上野殿御返事  建治四年二月二五日  五七歳

別名『蹲鴟御消息』『蹲鴟御書』

 

第一章 阿育大王に寄せ供養の功徳を説く

(★1206㌻) 
 蹲鴟(いものかしら)くしがき(串柿)、焼米、栗、たかん()な、()づつ()給び候ひ了んぬ。月氏に阿育大王と申す王をはしき。一(えん)()(だい)四分の一をたなご()ころににぎり、竜王をしたがへて雨を心にまかせ、鬼神をめしつかひ給ひき。始めは悪王なりしかども、後には仏法に帰し、六万人の僧を日々に供養し、八万四千の石の塔をたて給ふ。此の大王の過去をたづぬれば、仏の在世に徳勝童子・無勝童子とて二人のをさなき()人あり。土の餅を仏に供養し給ひて、一百年の内に大王と生まれたり。
 
 いものかしら・串柿・焼米・栗・たけのこ・酢筒を頂戴した。
 月氏国に阿育大王という王がおられた。一閻浮提の四分の一を掌中におさめ、竜王を従えて雨を意のままに降らせたり、鬼神を召し使われていた。
 初めは悪王であったが、後に仏法に帰依し六万人の僧を日々供養し、八万四千の石塔を立てられた。この大王の過去をたずねれば、仏の在世に徳勝童子と無勝童子という二人の幼子がいたが、(この二人の童子が)土の餅を仏に供養して、その功徳によって百年の後、阿育大王として生まれたのである。
 仏はいみじしといゑども、法華経にたい()しまいらせ候へば、蛍火と日月との勝劣、天と地との高下なり。仏を供養してかゝる功徳あり。いわうや法華経をや。土のもちゐをまいらせてかゝる不思議あり。いわうやすゞ(種種)くだ()物をや。かれは()かち()ならず、いまはうへ()たる国なり。此をもってをも()ふに、釈迦仏・多宝仏・十()刹女(せつにょ)いかでかまぼ()らせ給はざるべき。    仏は尊いというものの、法華経に比べれば螢火と日月ほどの勝劣がある。天と地ほどの高下がある。仏を供養してさえこのような功徳があるのだから、ましてや法華経を供養するにおいておやである。土の餅を供養してさえこのような功徳があった。ましてや(あなたは)種々の果物を供養された。徳勝童子と無勝童子が土の餅を供養した時、国は飢えていなかった。いまは国中が飢えている。このことによって思うと、釈迦仏・多宝仏・十羅刹女がどうして(あなたを)守護しないことがあろうか。

 

第二章 水の信心・火の信心を示す

 (そもそも)今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時は()()つばかりをも()へども、とを()ざかりぬれば()つる心あり。水のごとくと申すはいつもたい(退)せず信ずる
(★1207㌻) 
   さて今の時、法華経を信ずる人がいる。あるいは火のように信ずる人もあり、あるいは水の流れるように信ずる人もいる。(火のように信ずる人というのは)、法門を聴聞する時は燃え立つように思うけれども、時がたつにつれてそれを捨ててしまう。水のように信ずる人というのは、常に退する心をもたずに信ずる人をいう。 
なり。此はいかなる時もつね()はたいせず()わせ給へば、水のごとく信ぜさせ給へるか。たう()としたうとし。    あなたはいかなる時も常に退することなく訪ねられるのであるから、水の流れるように信じておられるのであろう。貴いことである。貴いことである。

 

第三章 十羅刹の試練と信じ病苦克服を励ます

 まこと()やらむ、いゑ()の内にわづらひの候なるは、よも鬼神のそゐ(所為)には候はじ。十()せち()女の、信心のぶんざい(分際)を御心みぞ候らむ。まことの鬼神ならば法華経の行者をなやまして、かうべ()われんとをも()ふ鬼神の候べきか。又、釈迦仏・法華経の御そら()事の候べきかと、ふかくをぼ()めし()候へ。恐々謹言。
  二月二十五日    日蓮 花押
 御返事
   あなたの家の内に病人がいるというのはまことであろうか。もし、それがほんとうであっても、よもや鬼神の所為ではないでしょう。十羅刹女が信心のほどをためされているのであろう。まことの鬼神であるならば法華経の行者を悩まして、自らの頭を破ろうとする鬼神がいるだろうか。また、釈迦仏・法華経に虚妄はあるはずがないと、深く信じていきなさい。恐恐謹言。
  二月二十五日    日蓮 花押
 御返事