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(★1186㌻) 妙法蓮華経一部一巻小字経、御供養のために御布施に小袖二重・鵞目十貫・並びに扇百本。 文句の一に云はく「如是とは所聞の法体を挙ぐ」と。記の一に云はく「若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん」云云。華厳経の題に云はく「大方広仏華厳経 如是我聞」云云。「摩訶般若波羅蜜経 如是我聞」云云。大日経の題に云はく「大毘盧遮那神変加持経 如是我聞」云云。一切経の如是は何なる如是ぞやと尋ぬれば、上の題目を指して如是とは申すなり。仏、何れの経にてもとかせ給ひし其の所詮の理をさして、題目とはせさせ給ひしを、阿難・文殊・金剛手等、滅後に結集し給ひし時、題目をうちをいて、如是我聞と申せしなり。一経の内の肝心は題目におさまれり。例せば天竺と申す国あり、九万里七十箇国なり。然れども其の中の人畜・草木・山河・大地、皆月氏と申す二字の内にれきれきたり。譬へば一四天下の内に四洲あり。其の中の一切の万物は月に移りて、すこしもかくるゝ事なし。 経も又是くの如く、其の経の中の法門は其の経の題目の中にあり。 |
小字で書写した妙法蓮華経一部一巻の御供養として小袖を二重、銭を十貫文、並びに扇百本をいただきました。 天台大師の法華文句の第一巻に「如是とは所聞の法体を挙ぐ」と説かれ、妙楽大師の法華文句記第一の巻には「若し超八の如是に非ずんば安ぞ此の経の所聞と為さん」と説かれている。 華厳経には「大方広仏華厳経」とうい経題の次に「如是我聞」とある。「摩訶般若波羅蜜経」とうい経題の次に「如是我聞」また、大日経にも「大毘盧遮那神変加持経」とうい経題の次に「如是我聞」とある。 それでは一切経の如是とは何をさして「如是」といっているのかといえば、それは経の最初にあげた題目をさして「如是」といっているのである。 仏が説かれたところのすべての経々の所詮の理をさして題目とされているのを、阿難・文殊・金剛手等が仏滅後に仏典結集のために集まったときに、まず経の題目を置いて、それから「如是我聞」といったのである。 すなわち一経の肝心は題目に収まっているのである。たとえば、インドという国は周囲九万里の広さと七十ヵ国からなっている。そのなかの人畜・草木・山河・大地はすべてインドという文字のうちに明確に収まっているのである。 たとえば四天下の中に四つの洲があり、その中の一切の万物の影がことごとく月に映っていささかも隠れることがないようなものである。 経もまたおなじようなものである。その経の中に説かれる法門は、その経の題目の中に収まっているのである。 |
| 阿含経の題目は一経の所詮、無常の理をおさめたり。外道の経の題目のあうの二字にすぐれたる事百千万倍なり。九十五種の外道、阿含経の題目を聞きてみな邪執を倒し、無常の正路におもむきぬ。般若経の題目を聞きては体空・但中・不但中の法門をさとり、華厳経の題目を聞く人は但中・不但中のさとりあり。大日経・方等・般若経の題目を聞く人は或は折空、或は体空、或は但空、或は不但空、或は但中・不但中の理をばさとれども、いまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず。 |
阿含経の題目はその経の所詮の法門である無常の理を収めている。外道の経の最初の阿漚の二字にすぐれていることは百千万倍である。 九十五派の外道は阿含経の題目を聞いて、みなことごとく外道の我見の執着を翻して、無常の理の正路についたのである。 また般若経の題目を聞く人は、体空・但中・不但中の法門を覚り、華厳経の題目を聞く人は但中・不但中を覚るのである。 大日経・方等経・般若経の題目を聞く人は、あるいは折空・あるいは体空・あるいはは但空、あるいは不但空、あるいは但中・不但中の理を覚る。しかし、いまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳の法門は聞いてはいないのである。 |
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その詮を説かざれば法華経より外は理即の凡夫なり。彼の経々の仏菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず。何に況んや題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや。故に妙楽大師の記に云はく「若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん」云云。 (★1187㌻) 彼々の諸経の題目は八教の内なり、網目の如し。此の経の題目は八教の網目に超えて大綱と申す物なり。 |
諸経には、一念三千という法門を説かないゆえに、法華経以外の経を信ずる人は理即の凡夫なのである。 それゆえ、彼の経々の仏・菩薩といっても、いまだ法華経の名字即に及ばない。いわんや題目を唱えなければ観行即にいたることはあろうか。 ゆえに、妙楽大師は法華文句記に「若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん」といっているのである。 爾前の経々の題目は八教の内の教えであり、たとえば網目のようなものである。この経の題目は八教の網目に超えており、いわば大綱というべきである。 |
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今妙法蓮華経と申す人々はその心をしらざれども、法華経の心をうるのみならず、一代の大綱を覚り給へり。例せば一・ニ・三歳の太子位につき給ひぬれば、国は我が所領なり。摂政・関白已下は我が所従なりとは、しらせ給はねども、なにも此の太子の物なり。譬へば小児は分別の心なけれども、悲母の乳を口にのみぬれば自然に生長するを、趙高が様に心おごれる臣下ありて、太子をあなづれば身をほろぼす。諸経諸宗の学者等、法華経の題目ばかりを唱ふる太子をあなづりて、趙高が如くして無間地獄に堕つるなり。又法華経の行者の、心もしらず題目計りを唱ふるが、諸宗の智者におどされて退心をおこすは、こがいと申せし太子が趙高におどされ、ころされしが如し。 |
今、妙法蓮華経と唱える人々は、経の心を知らなくとも、法華経の心を得るのみならず、釈尊一代の聖教の大綱を覚っているのである。 例えば、一・二・三歳の太子であっても、王位につかれたならば、その国は、自分の所領となるようなものである。 摂政・関白以下の人が、自分の臣下であるということは知らなくても、みんなこの太子の家来になるのである。 たとえば幼児は物事を分別する心はないけれども、母親の乳を口にふくめば自然に成長するようなものであり、そこに趙高のような傲慢な臣下がいて、太子を侮蔑するようなことがあれば、その身を滅ぼすようなものである。 今の諸経を所依とする諸宗の学者等は、法華経の題目を一心に唱える太子を侮って、趙高のように我が身を滅ぼして無間地獄に堕ちるのである。また法華経の行者の心も知らず、題目を一心に唱えていながら、諸宗の智者に滅せられて退転の心を起こすことは、胡亥という太子が趙高に威されて、ついに殺されたようなものである。 |
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南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず、法華経の心なり、体なり、所詮なり。かゝるいみじき法門なれども、仏滅後二千二百二十余年の間、月氏に付法蔵の二十四人弘通し給はず。漢土の天台・妙楽も流布し給はず。日本国には聖徳太子・伝教大師も宣説し給はず。されば和法師が申すは僻事にてこそ有るらめと諸人疑ひて信ぜず。是又第一の道理なり。譬へば昭君なんどを、あやしの兵なんどがおかしたてまつるを、みな人よもさはあらじと思へり。大臣公卿なんどの様なる天台・伝教の弘通なからん法華経の肝心南無妙法蓮華経を、和法師程のものがいかで唱ふべしと云云。 汝等是を知るや。烏と申す鳥は無下のげす鳥なれども、鷲・の知らざる年中の吉凶を知れり。蛇と申す虫は竜象に及ばずとも、七日の間の洪水を知るぞかし。設ひ竜樹・天台の知り給はざる法門なりとも、 (★1188㌻) 経文顕然ならばなにをか疑はせ給ふべき。日蓮をいやしみて南無妙法蓮華経と唱へさせ給はぬは、小児が乳をうたがふてなめず、病人が医師を疑ひて薬を服せざるが如し。竜樹・天親等は是を知り給へども、時なく機なければ弘通し給はざるか。余人は又しらずして宣伝せざるか。仏法は時により機によりて弘まる事なれば、云ふにかひなき日蓮が時にこそあたりて候らめ。 |
南無妙法蓮華経というのは釈尊一代聖教の肝心であるばかりでなく、法華経の心であり、体であり、究極の教えなのである。 このような尊極の法門であるけれども、仏滅後・二千二百二十余年の間、インドにおいて付法蔵の二十四人は弘通されず、中国の天台大師も妙楽大師も流布されなかった。日本国では聖徳太子・伝教大師も説き弘められなかった。 それゆえ、日蓮のような法師がいうことは僻事にちがいないと人々が疑って信じないのももっともな道理である。譬えば、王昭君のような美しい人を賤しい兵士が辱めたといっても、まさかそのようなことはないだろうと思うのと同じである。大臣・公卿などに比すべき天台大師・伝教大師ですら弘通しなかった法華経の肝心である南無妙法蓮華経を、日蓮ほどの法師がどうして唱えることができよう、と思うのも当然のことである。 しかし、汝等は知っているであろうか。カラスという鳥はもっとも卑しい鳥であるけれども、鷲や熊鷹ですら知らない年中の吉凶を知っているのである。 また蛇という動物は竜や象にはるかに及ばないが、七日のうちに洪水の起こることを知ることができる。 たとえ竜樹菩薩や天台大師の知っておられない法門であっても、経文のうえに明らかに説かれているならば、どうして疑うことができようか。 日蓮を卑しんで南無妙法蓮華経と唱えないのは、幼い児が乳を疑ってなめず、病人が医師を疑って薬を服さないようなものである。 竜樹・天親等は南無妙法蓮華経を知っておられたが、時が来ず、機根がなかったのであろうか、その他の人々の場合は、知らなかったので流布しなかったのであろう。 仏法は時により、機根によって弘まるものであるから、いうべきほどでない者でない日蓮が、その時にあたったのである。 |
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所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人々は名と計り思へり。さにては候はず、体なり。体とは心にて候。章安云はく「蓋し序王とは経の玄意を叙し、玄意は文の心を述ぶ」云云。此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず、義にあらず、一経の心なりと釈せられて候。されば題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は、猿をはなれて肝をたづねしはかなき亀なり。山林をすてゝ菓を大海の辺にもとめし猿猴なり。はかなしはかなし。 建治三年霜月二十八日 日 蓮 花押 曽谷次郎入道殿 |
所詮、妙法蓮華経の五字を、今の人々はたんなる名称に過ぎないと思っているのである。しかし、そうではない。妙法蓮華経は体である。体とは心である。 章安大師は法華文義の序文で「蓋し序王は経の玄意を叙し、玄意は文の心を述す」と言っている。この釈の意味するところは、妙法蓮華経というのは文にあらず、義にあらず、一経の心なのであると釈しているのである。 それゆえ、妙法蓮華経の題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は、あたかも猿をはなれて猿の肝を得ようとした亀のようなものである。また山林を捨てて木の実を大海に求めた猿のようなものである。まことにはかないことである。 建治三年丁丑霜月二十八日 日蓮花押 曽谷次郎入道殿 |