兵衛志殿女房御返事  建治三年一一月七日  五六歳

別名『銅器供養抄』

 

(★1180㌻)
 銅の御器(ごき)二つ給び(おわ)んぬ。
 釈迦仏三十の御年、仏になり()めてをはし候時、(もく)()女と申せし女人、乳のかい()()て仏にまいらせんとし候ひし程に、いれてまいらすべき(うつわ)なし。()沙門(しゃもん)天王等の四天王、四(はち)を仏にまいらせたりし、其の鉢をうちかさねてかい()をまいらせしに仏にはならせ給ふ。其の鉢、後には人も()らざりしかども、常に(いい)()ちしなり。後に()(みょう)菩薩と申せし菩薩、伝へて金銭三貫にほう()じたりしなり。今御器二つを千里にをくり、釈迦仏にまいらせ給へば、かの福のごとくなるべし。(くわ)しくは申さず候。
  十一月七日          日 蓮 花押 
 兵衛志殿女房御返事
 
 銅の御器を二ついただきました。釈尊が三十歳で仏の悟りを開こうとしておられたときに、牛飼いであることから牧牛女(もくごにょ)といわれていた女人が、乳の粥を煮て仏に供養しようとしたところ、それを入れてさしあげるべき器がなかった。時に毘沙門天王等の四天王が四つの鉢を仏にさしあげられたのです。牧牛女はその鉢を重ねて、なかに粥を入れて供養したところ、釈尊は仏にあられました。
 その鉢は、のちには人が飯を盛らなくとも、つねに飯が満ちたということです。
 のちに馬鳴菩薩という菩薩が、その鉢を戦に敗れた華氏の迦弐志加(かにしか)王のもとに伝えて、報償金の三貫にあてたということです。
 今御器二つを千里を隔てた身延に送って、御本尊に供養されたのですから、その功徳は、かの牧牛女が粥を供養した鉢と同じでありましょう。これ以上委しくはここでは申し上げません。
  建治三年丁丑十一月七日          日 蓮 花 押
 兵衛志殿女房御返事