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(★1207㌻) |
銭七結、下総より甲斐の身延に送られたそのお志は、悲母の三回忌の追善供養のためである。 |
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| 問ふ、 |
問う。「止観の明静なることは前代に未だかって聞かない」と章安大師が讃めた意味はどういうことか。答う。円頓止観の法門を讃めたのである。 問う。円頓止観とはどういう意味か。答う。法華三昧の異名である。 問う。法華三昧とはどういう意味か。答う。末代の凡夫が法華経を修行する方法であり、それには二つある。一には就類種の開会、二には相対種の開会である。 | |
| 問ふ、此の名は何より出でたるや。答ふ、法華経の第三薬草喩品に云へる「種相体性」の四字なり。其の四字の中に第一の種の一字に二あり。一には就類種、二には相対種なり。 | 問う。この名目はどこから出たのか。答う。法華経巻三薬草喩品第五にいう「種・相・体・性」の四字である。その四字の中の第一の「種」の一字に二意あり、一には就類種二には相対種である。 | |
| 其の就類種とは釈に云はく「 |
その就類種の開会とは、法華経玄義巻九下に「およそ心のある者は、皆正因の仏種である。随って経文の一句でも聞くのは了因の仏種である。頭を低く垂れ手を挙げて拝むのは縁因の仏種である」と解釈している。その相対種の開会とは煩悩と業と苦との三道を、その体をそのまま法身と般若と解脱と称することである。 | |
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其の中に就類種の一法は、宗は法華経に有りと雖も少分は又爾前の経々にも通ず。妙楽云はく「別教には唯就類の種有って而も相対無し」云云。 (★1208㌻) 此の釈に別教と云ふは本の別教には非ず、爾前の円或は他師の円なり。又法華経の迹門の中、供養 |
その中に就類種の開会の一法は、根本の法華経に有るのであるが、少分はまだ爾前の経々にも通じている。妙楽大師は法華文句記巻七下に「別教はただ就類の種はあるが相対種はない」と釈している。 この釈の別教というは、もとのままの別教のことではなく、爾前経に説かれた円教、あるいは天台家以外の他師の立てた円教のことである。また法華経の迹門の中、方便品第二の「舎利を供養する者」已下の二十余行に説かれた法門も、だいたい就類種の開会である。 |
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| 問ふ、其の相対種の心は如何。答ふ、止観に云はく「 |
問う。その相対種の開会とはどういう法門か。答う摩訶止観巻一上に「どのようなことが円教の法門を聞くということなのか。それは、この生死の身がそのまま仏の法身常住の身体となり、煩悩がそのまま仏の般若の智慧となり、悪業がそのまま仏の解脱の徳となると聞くことである。三つの名があるけれども、三つの体があるのではない。本来は一体であるものを、三つの名を立てたのである。この三つはすなわち一相であり、その本体は別々ではない。法身が究竟すれば、般若も解脱もまた究竟する。般若が清浄であれば、余の二つもまた清浄である。解脱が自在であれば、余のふたつもまた自在である。一切の法を聞くことはまたこのようなものである。皆仏法を具えて減少するところがない。これを円教を聞くと名づけるのである」と解釈されている。この釈は、すなわち相対種の手本である。 |
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| 其の意如何。答ふ、生死とは我等が苦果の依身なり。所謂五 |
その意味はどういうことか。答う。生死とは、我等が過去の業によって受けた果報としての苦しみの身心である。いわゆる五陰・十二入・十八界である。煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑である。結業とは五逆・十悪・四重禁等である。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来である。我等衆生は無始の昔から、この煩悩・業・苦の三道を具足しているのであるが、いま法華経にあって、三道がそのまま法身・般若・解脱の三徳となるのである。 |
| 難じて云はく、火より水は出でず、石より草は生ぜず。悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるは仏教の定まれる習ひなり。而るに我等其の根本を尋ね |
難じて云う。火から水は出ない。石から草は生じない。悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるは仏教の定まった習いである。しかるに我等の生死の根本を尋ね究めてみれば、父母の精血・赤白二渧が和合して一身となったのであり、悪の根本、不浄の源である。たとえ大海を傾けて洗っても清浄になるはずがない。またこの苦果の依身は、その根本を探ってみれば貧・瞋・癡の三毒より出じたものである。この煩悩と苦果の二道によって業を作る。この業道が我等を三界六道の苦しみの世界に縛りつけているのである。譬えば籠に入れられた鳥のようなものである。どうしてこの三道をもって三仏因と称するのか。譬えば糞を集めて栴檀の香木を造っても、けっして栴檀の香りはしないようなものである。 | |
| 答ふ、汝が難大いに道理なり。我此の事を弁へず。但し (★1209㌻) 又云はく「 |
答う。あなたの不審はしごくもっともなことである。私はこのことを心得ていない。ただし付法蔵の第十三祖で、天台大師の高祖である竜樹菩薩は、妙法の妙の一字を解釈して「譬えば大薬師のよく毒を以って薬とするようなものである」といわれている。毒とは何をさしていったかというと、我等の煩悩・業・苦の三道のことである。薬とは何かというと、法身・般若・解脱の三徳である。「よく毒を以って薬とする」とはどのようなことかというと、三道を変じて三徳とすることである。天台大師は法華玄義に「妙は不可思議と名づける」といわれている。 また摩訶止巻五上に「一心に十法界を具している。乃至、不可思議境という。意はここにあり」といわれている。即身成仏の法門というのはこのことである。近代の華厳宗や真言宗などの学者は、この義を盗み取って我物としている。大偸盗、天下の盗人である。 |
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| 問うて云はく、凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや。答ふ、私の答へは詮無し。竜樹菩薩の大論九十三也に云はく「今 |
問う。凡夫の我等のもこの秘法の意を理解することができるであろうか。答う。私見による答えは無益である。竜樹菩薩の大智度論巻九十三には「今、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は、仏になれないと決まっているのに、かえって成仏するというのは、唯仏のみがよく知っていることである。論議は正しくその事を論ずべきであるが、測り知ることはできない。ゆえに戯れの論議をしてはならない。もし仏になることができた時は、よく了解することができる。それ以外の人は、ただ信ずべきであって、末だ了解することはできない」といわれている。この釈は、法華経以前の別教に説く十一品の無明を断じた菩薩、円教に説く四十一品の無明を断じた大菩薩である普賢菩薩・文殊菩薩等も未だ法華経の意は分からない。ましてやそれ以下の蔵教・通教の二教における三乗においてはいうまでもない。まして、末代の凡夫においてはいうまでもないと論ぜられた文である。 |
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| 之を以て案ずるに、法華経の「唯仏与仏乃能究尽」とは、爾前の |
このことをもって考えると、法華経方便品第二の「唯仏と仏とのみがよく究め尽くしている」とは、爾前経において灰身滅智した二乗が法華経において煩悩・業・苦の三道をそのまま法身・般若・解脱の三徳となると説かれ成仏した。菩薩や凡夫もまた同じく成仏することが可能となったと解釈するのである。ゆえに天台大師は法華玄義巻六下に「二乗の根敗したのを名づけて毒とする。法華経において成仏の授記を得たのは、すなわちこれ毒を変じて薬としたのである。論二は『余経は秘密の経ではない。法華経はこれ秘密の経である』とある」とわれている。妙楽大師は法華玄義釈籤巻十三に「『論にいう』とは大智度論である」と注釈している。 | |
| 問ふ、是くの如く之を聞いて何の益有らんや。答へて云はく、始めて法華経を聞くなり。妙楽云はく「若し三道即ち是三徳と信ぜば尚能く二死の河を 建治四年 富木殿 |
問う。以上のような法門を聞いて何の利益があるのか。答う。始めて法華経を聞くということである。妙楽大師は 建治四年太歳戊寅二月二十八日 日蓮花押 富木殿 |