうことか。答う。生死とは、我等が過去の業によって受けた果報としての苦しみの身心である。いわゆる五陰・十二入・十八界である。煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑である。結業とは五逆・十悪・四重禁等である。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来である。我等衆生は無始の昔から、この煩悩・業・苦の三道を具足しているのであるが、いま法華経にあって、三道がそのまま法身・般若・解脱の三徳となるのである。

 

第二章 末代凡夫の即身成仏の原理を明かす

 難じて云はく、火より水は出でず、石より草は生ぜず。悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるは仏教の定まれる習ひなり。而るに我等其の根本を尋ね(きわ)むれば、父母の精血赤白二(てい)和合して一身と為る。悪の根本不浄の源なり。(たと)ひ大海を傾けて之を洗ふとも清浄なるべからず。又此の苦果の依身は其の根本を探り見れば(とん)(じん)()の三毒より出ずるなり。此の煩悩・苦果の二道に依って業を構ふ。此の業道即ち是結縛(けつばく)の法なり。譬へば(かご)に入れる鳥の如し。如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや。譬へば糞を集めて栴檀(せんだん)を造れども終に香ばしからざるが如し。    難じて云う。火から水は出ない。石から草は生じない。悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるは仏教の定まった習いである。しかるに我等の生死の根本を尋ね究めてみれば、父母の精血・赤白二渧が和合して一身となったのであり、悪の根本、不浄の源である。たとえ大海を傾けて洗っても清浄になるはずがない。またこの苦果の依身は、その根本を探ってみれば貧・瞋・癡の三毒より出じたものである。この煩悩と苦果の二道によって業を作る。この業道が我等を三界六道の苦しみの世界に縛りつけているのである。譬えば籠に入れられた鳥のようなものである。どうしてこの三道をもって三仏因と称するのか。譬えば糞を集めて栴檀の香木を造っても、けっして栴檀の香りはしないようなものである。
 答ふ、汝が難大いに道理なり。我此の事を弁へず。但し付法蔵(ふほうぞう)の第十三・天台大師の高祖・竜樹菩薩、妙法の妙の一字を釈して「(たと)へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。毒と云ふは何物ぞ、我等が煩悩(ぼんのう)(ごう)()の三道なり。薬とは何物ぞ、法身(ほっしん)般若(はんにゃ)()(だつ)なり。「(のう)()(どく)()(やく)」とは何物ぞ、三道を変じて三徳と為すのみ。天台云はく「妙は不可思議に名づく」等云云。
(★1209㌻)
又云はく「(それ)一心乃至不可思議(ふかしぎ)(きょう)の意(ここ)に在り」等云云。即身成仏と申すは此是(これ)なり。近代の華厳・真言等、此の義を盗み取って我が物と為す。大偸盗(ちゅうとう)、天下の盗人是なり。
   答う。あなたの不審はしごくもっともなことである。私はこのことを心得ていない。ただし付法蔵の第十三祖で、天台大師の高祖である竜樹菩薩は、妙法の妙の一字を解釈して「譬えば大薬師のよく毒を以って薬とするようなものである」といわれている。毒とは何をさしていったかというと、我等の煩悩・業・苦の三道のことである。薬とは何かというと、法身・般若・解脱の三徳である。「よく毒を以って薬とする」とはどのようなことかというと、三道を変じて三徳とすることである。天台大師は法華玄義に「妙は不可思議と名づける」といわれている。
 また摩訶止巻五上に「一心に十法界を具している。乃至、不可思議境という。意はここにあり」といわれている。即身成仏の法門というのはこのことである。近代の華厳宗や真言宗などの学者は、この義を盗み取って我物としている。大偸盗、天下の盗人である。
 問うて云はく、凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや。答ふ、私の答へは詮無し。竜樹菩薩の大論九十三也に云はく「今漏尽(ろじん)阿羅(あら)(かん)還って作仏すと言ふは、唯仏のみ能く知ろしめす。論議とは正しく其の事を論ずべきも測り知ること(あた)はず。是の故に戯論(けろん)すべからず。()し仏を求得(ぐとく)する時(いま)()了知(りょうち)す。余人は信ずべし、而も未だ知るべからず」等云云。此の釈は爾前の別教十一品の断無明、円教の四十一品の断無明の大菩薩普賢・文殊等も未だ法華経の意を知らず、何に況んや蔵・通二教の三乗をや、何に況んや末代の凡夫をやと云ふ論文なり。
 
   問う。凡夫の我等のもこの秘法の意を理解することができるであろうか。答う。私見による答えは無益である。竜樹菩薩の大智度論巻九十三には「今、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は、仏になれないと決まっているのに、かえって成仏するというのは、唯仏のみがよく知っていることである。論議は正しくその事を論ずべきであるが、測り知ることはできない。ゆえに戯れの論議をしてはならない。もし仏になることができた時は、よく了解することができる。それ以外の人は、ただ信ずべきであって、末だ了解することはできない」といわれている。この釈は、法華経以前の別教に説く十一品の無明を断じた菩薩、円教に説く四十一品の無明を断じた大菩薩である普賢菩薩・文殊菩薩等も未だ法華経の意は分からない。ましてやそれ以下の蔵教・通教の二教における三乗においてはいうまでもない。まして、末代の凡夫においてはいうまでもないと論ぜられた文である。 
 之を以て案ずるに、法華経の「唯仏与仏乃能究尽」とは、爾前の灰身(けしん)滅智(めっち)の二乗の煩悩・業・苦の三道を押さへて、法身・般若・解脱と説くに二乗還って作仏す。菩薩・凡夫も亦是くの如しと釈するなり。故に天台の云はく「二乗の根敗(こんぱい)之を名づけて毒と為す。今経に記を得るは即ち(これ)毒を変じて薬と為す。論に云はく、余経は秘密に非ず法華は是秘密なり」等云云。妙楽云はく「論に云はくとは大論なり」云云。    このことをもって考えると、法華経方便品第二の「唯仏と仏とのみがよく究め尽くしている」とは、爾前経において灰身滅智した二乗が法華経において煩悩・業・苦の三道をそのまま法身・般若・解脱の三徳となると説かれ成仏した。菩薩や凡夫もまた同じく成仏することが可能となったと解釈するのである。ゆえに天台大師は法華玄義巻六下に「二乗の根敗したのを名づけて毒とする。法華経において成仏の授記を得たのは、すなわちこれ毒を変じて薬としたのである。論二は『余経は秘密の経ではない。法華経はこれ秘密の経である』とある」とわれている。妙楽大師は法華玄義釈籤巻十三に「『論にいう』とは大智度論である」と注釈している。 
 問ふ、是くの如く之を聞いて何の益有らんや。答へて云はく、始めて法華経を聞くなり。妙楽云はく「若し三道即ち是三徳と信ぜば尚能く二死の河を(わた)る。況んや三界をや」云云。末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん。此第一の孝養なり。病の身たるの故に委細ならず。又々申すべし。
建治四年太歳(たいさい)戊寅(つちのえとら)二月廿八日       日 蓮 花押
富木殿
   問う。以上のような法門を聞いて何の利益があるのか。答う。始めて法華経を聞くということである。妙楽大師は止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)巻一の二に「もし三道がそのまま三徳であると信ずれば、よく文段・変易の二種の生死の河を渡ることができる。ましてや三界を渡りうることはいうまでもない」といわれている。末代の凡夫がこの法門を聞くならば、唯我一人が成仏するばかりでなく、父母もまた即身成仏するのである。これが第一の孝養である。病身であるために委しくは書けない。またまた申しあげよう。
建治四年太歳戊寅二月二十八日        日蓮花押
富木殿